イギリス国内の2輪レースで活躍した後、2輪世界選手権ロードレースにデビュー。1953年にGP初入賞を果たし、以後350/500ccクラスのライダーとして活躍。1955年にGP初優勝して一気にトップライダーに仲間入りした。
そんな彼を一躍有名にしたのが1957年のマン島TT500ccクラスのレース。マッキンタイヤはジレラを駆り、史上初の「オーバー・ザ・トン(レース中の平均時速100mile/h突破)」を達成。レース史にその名を残すこととなった。当時、90マイル後半に達していたマン島の平均速度で、誰が初めて100mile/h以上を達成するかが、チャック・イエーガーの音速突破(1947年10月14日。ベルX-1によって達成)と同じように世界中の注目を集めていた。
●1959年シーズン終了後に、みずからホンダに手紙を書いて乗車希望を伝えたフィリスは、マン島で最終的な打ち合わせの後ホンダチームに加入することとなった。GPでの名声はまだ未知数のライダーだったが、ブラウンと同じオーストラリア出身で、国内レースではブラウンを下したこともある経歴をもっていた。特に努力家として認められ、勤勉に練習走行を繰り返し、またマシンの細かい部分にも気を使うライダーとしてみるみる成長をとげていった。
小柄なライダーとして主に軽量級で活躍し、1961年開幕戦のスペインGP125ccクラスにおいてホンダによるGP初優勝を達成し、またこの1961年には初めての世界タイトルも獲得し、ホンダのレース史にその名前を刻んだ。しかし、惜しくも1962年のマン島350ccクラスに出場中転倒し、帰らぬ人となった。
ホンダマシンによる通算優勝回数6回(125ccクラス4回、250ccクラス2回)、世界選手権タイトル1回、獲得。
契約に至らなかったハートルの紹介でホンダチームに加入する事になったのがブラウンだった。350、500ccクラスにノートンマンクスを駆って出場していたブラウンは、プライベートながらサーティースやゲイリー・ホッキングなどのすぐ後ろを走れるトップライダーであり、自らもさらなる可能性を求める好漢だった。
もともとプライベートで自分のマシンのメンテナンスなどもこなしていただけあって、マシンセッティングの知識も豊富であり、ホンダのマシン開発にも多くの助言を与えている。また不慣れな日本人ライダーには、コースの取り方からライディングに関わるあらゆるアドバイスを惜しまず、ホンダ初期のレースを支える大きな存在となった。
しかしこの1960年、第5戦西ドイツGPのプラクティス中、他のライダーと接触し転倒、不帰の人となった。このため、記念すべきホンダ初の外人契約ライダーとしてGPを走りながら、その参戦はわずか4戦に留まっている。
外人ライダーとしてホンダと最初に具体的な接触を持ったのがハートルだった。しかしハートルはモービルと契約しており、カストロールを使うホンダとは契約に至らず、ホンダの申し出で別のライダーを紹介してもらうことになる。それがハートルと親しかったボブ・ブラウンだった。
1959年のマン島初挑戦時には1ヵ月もの合宿をおこなってマン島クリプスコースに慣れたホンダチームだったが、1960年シーズンにはフルコースのマウンテンコースが全クラスに使用されることとなり、過去の経験はまったく通用しない結果となってしまった。そこで、ライダー側からの要望もあり、ホンダは外人ライダーを起用することとなる。また1960年はマン島だけでなく各国を転戦する予定であり、すでに各国のGPを経験している外人ライダーが大きな力となることは明らかだった。
モータースポーツとモータリゼーションの生みの親であることを自負するイギリスでは、ホンダのGP参戦にさまざまな論評を加えていた。1959年の初挑戦時にはすでにエンジン内部の構造を細かく分析し、その精巧さや模倣のなさなどを指摘。しかし操縦性の劣悪さや各部の稚拙な作りもしっかりと指摘することを忘れてはいない。
さらに、ホンダがやがてGPを席巻するであろうこと、またその影響で世界の2輪市場がどのように変化してゆくかまでを分析し、戦勝国イギリスの凋落と敗戦国イタリア、ドイツ、日本の成長を皮肉を込めながら論評する記事などもみられた。
また、ジョン・サーティースがホンダに高い評価を与えたことにからめて、ホンダが将来4輪(F1など)に挑戦し、2輪4輪両方のタイトル獲得も夢ではないと、読者の想像力をかきたてる特集なども組まれている。1960年時点でホンダ社内のF1計画はまったく具体化されておらず、そのイマジネーションの鋭さにはあらためて驚かされる。
戦後、イギリス国内で2輪レースの頂点を極めたサーティースは1954年から世界選手権ロードレースへの挑戦を開始。早くもGPでの勝利を手中にするとともに、一躍GP500ccクラスのトップライダーに躍り出る。1956年にはMVのワークスに迎え入れられ、すぐさまシリーズチャンピオンを獲得。ジェフ・デュークに続くイギリスレース界の代表選手として栄光のキャリアを積み重ねていく。
しかし、1960年シーズンに7つめのタイトルを獲得すると、彼は4輪への転向を発表。惜しまれながら2輪のサーキットから去ったサーティースだったが、その後F1でも大活躍を見せ、2輪時代に勝るとも劣らない人気と栄光を手にした。1964年にはフェラーリのドライバーとしてF1のチャンピオンとなり、2輪4輪両方のタイトルを持つ唯一の存在として「Master of Motorsport」と呼ばれている。
その熱意は、マシン開発の過程を見れば一目瞭然だった。王者MVにしても、年度が変わっても基本設計に大きな変更はなく、モディファイもしくは小変更が主流だった。当時じわじわと戦闘力をアップしていたMVにしても、基本設計を変えずに毎年2馬力程出力をあげていたようで、全くの新設計エンジンを惜しみなく投入するホンダの手法は、GP関係者の度肝を抜くに相応しいものだった。なにしろ350、500ccクラスなどでは単気筒OHVは当たり前。未だ戦前の基本設計の改良モデルさえ実戦を走っている時代だった。
【マン島TTが緒戦】マン島挑戦2年めを迎えたホンダチームは、この年からGP挑戦を開始したスズキチームと同じ飛行機でマン島へ渡った。ドルの確保など国内的にもまだ多くの問題を抱えていたレース関係者は、ホンダとスズキの合同チームを「Team Japan」とし、全日本チームの名目を与え、マシンテストではホンダの荒川テストコースを使うなど、まさに手に手を取っての渡欧だった。
マン島初挑戦をはたしたスズキチームは、エースライダーの伊藤光夫こそ練習中に転倒/欠場となったが、松本聡雄15位、市野三千雄16位、伊藤の代わりに出場した地元ライダーのレイモンド・フェイが18位となっている。
その後スズキはめきめきと実力をつけ、主に軽量クラスで大活躍。50ccクラス創設年からタイトルを獲得し、1963年には伊藤光夫が日本人初のマン島TTウィナーになるなど、日本製2ストロークの名を世界に広めることとなった。