【伊藤史朗】1955年の第1回浅間高原レース250ccクラスで、ホンダワークスのSAZ勢を破って優勝。1958年には重く非力なBMWを駆って出場。この活躍が認められ、1960年にはプライベートでBMWを駆ってGPに参戦。フランスGP500ccクラスで6位に入賞し、レース関係者を驚愕させた。この入賞は日本人によるGP500ccクラスの初入賞であり、また日本人ライダー/海外メーカーマシンによる初入賞でもあった。その後ヤマハチームに加入し、同チームのトップライダーとして大活躍した。1939年10月10日生まれ。
もともとオートレース1級車の選手として川口を本拠地に活躍していた健二郎が、本田宗一郎と出会ったのは浜松の寿司屋だった。宗一郎は、実力と経験があり、豪放磊落で言いたいことをずけずけ言う健二郎を即座に気に入り、いきなり50万円の契約金を提示。当時大学出の初任給が7000円程度だったころの50万円に、健二郎は当然のごとく即断し、その足で浅間に駆けつけ、ホンダライダーとしての道を歩み始める。
RC160で最高ラップをマークするなどすぐさまその実力を発揮し、そのままGP挑戦メンバーに昇格。そして渡欧して初レースとなる西ドイツGPで日本人として初めて表彰台に登る3位に入賞。まさに怒涛の勢いでホンダチームを牽引した。しかし続くアルスターGPで右足に大怪我を負い、ライダー生命にピリオドを打つ。その後、同じくオートレース出身の藤井璋美とともにホンダのライダー養成機関であるテクニカルスポーツの中心として活躍。このテクニカルスポーツは別名「健二郎学校」と呼ばれ、後に日本の2輪4輪のレース界を牽引する幾多の優秀な人材を輩出する原動力となった。
その後4輪ドライバーに転身し、日産ワークス、タキ・レーシングチームなどで活躍した。1934年1月3日生まれ。
●1958年の浅間火山レース350、500ccクラス混走レースで、3分前にスタートした500ccクラスのマシンを次々抜き去り、結局2位に入賞するという強烈なデビューをはたし、1959年にはホンダ・スピード・クラブに加入。1960年にGP初参戦をはたし、1961年第2戦の西ドイツGP250ccクラスにおいて、日本人として史上初の世界選手権ロードレース優勝を達成。その後マン島で負傷し2輪ライダーとしてのキャリアを終えるが、4輪に転向後もめざましい活躍を続けた。1972年にはスカイラインGT-Rの通算50勝達成ドライバーとなるなど、2輪4輪両方で突出した実力を示した。最近では自らステアリングを握り続けるのはもちろん、8耐にチーム監督として関わるなど、未だレース界の現役として活躍している。1940年1月29日生まれ。
1958年の、第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースに若干15歳で出場。それも50ccの自作改造マシンで125ccクラスに出場し敢闘賞を獲得するという快挙をなしとげ、さらに1959年には最年少で50ccクラス2位に入賞し、1962年まで2輪レースを戦った。後に4輪レースに転向し、ヨーロッパのF2・F3でトップを争う活躍を展開し、まさに我が国屈指のレーシングドライバーとしてその名を残した。1942年8月21日生まれ。
ホンダがマン島初挑戦をはたした1959年に、第1回全日本モトクロスに出場し、オープンクラス優勝。同時にロードレースにも進出し第3回浅間火山レースでは3クラスに優勝するばかりか市販車CB92でRC142をうち負かすという大活躍を見せ、GPチームに加入する。GPデビューとなった1960年マン島TTでは日本人最高位の5位に入賞し、その非凡な才能を開花。ホンダ初期のGPレースで、高橋国光と並び称される日本人トップライダーとして活躍した。後に4輪に転向し、日産のワークスドライバーなどで大活躍を見せた。1941年1月1日生まれ。