1942年、3月7日に北アイルランドのベルファーストに生まれる。1959年、17歳の時に初レースに出場して優勝したラルフ・ブライアンは、'63年のアイルランドGPではマンクス・ノートンに乗って500ccクラスで優勝。'64年にホンダと契約して50ccと125ccクラスに参戦した。50ccクラスでは、一年目の'64年には4ストローク2気筒のRC114に乗って9戦中4勝を挙げたが、H・アンダーソン(スズキ)に破れ、ランキング2位に終った。しかし、翌'65年にはRC115を駆って見事世界チャンピオンを獲得。3年目の'66年は、タイトル防衛こそならなかったが、この年のブライアンズの活躍は、ホンダの5クラス・メーカー・タイトル獲得に大きく貢献したのだった。 125ccクラスの方でも、'64年5位、'65年8位、 '66年3位と健闘し、小排気量クラスのスペシャリストとしての名声を得ていたブライアンズだったが、'67年にはホンダが50ccと125ccクラスから撤退したため250cc(ランキング4位)と350cc(同3位)クラスに参戦し、小排気量車から大排気量車まで何でも乗りこなせることを証明した。実際に当時、世界グランプリで50ccから500ccまでの全クラスで優勝経験のあったライダーというのはブライアンズひとりだけだったのである。しかし、'68年になるとホンダが世界グランプリから完全に撤退したため、ブライアンズも世界グランプリを離れ、その後は他のインターナショナル・レースに出場したが、'70年に引退した。童顔で“ベビーさん”と呼ばれていたブライアンズはホンダの日本人スタッフの間でも人気者だった。

オイルクーラー

 当初、オイルパンの容量を増大させ、同時に深いフィンを装備することで油温の上昇をくい止めようとしたRC群だったが、度重なる高出力化の前にその手法は限界をむかえた。もちろん水冷という方法は古くから自動車/航空機エンジンに用いられていたし、2輪でも実用化されたものはあったが、重量の増加と液漏れなどの問題を嫌ったホンダは、一途に空冷を追求していた。しかしRCの後期ではその空冷もさすがに限界となり、1966年型各マシンにはカウリング両サイドにオイルクーラーが装着された。

 これによってRCのオーバーヒート、ガソリンのパーコレーション(高温による泡立ち)などがほぼ解消され、後期のレースでの上々の成績に結びついている。

レシプロエンジンの常識を越えつつあったRC群

 2輪レーシングマシンの世界では、サイドバルブ(SV)、オーバーヘッドバルブ(OHV)、オーバーヘッドカムシャフト(OHC)に続いて、早くからダブルオーバーヘッドカムシャフト(DOHC)がトライされていた。1913年(大正2年)には、フランスのプジョーが500cc2気筒DOHCギヤトレーン4バルブという、RCも顔負けのハイメカニズム・レーシングマシンを作り出しているが、当時のDOHC、ましてや4バルブは信頼性が低く、理論的には優れていることは分かっていても、実際にはOHVにかなうものではなかった。

 多気筒化については、戦前の1937年(大正12年)にDOHC4気筒を実用化したイタリアのジレラが有名で、この技術は航空機メーカーのカプローニ航空機(ちなみにMVの総帥ドメニコ・アグスタの父ジョバンニ・アグスタは1920年代にこの会社の経営幹部だった)からのノウハウによるものといわれているが、そのエンジニアからメカニックまでを引き抜いたMVがその後お株を奪い、MVのマルチエンジンはGPにおける最先端メカニズムとして長くその牙城を守った。

 その後、モトグッチがV8、MVが並列6気筒などの多気筒エンジンにトライしたことはあったが、どちらも実戦力を獲得するには至らず、多気筒化の流れは止まったかに見えた。

 多気筒化はすなわち高回転/高出力を得るための方法であり、多気筒化によって単室容積を減らし、ショートストローク化することでピストンスピードを引き下げることが最大の目的だった。当時、ピストンスピードの限界は14m/秒または17m/秒と言われていたが、ホンダは多気筒/高回転化を実現していく過程で、ついに20m/秒を越えるピストンスピードを実現していた。

 また、当時の高出力エンジンの基準として1リッター当たり100馬力という数値が掲げられることが多かったが、ホンダではすぐさま200馬力/リットルを達成。最終型50cc2気筒RC116ではついにリッター当たり280馬力以上という、想像を絶する高出力を発揮するに至った。

 これには、海外の多くの企業や研究機関なども興味を示し、レシプロエンジン(ピストンが上下する内燃機関)の究極のシステムとしてその技術力は高く評価された。のちにホンダの技術者は国際的な学会などへも招かれ、そのエンジン技術に関する講義なども行なっている。

そのため、レッドマンが怪我で欠場/引退してからはヘイルウッド専用のマシン作りが始められ、強化されたフレーム、引き上げられたステップやマフラーによって深くなったバンク角など、RC181はモディファイを加えられていったのだった。

 レッドマンを初めとするホンダライダーはもちろん一流ライダーだったが、ヘイルウッドだけは「超一流」ライダーであった。そのヘイルウッドと互角の走りが出来たのは、唯一ジャコモ・アゴスチーニだったと言われている。

ヘイルウッドの要求

 重量クラスでチームメイトとなったレッドマンとヘイルウッドだったが、ライダーとしての技量の差は歴然だった。例えば、レッドマンが充分だというフレーム剛性を、ヘイルウッドはまったく不足していると言い、レッドマンが接地させたことのないカウリングをヘイルウッドは軽々と削り取った。求めるエンジン出力、フレーム剛性、操縦性、最大バンク角など、この時ヘイルウッドは違う次元を走るライダーにまで登りつめていたのだ。

 

RC181

 ついに500ccに参戦を開始したホンダが投入したマシン。250ccの6気筒などを考えれば8気筒10気筒も難しくはなかったはずだが、エンジンのコンパクトネス、目標馬力、車重への影響などを考慮し、オーソドックスな4気筒が選ばれた。ライバルであるMVも、350、500ccには4気筒と同時に3気筒も投入しており、500ccクラスにおいては決して超多気筒化が正しい答えではなかったことがうかがえる。

 それでも最高出力85馬力は当時の常識を破るもので、さしものレッドマンもこのRC181を完璧には乗りこなせなかったというから、そのモンスターぶりがいかに凄いものであったかが想像できる。500ccに参戦した1966、1967年と、基本設計は変えず2シーズンを戦い抜いている。

異議をとなえたホンダ

 巷間噂されたのは「お膝元の鈴鹿ではなく富士に移ってホンダはヘソを曲げた」といった次元の低いものだったが、真実はもっとシリアスなものだった。開場当時から危険性が指摘されていた富士の第1コーナー/30度バンクを試走したホンダは、レースでこれを使用することに反対し、ショートカットのコースでの開催を願い出た。しかしその案は受け入れられず、レース全体とライダーの安全を重視したホンダは仕方なく出場を断念した。

 それまでにも、モンツァのバンク使用の危険性を指摘しサーキット側がそれに同意し、コース変更が行なわれたことなどもあり、ホンダの申し出は富士に限ったことではなかったのだ。そしてホンダを欠いたまま富士での日本GPは開催されたが、実際にレースに参加したライダーから危険であるとの意見が多数く聞かれ、翌1967年にはショートコースを使っての日本GP開催となっている。さらに、その後富士の第1コーナー/30度バンクは完全に使用されなくなった。その直接の原因は、バンク自体ではなく、そこに進入する際の高速の先陣争いから死亡事故が発生したことだったが、いずれにしてもホンダの申し出が間違っていなかったことが証明されることになった。

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