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1973年1月、国産初の純トライアルモデル「Honda TL125」が発売され、国内にも確かなトライアルのムーブメントが起きようとしていた。年末にはヤマハがTY250を発売し、それらに呼応するようにオートバイ雑誌ではトライアルライディングの記事が組まれ、海外のイベントなども紹介されるようになっていた。それまで、SLやDTを改造してほんの一部の人たちが愛好していたトライアルが、陽の当たる場所に走り出た。 同年、ヤマハのミック・アンドリュースやスズキのゴードン・ファーレー、カワサキのドン・スミスといった一線級ライダーが来日し、各地でデモンストレーション走行を行ったり雑誌に最新のトライアルテクニックを披露していた。とんでもない急坂を上り下りし、大きな岩を駆け上がり、絶妙なバランス感覚でタイトターンをこなす写真が誌面を飾っていた。 翌'74年、Hondaはひとりのライダーを招いた。イギリス選手権を何度も獲得しているとか、SSDT(Scottish Six Days Trial)でも連勝したことがあるというふれこみのそのライダーは、しかしいささか盛りを過ぎた、当時40歳のすでに現役を引退したライダーだった。そして、5月に来日した彼は、その年の8月号(7月1日発売)のオートバイ雑誌にカラーページの見開き広告で登場した。その大きな見出しにはこう書かれていた。 「トライアルの神様サミー・ミラーは語る。大切なのは情熱(エンスージャズム)です」 |
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934年、アイルランドに生まれたサミー・ミラーは、16歳の時に、イギリスではメジャーなグラストラックレースに出場することでそのレースキャリアをスタートさせた。当時のイギリスにあっては、様々なレースカテゴリーに参加することはごく当たり前であり、サミーもロードレース、グラストラック、スクランブルなど手当たり次第に参加していた時期があった。
しかし、1954年、20歳の時に初出場したSSDTで、ルーキーながら2位に入賞すると、それまでの「アイルランド出身の頑張り屋さん」という評価から「イギリス・モータースポーツ界の期待の新星」へと、周囲の目も彼を意識するようになっていった。しかしサミーはまだロードレースへの参加を続けていたし、各カテゴリー用に自分でモディファイしたマシン「SHS=Samuel Hamilton(彼の本名) Special」を次々と生み出していた。 正式なマシン作りの教育を受けていない彼が生み出すSHSは、周囲から高い評価を得ていたが、サミーの中ではもうひとつの確固たる信念が育ちつつあった。それは「ライダーごとにマシンをモディファイするやり方は時代遅れになりつつある。優れた性能に単能化されたプロダクションモデルが生み出されなければモータースポーツのさらなる発展は見込めない」というものだった。 1950年代と言えば、まさに英車の時代。イギリスが世界の市販モーターサイクル界をリードしていたのは確かだったが、一方で業界全体が戦前のアイデアや生産設備に留まり、斬新なスポーツモデルを生み出すことや新しいアイデアをカタチにする動きはまったく停滞しているのが実状だった。 |
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OHV単気筒500cc、車重131kgとなったマシンはHT(ハンタートライアル)500と名付けられ、世界初の市販トライアルマシンとしてデビューした。そして、このHT500とのコンビネーションで、サミーは一躍トライアル界の先頭をひた走ることになる。1959年にイギリスのトライアル選手権を制したサミーとHT500のコンビは、'64年まで6年連続でそのタイトルを守り続けた。
しかし'60年代に入って、イギリスのモーターサイクル産業は一層の陰りを見せ始めていた。トライアンフ、BSA、ノートンのビッグ3は、北米向けの大型ロードモデルに最後の活路を求めていた。それ以外のイギリスメーカーは、新たにスポーツモデルを設計生産するだけの余力は持ち合わせていなかった。アリエルも、有名な「スクエア4」で起死回生を狙ったが失敗。'60年代に入って「アロー」「リーダー」などの小型モデルを投入するのが精一杯だったが、そのどれもが挽回策とは成り得なかった。 イギリス・モーターサイクル産業界は、確実に終焉への坂道を下っていた。 |
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代は、大きな節目を迎えていた。ジワジワと、2ストロークの新しい勢力が世界のレースシーンにその姿をあらわし始めていた。1961年、トム・フィリスがスペインGPでHondaに初優勝をもたらしたそのレース。5.6位に入賞していたのが、スペインのブルタコ。1958年に創立されたばかりの新興2ストロークメーカーだった。
しかし、ブルタコのモーターサイクルに対する思いは筋金入りだった。それまでスペイン唯一のメーカーだったモンテッサが世界選手権ロードレースから撤退することを潔しとせず、重役のひとりフランシスコ・ブルトが11人のエンジニアとメカニックを引き連れて独立して立ち上げたのがブルタコそのものだった。 納屋同然の工場からスタートしたにもかかわらず、彼らは当然のようにすぐさまレーシングマシンを作り上げ、'59年には国際格式のロードレースで優勝を手にしている。創立の翌年の快挙である。そしてブルタコは、ロードモデルだけに傾倒することはなかった。'60年にはオフロードマシン「シェーラN」を発表。これをベースとしてモトクロスやトライアルにも参戦を始める。 そして、'64年の「シェルパS」シリーズで市販モトクロッサーに参入。続いて純トライアルモデルの開発もスタートさせることとなった。そこで開発ライダーとして白羽の矢が立ったのが、サミー・ミラーだった。すでにメーカーとしての役割を終えようとしていたアリエルに、さらなるマシン開発の余地はなかった。それまで数十年に渡ってモータースポーツ界をリードしてきたイギリスのモーターサイクル産業は、完全に青息吐息の状態にあった。 サミーは、2ストロークという新しい次元に向かって走り始める事を決意した。OHV単気筒がオフロードの世界をリードしていく時代ではないという認識が、彼の中には確固としてあった。凋落するイギリス・モーターサイクル産業界にはない活気と未来が、スペインの新興メーカーにはあった。彼は1年に満たない時間で初めての2ストローク・トライアルモデルを完成させた。そして1965年のSSDT、サミーは並み居るOHV単気筒の老兵に混じって、250ccの奇妙なスタイルのトライアラーをスコットランドの荒野に放った。 そのスタートは、まさにトライアル界の新しい時代の幕開けの瞬間でもあった。デビューしたばかりの「シェルパT」は周囲の驚きをよそに、OHV単気筒が難儀するセクションを軽々とクリーンしていった。その姿は、SSDT初出場にして2位に入った若き日のサミーのはつらつとした姿に似ていた。 1965年、サミー・ミラーの手によってSSDTに新しい歴史が刻まれた。1909年にその歴史を辿ることが出来るSSDTにおいて、初めてイギリス車以外の、そして初めて2ストロークのマシンが、ベストパフォーマンスを獲得したのだった。 以後、彼とブルタコは5年連続でイギリス選手権を制覇。SSDTでも3勝をあげ、'68年に制定されたFIMヨーロッパ選手権の初代チャンピオンにも輝いている。この'68年のサミーとブルタコは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。イギリス選手権、SSDT、ヨーロッパ選手権の、トライアル界3大タイトルを総なめにし、まさにトライアル界の揺るぎない頂点に立っていた。 そしてサミー・ミラーは、イギリス選手権11年連続制覇(アリエル6回、ブルタコ5回)、SSDTに5回優勝(アリエル2回、ブルタコ3回)、FIMヨーロッパ選手権2回獲得(ブルタコ)という前人未到の金字塔を打ち立て、第一線から退いた。 |
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※FIM CHAMPIONSHIPの項、1965年〜1967年はFIM EUROPEAN CHAMPIONSHIPの前身であるHENRI GROUTARS PRIZE。1968年〜1974年はFIM EUROPEAN CHAMPIONSHIP。1975年よりFIM WORLD CHAMPIONSHIPを制定。 ※現在、イギリスを中心としたヨーロッパで人気を博している「PRE65トライアル」は、アリエルとブルタコの世代交代…つまり4ストと2ストの世代交代を明確な境界としていることが分かる。 |
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彼は雑誌広告の中で、モーターサイクルを通じて、自然に親しもう、情熱を持ち続けよう、友情を大切にしようと語った。そしてモーターサイクルは最高の教師だと述べた。それらは、トライアル論を超越していた。彼が20年以上のモータースポーツ人生をかけて到達した、人とモーターサイクルの関係を説く、おだやかな寓話にも似ていた。 TL125は、それまでになかったライディングを我々に提供した。ライバルに比べて決してコンペティティブなマシンとは言えなかったが、他には真似の出来ない新しい世界を確かに作り上げた功績は、比類のないものだった。サミー・ミラーが描いたひとつの理想のトライアルマシンが、TL125だった。 |
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1977年、ロブ・シェファードの手によって、Hondaはイギリス選手権を獲得した。それはアリエルから13年の時を隔てた、4ストロークマシンによるタイトル獲得だった。'70年代前半には活況を呈した日本メーカーによるトライアル参戦は、次第に沈静化していた。しかしHondaの情熱は衰えることはなかった。 続いて1982年、世界選手権において、エディ・ルジャーンが遂にHondaをチャンピオンへと導いた。それは勿論、4ストロークマシン初の世界選手権タイトル獲得だった。情熱を持ち続けようと説いたサミー・ミラーの理想は、10年の時を経て、確かな結果をもたらすに至った。TL125に始まったHondaトライアルマシンの系譜は、静かに、しかし脈々と受け継がれていた。 ランプキンやフジガスに大きな声援が注がれるもてぎで、サミー・ミラーの時代には考えも及ばなかったトリッキーな妙技に酔いながら、ボクは「神と呼ばれた宣教師」に思いを馳せながら、ジンワリと沸き上がってくる驚きと尊敬をあらためて感じていた。 |
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