1961年 世界選手権ロードレース 第2戦西ドイツGP 250ccクラス
高橋国光による日本人初優勝のレースレポート

「1列目にいるのが、恐かった。何がどうなっちゃうんだろう。彼らにメチャクチャにされちゃうんじゃないだろうかって」

 しかし、高橋にはわずかながら、不安をとりのぞく方法があった。この前の年のイタリアGP、高速コースで知られるモンツァで4位に入賞した時のことを思い出したのである。 チャンピオンのカルロ・ウッビアリ、そしてレッドマン、デグナーに続く4位は、彼に高速コースでの自信を植えつけさせていた。ホッケンハイムは、当時屈指のハイスピードコース。そこで予選2番手につけたことも、明るい材料のひとつだった。

 高橋は、大きくのしかかる巨大な闇の中に、一点の光を見つけ出していた。そして、スタート。ほとんど空っぽの頭ながら、彼はその一点に向かってマシンを押し出した。36台の群から飛び出していったのは、MVのホッキングだ。しかし、ホンダRC162の4気筒を操るレッドマンが、プロビーニが、そして高橋が、ピタリ射程距離をはずさない。残る32台は、ぐんぐんとその差をつけられていく。

「トップグループにいるとは、その時わかっていなかったと思います。とにかくがむしゃらに飛び出していって、気がついたら4台になってる。もしかしたらちょっとはいいところにいるのかもしれない……ぐらいで。これから何がおこるのか、恐ろしかった。それは今でもおぼえています」

 2周目に入ると、ホッキングはレッドマンと高橋のふたりにつかまり、そのすぐ後ろをプロビーニが追う展開となる。満場12万観衆の眼は、この4台に釘づけとなる。中でも、まだ”同盟国”としての意識が残っている日本から来た若者への声援は、格別ではあった。 10周を過ぎると、プロビーニは強引なコーナリングで一気に3台をかわしてトップに進出。しかしそれをレッドマンが抜き返し、ホッキングがまた挑みかかるという、想像を絶する激しい闘いとなった。高橋は、こらえていた。いや、目の前で繰り広げられる一流ライダーの激闘に、のまれていたのかもしれない。時として、ストレートを4台のマシンが横一線となって駆け抜けていく。

「競っているという感じじゃない。とって喰われるんじゃないかっていう圧迫感で、何がなんだか、さっぱりわからないっていうのが本当ですよ」

 そして、均衡が破れる時がきた。ホッキングがピットイン。MVのエンジンが、ついに悲鳴をあげたのである。このころすでに、ペースは極端に上がり、毎周ごとにコースレコードが塗り替えられている。

 プロビーニのモリーニも、すでに自らの限界を越えていた。2台のホンダは、それほどに性能面で他を圧倒していたのである。ジリジリと遅れるプロビーニ。先頭行くレッドマンに、高橋はピタリとつけていく。

「これを抜けば勝てるんだとか、優勝をするとかを、その時はまったく頭に浮かべなかったですね。レース中のことは、特にレッドマンとふたりになってからのことは、まったく覚えていない」

 レッドマンも必死だった。自分はホンダのNo.1ライダーであるという自負が、彼のライディングを荒いものにしてしまっていた。

 高橋はこらえ、そして20周目の最終ラップに入った。スリップストリームという言葉が、ひどくモダンだった頃である。彼は、レッドマンのわずか後方に生じる真空状態に、無言のまま身を沈めきっていた。最後のきついコーナー”シュタットカーブ”が近づいてくる。激しいシフトダウン、ブレーキング、マシンが身震いをしてGに耐える。そこでも高橋は、こらえていた。12万の歓声は、荒波のようにこのふたりを飲み込んでいたが、彼はまったく無音の世界にいた。そしてゴールが見えてくる”クラスコーナー”。高橋が、動いた。カーブのイン側に彼のマシンがほんの少し傾いたかと思うと、2台は、横に並んだ。

 ゆっくりとチェッカーフラッグが持ち上げられる。音のない世界を、2台のマシンがゴールめがけて近づいてくる。総立ち観衆の前を、ゼッケン100番が駆け抜ける。レッドマンは2位だ。6mほど後方だ。歓声が、瞬間よみがえる。高橋は、もうほとんど何も感じられなくなっていた。

「ゴールして、帰ってきて、まわりがワーッとなっているんですけど、頭の中がシビレてしまっていて、分からない。もちろん、優勝したことは分かってるんですけど、それが何なの分からない。どうすりゃいいのか分からない」

 表彰式が用意される。ドイツ語で高らかと彼の名前が呼び出される。ポカンとしたまま最上段に昇る高橋。レイをかけられる。握手をされる。すべての人が最大級の喜びを表してくれる中、彼は、バックにどこからか流れてきた君が代をうつろに聞いていた。表彰台の前にも鈴なりの人だ。高橋はぼんやりとその人波を見つめる。ひとり、泣いている男がいた。時のチーム監督、河島喜好氏、現本田技研社長である。高橋は、こみあげるものをおさえられなかった。

「河島さんが泣いているんです。ボロボロと、僕の目の前で。もうたまらなかった。もううれしくてうれしくて……」

 ホンダがグランプリに挑戦を始めて3年目の初夏だった。日本人の作り上げたマシンによる、日本人の勝利、世界グランプリにおける初めての貴重な勝利だった。

「誰が用意してくれたんだろう、君が代のレコードを。歌詞をひとつひとつ口の中でつぶやきながら、そんなことを考えていました」

 1961年5月14日、西ドイツ・ホッケンハイムリンク。21歳の高橋の頭上で、センターポールの日の丸が、ひときわ大きくはためいていた。

「ライディングスポーツ誌 No.2 1983年2月号 My Memorial Scene」より転載