RC113

 1963年、単気筒エンジンでは2ストローク勢に対抗出来ず、参戦を中止していたホンダは、最終戦日本GPに2気筒マシンRC113を投入し、見事デビューウィンを飾った。そのエンジンが精緻を極めたのはもちろん、車体まわりにも斬新なメカニズムが多数取り入れられ、その車重はなんと53kgにまで切りつめられていた。しかし2ストロークの攻勢の前に大きな戦果をあげることは出来ず、「50ccで一番苦労したマシン」と呼ばれた。

絶叫にも似たエキゾーストノート

 最高出力発生回転数17,500回転、ピストンスピード20.3m毎秒。サイレンサーを持たない6本のメガフォンマフラーから発せられるエキゾーストノートは、もはやレシプロエンジンのものではなく、ジェットエンジンの咆哮に近かった。ピットでのウォーミングアップですら10,000回転以上を回したその周囲では、まったく会話が成り立たなかったという。それでも、メカニックはその轟音の中から細部の異常を聞き取り、バルブ調整などを行なったというから驚く他はない。

 この6気筒に加えて、2ストロークの4気筒(これもサイレンサー無しのチャンバーから膨大な超高周波音を発する)が加わった1960年代中盤から後半のサーキットは、まさに耳をつんざくサウンドに包まれていたのだった。

 それから6年、ホンダは彼らの半分の排気量250ccクラスに、6気筒エンジンをデビューさせたのである。1964年、デビューレースのイタリアGPこそオーバーヒートによって本来の性能を発揮できず3位に終わったが、続く日本GPでは見事優勝。以後、ヤマハ2ストロークV型4気筒RD05との激闘に明け暮れ、1960年代における250ccクラス最高のデッドヒートを何度となく繰り広げることとなった。
前人未踏の6気筒エンジン

 1956年、モトグッツィはV8という驚くべきエンジンを搭載した500ccマシンをGPで走らせたことがある。最高速は275km/hに達したといわれるそのマシンは、しかし巨大なエンジン重量がもたらす劣悪操縦性によって、とてもレースを戦えるものではなかったと言う。翌1957年にワークス活動を停止してしまったこともあり、そのV8は幻のマシンとして語り継がれることになった。

 一方MVは、500cc6気筒を一度だけレースに走らせたことがあった。1958年のイタリアGPでのことだ。しかしレース中にエンジントラブルを発生しリタイアとなり、以後そのマシンはサーキットに姿を見せることはなく、これまた幻のマシンとなってしまったのである。

RC146

 50ccの2気筒に比べるとそのミニチュアぶりも影が薄いが、それでもボア35.25mm、ストローク32mm、単室容積31.23ccの125ccマシンは、驚愕に値する数値だ。基本的には250ccクラスで成功作となったRC164の縮小版だが、この数値を125ccクラスで実現したホンダに対するヨーロッパ勢の評価は、驚きを通り越して恐怖に近かった。

 しかし、ホンダの多気筒、高回転化はこの125cc4気筒に留まらず、ついには125cc5気筒という前代未聞のマシンまでを生み出すことになる。

多段ミッション

 エンジンの高回転化によってどんどん狭くなっていったパワーバンドを補うため、ミッションの段数は次第に増えていった。ホンダのGPマシンでは50ccクラスの9段が最多だったが、スズキの50ccクラスマシンではついに14段のミッションまで採用されている。

 ライダーには神業的コントロールが要求され、またシフトミスは致命的な失速となって彼らを苦しめた。後にレギュレーションによってミッション段数は6段に抑えられ、また気筒数の制限などもあって、超高回転エンジンは姿を消すことになる。

NGKが開発した8mm径のプラグ

 当時のレーシングマシンのプラグは14mmのBタイプもしくは12mmのDタイプが一般的であり、後に10mmのCタイプが登場する。しかしヨーロッパのワークスマシンの多くが14mmまたは12mmのプラグを使用しており、二次部品については既製品を使用するのが当たり前だった。

 そんな中、33mmボアの極小燃焼室に4本のバルブとプラグを配置しようと考えたホンダは、協力メーカーのNGK(日本特種陶業)に専用プラグの開発を依頼。ついに8mm径のレーシングプラグを完成させ、33mmボアに4本のバルブとプラグを配置した。この他にも点火系部品、キャブレター、さらにはタイヤなど、二次部品メーカーへの注文は年々厳しさを増し、またそれに多くのメーカーが応えたことによって、日本勢の大活躍が実現出来たと言えるだろう。すでに1960年代初頭にあって、関係各社全員が英知を結集する日本的システムが、そこには強固に構築されていた。

我が国において記念すべき第1回日本GPが開催されたのは、1963年11月10日。宗一郎社長のマン島出場宣言から10年の時をへだててついに実現した、日本という国が世界選手権ロードレースにデビューした、記念すべき瞬間でもあった。

 すでに前年1962年に鈴鹿サーキットの開場レースとして全日本選手権ロードレース大会は開催されていたが、「本物のGP」開催に日本中のレースファンが胸を躍らせた。15万人の大観衆を集めた鈴鹿サーキットは人の波で埋めつくされた。

 レースは、50ccルイジ・タベリ(ホンダ)、125ccフランク・ペリス(スズキ)、250ccジム・レッドマン(ホンダ)、350ccジム・レッドマン(ホンダ)が覇者となり、観衆は世界の走りに惜しみない声援を送った。中でもジム・レッドマン、フィル・リード(ヤマハ)、伊藤史朗(ヤマハ)の三つ巴となった250ccクラスのレースは、屈指の名レースとしてその激戦が語り継がれている。

 鈴鹿サーキットでの日本GPは1965年まで続き、その後1966年(フルコース開催。ホンダはコースの安全性に問題があるとの判断により不参加)、1967年(ショートコースで開催)は富士スピードウェイで開催。しかし日本のワークス勢がGPから撤退すると日本でのグランプリは開催されなくなり、再び日本GPが開催されるのは1987年を待たなければならなかった。

日本人による初めての日本GP優勝は、この再開された1987年の250ccクラス。NSR250を駆る小林 大が達成している。

日本GP
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