GPにおけるホンダの圧倒的強さは誰の目にも明らかだったが、その影響は市販モーターサイクルの世界にも確実に及んでいた。1957年に0台だったホンダの輸出台数は年々わずかながら上昇していたが、初優勝初タイトルを獲得した1961年の51,026台を経て、1962には一挙倍増以上の142,836台に。さらにそのGPでの戦績に比例するように1963年312,871台、1964年409,490台、1965年597,294台と増加の一途をたどり、 まさに名実共に世界一のモーターサイクルメーカーへと成長していく。
それまでヨーロッパ選手権として開催されていた50ccクラスは、1962年からGP(世界選手権)のひとクラスに昇格し、他のクラスとは明らかに異なるマシン構成、ライダーの顔ぶれ、また専門メーカーの活躍など、最小排気量クラスとして人気を集めるようになる。しかし、1984年から排気量が80ccに変更され、またその80ccクラスも1989年シーズンをもって終了し、GP最小排気量クラスはその歴史に幕を下ろした。
125ccクラスでエルンスト・デグナーに割って入られた以外、ホンダの上位独占は決定的なものだった。ちなみにそのデグナー(東ドイツ国籍)は、この年のスウェーデンGP終了後に姿をくらまし、亡命をはかっている。直接の亡命相手国は西ドイツだったが、彼は極秘裏に日本に渡り、スズキの社員寮に身を潜め、翌1962年からGP格式となる50ccクラスのマシン開発に没頭していたという。
1961-125 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 TTL Best 6 Rnk. Rider Nat. Machine ESP GER FRA T.T NED BEL DDR IRL ITA SWE ARG 1 Tom PHILLIS AUS Honda 8 8 4 8 6 6 4 3 1 8 56 44 2 Ernst DEGNER DDR MZ 6 8 6 3 8 6 8 45 42 3 Luigi TAVERI SUI Honda 2 2 6 8 1 4 8 31 30 4 Jim REDMAN RHO Honda 4 4 3 6 4 1 3 2 4 6 37 27 5 Kunimitsu TAKAHASHI JPN Honda 1 1 4 8 6 4 24 24 6 Mike HAILWOOD GBR EMC 3 3 8 2 16 16 7 Alan SHEPHERD GBR MZ 6 4 2 12 12 8 Teisuke TANAKA JPM Honda 6 6 6 9 W MUSIOL DDR MZ 2 3 5 5 Sadao SHIMAZAKI JPN Honda 2 3 5 5 11 W BREHME DDR MZ 4 4 4 12 H FISCHER DDR MZ 3 3 3 Phil READ GBR EMC 3 3 3 L SZABO HUN MZ 3 3 3 W BREHME DDR MZ 1 2 3 3 16 Johnny GRACE GIB Bultaco 2 2 2 Ulf SVENSSON SWE Ducati 2 2 2 Naomi TANIGUCHI JPN Honda 2 2 2 Rex AVERY GBR EMC 1 1 2 2 20 R QUINTANILLA ESP Bultaco 1 1 1 R RENSEN GBR Bultaco 1 1 1 Hugo POCHETINO ARG Bultaco 1 1 1 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 TTL Best 6 Rnk. Machine ESP GER FRA T.T NED BEL DDR IRL ITA SWE ARG 1 Honda 8 2 8 6 8 8 6 8 6 8 8 76 48 2 MZ 6 8 6 4 3 8 6 8 3 52 46 3 EMC 3 3 8 3 2 1 20 20 4 Bultaco 2 1 1 3 3 5 Ducati 2 2 2 1961-250 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 TTL Best 6 Rnk. Rider Nat. Machine ESP GER FRA T.T NED BEL DDR IRL ITA SWE ARG 1 Mike HAILWOOD GBR Honda 6 8 8 4 8 6 6 8 54 44 2 Tom PHILLIS AUS Honda 6 8 6 6 3 3 4 1 8 45 38 3 Jim REDMAN RHO Honda 3 6 1 4 4 8 6 4 8 3 4 51 36 4 Kunimitsu TAKAHASHI JPN Honda 8 4 3 4 1 4 6 30 29 5 Bob McINTYRE GBR Honda 6 8 14 14 6 Tarquinio PROVINI ITA Morini 4 3 3 10 10 Silvio GRASSETTI ITA Benelli 4 2 3 1 10 10 8 Gary HOCKING RHO MV Agusta 8 8 8 9 Fumio ITO JPN Yamaha 1 1 2 3 7 7 10 Luigi TAVERI SUI Honda 6 6 6 Alan SHEPHERD GBR MZ 2 2 2 6 6 Franta STASTNY CCS Jawa 2 2 2 6 6 13 Ernst DEGNER DDR MZ 3 3 3 Sadao SHIMAZAKI JPN Honda 3 3 3 H FISCHER DDR MZ 2 1 3 3 16 Naomi TANIGUCHI JPN Honda 2 2 2 17 Dan SHOREY GBR NSU 1 1 1 Yoshikazu SUNAKO JPN Yamaha 1 1 1 W MUSIOL DDR MZ 1 1 1 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 TTL Best 6 Rnk. Machine ESP GER FRA T.T NED BEL DDR IRL ITA SWE ARG 1 Honda 6 8 8 8 8 8 8 8 8 8 8 86 48 2 Morini 4 3 3 10 10 3 Benelli 4 2 3 1 10 10 4 MZ 2 3 2 2 9 9 5 MV Agusta 8 8 8 6 Yamaha 1 1 2 3 7 7 7 Jawa 2 2 2 6 6 8 NSU 1 1 1
ホンダは、以下の5レースで350ccクラスの記録を破っている。
第2戦西ドイツGP 250cc ホンダ 平均速度 186.410km/h(高橋国光) 350cc Jawa 平均速度 180.920km/h(フランタ・スタストニィ) 第4戦マン島TT 250cc ホンダ 平均速度 158.330km/h(マイク・ヘイルウッド) 350cc ノートン 平均速度 153.045km/h(フィル・リード) 第7戦東ドイツGP 250cc ホンダ 平均速度 157.121km/h(マイク・ヘイルウッド) 350cc MVアグスタ 平均速度 155.171km/h(ゲイリー・ホッキング) 第8戦アルスターGP 250cc ホンダ 平均速度 153.580km/h(ボブ・マッキンタイヤ) 350cc MVアグスタ 平均速度 149.490km/h(ゲイリー・ホッキング) 第10戦スウェーデンGP 250cc ホンダ 平均速度 152.265km/h(マイク・ヘイルウッド) 350cc Jawa 平均速度 151.580km/h(フランタ・スタストニィ)
【由緒ある有力新聞】マン島レース終了後のイギリスの各紙はホンダの活躍を大々的に報道した。
「日本車、軽量級完全独占」ヘラルド・トリビューン紙
「度肝を抜いたホンダ」デイリー・ミラー紙
「ホンダにさらわれた第1日」ガーディアン紙またこの報道はAP電として世界に配信され、各国の紙面を彩っている。
6月23日発 AP電
「英国デイリー・ミラー紙が伝える英国の恐怖
22日(木曜日)英国のモーターサイクルメーカーは記録破りの日本製ホンダ車の日の出の勢いの支配から受ける増大する脅威に直面していると警告された。ホンダは人と車の激烈なテストであるマン島のTTレースで、先週勝利を手中に収めることにより、その優秀性を示した。木曜日のデイリー・ミラー紙は、曲がりくねったマン島コースに比較的新参の日本のモーターサイクリストがどうして有名な英国及び欧州大陸各国メーカーの挑戦を打ちのめしたかを追求し分析した。その結果ミラー紙は次のことを発見したのである。即ちホンダを勝利に導いたものはホンダの技術の優秀性であった。ミラー紙のパトリック・メネム記者は「英国の一モーターサイクル会社がホンダの車の成功の秘密を見つけ出そうとしてホンダレーサーを分解したところ、それは英国のモーターサイクル輸出業者にとって恐ろしい警句を意味するものであることを発見した」と述べている。
彼は更に会社の名前はあげなかったが、英国オートバイ会社の一重役がホンダレーサーのエンジン内部を見た後語った言葉を次のように引用している。「車を分解して見た時、率直に云って、余りにも良くできているので、我々は恐怖心におそわれた。それは時計のようにできており、何ものの模倣でもなかった。全く独創的アイデアでしかも非常にすばらしいアイデアから生みだされたものであった。」
メネム記者は「ホンダは現在、世界中に大量の製品輸出をし始めるべく準備を進めている。日本の2輪業界は、昨年スクーターを含めて100万台以上を生産したが、これは英国の生産台数のほぼ9倍に当たる。そしてホンダ一社のみで、全英国2輪メーカーの4倍を生産した」とつけ加えている。
日本は事実上国内市場を2輪車で一杯にして来た。そしてその生産のごく僅かを輸出しているにすぎない。この2輪車ブームを続けるために今や大規模に製品輸出をしなければならない段階に来ている。日本が海外輸出市場に積出そうとしている車は、世界一の性能を有するのみならず最も安い車の一つである。
メネム記者は「ホンダの成功をもたらせた日本のデザインの独創性及び優秀性に非常な評価を与えており、軽量クラスのモーターサイクルレース支配を達成すべく、日本人が確立した組織的方法を英国各メーカーは見習うべきである。これらのことはすべて販売の名声に最も重要なものである」と語っている。メネム記者は、日本人は初め英国人より教訓を学びそして1959年のTTレースでは興味ある車をこまかく注意深く写真に収めたと述べている。今や、もう一方の足も地に着き、日本人は、はるかに先に進歩を遂げたので我々のアイデアを真似る必要はもはやなくなったのだ。近い将来世界の産業界に新しい現象が起こるかも知れない。それは、英国のメーカー達が日本人の真似をすることであると述べている。
本田宗一郎が2クラス1〜5位独占に寄せた言葉
「私がオートバイを始めてから、持ち続けていた夢それは日本人の独創により造られたマシンで優勝することであった。 このレースは選手が外国人であるとか日本人であるとかは問題外である。私がこのレースに出場しようという動機は、敗戦直後、古橋が水泳で優勝、世の中をホッとした気分にさせた。そこで私は体力でなく頭脳で勝ったなら、世界のどこへ行っても日本人としてのプライドを持ち、正々堂々と胸を張れる、それにはオートバイで勝ちたいと念願した。その夢を果たしたわけだ。 私が昭和29年にTTレースを視察したときは、当時の日本ではまったく考えられないほどヨーロッパのレーシングマシンは素晴らしかった。それは、タイヤ・プラグ・電装等二次部品に到るまで全てそのギャップをうめるには研究以外にないと思い研究を積み重ねて今日まできた。 TTレースの優勝は前の記録を破ってこそ優勝の値打ちがあるのであって、この勝利は本田技研の勝利ではなく、日本の皆さんに、ともどもに喜んで頂き希望を与えたものだと深く感謝するものである」 |
藤沢専務の言葉
「TTレースの優勝で輸出に対するいっそうの自信と力を得た。今年は3〜5月が不振だったが、これから盛り返して年間2千万ドル、72億円(1960年は30億円)はいけるだろう。 来年は4千万ドル、150億円を目標にしている。これが達成できれば輸出でも世界一になる」 |
河島監督の言葉
「私は我々のレーサーの示した性能に非常に満足している。天候はそう悪くなかったけれど、もう少し良ければ更に上回る記録が出ただろうと思う。 コースの道路状況は満足すべきものであった」 |
河島監督の頭の中には、1〜3戦で確実な「勝ちパターン」を構築し、第4戦マン島でこれを大きく開花させる計画が練られていた。このプランの中で、250ccクラスにマン島からヘイルウッドを加入させ、さらに厚みのある必勝態勢がとられた。
結果は125、250ccクラス両クラスで1〜5位を独占。さしものMVもここまでの固め打ちを成功させたことはなく、驚異の快勝として大きな話題となったのは言うまでもない。
付け加えるなら、250ccクラスではトップを疾走中のボブ・マッキンタイヤがマシントラブルでリタイアしており、これがなければホンダは1〜6位(得点圏全車)独占の偉業を達成するところだった。マッキンタイヤは、このレースで完全に勝利を手中にし、さらなるチャレンジに出ていた。なんと250ccクラスでレース中の平均速度100マイル(160.9km/h)オーバーを目指したのだ。当時、500ccクラスでもやっとというこの記録に挑むほど、マッキンタイヤとホンダの組み合わせは乗りに乗れていた。彼は2周目にサーティースが1960年にMVの350で達成した記録も破り、記録達成まであと一歩に迫ったところで惜しくもオイル漏れでリタイアとなっている。ちなみに250ccクラスにおける平均速度100マイル=オーバー・ザ・トンは、1966年にヘイルウッドの手によって達成されることになる。 そのマイク・ヘイルウッドは、この1961年のマン島で、125、250をホンダで快走。さらに500ccクラスにはノートンを駆って優勝。出場3クラスで優勝するという前代未聞の大活躍を見せている。