羽田に帰投し本田社長以下の大歓迎を受けた
幾多の作業

 エンジンの改良、フレームやサスペンションの再考などマシン開発はもちろんのこと、使い物にならない国産の周辺部品(プラグやオイル、タイヤ、チェーン等)や、ベアリングやオイルシールなどの基礎部品の性能向上など、河島ら第2研究課の仕事はそれまでの日本相手から「世界を相手にする」高度なものへと引き上げられていった。またライダーの育成、練習。チーム運営体制の向上など、その仕事量は膨大なものであった。河島によれば「初挑戦以後の1年間は、それ以前の5年間より大変だった」というほど。またホンダでは、本格的ロードコースの必要性を痛感。マシン開発やライダー育成ばかりでなく、マシン開発におけるテストコースの必要性を痛感したホンダでは、「本格的なサーキット」の建設を計画。レース参戦の土台固めを一気に進めることとなる。このあたりは、創業初期に高価な工作機械を大量導入した本田宗一郎流の、猪突猛進型基盤整備の最たるものだったと言えるだろう。

 これらすべての作業が、国内のどこにも前例やお手本のない日本人にとって初めての作業であり、その困難さは想像を絶するものであった。

 一行の帰投を待ち受ける羽田のロビーは、ホンダ関係者はもちろん、新聞記者、雑誌記者、関連企業社員、そして一行の家族など、大歓迎の渦と化した。横断幕下は飯田(左端)、田中、谷口、鈴木(淳三)、鈴木(義一)、そして本田社長と握手を交わす河島監督。とりあえず空港控え室にて乾杯をすませ、本田社長、藤沢専務らは一行の労をねぎらった。グラスをかかげ満面の笑みを見せる藤沢専務(中央)の表情に、ホンダの安堵と歓喜のすべてが見てとれる。一行はこの後赤坂の料亭へ招かれ、盛大な宴会が催された。なお、この凱旋帰国組の中に関口整備監督の姿はなかった。彼はそのまま一路オランダに渡り、前年1958年に輸出を開始したばかりのドリーム250に多発したピストントラブルを解決すべく、何十台ものドリームのピストン交換を行なっている。しかしこの時、マン島入賞直後の整備監督の来訪をオランダのディーラーは大歓迎で待ち受けた。また関口の手際の良さ、名人芸とも言える整備の腕を目の当たりにし、オランダでのホンダ評は一気に高まったのだった。

500ccのレース

 ホンダが初出場を果たした1959年のマン島TTレースは、まさにMVアグスタ全盛期の様相を呈していた。125、250、350、500ccの全クラスを制し(125、250ccクラスがタルキニオ・プロビーニ。350、500ccクラスがジョン・サーティース)、また500ccクラスではこの年サーティースが7戦全戦優勝を果たすなど、絶頂期にあったと言っていい。ただ、当時の500ccクラスは現在とはいささか異なるポジションにあり、ワークスMVの独り舞台に市販レーサーを駆る多くのプライベーターのノートンマンクスが戦いを挑むという図式のいわば単調なレースが多く、500ccならではの威厳と迫力に満ちてはいたが決してメインレースと呼べる体裁を持ってはいなかったのが実状だった。

通産省が異例のコメントを発表

 レース3日後の6月6日、通産省では報道関係者宛に、ホンダのマン島挑戦に関する公式通知を行なった。この中でホンダの戦績は「これは一企業の業績であるが、国産2輪車がこれで世界水準に達し、日本製品の今後の輸出にも明るい見通しが立った」と評価され、ホンダの名は日本の経済界全体に広がることとなった。またこの公式通知の背景には「ホンダ、マン島で入賞」の一報によってホンダの株価が一気に高騰したという一因もあった。レースで高性能を実証し市販車の販売に結びつけるという、レースに不変の価値は、マン島初出場の時点から大きな成果をあげていたことになる。

日本にも打電

 レース結果の報告を行なうのもマネージャー飯田の重要な役割だった。まず速報を国際電報によって打電し、同時に申し込む国際電話が交換手を通じてつながるのが、うまくいって半日後という状態だった。この国際電話によって河島監督の雑音とタイムラグのはなはだしい肉声が本田社長に伝えられた。これを受け取ったホンダは社内掲示板に手書きのレース速報を貼り出し、社員にこの吉報を伝えている。なお、河島が電話口で詳報を伝える時点で、すでに日本では本田技研の株価が上昇しており、総務部から現地の河島あてに「おめでとう、お蔭で株価が上がった、ありがとう」の電報が伝えられた。

チーム賞

 マン島TTのチーム賞(Manufacturers' Team Prize)は「全員完走」といった漠然とした成績に送られるのではなく、チーム全員が完走し(ビル・ハントは個人出場のためチーム外)、それらが優勝者のレースタイムのプラス何%以内(レース毎に微妙な差異あり)に完走しなければならないというものだった。ホンダチームは、谷口、鈴木(義一)、田中、鈴木(淳三)がすべて規定タイム内完走となり、この賞を獲得している。この一報を受電した日本側では「チーム賞」のなんたるかが分からず「チーム優勝」といった誤解釈さえあったという。谷口が獲得した「シルバー・レプリカ」は正式には「First Class Replica」といい、また、「ブロンズ・レプリカ」は「Second Class Replica」。これらも順位によって決められるのではなく、優勝者のレースタイムのプラス何%以内という基準による。マン島TTでは、Manufacturers' Team Prize、First Class Replica、Second Class Replica、Club Team Prizeなどの賞典が設けられていた。

6位入賞

 1949年に世界選手権ロードレースが開始された時は、1位から5位までに10、8、7、6、5点が与えられる1〜5位入賞だったが、翌1950年から1位から6位までに8、6、4、3、2、1点が与えられる1〜6位入賞の形式が取られるようになった。つまりホンダの第一期2輪GP挑戦時は、すべて1〜6位が入賞となっている。また、選手権全レースのポイントを加算するのではなく、そのクラスの開催数の2分の1+1(12レースなら6+1=7)が有効ポイントレースとなる方法が採用(一部特例の年やクラスもあった)されている。日本の各ワークスが撤退する大きな理由となった気筒数やミッション段数の制限を設けた1969年からの新レギュレーションでは、同時に得点制度も刷新され、1位から10位に15、12、10、8、6、5、4、3、2、1点が与えられる1〜10位式が採用され、その後幾度かの変更を受けながら、現在は1〜15位に25、20、16、13、11、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1点が与えられる方法が採用されている。

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