有力チームの写真

オートバイはと言うよりも自転車に近い大村のマシン。ホンダ・ドリームE150ccを改造して125クラスに出走した。

外国勢がピッタリしたツーピースのライダースーツで決めていたのに対して、大村のダブッとしたそれはお世辞にもスマートとは言えなかった。

しかし、2周遅れとは言え、この条件で大村は完走、その後のホンダのレース活動の着火剤となるのだった。

大村選手とマシン


ジレラ
MVアグスタの前身でもあるジレラの500ccDOHC4気筒。当時最高のハイメカニズムを搭載したマシンは、大村や馬場のため息を誘った。
Puci
125ccクラスのライバル、オーストリアのプフ。大村のマシンとの差を、マネージャー役で同行した馬場は「大村さんが気の毒だと思った」と表現した。


ノートン
戦前から350・500ccクラスで大活躍を見せたノートン・マンクスもまだまだ現役で頑張っていた。しかし台頭するイタリア勢の前に、1952年のタイトルを最後にその盟主の座を明け渡す運命にあった。
モトグッツィ
前年1953年にタイトルを手中にしているモトグッツィの350cc。早くから空力効果を追求したグッツィは「バード・ビーク」と呼ばれる特異な形状のアルミカウルを装着していた。


アグスタと記念撮影
MVアグスタのワークス125ビアルベーロとスタッフと共に記念撮影。右が大村。1951年からGPに挑戦を開始したばかりのMVアグスタは、当時めきめきと頭角をあらわしてきた戦後勢力の最右翼だった。
ノートンとレイ・アーム
ワークスのノートン・マンクスを駆り、350ccと500ccのウイナーとなった南ローデシアのレイ・アム。ジレラ、モトグッツィ、MVアグスタなどを送り込み、必勝を期した新興勢力のイタリア勢を打ち破っての勝利だった。