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Vol.3 世界の頂に臨む

 

 スズキが世界ロードレース選手権(世界 GP 、現モト GP )に初めて参戦することとなったのは、今をさかのぼること 42 年前の、1960 年のことだった。本稿は、1950 年代よりスズキチームのスタッフとして、レース活動に従事された伊藤光夫氏、清水正尚氏、中野広之氏、神谷安則氏の回想をもとに、1968 年までの第1期スズキ GP 活動期を振り返るものである。

 当時、世界 GP は欧州各国を転戦する形で、年間 6 〜 7 ラウンドでチャンピオンシップが競われていたが、参戦初年度から全戦回ることはあまりに難しい。そこでスズキは当時の世界 GP で、最高のステータスを誇る英・マン島 TT の 1 戦に狙いを絞り、その準備に取り組むこととなった。

 この TT (ツーリスト・トロフィー)レースは、1907 年(明治 40 年)から始まったという長い歴史を持つレースイベントであり、1976 年を最後に世界 GP の年間カレンダーから外されるまで、世界中のレーシングライダー、モーターサイクル製造業者にとって「最も重要なレース」と認識されていた。

 また、英国本土とアイルランドの中間に浮かぶ、英国自治領であるマン島を周回する、1 周約 60 kmの公道を利用したコースを使用する TT は、世界で最も過酷なレースでもあった。スズキチームが初出場で優勝を狙うのは事実上不可能であり、まず全車完走を果たしてコースを見極め、次回以降の勝利を狙うことが、目標として定められた。

 スズキのレース部門は 1959 年 8 月の第 3 回浅間火山レース後も、レース用エンジンの性能向上のため開発を継続してはいたが、TT 参戦が決まったのはその年の暮れである。世界に挑戦するための準備期間は、翌年 6 月に開催される TT までわずか約半年間弱しかなかった。舗装されたロードレース専用コースはおろか、テストコースすら整備されていなかった当時の日本で、開発者たちは手探り状態のまま世界に通用するレーシングモーターサイクル造りに励まなければならなかった。

 当時の日本の経済状況も、参戦への障害となった。戦後の経済発展期にあったとはいえ、日本はまだ国として貧しく、外貨の持ち出しが厳しく制限されていた。また現在と違って当時は海外渡航が自由化されておらず、限られた要人のみ海を渡ることが出来た時代でもあった。そこでスズキチームは将来の輸出=外貨獲得を目的とする活動として、1 年先にTT挑戦を果たしたホンダと一緒に「日本選手団」を編成し、マン島への渡航許可を得て、晴れて 5 月 9 日に本社から旅立つ。東の果てである日本から、西の果てのマン島までの道程は、飛行機の性能的に直行便など望めない時代ゆえの、1 日超の長旅だった。

 スズキが参加した125ccクラスは、6 月 13 日現地時間 10 時半にスタートした。日本に残るスズキ全社員の期待を背負って、世界の強豪チームに戦いを挑んだ 3 台のスズキ RT60( 2 ストローク 2 気筒)は、15 位に松本聡男、16 位に市野三千雄、そして公式練習で転倒・負傷した伊藤光夫の代役である R.フェイ(英)が 18 位と、それぞれ完走という目標を果たした(松本は優勝者のタイムに対して 120 %以内の完走者に与えられるブロンズ・レプリカを受賞)。

 結果が示すとおり、当時のスズキレーサーの実力と、「世界水準」の格差は小さなものではなかったが、この体験と自信が後の「栄光」結びつくこととなったのも、また確かである。

               
                                 「マン島出場のスズキライダー」(1960 年)
                                     初のマン島 TT レース出場ライダーに選ばれたのは
                                  伊藤 光夫(写真中央)、松本聡男(左)、市野三千雄(右) の 三名。
                                       マシンは RT60 ( 125cc 2 サイクル 2 気筒)。



 

 1961 年シーズン、スズキはより一層世界 GP への積極的に関与するため、TT 以外の世界 GP レースへの参戦、125cc に加え 250cc クラスへの戦線拡大を決定。また上位入賞をにらんで、海外の有力ライダー、P.ドライバー(南ア)と契約を結んでもいる。

 開幕戦から 3 戦目までは、契約ライダーにマシンを提供し、スズキチーム本体が参加するのは「本命」レースであるマン島 TT から、という計画が立てられた。しかしこの年のため開発された改良型 125cc の RT61 、新設計 250cc の RV61(ともに 2 ストローク 24 気筒)は、信頼性の確保に苦労し、肝心のレースもリタイヤや下位低迷と散々な成績続きであった。シーズン当初、TT 以降の全戦参加が予定されていたが、不本意ながらオランダ、ベルギーの 2 戦を消化した段階で、チームは欧州を去る決定を下すこととなった。

 続く 1962 年、世界 GP には新たに 50cc クラスが加えられることとなった。当時世界的に人気が高まりつつあったモペッドブームを背景に成立した 50cc レースに、 スズキチームも参加することが決められた。各種の資料をもとに、50cc レーサーの目標は平坦地最高速 140km/h と設定されたが、小さな 1 個のピストンからこの性能を引き出すことは容易ではなく、開発陣は造ってはテストで壊し、また改良部品を造ってはテストを繰り返す、多忙な日々を送った。そして世界 GP 開幕直前に、何とか開発陣は目標の数値をクリアする RM62( 2 ストローク単気筒)を完成。125 、250cc には前年の不振を払拭するべく、設計を見直した RT62D( 2 ストローク単気筒)と RV62( 2 ストローク 2 気筒)を投入することとなる。

 新たに参加する50ccクラスは、継続参戦となる 125 、250cc より当初優先順位が低く設定されていた。しかし結果を先に述べれば、スズキにとって初めてのマン島 TT 勝利、そして世界 GP 初帯冠を達成するクラスとなったのは、50cc クラスだった。

 開幕戦、第 2 戦はライバル勢に後塵を拝する結果に終わったが、第 3 戦マン島 TT では今シーズンから加入した E.デグナー(当時・東ドイツ)が終始好調なレースを展開し完勝。その記念すべき初勝利の背景には、欧州からの第 1 、2 戦の報告を受けて、迅速に対応し改良型エンジンを製作・発送したスズキ本社開発陣の努力があり、まさにこの結果はチームワークの勝利と呼ぶにふさわしい成果といえるものだった。

 マン島 TT 後、RM62 は破竹の 4 連勝を含む計 5 勝をマークし、個人(デグナー)、メーカー双方の、初代世界 50cc クラス王者の地位に着くこととなった。世界への挑戦を開始してわずか3年でのタイトル獲得は快挙以外のなにものでもないが、その間多くの汗と涙を流してきた関係者たちにとっては、長年の苦労が報われた想いだったであろう。

                        
                           「マン島 TT 50cc クラス初優勝」(1962 年)
                   1962 年、スズキは世界 GP に新設されたばかりの 50cc クラ スで
                           ついにマン島 TT レース初勝利を獲得。
                    ライダーは、 東ドイツ人のエルンスト・デグナー (写真ゼッケン 2 )。



 

 50cc クラスの素晴らしい成果の陰で、1962 年シーズンも 125 、250cc クラスは満足する結果を収めることは出来なかった。

 しかし、翌 1963 年シーズンは参戦 4 年目となるスズキ 125cc レーサーが、いよいよその真価を発揮する年となるのである。

 1962 年秋、日本初の本格ロードレース専用コースとして設立された三重県・鈴鹿サーキットで開催された「第 1 回全日本選手権」に出走した新型 125cc RT63X をベースに、開発陣は 1963 年用モデル RT63( 2 サイクル 2 気筒)をシーズンオフに完成させていた。

 そして全 12 戦中マン島 TT 、さらに初めて日本で開催された世界選手権レース(鈴鹿)での勝を含む計 9 勝という、ライバルを圧倒する強さでスズキは 125cc クラスのライダー( H.アンダーソン、ニュージーランド)、メーカー両タイトルを獲得することとなった。

 なお、前年からの 50cc クラスを除いた世界 GP の歴史のなかで、2 サイクルのレーシングモーターサイクルが世界王者に輝いたのは、この年のスズキが初めてだったことも特筆すべき出来事だった。

 50cc クラスでは、実力を上げてきたライバルたちとの激戦がシーズンをとおして繰り返されたが、首尾良く前年に続いてライダー(アンダーソン)及びメーカーの両タイトル防衛に成功。そして、スズキ 50cc レースにおけるこの年のハイライトは、何といってもマン島 TT レースにおける伊藤光夫の優勝だろう。

 1907 年に第一回のレースが行われたこのイギリス・マン島 TT レースは、一周が 60 kmで大小 200 以上カーブがあり、さらに高低差が約 600 mという通常のレースコースでは考えられない厳しい条件の公道コースで行われる。したがってマシンの性能ばかりでなく、ライダーのテクニックも問われる世界屈指の過酷なレース。当時は、このレースで勝つということはすなわち世界一を表すといわれていた。それゆえ、世界中のバイクメーカーが社運をかけて挑戦していたのである。

 スズキは 1960 年にこのマン島 TT レースに初挑戦してから、三年目四年目と二年連続で手にしていた栄光であり、「世界一」だった。

 しかも、今日に至るマン島 TT レースの1世紀あまりとなる歴史のなかで、TT コースを制した日本人ライダーは、未だ伊藤ただひとりという事実は、一層この快挙がいかに価値があるものであるかを、鮮明にするものである。

                      
                    「マン島 TT レースで日本人初優勝」(1963 年)
          日本人ライダーとして初めてマン島 TT レースで優勝し たのはスズキの伊藤光夫選手だった。
                 スズキはマン島で 二年連続 50cc クラス優勝という輝かしい成績を収めた。


                      
                        「マン島に初めて日の丸上がる」 (1963 年)
                      1907年に始まっていたマン島 TT レースだったが、
                  実に 57 年目にして日本人の手によって初めて優勝が成し遂げ られ、
                        日の丸が空高く掲げられ「君が代」が流された。



 

 続く1964 年、更に熟成された RM64 は、3 年連続のマン島 TT 制覇とともに、ライダー(アンダーソン)、メーカー両タイトルの「 3 連覇」を達成する。一方、大幅に性能アップされた 125cc レーサー RT64 は、予期せぬトラブルに悩まされ、連続タイトル獲得はならなかった。しかし最終戦の日本 GP には信頼性を増した水冷エンジンを完成し優勝、そのポテンシャルの高さは、翌シーズンへの捲土重来を期待させるものだった。

 1965 年は、以前より開発を進めていた「秘密兵器」、水冷 50cc 2 気筒のハイメカニズムマシン、 RK65 を実戦投入開始した年となった。しかし初物ゆえにシーズン中に熟成に至らなかったことが災いし、1962 年以来守り続けた 50cc クラス王者の地位から、初めて退く結果となってしまった。逆に対策万全で臨んだ 125cc クラスでは、全 12 戦で 10 勝という圧勝ぶりで、2 度目のライダー(アンダーソン)、メーカー両タイトル独占に成功した。

 1966 年シーズンは、並列 2 気筒、そしてスクエア 4 気筒と開発を進めてきたものの、満足いく成果が得られなかった 250cc クラスの参戦を取りやめ、50 、125cc の 2 クラスへ全精力を集中させる新体制を組んだ。しかし、ライバルたちの成長著しかったこの年は、前年最終戦から新加入した H.G.アンシャイト(独)が、熟成された水冷 2 気筒の RK66 を駆ってライダータイトルを獲得した以外は、タイトル獲得に至らなかった。

 1967 年は、再び 50cc のライダー(アンシャイト)、メーカー両タイトルを奪い返す年となったが、このシーズンを限りにスズキは第 1 期世界 GP 参戦の停止を決定することとなる。1960 年の初参戦から 8 年、世界最高峰の舞台で得た数々の栄光は、スズキの 2 ストローク技術の確かさを世に示すに十分なものであり、本格的に輸出を開始した北米・欧州市場でのスズキ市販車は、レースでの活躍を背景に好調に販売を伸ばした。

 更なる優れた市販車を開発し市場におけるスズキの地位を保つためには、世界 GP で得た技術と、濃密かつ豊かな経験を積んだ人材の還元が不可欠でもあった。そしてレース部門の縮小が行われ、開発者たちの多くは新たな競争の場である、市販車開発部門にて戦いの日々を送ることとなったのである。


                       
                         「新設された 50cc クラスで優勝」(1962 年)
                      マン島 TT レースで初の優勝を達成したスズキチーム。
                        真ん中にいるのがデグナー、その右が伊藤光夫。
                         二人の間には鈴木修現会長が見える。
                デグナーの左奥にいる眼鏡をかけた人物は GP チームを率いた岡野総監督。

                       
                       「世界 GP レースで選手権獲得」 (1962 〜 64 年)
            世界 GP レースに参戦を開始したスズキは、わずか 2 年でワールドチャンピオンに輝いた。
                   その主役を演じ たのが左からデグナー、アンダーソン、ペリス等だ。



                              Vol.3 完

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