ライダータイトルを獲得することは出来なかった

 レッドマンの負傷/引退を受けて500ccクラスに本腰を入れたヘイルウッドだったが、それまでのレースで着実にポイントを稼いでいたジャコモ・アゴスチーニとの得点差はいかんともしがたく、結局6点差でライダータイトルに手が届かなかった。しかし、ヘイルウッドより2歳若いアゴスチーニの実力も優れていたことは事実で、翌1967年にはライダー/メーカー両タイトルを明け渡す結果となった。

 ジェフ・デューク、ジョン・サーティース、そしてマイク・ヘイルウッドと受け継がれた天才ライダーの名は、確実にアゴスチーニに受け継がれようとしていた。その後アゴスチーニは、500ccクラスで8回、350ccクラスで7回の計15回という、不滅のタイトル記録を樹立し、GP史上もっとも偉大なライダーとして語り継がれることになる。

4レースすべてがホンダのものとなった

 ホンダが初めて複数優勝を達成したのは1961年の第3戦フランスGP。初めて3クラス制覇を成し遂げたのは1962年の第4戦ダッチTTであり、初4クラス制覇は1964年第5戦ダッチTT。1966年には3回の3クラス制覇を成し遂げているが、さすがにひとつのGPでの全クラス制覇という大記録は達成されずに終わっている。

460.018km

 当時、ひとりのライダーの1日の合計走行距離は500km以下に定められていた。つまり、それ以上は体力的に危険であり、主催者が複数エントリーを制御していたのだ。よって、このチェコGPでのヘウルウッドの3クラス出走は認められたが、GPによっては3クラスで500kmを越えてしまう場合もあり、そこではエントリーを諦めなければならなかった。

 例えば1966年のアルスターGP250ccクラス。そこまで全勝を続けていたヘイルウッドはこのレースを欠場し350と500のふたクラスを走り優勝している。これは、250ccではすでにタイトルを決定しており、レッドマンの離脱によってMVに迫られている500ccクラスを重視した結果だった。このアルスターでの欠場さえなければ、この年彼は250ccクラスで全勝優勝という金字塔を打ち立てたに違いない。

毎戦3クラスへの出場

 1961年のマン島での125、250、500cc3クラス制覇に代表されるように、ヘイルウッドは優れたマシンさえあれば複数のレースに出走することをむしろ楽しんでいた。3クラスに違ったワークスマシンを駆ることもあったし、1966、1967年のようにホンダで3クラス出場を当たり前のようにこなした時期もあった。

 クラスが違えば、マシンの特性はもちろん異なる。ライディングテクニックも独自のものを必要とするし、その体力的消耗も想像を絶するものがある。それでもヘイルウッドは3クラスへの出走をものともせず、トロフィーの山を築いた。中でも1966年のチェコGPにおける、豪雨の中での3クラス制覇/3クラスでのベストラップ樹立は、彼の偉大さをGPの歴史に強く刻むこととなった。

 ちなみにヘイルウッドがひとつのGPで3クラス制覇を成し遂げること6回。さしものレッドマンもこの大記録はわずか1回にとどまっている。

後年、ビル・アイビーは雑誌のインタビューに「我々は、あの頃のマイクと、全種目制覇を目指したホンダを心から尊敬していた。もちろんヤマハからお金を貰っているわけだし、レースになれば負けたくはないが、その気持ちよりマイクとホンダに勝って欲しいという気持ちの方が勝っていたかもしれない」と、答えている。

ヘイルウッドは、技量的にもGPサーキットの頂点にいたライダーだったが、人気、人望の点でも抜きん出た存在だった。言うなれば、多くのGPライダーも彼のファンだったのだ。ホンダのライダーはもちろん、ヤマハのフィル・リードやビル・アイビーと言ったライダーも彼のピットに入り浸り、RCの整備などおかまいなしに談笑するのだった。

 写真は、RCに跨ってライディングポジションの具合を見るエルンスト・デグナー。傍らにいるメカニックの表情を見る限り、常識の範囲での温かい交流が行なわれていたことがわかる。 

ライバルチームのライダーも彼のピットに足繁く出入りし
そして、ひとりで2台のマシンを見るのも当たり前だったホンダチームでは、メカニックが不眠不休でマシンを整備し、翌朝の走行に間に合わせるという「24時間勤務」が当たり前だったという。さらにレースが終わればトランスポーターを運転して何百キロもの移動をこなした彼らの活躍なくして、ホンダの栄光を語ることは出来ない。

ホンダの好成績を支えたのはRCの高性能であり、優れたライダーの技量によるものだったが、そのマシン整備の確かさもまた、GPにあって超一流ものだった。

 ひとつの例えとして、バルブクリアランスの調整がある。最大のバルブリフトを実現し、なおかつピストンとの接触を許されないその調整にあって、彼らはピストン表面にうっすらと付着したカーボンの表面にだけバルブとの接触跡を残すという、神業的クリアランス調整を体得していた。

 また、ストレートを全開で通過する6気筒のエンジン音を聞きとり、エンジン内部の問題箇所をピットにいながらにしてつきとめたという。さらには、6気筒のどの気筒に異常があるかまでを聞き当てたというから、その熟達の技極まれりである。 

厳しいシーズンを戦い抜いてきた秋鹿らの整備技術、現場/現物合わせ=ゲンゴウの鋭さ
ノビー・クラーク

 南アフリカ出身のメカニックであり、ジム・レッドマンなどの南部アフリカ出身のライダーの影響でイギリスのレース界で活躍後、GPに進出。社員メカニックが中心だったホンダチームにあって、唯一の外国人契約メカニックとして1965、1966年のチームに参加。その腕の確かさが高く評価され、後にGPメカニックという職業を確立させるさきがけとなった。

 ホンダ時代にはジム・レッドマン、マイク・ヘイルウッドのマシンを担当し、1967年のチーム縮小でMVに移籍。ここではジャコモ・アゴスチーニのメカニックを務め15回の世界タイトル獲得に多大な貢献をはたした。その後ヤマハに移ってからはケニー・ロバーツの担当になるという、メカニックとしての超エリートコースを歩んだ、GP屈指の名メカニック。後にも先にもこれほど多くのワークスマシンとチャンピオンに関わったメカニックはいない。

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