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Vol.1 ゼロからの創世



 若干 21 歳の鈴木道雄が 1909 年に創業した「鈴木式織機製作所」は、従業員も有力な後援者もいないたった一人の出発であった。しかし、道雄の強い「パイオニア精神」によって独創的なアイディアが盛り込まれた鈴木式織機は、またたく間に評判となり順調なスタートを切った。1920 年には「鈴木式織機株式会社」へと法人設立するまでに成長し、日本はもとより東南アジアにもその名は知られ渡っていた。

 1930 年代半ば、そんな道雄に転機が訪れる。ある日インドの紡績工場で 50 年前の織機が現役で使われているという話を耳にした。道雄は織機業界の先行きに疑問を抱き、新しい分野への進出として小型自動車の生産を考える。それは今後の国民の生活レベルの向上、自社の技術力などを加味した上での結論だった。
1936 年から鈴木三郎を研究グループの主任に置き、まずオートバイ用エンジンの試作にとりかかった。翌年の秋には第一号機エンジンが完成し、1939 年夏には念願の自動車用試作エンジンを積んだ試作車も造られた。3,500 回転で 13 馬力を発生するそのエンジンは、当時のライバル車達と比較しても優秀な性能を誇っていた。

    
創業当時の鈴木式織機製作所販売店舗。(1909 年)
鈴木道雄は浜松市に織機製造所を創立する前までは、
大工に弟子入りしていた。その時に学んだ織機製造の
技術をもとに若くして独立し、成功をつかんだ。





 小型自動車の開発が順調に進むかに見えた 1937 年夏、日中戦争が始まり日本は国を上げての戦争へと流されていく。第二次世界大戦へと続いた戦争も 1945 年にようやく終戦を迎えたが、浜松ではいたるところ空襲と艦砲射撃による瓦礫と化した風景が広がっていた。スズキの工場も相当な被害を受けたが、手持ちの資材で織機製造の準備を進め、再スタートを切った。

 1951 年、常務に就任したばかりの鈴木俊三(後の二代目社長)は自転車に乗り趣味の釣りへ出かけた。海岸沿いを走ると遠州特有の強風で自転車が思うように進まない。『自転車に補助動力を取り付けたら強風の中も坂道ももっと楽に走れるのではないだろうか。』普段から漠然と思っていた不便さを、この時はじめて商品開発のアイディアとして意識した。すぐに設計課長の丸山にアイディアを伝え、研究を命じた。丸山は戦前の自動車研究試作にも参加し、その後も趣味として模型飛行機のエンジンの研究に熱心に打ち込んでいた。自転車用補助エンジンの開発は、丸山の続けた研究をベースに正月休みも返上して行なわれた。

     
旧第三織機組立工場。(1950 年)
本社が戦災にあったため 1947 年に本社を高塚工場へ移転した。
この時以来、現在もスズキの本社は浜松市高塚にある。





 1952 年の 1 月、30cc・0.2 馬力のエンジンを積んだ待望の試作車「アトム号」が完成した。これは市販自動車の車体に取り付けるもので、その強度が耐えうる大きさのものというコンセプトで開発された。しかし試乗してみた結果、もう一段上の馬力が必要だと判断された。すぐに 36cc へのボアアップを中心とした各部の改良に取り組み、同年 3 月には 36cc・1 馬力というパワフルなエンジンに生まれかわった。まず発案者の鈴木俊三が乗ってみた。そして社長の鈴木道雄にも試乗してもらい、実用性が確認された。更に改良を加え、同年 4 月に最終型が完成。「パワーフリー号」と命名された。
このパワーフリー号の販売に向けては、新規事業への参入という不透明感があり社内外から反対意見があったが、俊三はその反対意見を押しきり事業化に踏み切った。

 パワーフリー号のお披露目は地元浜松で毎年 5 月に行なわれる浜松祭りの凧上げ会場となった。俊三を先頭に設計の丸山以下 5 名の社員が会場をパレード。「日本一のバイクモーター・パワーフリー号」と書かれたトラックがそれに続き、観衆の注目を集めた。当時のライバル車に比べパワーフリー号には一歩先を行く優れたメカニズムが搭載されていた。特許を取得したダブル・スプロケット・ホイールは補助エンジンとしては画期的な 2 段変速を実現していたのだ。6 月には浜松商工会議所前で、そして 7 月には陸用内燃機関協会の斡旋により東京日本橋の白木屋で展示即売会が開かれた。各地で高い評価を得たパワーフリー号は、発売直後から順調な売れ行きを見せていった。

   
パワーフリー号完成。(1952 年)
記念すべきスズキ初のバイクモーター。サドル下に
2 段階変速のチェンジレバーが付いている。





 パワーフリー号の好調な売れ行きに気を緩めることなく、更なる性能の向上を求めテストが実施された。1952 年 7 月 12 日、社長をはじめ会社幹部に見送られ、浜松−東京間の走行テストへと出発していった。
まだ道路もきちんと整備されておらず、自転車に付けた小型エンジンでの長距離走行は厳しいものがあった。翌 13 日の日没頃には目的地の東京出張所へたどり着くことができたが、まだまだ研究の余地が残されていることに気づかされる結果でもあった。

 1952 年 7 月の道路交通法改正により原動機付き 2 サイクル自転車は 60cc、4 サイクルは 90cc まで無試験許可制となった。すぐさま 60cc エンジンの開発にとりかかるが、当然時間的な余裕はなく急ピッチで作業が続く。設計に 1 ヶ月、試作に 1 ヶ月、テストに正月休みの 1 週間を充てる慌ただしいスケジュールだった。
パワーフリー号の設計を踏襲した 2 作目を「ダイヤモンド・フリー号」と名づけ、1953 年 3 月より市販が始まった。60cc・2 馬力に強化されたエンジンはライバル車の中でも最もパワフルであり、発売当初から月産 4,000 台の好調な売れ行きをみせた。さらにパワーフリー号の時と同様に、このダイヤモンド・フリー号の性能をアピールするため、いくつかのデモンストレーションが計画された。

  
浜松−東京間走行テスト。(1952 年)
箱根を越える厳しい長距離走行テストに見事成功。
パワーフリー号から得た様々な経験が、ダイヤモンド・
フリー号の大ヒットへとつながった。





 1953 年、世間へのアピールに絶好の機会が訪れた。7 月に我が国初の全国統一規模の「富士登山レース」が開催されることになったのだ。山下林作操るダイヤモンド・フリー号はデビューレースを見事優勝で飾る。また1953 年 10 月には「札幌−鹿児島間」全行程 3,000km の日本縦断性能テストが決行された。源馬竜治を指揮者に、加藤定、小田木幸雄、金沢竜雄が 3 台のダイヤモンド・フリー号で挑戦。18 日間(実走行時間 93 時間 21 分)をかけノントラブルでの走破に成功した。
富士登山レースの優勝や日本縦断の成功により、3 月の発売当初は月産 4,000 台だった売り上げも、秋頃には月産 6,000 台へと伸びていった。

 このダイヤモンド・フリーの成功をきっかけに、自転車に取り付ける補助エンジンから完成車を造る方向へと転換していった。以前から小型自動車の製作に熱心だった鈴木道雄社長だったが、戦後の国民経済、自社の資本力を考慮した上で、まずは2輪の完成車を目指した。1954 年 6 月 1 日には社名を「鈴木自動車株式会社」と改め、いよいよ本格的な自動車メーカーとして歩んで行く決意を社内、社外へと宣言した。
スズキ初の完成車は排気量をより大きくとれるという理由で 90cc・4 サイクルエンジンとし、5 月より「コレダ号CO型」が市販された。
7 月の「第二回富士登山レース」では、コレダ号CO型を駆る山下林作が 2 年連続優勝という輝かしい成績を残した。

  
札幌−鹿児島間走行テスト。(1953 年)
パワーフリー号での浜松−東京間に引き続き、
札幌−鹿児島間 3,000 kmの走行テストが行なわれた。
車輌のデザインもよりバイクらしくなってきた。





 1955 年 4 月に再び道路交通法が改正された。2 サイクル、4 サイクルの区分が廃止され、原付きは第一種(50cc 以下)と第二種(51 〜 125cc)の排気量別で分けられるようになった。これにより主流は 125cc へと移ることが予想され、法改正直前の 3 月にコレダ号CO型をボアアップした「コレダ号COX型」を投入した。さらにCOX型と並行して 2 サイクルの「コレダ号ST型」の開発も進められ、同年 5 月に市場投入された。それは「一般大衆に広く愛用されるものは 2 サイクルである」との信念に基づいた、静かなエンジン音と故障のない耐久性を目標に開発された。
スズキ技術陣が心血注いで完成させたこのコレダ号ST型は、発売開始とともに爆発的に売れた。

 1956 年、鈴木俊三はヨーロッパ視察で現地の若者達がモペットを乗り回しているのを目にし、日本でもモペットブームがやって来ることを確信する。俊三から出された意見は社内で検討され、国産モペット販売に向けた開発にゴーサインが出された。新しいジャンルであるモペットは、それから 1 年半後の 1958 年 5 月に「スズモペットSM型」の名で発売され、ブームの口火が切られるた。しかし、すぐに後続ライバル車に人気を奪われてしまう。巻き返しを狙ったスズキは 1960 年 1 月に「セルペットMA型」を発売。このまったくの新設計エンジンは、2 サイクル 50cc 単気筒、世界初の 4 段ロータリーミッションを採用。車重 65kg 、4 馬力で最高速度は 80km/h という 125cc にも劣らない高性能を誇った。日本の技術レベルは、ようやく世界に肩を並べるレベルにまで達しようとしていた。
スズキは自分達の技術力を試すべく、富士登山レース、浅間火山レースを経て、後に伝説となるマン島TTレース、そして世界へと活躍の場を広げていく。

  
セルペットを生産する本社工場。(1960 年)
新設計高性能エンジンや世界初の 4 段ロータリー
ミッションなど、先進の技術が詰め込まれていた。


                                 Vol.1 完

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