第7戦東ドイツGPは、Andersonが独走の優勝、続いてTaveri・Redman・Rosner(MZ)・Kohlar(MZ)だった。Perrisは2位であったがコンロッド大端焼き付き、Schneiderはクランクギヤ−の折損でリタイア。
第8戦アルスタ−GPは、Perrisがゴ−ルまであと1周余というところまでトップだったが、大分後ろからジワジワと追い上げて来たAndersonがトップに出る。スズキのワン・ツ−フィニッシュかと思われたが、Perrisはリ−ドワイヤ−断線?で遅れ4位。Andersonが東ドイツGPにつづき優勝、続いてTaveri・Bryans・Perris・Schneiderだった。
第9戦フィンランドGPは、Andersonがトップであったが序盤でピストン溶けでリタイア。その後は、TaveriとPerrisでトップを争っていたがPerrisは中盤でコンロッド大端焼き付きリタイア。結果は、Taveri・Bryans・Redman・Schneider・Enderlein(MZ)・Krumpholz(MZ)の順だった。ここで125ccタイトルはメ−カ−がホンダ、個人はTaveriに決定した。
第10戦イタリアGPは、Andersonは序盤Taveriに400m程離された2位だったが、徐々にTaveriとの差を縮め始め、終盤にはあと50mにまで迫ったが及ばず、優勝Taveri、2位Anderson、続いてDegner・Bryans・Perris・Redmanだった。レ−ス後、Andersonのエンジンを分解してみると、ピストンが焼き付き、ピストンリングも膠着していた。また、昨年の日本GPで大火傷したDegnerが、このイタリアGPで、約1年ぶりに復帰した。Degnerは、スタ−トにモタツキ、1周目は9位だったが、その後、追い上げ3位となった。
東ドイツGP優勝の
Andersonと2位だったが
リタイアしたPerris
ヨ−ロッパ初戦のスペインGP(第2戦)は、Taveriとトップを争っていたAndersonが序盤でピットイン、出走3台全車がプラグかぶりでピットインする始末。結果は、Taveri・Redman・Avery (EMC)・Schneider・Anderson、Perrisは9位。高橋国光はリタイア。
第3戦のフランスGPは、Andersonがトップだったが、2周目ピストン焼き付きでリタイア。優勝はTaveri。続いて、Schneider・Perris・高橋国光の順。
第4戦TTレ−スは、優勝したTaveriと同時スタ−トのAndersonが1周途中までTaveriをリ−ドしていたが、コンロッド大端焼き付きでリタイア。Perrisは1周目1位のRedmanに0.2秒遅れの2位と健闘したが、2周目クランクギヤ−折損でリタイア。Schneiderも1周目ピストン焼き付きリタイアで全滅。
第5戦オランダGPには、昨年RT63で使用したキャブレタ−を、急遽取り寄せて使うこととした(キャブのタイプは同じだが、ボア−径はRT63が24φだったのに対し26φ)。しかし、十分なセッティングが得られなかったためか、コ−ナ−での立ち上がりの加速性が悪く、出走3台とも初めて完走はしたものの、Schneider・Anderson・Perrisが4・5・6位。優勝はRedman、2位は2気筒初出場のヤマハReadとなる。3位はBryans。
第6戦西ドイツGP(9周)は、Andersonは3周目新ラップ記録を出し、2位以下を引き離し独走体制をつくるかと思ったが、4周目ものすごい降雨となり、スリップ転倒。Perrisはピストンリングトラブルでリタイア。優勝はRedman、続いてTaveri・Scheimann・Schneiderの順。
RT64 マシン
しかし、ヨ−ロッパにおけるレ−スは、我々の自信・期待に反し、スペインGPからイタリアGPまでの9戦で、僅か東ドイツ・アルスタ−GPでの2勝(いずれもAnderson)しかできなかった。それは、昨年は経験しなかった様なトラブルが多発したためである。プラグかぶり、ピストンの焼き付きや溶け、ピストンリング関係のトラブル、クランクギヤ−の折損、および昨年より発生件数は減ったがコンロッド大端焼き付き等である。
一方、1964年の125cc世界選手権出場車RT64は、「RT63より出力を更にアップさせよう」というコンセプトで、設計・実験が行われた。昨年の日本GPで初出場した水冷のRT63Aエンジンも並行して開発を進めた記憶はあるが、空冷エンジン優先で進めた覚えである。即ち、1963年レ−スでの、RT63の性能は、ずば抜けた優位性を持っていたから、ある程度の出力アップを行えば、今年も勝てると考えていたのである。この結果、出力は4Ps以上アップした。大きな変更個所は、エギゾウストパイプの改良、キャブレタ−の口径の拡大などであった。尚、キャブレタ−は新設計のものを採用した。日本国内のテストでは、特に問題も発生せず、自信をもって、ヨ−ロッパに向かい、ホンダ4気筒と争うことになった。これに先立つ第1戦アメリカGPは、ホンダは参加せず、旧型のRT63でAndersonが1勝をあげていた。
(2)トラブル続きの1964年125cc
日本GPはスズキ不参加
でホンダだけの模擬レ−ス
第9戦の日本GPは、メ−カ−・個人タイトルとも、決定していたため、参加を取り止め、125ccに総力を集中した。このため、ホンダ5台のみとなって、レ−スは不成立で、模擬レ−スを行った。
第6戦ベルギ−GP(5周)は、第4周途中で森下が不調(ヘットガスケット漏れ)になるまで、Bryans・Anderson・森下・伊藤光夫・Anscheidtの5名によるダンゴのレ−ス展開だった。結果はBryans・Anscheidt・Anderson・伊藤光夫・森下・Kunz・Dongenで、1〜4位までのタイム差は、僅か3.2秒の接戦だった。Andersonのマシンは分解チェックしてみると、ピストンリングが膠着していた。越野は、バルブプレ−トが割れてリタイアした。
第7戦西ドイツGPは、Andersonが先に行われた125ccレ−スで転倒し出場できず、伊藤光夫・森下で戦うことになった。結果は、Bryansの独走優勝、続いて森下・伊藤光夫・Anscheidtの順だった。オランダGP以降、ホンダの2気筒マシンは確かに速くなり、且つ安定性が増した。これで優勝回数は、スズキ・ホンダが各3勝で並び、Kreidlerが1勝となった。
第8戦フィンランドGP(10周)は、Bryansが5周まで大きくリ−ドを保っていたが、トラブルリタイア。その後はAndersonとAnscheidtの激しいTop争いとなったが、AndersonがAnscheidtを0.7秒差で振り切り優勝。Taveri・KunzのKreidlerが3・5位。森下は4位(キャブレタ−のスロットルバルブの戻り悪し)だった。これにより、メ−カ−タイトルは3年連続スズキに決定、個人タイトルも2年連続Andersonに決定した。
オランダGPでトップだった
Andersonがトラブルリタイア
次の第5戦オランダGP(8周)は、3周まで、AndersonがTopで、Bryansがすぐあとに続くという展開だったが、Andersonがクランクホイ−ル広がりという珍しいトラブルでリタイア。その後はBryansの独走の優勝、森下・伊藤光夫が2・3位、Anscheidt・DongenのKreidlerが4・5位。越野はチェンジレバ−折損でリタイアした。ホンダ2気筒マシンは、昨年の日本GP以来の勝利だった。
車番 |
ライダ−名 |
1周 |
2周 |
3周 |
順位 |
タイム |
順位 |
タイム |
total time |
順位 |
タイム |
total time |
3 |
Anderson (Suzuki) |
1 |
28.24.4. |
1 |
27.54.8. |
56.19.2. |
1 |
27.54.2. |
84.13.4. |
5 |
Bryans (Honda Twin) |
7 |
28.51.0. |
6 |
28.17.2. |
57.08.2. |
2 |
28.06.6. |
85.14.8. |
7 |
森下 勲 (Suzuki) |
5 |
28.41.6. |
5 |
28.23.0. |
57.04.6. |
3 |
28.10.8. |
85.15.4. |
1 |
Anscheidt (Kreidler) |
3 |
28.33.6. |
2 |
28.22.0. |
56.55.6. |
4 |
28.22.4. |
85.18.0. |
18 |
伊藤光夫 (Suzuki) |
2 |
28.32.8. |
4 |
28.29.2. |
57.02.0. |
5 |
28.20.4. |
85.22.4. |
16 |
谷口尚巳 (Honda Twin) |
6 |
28.43.4. |
7 |
28.28.0. |
57.11.4. |
6 |
28.21.6. |
85.33.0. |
9 |
Taveri (Kreidler) |
8 |
29.18.4. |
8 |
28.33.2. |
57.51.6. |
7 |
28.35.8. |
86.27.4. |
20 |
Provini (Kreidler) |
9 |
30.53.8. |
9 |
30.04.4. |
60.58.2. |
8 |
29.41.4. |
90.39.6. |
2 |
越野晴雄 (Suzuki) |
4 |
28.34.4. |
3 |
28.22.2. |
56.56.6. |
R |
― |
― |
TTレ−ス50表彰台の
Bryans・Anderson・森下
TTレ−ス優勝のAnderson
第4戦TTレ−ス(3周)は、公式練習で伊藤光夫が1位となり、昨年に続いてのTTレ−ス連覇が期待された。最初のスタ−トは、Anscheidt・越野晴雄、10秒後Anderson、20秒後Bryans、30秒後森下勲・D.Simmonds(ト−ハツ)、40秒後Taveri、70秒後谷口尚巳、80秒後伊藤光夫・M.Simmonds(ト−ハツ)、90秒後Provini。1周目Sulby(中間点)での順位(全てスタ−ト時差修正後を示す)は、Anderson・伊藤(15秒遅れ)・森下(17秒)・Anscheidt(18秒)・越野(19秒)・谷口(25秒)・Bryans(27秒)・そしてTaveri・ProviniのKreidler。1周終わっての順位は、Anderson・伊藤(8.4秒遅れ)・Anscheidt(9.2秒)・越野(10.0秒)・森下(17.2秒)・谷口(19.0秒)・Bryans(26.6秒)・Taveri・Provini。2周目Sulbyでは、伊藤のマシンがやや調子が落ちAnscheidtに抜かれ、3位落ちる。Andersonと2位Anscheidtの差は25秒。またBryansと谷口の順位も入れ替わる。2周終わっての順位は、Anderson・Anscheidt(36.4秒遅れ)・越野(37.4秒)・伊藤(42.8秒)・森下(45.8秒)・Bryans(49.0秒)・谷口・Taveri・Proviniで、伊藤光夫の連覇の夢は消える。TTレ−ス初出場の越野が頑張っている。最終ラップSulbyの順位は、Anderson・Anscheidt(57秒遅れ)・続いて順位を大きく上げたBryans(60秒)・森下(63秒)・越野(69秒)・伊藤(73秒)・谷口・Taveri・Provini。ゴ−ルは、Anderson・Bryans(61.4秒遅れ)・森下(62秒)・Anscheidt(64.6秒)・伊藤(69秒)・谷口(79.6秒)・Taveri・Provini。越野は「野ネズミ」をよけ損ない転倒リタイア。2位Bryansと5位伊藤までのタイム差は僅か8.6秒の大接戦だった。かくして、スズキは1962年から「TTレ−ス3連覇」を飾った。
フランスGP優勝のAnderson
アメリカGP優勝のAnderson
第1戦のアメリカGPは、RM64が まだ間に合わず、Anderson・伊藤光夫はRM63Y、森下勲はRM63で出場。Anderson・森下・伊藤で1・2・3、KreidlerのAnscheidt・Beltoiseが4・5位、Kreidlerで初出場のTaveri・Proviniはリタイア。ホンダは不参加だった。
第2戦のスペインGP(14周)は、公式練習で地元DerbiのBusquetsが飛び抜けて速く、レ−スでも2周から12周までTopで走ったがリタイアした。彼のマシンは「オ−バ−サイズ」の噂もあった。結果は、Anscheidt優勝、Anderson・伊藤光夫・森下勲が2・3・4位(スペインGPからは、全車RM64で出場)、DerbiのNietoが5位、KreidlerのTaveriが6位、ホンダのBryans・高橋国光・Robbはリタイア。
第3戦のフランスGP(8周)は、Andersonが独走の優勝、Bryansは2位だったが3周目リタイア。2・3位はKreidlerのAnscheidt・Beltoise、4位はDerbiのBusquets、5位に森下勲(最終ラップ3位だったが転倒)、6位はKreidlerのProvini。伊藤は不調のため1周でリタイアした。
1964年の50cc世界選手権出場車としては、1963年3月より2気筒エンジンの開発を進めていた。即ち、1963年3月にRM64X(空冷2気筒、31φ×33)の試作エンジン手配、12月にはBore×Strokeを変更したRM64Y(空冷?32.5φ×30)の試作、1964年1月には更に改良を加えたRM64YU(水冷32.5φ×30)を試作し開発実験を進めた。一方単気筒エンジンは、1963年6月下旬にはRM63を水冷化したRM63Aを試作手配、12月には、空冷のままBore×Strokeを変更したRM63Y(RM62&RM63の40φ×39.5を41.5φ×36.8に変更)を試作し開発テストを進めた。このように単気筒空水冷と2気筒の両エンジンで開発を進めたが、1964年2月28日、相当大幅な性能向上を得ることが出来た単気筒のRM63Yをベ−スとしたRM64で1964年の選手権レ−スを戦うことに決定した。2気筒を採用できなかった最大の理由は、最高出力の持続性に問題(いわゆるエンジンのタレ)があったことだった。1964年の選手権レ−ス後半戦は、ホンダ2気筒に乗るBryansに大分おびやかされはしたが、メ−カ−・個人(Andersonが2年連続)の両タイトルを3年連続で手中に出来た。この年、Kreidlerの選手権奪取の意気込みもすごく、名手Taveriが最終の日本GP以外の全レ−スにKreidlerで出場、Proviniも前半4レ−スにKreidlerで出場したが、いずれも好成績は残せなかった。さすがのTaveri・Proviniにしても、手動3段×足動4段の計12段変速機を自在に操ることは難しかったのであろう。尚、最終戦の日本GPは、両タイトルが決定していたため、スズキは参加しなかった。
(1)50ccは3年連続メ−カ−・個人タイトルを獲得
1964年は、50・125・250cc3クラスのフル参加を目指して準備を進めた。
外人ライダ−としては、昨年と同様Degner・Anderson・Perris・Schneiderの4名、日本人ライダ−としては、伊藤光夫・森下 勲の布陣で望むことになった。とはいえ、Degnerは昨年の日本GPでの火傷のため終盤のイタリアGPからの復帰となったが・・。また最終の日本GPより、片山義美が加入するこになった。
[1964年世界選手権レ−ス]
イタリアGPで、昨年の日本
GPで火傷以来一年ぶり
復帰のDegnerが3位に。
メカは松本聡男
アルスタ−GP優勝の
Anderson・2位のTaveri・
3位のBryans