内藤隆寿君事故死
125ccレ−ス:
増田・伊藤光夫・松本聡男・
ヤマハの大石
アッセン市の公会堂
での車検
[Dutch TTレ−ス]
レ−ス前の給油:
岡野監督・増田俊吉・伊藤光夫
[フランスGP]
[スペインGP]
ホンダのWGP初優勝を飾った
Phillis(スペインGP125cc)
EMC の設計者・Ehrlich 博士の名刺
(1960年マン島で名刺交換)
いろいろなトラブルが発生したが、原因をまとめると次のようになると考える。
- ケ−スの上にマグネトを設置し、クランクシャフトから、3連ギヤ−で駆動する方式をとった。この機構に構造上の問題があった。このためマグネトシャフトの折損事故を多発させた。
- ミッションのカウンタ−シャフトにサ−クリップ用の溝があり、強度不足で折損が多発した。
- キャブレタ−フロ−トの浮動方法不良で、オ−バ−フロ−やガス切れによるピストントラブルを引き起こした。
- ロ−タリ−バルブのシ−ル性に構造上問題があり、始動性不良などを起こした。
この年、
ヤマハが初めて選手権レ−スに参加し、125cc・250ccで、フランスGP・TTレ−ス・オランダGP・ベルギ−GPの4レ−スに出場した。ライダ−は伊藤史郎・野口種晴・砂子義一・大石秀夫ら往年の浅間の猛者たちであった。選手権レ−ス参加2年目のスズキは、初参加のヤマハの後塵を喫したのだった。
ホンダはこの年、参加3年目にして125cc・250cc両クラスのメ−カ−・個人(125はPhillis、250はHailwood)のタイトルを初めて獲得した。選手権レ−ス初優勝は第1戦スペインGP125ccでのPhillisだった。なお、高橋国光が第2戦の西ドイツGP250ccで、日本人初の世界選手権レ−ス優勝を果たし、つづいて、第8戦のアルスタ−GP125ccでも優勝した。
こうして、トラブルだらけの、苦悩にみちた2年目の世界選手権レ−スへの挑戦はベルギ−GPをもって終了したが、この年の後半戦出場を目指して、125cc単気筒エンジンの開発が進められていたのである。125ccは、RT60・RT61ともに 2気筒エンジンを採用してきたが、優勝を争う性能の20Ps以上には、なかなか到達出来ず、単気筒ロ−タリ−バルブエンジンの開発もやろうということになったのである。当時優勝を争っていた2サイクルの東ドイツのMZもEhrlich(エ−リッヒ)博士の設計によるEMCも単気筒ロ−タリ−バルブエンジンだったことにも影響された。このような経緯で、RT61・RV61のTTレ−ス向けの発送準備で多忙だった4月中旬過ぎから、概案設計にとりかかり、5月20日には、RT62Xエンジン(125cc単気筒56φ×50.5ロ−タリ−バルブ)の試作図が出図され、ベルギ−GP直後の7月4日には試作エンジンが完成し、ベンチテストを開始した。RT62Xは、その後改良されてRT62Yとなり、RT62Yは1962年の選手権レ−ス出場車RT62のベ−スとなったのである。
レ−ス名 |
125cc |
250cc |
ライダ−名 |
状況 |
ライダ−名 |
状況 |
TTレ−ス |
伊藤光夫 |
2周目リタイア |
Driver |
リタイア(1周目10位) |
市野三千雄 |
2周目リタイア |
Anderson |
10位 |
増田俊吉 |
2周目リタイア |
King |
リタイア |
...... |
伊藤光夫 |
リタイア |
市野三千雄 |
12位 |
増田俊吉 |
リタイア |
オランダGP |
Driver |
リタイア |
Driver |
リタイア |
伊藤光夫 |
16位 |
伊藤光夫 |
リタイア |
市野三千雄 |
14位 |
松本聡男 |
リタイア |
松本聡男 |
17位 |
増田俊吉 |
順位ナシ(最後まで走行) |
増田俊吉 |
リタイア |
.. |
ベルギ−GP |
市野三千雄 |
14位 |
Driver |
7位 |
.. |
Perris |
リタイア |
TTレ−スの公式練習が始まると、「トラブル多発」の電報が次々と、我々日本の留守部隊に入ってきた。「マグネトシャフト折損、ミッションのカウンタ−シャフト折損、キャブレタ−のオ−バ−フロ−多発、ピストンの溶け多発、始動性不良・・・・」と、トラブルだらけで無茶苦茶な状況のようだ。本社でのベンチテスト・米津浜テストコ−スでの走行テストでは発生しなかったトラブルばかりだ。TTレ−ス以降の全レ−スに参加する予定で出発した選手団だったが、TTレ−ス、オランダGP、ベルギ−GPの3レ−スの参加だけで、日本に引き揚げることになった。下表に、これら3レ−スへの出場車の状況を示す。リタイアの原因などの詳細記録は残っていない。
フランスGPの伊藤光夫と西正則
スペインGP125ccの松宮とDriver
TTレ−ス125の市野三千雄
TTレ−ス250のスタ−ト前:
左は伊藤利一とAnderson、29は伊藤光夫、
後の31は伊藤史朗のヤマハ
[マン島TTレ−ス]
125のレ−ス前:左より増田・
市野・伊藤利一・清水正尚
125の車検に向かう左より
伊藤利一・増田俊吉
伊藤光夫・石川正純
マン島で鈴木俊三社長
とDriver
Fernleigh Hotel:前列左より松本・
伊藤光夫・伊藤利一・市野・増田・
後列多田健蔵さん・袴田勇・石川・
清水・岡野監督
米津テストコ−スでのDriver
P.Driver夫妻と丸山・岡野
組立完了したRV61
RT61エンジン
RT61一号機に
跨る筆者
3月下旬〜4月上旬には、RT61・RV61の本命車の部品が完成し、テスト・仕様の決定・組立と多忙な日々が続く。このさなかの5月2日、入社まもないテストライダ−の内藤隆寿君が、米津テストコ−スで、コ−スを横断しようとしたリヤカ−をよけ損ない、死亡するという悲しい事故があった。このコ−スは、ホンダさんの「荒川テストコ−ス」と同じ規模の直線(約2q)のテストコ−スであるが、一般の畑の中に建設したため、お百姓さんや、リヤカ−が時々コ−スを横断し、テスト時にはいつも要所々々に大勢の見張りをつけていた。この時は、見張りが担当場所に向かっている最中に事故が発生した。見張り準備完了の合図が出る前に、もういいだろう
とスタ−トしてしまったことが不幸を招いてしまったと記憶している。つい最近のことであるが、妻の実家の菩提寺で、偶然内藤君の墓を見つけ線香をあげた。これからは時々お参りしようと思う。
一方、世界選手権レ−スはすでに開幕しており、第1戦のスペインGP(4月23日)・第2戦の西ドイツGP(5月14日)にDriverが単独出場していた。車を送っただけで、スズキ本社からは誰も行っておらず、ヨ−ロッパ駐在の松宮昭だけが付き添っており、詳しい状況はわからなかったが、結果は全く芳しいものではなかった。スペインGPの125ccはスタ−ト出来ず、また250ccはリタイア。つづく西ドイツGPは出場取り止め。そこで状況把握のため、第3戦のフランスGP(5月21日)に間に合うよう伊藤光夫と輸出部員1名が5月17日急遽羽田を発った。しかし、フランスGPの125ccは出場取りやめ、250ccは3周目リタイアという散々な情報だった。
尚、TTレ−ス向けには5月13日にRT61、5月20日にはRV61各6台をマン島に発送し、5月24日には岡野武治監督(当時次長)を始めとする選手団がマン島に向かった。
1960年のTTレ−スに初参加し、我々レ−ス担当者は、上位を争うには余りにも大きい性能格差があることを身をもって感じ、世界の壁の厚さを痛感して6月18日帰国した。順位・タイムは別として、何とか全車完走し、ブロンズレプリカを持ち帰れたのが、心の救いだった。
「翌1961年の世界選手権レ−スには、125cc・250cc両機種に参加する」という故鈴木俊三社長の考えが示され、両機種とも「2気筒ロ−タリ−バルブ空冷エンジン」を採用することに決め、大幅な性能向上を目指し、設計を開始した。1960年10月15日には125ccのRT61試作車を出図、10月31日には250ccのRV61試作車を出図した。12月13日にはRT61エンジン、12月24日にはRV61エンジンが完成し、テストを開始した。目標としていた出力には及ばないが、RT60よりかなりの性能アップが得られ、1961年2月1日には、両機種の本命車用図面を出図した。
ヨ−ロッパで契約交渉を進めていたP.Driver氏が1月26日に来日し、米津浜テストコ−スで試作車の試乗も行い、正式契約を交わした。Driver氏は、1960年Nortonに乗り、フランスGPの350cc5位・500cc4位、オランダGPの350cc5位・500cc4位、イタリアGPの500cc4位に入賞の実績をもつライダ−である。またスズキチ−ムは第4戦のTTレ−スからの出場を計画していたが、彼の要望で第1戦スペインGP・第2戦西ドイツGP・第3戦フランスGPもDriverが単独で出場することになった。こうして、Driverは2月20日に離日した。
[苦悩の1961年]