、レースには様々なカテゴリーがあり、それぞれが時代の中で隆盛を極めたり浮沈を繰り返してきた。傑出したライダーが激闘を繰り広げたり、マシンが急速に発達したり、あるクラスが異常なブームとなったり、それぞれのカテゴリーには必ず「ピークの時代」のようなものが存在する。
1980年代初頭、全日本選手権モトクロスは、確実にその「ピークの時代」を迎えていた…と、ボクは今でも強く思っている。厳密には1979年から1981年までの凝縮された3シーズンに体感した全日本選手権モトクロスは、完全に「ピークの時代」を疾走していたと言えるだろう。
ワークスマシン開発と、モトクロスを戦うシステムそのものが急激に発達し、もちろんレースは毎戦とも密度の高いものになり、コースには常に緊張感とドラマにあふれた雰囲気があった。中でも、Hondaがこの3シーズンに成し遂げようとしたものは、特に鮮烈な印象として残っている。
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全日本選手権モトクロスは、開幕戦のセーフティパーク埼玉/桶川から、大きなニュースに包まれていた。ライムグリーンのカワサキ勢が持ち込んだマシンには、既存の2本ショックではなく、ロードレースのKRによく似た1本ショックのユニトラックサスペンションが採用されていた。70年代後半、クッションストロークを増大させ、またプログレッシブな特性を求めだしたモトクロッサーのリアサスペンションは大きく前傾されていったが、これを一気に解決すべく投入された先進のユニトラックは、コースの話題をさらう存在だった。
どのメーカーも、モトクロスが新たな時代を迎えようとしていることを目前に実感しているようだった。Hondaのパドックにもその雰囲気は満ちていた。ボクは何人かのチームスタッフと話をした。 「サスペンションが、そしてマシン全体が新しい目標に向かって走り始めているのは確かです。Hondaも、それについてアプローチを開始しています。今シーズンは、忙しい年になりそうですね」
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ユニトラックの登場に、彼らは驚いてはいなかった。そしてHondaのアプローチは、第3戦九州大会で具体的なカタチとなって我々の前にその姿をあらわした。当時の250ccクラスの筆頭ライダーである瀬尾と杉尾のふたりのマシンに装着されたリアショックは、ユニトラックほど派手な存在ではなかったが、明らかにHondaがサスペンション競争に打って出た証だった。
その第3戦九州大会が開催された4月29日からおよそ1ヶ月後、Hondaは世界選手権ロードレースへの復帰に向けて4ストロークのGPマシンNR500を発表した。その発表会場で、あるスタッフに話を伺っている時、こんな話が出た。 「NRはマシンの名前であると同時に、我々の新しい考え方や活動をコースに展開していくプロジェクト名でもあるんですよ。今年から、モトクロスもNRグループがやっています」
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ロードレースの最先端を行く前衛的なNR500と、モトクロスが直接同じプロジェクト下にあることはちょっとした驚きだったが、それは、モトクロスのレース活動がそれまでにない加速度を持つことを意味しているような気がした。
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79年最終戦、Hondaは全日本選手権モトクロスの250、125cc両クラスのマシンに、現在と同様なボトムリンク式のプロリンクを採用した。79年10月6日は、プロリンクが正式にデビューした記念すべき日となった。さらに、Hondaはこの最終戦に、250ccクラスの水冷エンジンを投入した。125ccでは一般化しつつあった水冷エンジンではあったが、250ccクラスへの投入はRC250Mが初のものであり、これまたHondaのNRプロジェクトの一貫であることを思わせる、意欲的なマシンだった。
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、ボクはHondaモトクロスチームのトレーニング合宿を取材する機会を得た。どんな筋力トレーニングをしているのか、ライダーはどんな健康管理をしているのか、充分に興味のあるものではあったが、実際にその合宿を見て、ボクはある種のカルチャーショックを受けた。
トレーニングを管理するのはチームのスタッフではなく、大学の体育学部でトレーニング理論やコーチ学を実践する教授だった。その教授は歯に衣を着せぬ指導で、ライダーたちに対していた。 「彼らは、まだスポーツ選手じゃない。高度化したスポーツ選手というのは、その種目に応じた筋肉のつき方や神経の発達があるものだが、彼らの身体はバラバラ。一般のスポーツ選手に比べて身体能力ははなはだ劣る。ただオートバイに乗るのが上手いだけの若者でしかない」
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現在でこそ、様々なスポーツに科学的な考察とトレーニングが取り入れられているが、今から20年以上も前のモトクロスの分野にそのノウハウを投入したのはHondaが最初だった。その教授は実際のレースとライダーの動きを分析し、どの筋肉にどれだけの能力が必要であるか、どういった持久力を必要とするのか、精神面では何が求められるのかを分析し、効果的なトレーニングメニューを組み立てた。
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ライダーたちは、慣れないトレーニング内容にとまどっているようだった。教授が示したメニューを問題なくこなせるライダーはいなかった。それまで、ライダーのトレーニングは自己流が一般的であり、闇雲な筋力トレーニングがそのメインだった。他のスポーツ種目の選手たちの能力を記したデータと比べて、明らかにモトクロスライダーは劣っている部分が多かった。教授は、はっきりと言った。 「モトクロスは凄い競技だと聞いていた。でも、ライダーの体力や精神力はオリンピックの女子陸上選手にも劣る。選手やチームがハードだと思っているだけでしかない」
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教授は、彼らを「ライダー」としてではなく「スポーツ選手」として評価していた。それまでモトクロス場で脚光を浴び続けてきた一流ライダーは、まるで駆け出しの若手のようにイチからトレーニングメニューをこなしていた。250ccクラスのあるトップライダーは、こう言った。 「NRグループがレースをやるようになって、環境が激変している。マシン開発はもちろんのこと、あらゆる部分が洗い直されている。すごい仕事量だと思う。いま僕達は、新しいレースの最先端にいるんだという実感がある」 |
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プロリンクが装備され、あらゆる部分が一新されたHondaのワークスマシンは、1980年のシーズンを好調に滑り出した。第1戦谷田部、125、250ccクラスの全車が水冷化され、125ccクラスにはフロントにディスクブレーキを装備したマシンが姿をあらわした。Hondaのモトクロッサーがディスクブレーキを採用したのはこのレースが最初だった。
ライダーたちも、シーズンオフのトレーニングを効果的にこなした結果を実感していた。オフの合宿で経験したことのないトレーニングを味わったライダーは、レース後、こう語った。 「疲れ方が全然違う。これまで、終盤になるとどうしてもタレてきた筋力が、最後まで続くようになった。スタート前の集中力の作り方、レース中の気持ちの持ち方、すべてが変わった」
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この年、ボクは興味深い光景を何度も目にした。それは、スタート前、スターティングマシンから第1コーナーへの直線を歩く何人ものHondaメカニックたちだった。彼らは、自分たちのライダーの前方の走路を確認し、小さな小さな小石までをも拾い、竹ぼうきで走路を掃き清めた。ライダーは、その姿を確認して、スタートへのコンセントレーションを高めていた。 「スタッフ全員が、出来ることすべてをやっている実感があった。自分の前方を掃き清めているメカニックを見て、もの凄い集中力がわいてくるのがわかった」
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ライダーもメカニックも、全力を投入している緊張感があった。コースには、コンピュータによる計測システムが持ち込まれた。Hondaの全車はもちろん、ライバルのタイムも緻密に計測し、どの部分が速くどこのセクションが劣るのか、徹底的に分析がなされた。データはレース中のピットサインに反映され、それまでのモトクロスでは考えられなかった緻密な指示がライダーに与えられるようになっていた。
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ある雨のレース。コースはドロドロにぬかるんでいた。レース前のフリー走行を終えたマシンはそれだけで泥のカタマリになり、ライダーにも多量の泥が付着していた。そんな状況で、Hondaはマシンを数人のメカニックが持ち上げてスタート位置まで運んだ。タイヤにさえ泥のついていないマシンが、スターティンググリッドに並んだ。泥色の他の3メーカーのマシンを抑えて、真っ赤なワークスカラーも鮮やかなRC群が、抜群のスタートを切っていった。
走路を掃き清めたり、マシンに泥を着けずに運んだりすることが、物理的にどうタイムに結びつくかはわからない。ただ、ライダーはその光景を目にして、明らかに心理的な影響を受けているのは確かだった。NRグループによるレースとは、そういう部分までも絞り出すものだった。そこには、最先端の技術やシステムと、人間の精神に働きかける行動が、すべて出し尽くされている気さえした。
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1980年シーズンの第9戦関西大会に、Hondaは125ccツインエンジンのマシンを持ち込んだ。当時30馬力前後と言われたこのクラスのマシンにあって、そのツインエンジンは37馬力ものパワーを絞り出していた。もちろん、最高出力だけが速さを決する要素ではなかったが、Hondaは「モトクロッサーは単気筒」という既成概念をいとも簡単にうち破って見せた。エンジンの前でとぐろを巻く2本のチャンバーは、NRグループの決意の大きさを象徴しているかのようだった。 |
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さらに最終戦鈴鹿に、Hondaはフロントにダブルプロリンクと呼ぶ奇異なサスペンションを装備したマシンを投入した。もともとイタリアのVILLA(ビラ)やスズキなどでも試作されたことのあるそのサスペンションは、一般的なテレスコピックの弱点を補う幾つかの利点を持っており、メカニズム的に大きな可能性を秘めていると言われるものだった。
モトクロスコースを席巻しつつあるHondaのチーム監督が、こんなことを語ってくれたことがある。 「プロジェクトのリーダーである取締役が、1冊の本をくれたんです。「指揮官」という第二次世界大戦の戦記物なんですけど。指揮官はどんな作戦を立て、どんな失敗でどれだけの兵士を失ったか、作戦を成功させる鍵はどういうところにあるのか…そんな内容なんです。チームは、ある意味軍隊なんだと。勝つためのベクトルを集中させるには、どうすればいいか…私たちのレースは、そんなところからスタートしたんです」
パドックにあるHondaのテントには、見慣れない人が出入りしていた。ある時はレース後のマシンを洗い、ある時はコースでメモをとっていた。興味を持ったボクは、恐る恐る話しかけてみた。 「あ、僕ですか?。ある部品の加工をやっている協力工場の者です。自分が作った部品がどう使われて、どう動いて、どう汚れて、どう機能しているのか、実際に見てみたくて来ました。研究所からもらった図面通り作れば問題ないと思っていたんですけどね、やはり発見があるもんですね!」
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NRグループがレースを担当し始めた79年、Hondaのモトクロッサー開発はまだまだライバルたちを追いかける立場だった。それが2シーズンを経て、レッドアーミーと呼ばれるに至ったHondaは、完全に他をリードする勢力となっていた。 |
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この1980年、Hondaはランキングの1-2位を独占するというかたちで、全日本選手権モトクロス250ccクラスのタイトルを手中にした。それは、Hondaが初めて獲得した全日本選手権モトクロスのタイトルだった。 |
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、NRの本隊とも言える世界選手権ロードレースで、NR500は苦戦のレースを続けており、グランプリにおける限界説さえ流れ始めていた。新しいフレームがトライされ、エンジンにも変更を受けて必死に打開策を模索しているようだった。
しかし、NRグループの活動は力強く続けられていた。4月19日の全日本選手権ロードレースに、モトクロス用に開発された125ccツインエンジンを搭載したRS125RW-Tがデビューした。
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6月14日は、大きなニュースがふたつの場所からもたらされた。ひとつは全日本選手権モトクロス第6戦関西大会での、250ccツインエンジンの登場であり、もうひとつは全日本選手権ロードレース鈴鹿200kmで、NR500が優勝するというものだった。
レースは、多くの人があるカテゴリーやクラスだけを中心に見つめていることが多いから、Hondaの活躍はそれぞれのクラスで充分に注目されるものではあった。だが、世界GP、全日本選手権ロードレース、全日本選手権モトクロスなどを横断的に眺めた時、NRグループ総体はそれまで考えられなかったパワーとスピードと情熱で、レース活動をおこなっているのは確かだった。
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その最たるクラスが、全日本選手権モトクロスであったのは間違いない。7月12日の第8戦北海道大会で、125ccクラスに新型のダブルプロリンクを投入したHondaは、125、250の両クラスで両ヒートを制するという好調ぶりをみせた。両ヒートを制することがなかなか困難であるモトクロスにおいて、Hondaは第8戦までに125で4回、250では5回のパーフェクトウィンを達成していた。
この年、Hondaは全日本選手権モトクロスで、125、250の両方で完璧なタイトルを獲得した。
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のあるレースで、普段は設計の図面を描いているというNRグループのスタッフと話をすることが出来た。とてもモトクロスの現場に似合いそうもないその人物は、ある思いを胸にコースを訪れたと語っていた。 「図面屋は、泥にまみれて線を引かなきゃだめだ…と、そう思いましてね」
レースには、必ず「ピークの時代」のようなものが存在する。ボクが見てきた多くのカテゴリーやクラスの中で、そして長年にわたる様々なレース取材の中で、この79年から81年におけるレッドアーミーの活動は、まさに群を抜くものだったと言っていいだろう。これほど密度が高く、スピードがあり、そして大きな成果を残した活動は、過去に例を見ないものだった。
ボクには、スタッフ全員があらゆるポテンシャルを引き出し、情熱のすべてを注ぎ込んだ作品、それが、この数年間のモトクロスチームの活動のように思えた。そして、彼らが泥にまみれながら描いた、自由闊達でアイデアに満ちた独創的な作品群は、まるでダヴィンチが残した数々のスケッチのようにさえに見えた。
Hondaは、その後250ccクラスで、9年連続してタイトルを獲得するという快挙を成し遂げた。
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