第2回富士登山レース優勝の
       山下林作
以下は、ホンダ公式ホ−ムペ−ジに、過去掲載されていた「レ−シングの源流の中の
富士登山レース
 に関する記事を掲載いたしました。
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1959年 マン島TTレ−ス挑戦以前の国内レース成績
開催年月日
レース名
.
優勝メーカー
90ccクラス 125ccクラス 250ccクラス 350ccクラス 500ccクラス
1954年7月8日
第2回富士登山レース
スズキ モナ−ク
1955年7月10日
第3回富士登山レース
ヤマハ ホンダ
1955年11月5〜6日
第1回浅間高原レース
ヤマハ ライラック ホンダ ホンダ
1956年7月9日
第4回富士登山レース
ヤマハ ヤマハ
1957年10月19〜20日
第2回浅間火山レース
ヤマハ ヤマハ ホンダ メグロ
1958年8月24日
第1回全日本モーターサイクル
クラブマンレース
ヤマハ ホンダ BSA トライアンフ
※第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースはワークス主体のレースではないため参考結果

1954年3月にマン島出場宣言を発したホンダではあったが、その後の国内レースにおいて、その戦績は前途に多難を思わせる惨憺たるものだった。特にマン島出場を目指す125ccクラスでは一度も勝つことすらできず、また勝利を得たレースでも圧勝と呼べる大差をつけることは出来ずにいた。250ccクラスまでの小排気量では、2ストロークが完全にリードした状態であり、これらのレース結果から、ホンダのマン島挑戦を本気で危ぶむ声さえあがっていたほどだった。



本田宗一郎の最初の目標は、昭和30年(1955年)7月に開催された「MFJ第3回富士登山レース」制覇であった。富士山の麓から2合目まで登山道をかけ登るタイムレースである。モトクロスとトライアルが混ざったようなこのレースは、宗一郎の好みではなく、過去2回のレースにホンダ・ワークスチームは参加していなかった。しかし、この年はちがった。宗一郎が陣頭指揮をとって、準備が進められていった。
ホンダチームは、125tのモーターバイク・クラスに発売したばかりのベンリィ号を2台、250tライトウエイトクラスには3台のドリーム号をエントリーさせた。ライダーは250tクラスに野村有二、鈴木義一、鈴木淳三、125tクラスに藤井璋美、高橋邦良で、全員ホンダの社員ライダーだった。このうち鈴木義一と鈴木淳三は、後にマン島TTレースへ出場することにもなる。宗一郎は世界制覇の夢を社員とわかちあうことを大原則としており、ワークスチームのライダーを社員のなかから選抜することにしていた。従業員のなかで腕に覚えのある走り屋には、ワークスチームのライダーになる道が開けていたのである。ホンダチームは文字どおり会社をあげて組織されていた。7月10日のレース当日、ホンダチームのライダーは揃いの黒革ジャンプスーツに身をつつみ本田宗一郎の陣頭指揮でスタート地点の浅間神社に登場した。空にはホンダの社機であるセスナが飛び、万全の体制であったこのレースに参加するマシンはノーマル車に限るとレースレギュレーションで定められ、改造禁止であったために宗一郎は秘術をつくして入念な整備をおこなったマシンを投入していた。前評判では、2クラスともホンダの圧勝が予想されていたが、125tクラスに思わぬライバルが出現した。垢抜けたスタイルをもつ2サイクルエンジンのYA1を発表してオートバイメーカーの名乗りをあげたばかりのヤマハだった。ホンダもヤマハもレース1ヵ月前から合宿練習に入るなど、最初からライバル意識をむき出しにしていた。レース結果は250tクラスではホンダが1、2、5位とライバルのモナークやDSKを蹴散らして圧勝したが、125tクラスでは新興のヤマハに負けてしまった。・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・国内レースでは昭和31年(1956年)第4回富士登山レースでヤマハが圧勝、57年の浅間火山レースでもヤマハに惨敗している。・・・・(略)・・・・・。
以下は、黒田克祥さんが開設されていた「谷口尚巳さん」のホ−ムペ−ジ
http://naomi-taniguchi.hp.infoseek.co.jp 今は削除)の「世界が俺を待っている 本田宗一郎物語
から、富士登山レース に関する記事を掲載させていただきました。
コレダ COX (4サイクル90cc)
ダイアモンドフリ−(2サイクル60cc)
富士登山レ−ス
「スズキ50年史」より
 私が社会人の仲間入りをしたのは、第1回浅間高原レ−スが開催された1955年(昭和30年)春のことであり、それ以前の日本の二輪車レ−スの状況は知らないし、資料も持っていない。浅間レ−ス以前のビッグレ−スとしては、昭和28年(1953年)に開催された第1回富士登山レース、翌昭和29年(1954年)に開催された第2回富士登山レース・・・があげられると思うが、どんなコ−スで開催されたのか、どのようなレ−スカテゴリ−があったのか、又どのようなメ−カ−が参加したのか・・全く知らない。
 下記の記述は、昭和45年(1970年)に発行された「
スズキ50年史」より、そのまま引用したが、もし当時の資料等をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただけると嬉しいのですが・・・。尚、「スズキ50年史」の「浅間レ−ス」以降については、私が書かされた文章である。
富士登山レ−ス

 昭和28年(1953年)7月12日、第1回富士登山レースが毎日新聞社の主催で行われた。スズキは、その年3月発売の後、たちまち世間の人気を集めたダイヤモンド・フリー号(2サイクル60cc)をもってこれに参加し、優勝を勝ち取った。
 富士登山レース以前のレースは、今でいうダートトラック・レースのようなもので、レーサーといっても、市販車を改造してただグラウンドを走りやすいように手を入れた程度のものを造り、浜松周辺では専売局跡や、磐田の城山などのグラウンドで走ることが多かった。それがしだいに熱があがってきて、レースで技術を競い合うことになり、富士登山レースということになった。
 富士登山レース出場車も市販車をベースにしたものであったが、エンジン関係にはかなり手を入れたものであった。 このレースのバイク部門に、山下林作選手ダイヤモンド・フリー号に乗って優勝し、スズキの名声を高めたわけであるが、ダイヤモンド・フリー号はそれまでにすで市販されていて好評を得、非常な売れ行きであった。

 これに自信を得た技術陣は続いて、翌
昭和29年(1954年)春、4サイクル90ccの完成車コレダ号CO型を完成、その年の7月20日の第2回富士登山レース(日刊自動車新聞社主催)に再び山下林作選手がこのCO型で参加し、41分32秒8と、第2位を6.2秒引き離して連続優勝しスズキ技術の声価を確固たるものとしたのである。