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 スズキにおいても、選手権獲得の祝賀会が行われ、レ−ス担当部門の我々「研究三課」は、社長表彰された。
研究三課
の表彰状
選手権獲得祝賀会
でのDegner・Anderson
・Perris
 アルゼンチンGP後の11月3・4日、新装なった日本初の本格的なレ−スコ−ス「鈴鹿サ−キット」で、日本初の本格的ロ−ドレ−ス「第1回全日本選手権ロ−ドレ−ス」が開催された。本年のGPレ−スに顔を見せず、沈黙を保っていたヤマハも125、250、350ccにエントリ−(350はレ−スには欠場)。ト−ハツも125ccに出場した。
 50ccはDegnerが独走していたが、レ−ス半ばで転倒。Degner脱落後、市野三千雄が2位以下を大きくリ−ドしていたが、最終ラップに、これ又 転倒してしまい、Robb (ホンダ初登場の2気筒2バルブマシン)、Anderson、森下 勲がダンゴでゴ−ルし、Robbが優勝した。2位Anderson、3位森下。4位は鈴木誠一・谷口が同着。6位が田中禎助だった。Degnerが転倒したコ−ナ−は、「デグナ−カ−ブ」と命名された。
 125ccは、雨中のレ−スで、アイルランドの雨男Robb(ホンダ)が優勝し、2位はPerris、続いて谷口、島崎、田中禎助、越野晴雄(スズキ)だった。このレ−スに、Andersonが「空冷2気筒・ロ−タリ−バルブエンジン」の試作車「RT63X(1962年8月下旬出図、初ベンチテストはレース直前の10月23日)」で出場し、16周目、7位であったが、ポイントに水が入り リタイアした。このRT63Xをベ−スにしたRT63が1963年無敵の快進撃で、メ−カ−・個人(Anderson)の初タイトルをスズキにもたらすことになった。
 250ccは、250・350ccのチャンピオンRedman(ホンダ)の独走であったが、Robb(ホンダ)と伊藤史朗(ヤマハ)の2位争いが見応えのあるレ−スだった。結果は2位Robb、3位伊藤史朗。4位田中禎助だった。
 350ccは、公式練習にはヤマハの片山義美、本橋明泰、伊藤史朗も出場したが、レ−スには欠場し、ホンダの3台のみのレ−スとなり、Redman・北野元・Robbの順位となった。
 レ−ス終了後、鈴鹿市役所において、本年度世界選手権レ−スのメ−カ−・個人チャンピオンの表彰式が鈴木俊三社長・本田宗一郎社長も出席されて行われた。
50メ−カ−タイトル
前列左よりDegner・Taveri・Redman
・鈴木俊三社長・本田宗一郎社長
50チャンピオン
Degnerの表彰
予選で125空冷2気筒試作車RT63Xに乗ったPerris
 
125で2位と
なったPerris
ホンダの2気筒
  2バルブ
50cc Degner転倒後大きくリ−ドの
 市野三千雄も最終ラップ転倒
50cc 独走のDegnerが転倒
多田健蔵とDegner
[第1回全日本選手権ロ−ドレ−ス]
 350ccクラスの第1戦TTレ−スに285ccで初出場したが、Phillisの事故死、McIntyreのリタイアでMVに優勝を奪われたが、第2戦のオランダGP以降の全レ−スに5連勝し、両タイトルを獲得(個人はRedman)した。尚、第3戦のアルスタ−GP以降は340ccも投入した。

 また、ホンダのMcIntyreが、8月6日ウルトンパ−クの500ccレ−スにMatchlessで個人出場し、転倒して重傷を負い、1週間後死亡した。彼は1957年のTTレ−ス500ccでGileraに乗り、初の「Over The Ton」(平均時速100哩の壁を突破)をなし遂げ、「フライング・スコット」と呼ばれていた。
[350ccは、初参加のホンダが両タイトル獲得]
RV62
 250ccはRT62エンジンを2つ並べたフロントエギゾウストのRV62で挑戦した。第1戦のスペインGPは、Degner・Anderson・Perrisともにピストン溶けでリタイア。第2戦のフランスGPと第3戦のTTレ−スは欠場。第4戦のオランダGPは、DegnerはホンダRobbの転倒に巻き込まれリタイア、Perrisが5位に。第5戦のベルギ−GPは、Degnerがコンロッド大端焼付、Perrisがプラグカップトラブルでともにリタイア。第6戦の西ドイツGPは、Andersonがピストン溶け、Perrisもトラブルでともにリタイア。第7戦のアルスタ−GPは、Anderson・Perrisともにコンロッド大端焼付でリタイア。第8戦の東ドイツGPは不参加。第9戦のイタリアGPも、Anderson・Perrisともにコンロッド大端焼付でリタイアという、さんざんな結果だった。
 かくして、1962年の250ccは、ホンダの2年連続両タイトル獲得(個人はRedman)で終わった。
[250ccは2気筒・ロ−タリ−バルブエンジンで]
 第1戦のスペインGPは、Degner・Perrisがチョ−ク関係のトラブル、Andersonがピストン溶けで全滅。第2戦のフランスGPはDegnerが5位、Anderson・Perris・伊藤光夫は、コンロッド大端保持器破損でリタイア。第3戦のTTレ−スは、Degner8位(マグネト不調)、Anderson・Perrisは大端保持器破損でリタイア(このレ−スでホンダの高橋国光が転倒し重傷を負った)。第4戦のオランダGPは、Degner4位、伊藤光夫9位、Perrisはトラブルリタイア。第5戦のベルギ−GPは、Degner・伊藤光夫が大端保持器トラブル、Perrisがピストン溶けで全滅。第6戦の西ドイツGPは、Anderson6位、Degnerは4位で転倒、Perrisは車体トラブルでリタイア。第7戦のアルスタ−GPは、Anderson5位、Perris7位、Degnerは転倒。第8戦の東ドイツGPは不参加、ホンダのTaveri・Redmanに次いで3位になったFIscherのMZは水冷だった(Topとの差は0.7秒)。第9戦のイタリアGPは、Perris7位、Anderson8位。第10戦のフィンランドGPは、Perris5位、森下勲は転倒、Andersonもこれに巻き込まれ転倒。第11戦のアルゼンチンGPは、ホンダ・MZ・EMCなど不参加でAndersonが優勝、伊藤光夫もプラグかぶりでピットインしたが3位だった。
 かくして、1962年の125ccは、ホンダの2年連続両タイトル獲得(個人はTaveri)で終わった。スズキにとって、50ccは、タイトルを獲得したものの、125ccでは、全く不本意なシ−ズンだった。
RT62
RT62D
 1961年出場のRT61は「空冷2気筒・ロ−タリ−バルブ」エンジンであったが、トラブルだらけで、ベルギ−GPをもって参加を中止したが、後半戦出場を目指して、125cc単気筒エンジンの開発を進めていた。RT60・RT61ともに 2気筒エンジンを採用してきたが、優勝を争う性能の20Ps以上には、なかなか到達出来ず、単気筒・ロ−タリ−バルブエンジンの開発もやろうということになったのである。当時優勝を争っていた2サイクルの東ドイツのMZもEhrlich(エ−リッヒ)博士の設計によるEMCも単気筒ロ−タリ−バルブエンジンだったことにも影響された。単気筒エンジンは、1961年4月中旬から、概案設計にとりかかり、5月20日には、RT62Xエンジン(125cc単気筒56φ×50.5ロ−タリ−バルブ)として、出図、7月4日には試作エンジンが完成し、ベンチテストを開始した。RT62Xは、その後改良されてRT62Yとなり、これに新加入のDegnerの要望・意見を採り入れ、RT62となったのである。
 RT62には、Degnerの推奨でピストンは、西ドイツのマ−レ社(Mahle)の鍛造ピストン素材を使用することになり(当時、日本には鍛造ピストンを作っているメ−カ−はなかった)、またコンロッド大端のリテイナ−(ロ−ラ−保持器)は、西ドイツのINA社製のジュラルミン保持器を使用することになった。しかし、このINA社製保持器は亀裂多発で大いに苦しめられ、オランダGP以降、宇都宮機器のア−ムスブロンズ製保持器を使用することになり、耐久性は向上した。
 また、Degnerは、どうしてもリヤ−エギゾ−ストタイプにしてくれとの強い要望があり、そしてまた、日本製マグネトの使用を嫌がり、西ドイツで彼自らが調達したマグネトを彼だけが使用することになった。このスペシャルマシンはRT62Dと名付けられた。
 第9戦のイタリアGP以降は、全車 フロントエギゾ−ストを止め、リヤ−エギゾ−ストを採用するようになった。理由は、フロントエギゾ−ストエンジンにピストントラブルが多発した為であった。
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[125ccは単気筒・ロ−タリ−バルブエンジンに]