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1960〜1961年

クライドラーに乗っての最初のレース−そして最初の勝利−

 一九六〇年四月中旬の第二週目、クライドラーにはいってからあまり日数もたっていないのに、私はロ−ドレースに出ることになった。もちろん、マシンの調整のためにも、新参者という点でもあまりに急なことだった。
 人が私に期待している前で、自分が少々気がかりなことがあってもやはりかくすべきだろう。もちろん、よろこんでその機会を得たいという新人レーシングライダーが他にもクライドラーのメーカーライダーの中にいる。オズワルド・デイトリッヒとルディー・クンツは非常に速かったし、よき友人達だが、彼等は、私がもしレース出場をことわるとすれば喜ぶだろうことはよくわかっていた。
 同僚たちも、私が自分の契約に従ってやっているようにメカニックとして詳細に観察している。そしてもちろん、レース課には資格をもった有能なメカニックがいるし、そのことは別に驚くようなことではない。私はここでもナイーブな質問をしないかと人に期待させる新参者だ。彼等はみんないい奴で、私が彼等をよく知るようになる前に、私のことをよく知ってくれている。
 私はさっそく自分にあうようにエンジンを造りだした。レースのスタートがスムーズにいくようにステップ、チェンジペダル、シートの位置など、すべてが自分にぴったりのようにしなければならない。はじめて、自分にあうかどうかを試みた時に、これは自分にはあわないと感じた。細くてかたいタイヤ、乗車位置、これらは私にはなじまないし、このマシンでは成功しないのではないかと恐れた。
 最初の日、耳がぶらぶらするような経験をした。しかし二度目にはそれはよくなった。そしてまず私のパドックの前で最初のレースに勝った。そう−そのことがいままでつねに確実な保証だった!この度のレースで私は多分……。
 しかし、今度のレースは明日でないのだ。
 まず第一に、いつかある日、一連のマシンの試乗をやるだろうし、工場の管理下で私の練習をふたたびやることになって、いつかは私のペースが破られるだろうから。一九六〇年に私は四つのロードレースに出場し、そのうち三回勝った。それで私はたちどころに一九六〇年のモトカップ勝者になった。それはクライドラー社には大きな喜びだったようだ。私自身もわずかながらうれしかった。私はまた、その年の末にオーストリアでの六日間トライアルに参加した。このきびしい世界的トライアルではクラス勝者になっただけで、金メダル勝者にはなれなかった。それでもBMWにのったセバスチャン・ナッハマンの次だった。
 それからは、私はトライアルを一層よくやるようになった。そして、このすばらしい最良のモーターサイクルスポーツの学校は、今日では私にとって、あらゆる困難にぶちあたった場合の無尽蔵の貯水池となった。

一九六一年(昭和三十六年)−最初のヨーロッパ選手権へ−

 五〇CCマシンの性能について、いままで特に批判的であったFIM−国際モーターサイクル連盟−は最近の性能向上に異常なほどの印象を与えたようだ。そして一九六一年にヨーロッパカップを発表し、多くのレースを企画した。物ごとのタイミングとその結果について語る時、人は適正なことが適切な時に行なわれれば、結果は保証されたようなものだというが、私とクライドラーとの契約はまさに時を得たものであった。
 次々とレース計画が発表された。スペイン一、ドイツ二(ホッケンハイムとセント・ベンデル)ユーゴスラビア一、ベルギー一、そしてオランダ一。このもり上がったレース熱に対し、クライドラーでも十二段変速のマシンを開発した。
 一九六〇年のクライドラーのレーサーマシンは、本質的には今までの一連のものとは変わってはいなかった。だが、一九六一年型マシンはそれを一新した。六〇年型はエンジンは従来どおりのものであり、フェンダーのとりつけが少しかわったくらいで、前輪スポークもまったく同じであり、ただ軽くなっただけであり、車輪は細長いリムを持ち、それによってタイヤも細い。エンジンは四段変速の時のエンジンのままであり、強制空冷だった。五〜六馬力で最高速度は約一一五km/hであった。
ところが新しい六一年型のモデルは、パイプフレームを用いており、軽くてすぐれたロードホールディングをしていた。ただし、車輪とスポークはそのままだった。新しいエンジンの決定的な違いは、十二段変速を採用したことだ。クランクケースの両側にそれぞれロータリーディスクバルブがもうけられていて、その前に二個のキャブレターが付いていた。そして、その空気吸入孔は左右非対称にもうけられていた。それで、出力は八馬力に上昇し、最高速皮は一三○km/hになった。いまや最大の関心ごとはエンジン性能とともに最高速度の増加だった。人々はこの新しいエンジンの説明によって専門的に見ても感心していたようだ。また私自身、次のことをいってもいいと思う。このマシンに試乗して評価したいという考えとともに、一九六一年に我々の抱いた夢を実現したいとの考えで、このエンジンの開発に関与したのだと。クライドラーはヨーロッパカップで興味を呼ぶであろうという見通しから、新しい二人のレーサー、ボルフ・ゲートリッヒと優秀なドイツ選手権者ビリー・シャイトハウアーと契約した。我々の強敵としてはユーゴスラビアのトマス、イタリアのイトム、ドイツのイロが考えられる。
 スペインでの最初の五〇CCレースには、トマスとクライドラーはまだ参加していなかった。しかし二回目のセント・ペンデルのレースには勢ぞろいした。私は悪戦苦闘のすえトマスに勝った。三回目のホッケンハイムでは最後の一周まで私はリードしていて、もう勝ったと思っていた。ところが急に馬力が落ちてしまい、二位になってしまった。このレースはトマスが勝利をおさめた。
 クライドラーにはいることにより、私が期待していた幸運はかすんでしまったように思えた。その輝きは、強敵トマスのことを考えると、ユーゴスラビアのオパティヤでの四回目のレースを迎えるとますます弱くなったように思えた。
 三十八度C近い異常な暑さのためと、サーキットの作り方のまずさから練習中にシリンダーとキャブレターが故障してしまった。レースには持ち合わせていたシリンダーをつけて出場したが、クライドラーとしては完敗だった。私だけは、最初激しいレースだったがなんとか勝てはした。この勝利で私はなんとか満足のいく成績を維持できた。

ことあれば全力を尽して

 ベルギーのヨーロッパカップレースは二レースで各々十周することになった。
 ところが最初のレースで自信がくずれさるのを経験した。スタート直後にキャブレターのとりつけが完全にいってないことがわかったのだ。全力でレースをやっている時、キャブレターのフロ−ト室へガソリンが送られなくなった。こんな状態でありながら、ボルフガング・ゲートリッヒについで二位にはいれたのはうれしかった。
 キャブレターをつけ直し、二度目のレースではゲートリッヒにも勝って一位だった。
 オランダのツァントフォールトでのヨーロッパカップの最終レースでも私は勝ち、最終的に最初の「ヨーロッパ選手権者」になった。その間の私の車の最高速度は一三六km/hにとどまっていた。
 この最後のレース前、いかに興奮し、緊張しきっていたかを、ベルギーのレーシングライダーが示した。とても信じられないような失敗である。彼はスタート前、プラグに熱風をかけるためにそれをとりだしたのだが、興奮のためネジをしめつけるのを忘れてしまったのである。彼は立ってスタートの合い図を待った。スタートの時がきて、興奮したまま、マシンを前へ押した。彼がプラグなしではどうしようもないことに気づいたときには、きっとおそろしいような呪いのことばを発したことだろう。もちろんその時は、我々はもうずっと前の方にいたから、それを聞けなかったが。

メカニック・アンシャイトが認められる

 ツァントホールトのレースの練習の時、試作長のヘルン・ゲッケラー氏に、私がただの平凡なレーシングライダーでないことを証明した。私はエンジンの馬力が十分出ていないと思っていた、ゲッケラー氏はキャブレターの調整がうまくいってなくて、ガソリンがうすすぎるのだという。それに対し、私は、クランク軸のオイルシールに欠陥があることをヘルン・ゲッケラー氏に説明した。彼は子供扱いするような目で私を見た。そしてキャブレターのセッティングを直した。一時的にマシンは走りだした。だが再びとまってしまった。そこで私は、再び車庫にはいり、問題はオイルシールにあるという確信をもった。私の予想どおりでないとすれば、いまゲッケラー氏がクランク軸を調べればすぐにわかることだが、もちろんオイルシールに問題があったのだ。
 私は勝ちほこった笑いをおさえた。そのかわり、この試作長に「アンシャイトはなかなかやるな」と認めさせた。ここで私は、メカニックとしても認められたことになった。レースにのみ長じている他の多くのレーシングライダーとちがい、私はエンジンやその機能の詳部までわかることをみんなは認めざるをえなくなった。レーシングライダーになりたてのころ、自分のマシンでその部分品についてはよく知っていたことを思い出してもらえれば別に驚くはどのことではない。
 ともかく、私の診断には誰も疑いをはさまなくなった。それは、最初のヨーロッパ選手権者になったことと同じ喜びだった。

いつになってもトライアルは故郷

 一九六一年度のロードレースのかたわら、私は二つのトライアルに参加した。一つは、話すのもはずかしいような結果だったが、一方はすばらしい成績だった。
 失敗した方は、イギリスでの六日間トライアルで、私は金メダル勝者にも、五〇CCクラス勝者にも、もちろん全参加国中の全クラスを通じてのトライアルチャンピオンにもなれなかった。
 シーズン半ば、イスニーでの三日間の国際トライアルにも参加した。これはクラス別勝者、そして金メダル勝者にもなった。この結果、私はトライアルのよさを再発見し、この分だと、思ったより早くロードレースに最良のコンディションでのぞむために、モトクロスをひかえようという誓いを破ってしまいそうである。

五〇CCクラスのドイツ選手権およぴGP

 私には、関心を持った女の尻をおっかけまわすというようなことはなかった。レーシングライダーという職業にある以上、そんなうわついたことは断じてつつしまねばならない。ドイツモーターサイクルスポーツ委員会は、一九六二年(昭和三十七年)に、一二五CC、五〇〇CCそしてサイドカークラスと同様に五〇CCのドイツ選手権の第一回を開催することを発表した。
 同時にFIMでも他のクラスのGPと同じように五〇CCクラスのGPの開催を発表した。
 いまこそ、自分の全力を傾けてこの機会をものにする時である。それと同時に私の最もすきな愛人−トライアル−以外のすべてに「さようなら」をつげる時でもある。

クライドラーへの重大な警告

 この両団体の決定はもちろんクライドラーを大いに刺激した。新しい車輪、新しいフレーム、新しいエンジンを次々と開発した。ニュールブルクリンクとホッケンハイムのサーキットで数週間にわたって試乗が行なわれた。私もテストライダーに任命された。シュトットガルト工業高校に、空気の流れの抵抗が最小になるようにするためにカウリングの形を決める実験を委託した。
 GPレースとなれはもはやヨーロッパでの競争会社が対立しているだけでなく、いまやホンダとスズキの日本の会社が我々に迫ってくるのだ。
 日本の両社の態度がいかに積極的であるかは、日本人レーシングライダーのみを採用するのではなく、この数年間国際レベルにあるヨーロッパのレーシングライダーも、二、三人採用したいと我々に通知してきたことでもわかる。ホンダはシュバイツァー・ルイジ・タベリ(編注2)、スズキはエルンスト・デグナー(編注3)と契約した。
 これらのベテランとくらべれば、私はロードレースではほんのかけだしにすぎない。この両人が、バルセロナの最初のレースでいやというほど私に苦汁をなめさせてくれるだろうと思うとこわくなってくる。
 しかし、私はニュールブルクリンクでのドイツ選手権とバルセロナのスタントパークでの最初のGPレースに勝った。
 もちろん、私より八年間も多く経験をつんでいるデグナーとタベリをぬきさったとは考えはしない。これは例外的なものだろう。この二つの最初のレースの結果で、私は会社側の異常なまでの準備と、我々のレースメカニックがいかにすぐれているかがわかった。私がいとも簡単に目指す結果を得たことは、これからのことを考えるとかえってまずいことになるかもしれない。大胆さが失われてゆくのでは・・・・?
 いま私はいいたい。「私がたとえ彼等の域にまで近づいていったとしても、しかし日本メーカーは!」彼等は明らかに我々より開発に対して熱心である。三回目のレースですでに、新しい改良マシンを出場させた。それが五〇CCクラスで現在のところまさに最高のものであることは明らかだった。このクラスは、まさに彼等にとって絶好のチャンスなのだ。レースに勝つチャンスだけではなく、レースに興奮しながらも、彼等はまた商人であるのだ。終始一貫すべてのレースの結果を利用して、より大きな市場を征服しょうとしているのだ。すでに売ってしまったマシンでは何の役にも立たない。もちろんクライドラーも販売のためにレース結果を発表している。それは、ここまでくるための仕事に必要な出費と、そしてますますかさむようになるコストとどうつりあわすかの戦いなのだ。


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