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コースレコード

 1960年代における鈴鹿のコースレコードは、まさに日本メーカーの壮絶な戦いをそのまま投影していた。

 1962年に記録されたレッドマンの2分36秒4は、翌1963年ヤマハの伊藤史朗によって2分31秒4に書き換えられ、1964年にはレッドマンがこれを0秒1更新する2分31秒3をマーク。

 しかし、1960年代鈴鹿での最後の世界GPとなった1965年10月23日には、マイク・ヘイルウッドが2分28秒9という圧倒的なコースレコードを記録。1972年6月11日にCB500改に乗る隅谷守男が2分28秒7を記録するまで、7年間に渡って鈴鹿の2輪コースレコードとして君臨し続けた。

ジム・レッドマン(Jim Redman)

 1960年の第3戦ダッチTTに、負傷欠場のトム・フィリスの代役として初めてホンダに乗って以来、1966年の第5戦ベルギーGPで負傷/引退するまで7年に渡ってホンダの中心ライダーの役割を務め「キャプテン」のニックネームで親しまれた実力派。

 1931年イギリス/ロンドン生まれだが18歳の時に南ローデシア(イギリス植民地時代の呼称。1965年にローデシアとして独立宣言、1980年に現ジンバブエとして国際承認)に移住。23歳からロードレースに出場し、1958年にノートンを駆りマン島に初出場。1960年にホンダチームに加わってからはめきめきと才能を開花させ、1961年第6戦ベルギーGPで初優勝。その後1962年の250、350cc、1963年の250、350cc、1964、1965年の350ccと、合計6回(ホンダ・ライダー中最多)の世界選手権タイトルを獲得。1961年から1967年までの第1期ホンダGP参戦における合計優勝数でもホンダ・ライダー中最多の46勝をあげ、まさに「キャプテン」として八面六臂の活躍を見せた。

 また、現在まで通算124勝(1998ドイツGP終了時点)をあげているホンダ500ccクラスの記念すべき優勝第1号(1966年5月22日第2戦西ドイツGP)ライダーとしてその名が記録されている。

エルンスト・デグナー(Ernst Degner)

 自作のマシンでレースに参加し始めた東ドイツ人のデグナーは、その卓抜した才能を認められ1957年から東ドイツの名門2ストロークメーカー「MZ(Motorradwerk Zschopau)」にワークスライダーとして迎えられ、2ストロークの名手として活躍。しかし1961年のシーズン途中に125ccクラスのチャンピオン目前で突然サーキットからその姿をくらまし、世界中を驚かせた。結局西ドイツへの亡命をはたしたデグナーは翌1962年からスズキのワークスライダーとしてGPに復帰し、見事50cc初年度1962年の50ccタイトルをスズキとともに獲得した。

 鈴鹿サーキットの記念すべき開場レースとなった、1962年11月3〜4日の第1回全日本選手権ロードレース大会、セニア50ccクラスのレース(4日)4周目に、彼がヘアピン前の右コーナーで突風にあおられ転倒。これが第10カーブ右80Rを「デグナー」と呼ぶその由来となった。1931年9月22日生まれ。

1976年の全日本選手権モトクロス第10戦日本グランプリ

 俗に「浅間グランプリ」と呼ばれたこのレースは、2輪関係者にとって感慨の深いものだった。日本のレースとモーターサイクルの黎明期を支え、世界に羽ばたくジャンピングボードとしての重要な役割を担った「浅間」でモトクロス日本グランプリを開催したことは、日本の2輪関係者が浅間に捧げる最高の感謝のあらわれだった。

 この浅間グランプリの250ccクラスで優勝したのが、それまで長年に渡ってヤマハのエースライダーとして国内最高の人気を集めていた鈴木秀明。この1976年からマシンを「無限」にスイッチした彼はなかなか上位に名を連ねることが出来なかったが、この記念すべきレースで移籍後初の劇的な優勝を果たし、その純白のマシンとウェアをファンの目に焼き付けた。

 ちなみに「無限」とは、現在F1にエンジンを供給するあの無限であり、その無限ブランドとしての記念すべき初優勝が、この1976年の「浅間グランプリ」での優勝であった。

1957・1959年の第2回・3回浅間火山レース
は専用の浅間テストコースを建設
1955年の第1回浅間高原レ−スは
北軽井沢を中心とした公道コース