「ホンダ500勝への道」のメニュ−へ

 1967年のシーズンをもってグランプリ活動から撤退したHondaは、ともすればレースの現場から完全に手を引いてしまったかのように見られがちだった。しかし、翌68年までのF1参戦。そして69年にはマシンサポートのみながらボルドール24時間耐久に優勝。また70年には発売されて間もないCB750がデイトナ200マイルにおける初優勝を飾るなど、その実態は新たな挑戦の場を求める貪欲さに満ちたものであるのは確かだった。

 そして71年には社内で2ストロークによるモトクロスのプロジェクトがスタートし、またトライアラーの開発も進められた。さらにレース界の注目を集めることとなったのが、76年からの耐久ヨーロッパ選手権へのチャレンジだった。RCBの進撃は圧倒的で、その活動はすぐさま連続してタイトルを奪取することになる。世界選手権モトクロスでの優勝も相次いでいたし、世界選手権トライアルでも表彰台の頂上を極めることが出来た。
 しかし、それらの活躍があるにもかかわらず、Hondaが世界選手権をはじめとするレース界に復帰しているという印象は完全ではなかった。「グランプリ」…それは誰から見ても、やはり絶対的な存在だった。60年代に数多くの栄光を掴み取ったHondaが、GPへの参戦を抜きにレース活動を語ることは出来なかった。
 グランプリへの復帰…その胎動は、77年の暮れに当時の河島社長から「Hondaは世界GP500ccに挑戦する用意がある」という公式発表だった。それが実際のカタチとなったのが、翌78年に朝霞研究所内に設置されたNR部門であり、そして79年6月には、画期的な4ストロークマシンNR500が発表された。しかし、8月のイギリスGPからレース復帰を果たしたHondaの前途には、想像をはるかに超える峻険な壁が立ちふさがっていた。
 復帰を果たした79年には2戦のみに出場。しかし、世界選手権のポイントをゲットするどころか、完走さえおぼつかない惨憺たる結果が待ち受けていた。その状態は80年にも持ち越され、なんとか完走を果たすのが精一杯だった。81年に入ってもNR500のリタイヤは続き、いつしかHondaのグランプリへの復帰に関する話題は、NRの限界を語るものばかりになっていた。すでに、NRによる参戦は3年めを迎えていた。1959年にマン島TT初挑戦を果たした時に、チーム監督として「3年で成果をあげてみせます」と誓った河島は社長となり、しかし彼のもとに届くニュースは芳しくない内容のものばかりだった。
 ちょうどその頃、81年のシーズンを戦いながら、Hondaではレースに挑むあらゆる要素を洗い直す作業が進められていた。勝てるマシンとは?。ベストなライダーとは?。必要なチーム体制とは?。この81年こそが、Hondaにとってグランプリ復帰における、再スタートの年だった。
 すでに81年のシーズン中から、新型マシンのプロジェクトは進行していた。エンジンは2ストロークに転換され、その開発にはモトクロスで得た多くのノウハウが活かされていた。この時点で、実はHondaは10年に及ぶ2ストロークの実績を築いていた。いくつかのエンジンレイアウトが検討され、その中からV型3気筒というユニークな配置が正式に採用されることとなった。
 81年も押し迫った12月のクリスマス前。新型2ストロークのプロトタイプが完成し、最終的な性能の確認が行われ、GOサインが出された。年をまたいで開発が急ピッチで進められ、82年の2月にはこのシーズンを新型2ストロークで戦うことが正式決定され、NRに続くマシン名はNSと定められた。ライダーはそれまでの片山敬済に加え、アメリカでめきめきと頭角をあらわしていたフレディ・スペンサーと、前年の500ccクラスチャンピオンのマルコ・ルッキネリが名を連ねることとなった。
 そして迎えたデビューレースは、全日本の開幕戦である鈴鹿2&4。ここで片山はNSを4位に導きそれなりの手応えを得てはいたが、グランプリでその実力がいかほどのものか、それはまったく未知数だった。
 グランプリ第1戦アルゼンチンに赴いたメンバーは、具体的な目標を確認した。まずは完走。それもトップと同一周回数でラップ遅れにならないこと。そのためには7〜8位あたりの入賞が求められる。しかし、そんな予想を裏切ったのが、スペンサーの予選結果だった。ポールポジションのケニー・ロバーツ1分34秒05に続く2番手のタイムは、1分34秒10という僅差だった。ルッキネリも4番手。テスト中の転倒で手首を負傷している片山も9番手につけた。
 この結果に目を見張ったのは、Hondaチームよりもむしろライバルたちだった。中でも、スペンサーの秘められた実力とHondaの底力を知るロバーツは、軽んずることの出来ない新たなライバルが登場したことを充分に感じ取っていた。そして、ロバーツの予想は的中する。オープニングラップ、26台のマシンをリードしてコントロールラインをトップで通過していったのが、スペンサーだった。

 最終的に、ロバーツ1位、バリー・シーン2位に続いて3位となったものの、スペンサーとNSへの注目は一気に高まった。2年連続でタイトルを逃していたロバーツの復調よりも、度重なる怪我から不死鳥のように甦ったシーンよりも、このレースで初めてのグランプリ入賞をはたしたスペンサーの名前が、82年シーズン開幕戦の報道で、多くのヘッドラインを飾ることとなった。ルッキネリ5位、片山6位と、当初の目標は完全にクリア出来た。

 スペンサーとHondaについての話題はいつの間にか「彼らは今シーズン勝てるだろうか」から「どのレースで初優勝を飾るだろうか」にかわり、中には「今シーズンのタイトルを奪うのではないか」という推測まで飛び交うようになった。しかし、NS500にとって初のシーズン、スペンサーにとっても事実上はグランプリへのデビューシーズン(正確には81年のイギリスGPにNR500を走らせリタイヤとなっているが)は、それほど甘いものではなかった。優勝を期待されながら、その後のレースにおいて、NSとスペンサーは産みの苦しみを味わうことになる。

 続く第2戦オーストリア。季節遅れの雪混じりの悪天候に苦労したスペンサーは予選12番手。ルッキネリも9番手にとどまる。決勝はなんとか雨にかわり、スペンサーは18周目には2位に浮上するもクランクシャフトの破損でリタイヤ。ワークススズキとバトルを繰り広げたルッキネリはレース中のファステストラップを刻んだが、その後大転倒を喫しリタイヤ。片山が辛うじて周遅れの9位となる。

 第3戦はフランス。しかしコースの安全性問題でトップライダーが合議の上ボイコットとなり、事実上レースはキャンセルとなる。これによって次戦スペインに直行したメンバーは貴重な時間を有効に使い、マシンのセッティングを進めた。その成果あって、スペンサーはNSでのレース3戦目にして初のポールポジションを獲得。一気に初優勝への望みが具体化する。

 しかし、ここでも勝利の女神は彼らに微笑むことはなかった。7周目、エンジン不調で突然ピットインしたスペンサーは、コースに復帰することはなかった。イグニッションコードの破損によって1気筒が不調に陥ったのだ。ルッキネリ5位、片山6位と着実にポイントを重ねたが、スペンサーのリタイヤは大きなショックとなった。またスポットでNSに乗った地元のヒーローであるアンヘル・ニエトも転倒リタイヤとなり、ポイントをあげるには至らなかった。

 第5戦は、スズキワークスのNo.1ライダーであるフランコ・ウンチーニの地元イタリアGP。予選から圧倒的な強さを見せたウンチーニは、予選2番手につけたスペンサーを振り切り、オーストリアに続いて2勝目をゲット。スペンサーは大差をつけられて2位を確保するのが精一杯だった。これによってウンチーニはロバーツと並ぶランキングトップに浮上。その後一気にチャンピオンへの道をひた走ることになる。
 第6戦オランダには、全日本の200kmレースにデビューしたばかりのアルミフレームNSが投入されたが、ここでもスペンサーは女神の祝福を受けることは出来なかった。スペンサーは予選6番手からスタート。ファステストラップをマークしながらトップグループを追走したが、突然雨が降り出しレッドフラッグ。スペンサーはそのレッドフラッグ直前に転倒するというミステイクを犯してしまう。さらに運が悪かったのは、第2ヒートスタート前のウォームアップランでステアリングダンパーの取り付けボルトが脱落。スペアパーツを持たなかったHondaは、万事休すとなった。
 勝てそうで勝てない。ポールポジションやファステストラップを記録するが、ウィニングチェッカーだけが受けられない状態が続いていた。思いもよらぬトラブルや些細なミスに泣いたこともあった。勝てる実力は充分に備わっていながら、最後の最後で帳尻を合わせることが出来ないでいた。

 しかし、スペンサーもチーフメカニックのアーブ・カネモトも、目前に迫っている「その瞬間」に向かってベストを尽くすことを忘れなかった。第7戦ベルギーGP、スパ・フランコルシャン。彼らは自分たちの14番ピットに星条旗を掲げ、決意も新たにそのレースに挑んだ。決勝日7月4日は、アメリカ合衆国206回目の独立記念日だった。

 空は、いつ泣き出してもおかしくないほどの厚い雲に覆われていた。雨になれば、また優勝のチャンスは逃げていってしまう…。チーム監督の尾熊は、祈るように上空を見上げた。スペンサーのグリッドは2番目。いつもの上位陣が、回りをかためていた。

 スタートは、問題なかった。アルデンヌの濃い緑に囲まれた1周6.972kmのコースを1周するのに、約2分40秒。14番ピットは、固唾を飲んで先頭集団の帰りを待った。
 ポールポジションから飛び出したスズキワークスのジャック・ミドルブルグを先頭に、バリー・シーン、グレーム・クロスビー、ケニー・ロバーツ、マーク・フォンタンのヤマハ勢が続き、ルッキネリが6番手、スペンサーはその後ろにつけていた。

 ロバーツたちは、思い通りのハンドリングが発揮できずにスピードを伸び悩ませていた。その隙を縫うように、スペンサーはジリジリとポジションをあげていった。そして9周目、スペンサーはトップに躍り出た。ピットの尾熊は、あらためて空を見上げた。
 「ここで、降ってくれるな」
 東京から来ている芳賀主研に目が合うと、彼も祈るような表情だった。

 スペンサーは、次第に2位以下を引き離しにかかった。20周のレース。まだ周回は半分を経たに過ぎない。最終コーナーのラ・ソースヘアピンを、独特な3気筒サウンドが立ち上がってくる。マシンを右にバンクさせながら通過するピット前はかなりの下り。そこから第1コーナーのオールージュをひらりと切り返して駆け昇るスペンサーの姿を追う。
 スペンサーがトップをキープしてコントロールラインを走り抜けるたびに、サインエリアのアーブがピットの尾熊たちに振り返る。尾熊と芳賀は「行ったな」「はい、行きました」同じ言葉を繰り返す。2位以下に、スペンサーを追走出来る者はいなかった。シーンとウンチーニは、2、3番手をキープするのが精一杯だった。
 ラップ20。ラ・ソースヘアピンを立ち上がる3気筒の音がする。ストレートの一番手前にチェッカーフラッグが用意される。トリコロールカラーのNSとスペンサーが坂を下ってくる。アーブたちは大きく体を伸ばして拳を振り上げている。ゆっくりと、スローモーションのように旗が振り下ろされる。ゼッケン40のスペンサーが、左手を高く突き上げて、マシンをバンクさせたままコントロールラインを駆け抜けていく。

 「行った、な?」「はい、勝ちました」
 握り合う手に全身の力がこもった。抱き合う男達の姿があった。喜びを爆発させるメンバーがいた。
アーブが目を真っ赤にしてピットに振り返った。スパ・フランコルシャンの14番ピットで、星条旗が誇らしげにはためいていた。

 Hondaにとって、60年代から数えて通算139回目の勝利を手にしたこの日は、グランプリサーキットが新たな時代に突入したことを宣言する、インディペンデンス・デイとなった。