1963年

1963年世界選手権レ−ス 50cc 得点表
順位 ライダー名 国籍 マシン 総得点 有効得点 スペイン 西ドイツ フランス TTレース ダッチTT ベルギー フィンランド アルゼンチン 日本
5 Race
1 Hugh ANDERSON NZ Suzuki 47 34 6 8 - 6 6 3 4 8 6
2 Hans-Georg ANSCHEIDT D Kreidler 36 31 8 3 8 4 1 4 8 - -
3 Ernst DEGNER D Suzuki 30 30 - 4 6 - 8 6 - 6 -
4 森下  勲 J Suzuki 26 23 3 6 - 3 3 8 3 - -
5 伊藤光夫 J Suzuki 21 20 - 2 - 8 2 2 6 - 1
6 市野三千雄 J Suzuki 14 14 - 1 4 2 4 - - - 3
7 Alberto PAGANI I Kreidler 9 9 2 - 1 - - - 2 4 -
8 Luigi TAVERI CH Honda 8 8 - - - - - - - - 8
9 Jose BUSQUET E Derbi 7 7 4 - 3 - - - - - -
10 増田俊吉 J Suzuki 4 4 - - - - - - - - 4
11 Varillas KISSLING RA Kreidler 3 3 - - - - - - - 3 -
12 Jean-Pierre BELTOISE F Kreidler 3 3 - - 2 - - 1 - - -
13 P. SAMARDJAN RA Suzuki 2 2 - - - - - - - 2 -
- 島崎貞夫 J Honda 2 2 - - - - - - - - 2
15 J. GARCIA E Ducson 1 1 1 - - - - - - - -
- Ian PLUMRIDGE GB Honda 1 1 - - - 1 - - - - -
- Matti SALONEN SF Prykija 1 1 - - - - - - 1 - -
- Gaston BISCIA U Suzuki 1 1 - - - - - - - 1 -


バルセロナにてースリップ・ストリームにはいる必要もなし勝利!

 クライドラーのニューマシンは、まずバルセロナでためされた。この時には私のほかに、ヨハン・ヒューベルトと元世界チャンピオンの息子であるイタリア人、アルバート・パガーニが参加した。
 スズキに乗ったのはデグナー、アンダーソン、伊藤、市野、森下。
 ホンダは出場しなかった。一九六二年の成績がかんばしくなかったので、根本的な改良を加えるために、六三年度のレースには出場しないのではないかという話だった。
 スペインの非常に性能のいいマシンであるデルビから十一人、そしてスペインのダクソンから一人が出場した。
 九時十五分に全周五四キロメートル、十四周のレースがスタートした。
 ヒュー・アンダーソン(スズキ)がまずトップに出た。一周目で私は彼をわずかにリードし、二周目で約五〇メートルリードした。デグナーほアンダーソンのわずかに後ろを走っていた。そして昨年のレースについての報告で前にのべた、あの向う見ずな男のブスケッツがデグナ一にぴったりひっついて、伊藤(スズキ)とパガーニ(クライドラー)の前を走っていた。
 三周日でアソダーソンを一〇〇メートルほどリードすると、なにか無気味な気がしてきた。なるほど、私のマシンは快調だし、抜群のレース展開ではあったが、そうかといってスズキのレーサーに対していともやすやすとこれほどまでにリードできるとは信じられないのである。何かある。
 そして、ブエノスアイレスでのアンダーソンとデグナーのレース展開を思い出した。今もまた同じようなレース展開になっていた。エルンスト・デグナーがアンダーソンを抜いて私のスリップ・ストリームにはいった。七周日でデグナーは勝負をかけ、スパートをかけた。しかし、まさに私を追い越さんとした時、デグナーのマシンは異常音を発した。彼は転倒した。リタイヤ。
 デグナーは去った。しかしアンダーソンがせまってきて、ついに私を追い抜き、あと五周というところでまたトップに立った。しかし、彼は私を振り切ることはできなかった。私は彼にせまった。彼はそのことで明らかに動揺したようだ。バランスを失い、ぐらついた。これをのがさずに私は再びトップに出た。彼はまた立ち直るや、全速力で私を追ってきた。そして懸命に私に食い下がった。しかし私を追い抜くことはできなかった。私は彼を三〇メートルはなしてゴールにはいった。二位はもちろんアンダーソン。三位がブスケッツでその後が森下、パガーニ(クライドラー)と続いていた。最高速度は一〇二・七三五km/hでこれは前年中のものよりも〇・二五キロメートル速いものだった。
 クライドラーのニューマシンは確かに良くなっていた。と同時にジャーナリストが私のことを次のように評した。「アンシャイトはいままでの中で一番うまい乗り方をした」と。
 一九六三年のすばらしい幕開けだ!
 しかし私は前に、ごうまんになって失敗している。バルセロナのサーキットは純粋のロードレースコースで、そこでは最高速度のみがレースを左右するということはなかった。そこでは少なくともクライドラーも十分に通用した。そして私は一九六二年度と同じょうに一九六三年度も最初のレースで八点を得た。

アンシャイト日和(びより)だ!″クレルモン・フェラン(フランスGPは西ドイツGPの後である)

 クレルモン・フェランーそれは大変なレースになりそうだ!練習中にすでに四つの新記録が生まれた。私を除いては前年と同様に再びスズキのレーシングライダーであるアンダーソン、伊藤、市野が速かった。
 想像以上にむずかしいレースになるに違いない!
 朝から厚い灰色の雲がサーキットの上空をおおっていたが、昼前に雷雨があり、コースは、ぬれて鏡のように輝いてしまった。アンシャイトびよりだ♂_を見あげてヒュー・アソダーソンがいった。それはもちろん適切ないい方ではない。走っている時の雨が私にとってどういう意味もないことをよく知っていた。
 スタートの旗がふられた時、私ほすごい勢いでとび出した。すばらしいスタートだった。すでにアソダーソンと伊藤を100メートルリードした。ブスケッツ、市野、デグナーはこの二人の後ろだ。
 五周目では、スズキ勢は完全におくれてしまい、ただブスケッツだけが、あの冒険家だけが、私について来ていた。アンダーソンと伊藤は転倒してリタイヤ。
 レースほ後半に入り、スズキのピットマンの声援にエルンスト・デグナーはいきおいづいた。彼は市野とブスケッツを抜き二位に上がってきた。私を抜けるものなら抜いてみろ!
 デグナ一に二十二秒の差をつけて私は勝った。
 再び八点を得た。十六点になった。ことしは私にとってもクライドラーにとってもいい年になりそうだ。しかし喜ぶのは早いぞ! まだはじまったばかりではないか。
 私の平均速度は九七・二一四km/hだった。まったく快調のペースだった。最高ラップ記録は九九・八五五km/hだった。

ホッケンハイムーある問題(西ドイツGPはフランスGPの前である)

 バルセロナとクレルモン・フェランはカーブの多く、そのためにスピードはそれほどあがらないので、ライダーにとっては一応納得のいく成績が得られてきた。しかし、ホッケソハイムはゆるやかなカーブしかない、一周七キロメートルの高速用のサーキットである。いま、我がクライドラーが懸案になっていた点を克服したかどうかが試されるのだ。
 この点に関してはやはりだめだった。というのほ、練習中にもうはっきりと答えが出た。やはりスズキの方が数秒速いのだ。我々はフレームを小さくし、その他いろいろ改良を加えたが、このサーキットでスズキと互角の争いをするにはまだ数秒不足だった。だからこのレースではスタート前からもう勝敗は決まっていた。
 速いレース展開になり、それはスズキペースのレースだった。アンダーソン、森下、デグナーの順に三台のスズキがゴールになだれこんだ。私は三十三・四秒おくれの四位だった。このレースでずっとせりあった伊藤に勝ったことだけが救いだった。彼のマシンは先着三台のスズキのマシンのように速くはなかった。
 このレース結果はクライドラーにはショックだった。そして我々は悟った。あらゆる勢力を積み重ね、多くの部品を改良してきたが、それは結局はスズキのマシンの性能にまさるまでに至っていなかったということである。
 年間を通じてチャンピオンを決めるのほ、純粋のロ−ドレース向きのコースでの勝ち点のみで決めるべきではなかろうか?
 そう考えるのほまったく正当だと思う。

(フランスGPとダッチTTの間に開催のTTレースについての記事は掲載なし)

アッセン、スズキ「パドック作戦」をあきらめる

 アッセンでのレースについて話したい。
 私の前に五台のスズキが入り、私は六位!理由は単純明快。クライドラーより五台のスズキすべてが速いだけのことなのだ。フランスGPの後で私がいったことが、ここにはっきり証明されたのだ。この六位で私は一点しかとれなかったが、デグナーは八点、アンダーソンは六点を取った。
 スズキ攻勢がここで決定的になったのか?
 私にはむしろ好都合なことだが、スズキの作戦に少々首をかしげたくなることがある。得点争いのうえでトップに立ったアンダーソンは二位の私に二点の差をつけていたのに、もし作戦としてデグナーを後押しすれば、そのためにアンダーソンの得点は少なくなる。こんどのレースで上位五位までをスズキが独占することで、デグナーは得点争いで二位になった。それは私には都合がいい。しかし不思議なことだ。「私の努力が無駄であった」ことはアッセンでのこのレースの結果をみれば明らかだ。
 一位、デグナー、二位、アソダーソン、三位、市野、四位、森下、五位、伊藤、すべてスズキだ。六位、アンシャイト(クライドラー)それからフアン・ドンゲンとベルトーゼのクライドラーの二名が続いた。
 デルビに乗ったヨハン・ヒューベルトとブスケッツはその後だった。
 一九六三年の晴れやかに始まったシーズンなのにゆううつな日曜日だった。

フランコルシャンで勝てたらまさに奇跡だ!

 ベルギーのフランコルシャンには八万人の観衆が集まった。夏の好天にめぐまれドイツからも大勢の人が来た。まさに晴れの舞台だ。
 絶好のレースびより。
 そして理想的なスタートをした!
 私はすぐにトップに立ったが、最初の上り勾配で、エルンスト・デグナーがエソジン性能にものをいわせて一気に抜いた。しかし、ふたたび私は彼を抜いてトップに立った。デグナーのほかにも、森下、市野、アンダーソンのスズキ勢がそろって私を追っていた。
 観衆も、他ならぬ私のライバル連もこの瞬間、私に有利なレース展開になったと思ったにちがいない。彼等はこの時すでに私の体中から汗がふきだしていたのを知らないのだ。というのはヘアピン・カーブを加速して抜け出ようとした時、変速がきかなくなっていることに気づいた。ギヤーチェンジができないのだ。
 そのため、直線では支障なく全速で走るのだが、カーブにさしかかると必然的に再び失速してしまうのだ。だからトップに立ってはカーブにさしかかって、チェンジができなくて危険であるために、スピードをおとすが、加速が思うにまかせず、スズキ勢とならんでしまう。私は追い越されないように、エンジン回転数をそんなに上げなかった。
 それにもかかわらずーというのはこのレースもあるいは勝てるかも知れないと自信をもった矢先にー森下とデグナーが最後のカーブで私を追い抜いた。私はアンダーソンと伊藤をゴールまでマークしていたのだ。
 私はあきらめていたし、森下とエルンスト・デグナ一に私がこのレースに絶対に勝てたのにと変に邪推されたくなかった。
 「アンシャイトのあのような状態でのレース展開は彼が本当に世界的レーシングドライバーだからこそ期待できたのだ」という多くの新聞を読んで、自信が出た。

(ベルギーGPとアルゼンチンGPの間にはフィンランドGPがあったが、このレースについては記事がない)

一九六三年−予想よりよい

 人々はクライドラーに期待をよせていた。私が前年のようにまたもや敗れさることを決して許しはしない。残る二つのレースを考えると、多くのカープを持つ短いサーキットだからクライドラーにとって不利でないことは確かである。クライドラーの性能で十分である。そこでは最高速度のみがレースを作用することはないから。そのようなコースでは、スズキの、そして一九六三年型のホンダの八段変速に対して、クライドラーの十二段変速は有利なのだ。しかし、この十二段変速では日本勢の最高速度の域には達し得ないのだ。ブエノスアイレスと日本でのレースがせまってきた。私が世界選手権者になるためには、冷静に考えて何がなんでもまずブエノスアイレスで勝つことだ。
 というのは、日本のスズカサーキットでは日本勢以外が勝つことはまずないだろうと以前からわかっていた。ヨーロッパにいる我々には、ほとんど知られていないこのサーキットは、非常に走りにくいからだ。彼等はここで毎日毎日練習し、あらゆる冒険を試みている。彼等はもう命がけで練習をやっているのだ。だからこのサーキットでは日本人以外のものが優勝するとほ思えないのだ。もし日本人以外が優勝するとしても、少なくともそれは日本のマシンによってであろう。
 さあいよいよブエノスアイレスだ!
 細心の注意で準備を完了し、飛行機に乗り、いまリオ・デ・ジャネイロ飛行場に着いた。そしていよいよデグナーとアンダーソンとの勝負だ。ブエノスアイレスでのレースが私にとってのすべてだ。


幸運がほほえむ時、その時こそ! ーブエノスアイレスにてー

 ブエノスアイレスでのレース前に私の得点について見てみよう。デグナーはベルギーのレース前には得点争いの上で二位だった。フィンランドでのタンペアでは私が勝ったが、彼はそのとき三位以内にもはいらなかった。
 もし、ブエノスアイレスでも……。
 私は、自分の経験のみに原因をかえさない人生の鉄則を持っている。つまり「人は一見自分が打ち勝てないことで失敗するのではなく、たいていはそれ以前に精神的に負けてしまっているのだ」。この鉄則は十月六日の私にぴったりあてはまる。私は絶対の自信があった。決して重圧に屈してはいなかった!
 サーキットは町から約三〇キロメートルの所にあった。町からはなれすぎていて、近くには少しはましな宿舎もホテルもなかった。それで毎日三〇キロメートルの道のりを練習にかよい、練習後三○キロメートルの道のりを帰ってくるのだ。
 なんだって? 往復二回の六〇キローレーシングライダーにとっては!″
 私も、とにかく毎日六○キロメートルも行ったり来たりはいやだった。
 コースには問題ない。疑問な点もない。しいて問題といえば、このサーキットをどのように走ろうかということだ。それが冷静な人を興奮させるのだ。レーサーは普通の状態でも冷やかな恐怖心につつまれているのだ。だからめったやたらと前へ前へと進むのだ。左もみなければ右もみない、まして後ろもみないのだ。ここにサーキットの王者の弱点があるのだ。
 一般道路の混雑にくらべれば、レースは静かな休憩時間の楽しみのようにも思える。もちろん、あまり暑くて舌があごにへばりつくぼどのどがかわくこともあるが。当然、暑いだろうとは思っていた。しかしドイツでは樹氷の頃だというのに、アルゼンチンでは日のかんかんと照る七月ころの暑さなのだ。
 われわれはできるだけ気候になれるよう、普通より二〜三日早く到着した。私は自分用に二台のマシンを空輸した。練習の結果によって、そのどちらかに乗ってレースに出るつもりである。私は、その二台で練習をやったが、レースにはそのどちらも使わなかった。
 全然別のマシンで出場した。

ショック!ーその時私は「天使の歌」を聞いた

 十月四日。レースの二日前。
 私は一台で二周するともう一台に乗りかえて練習してみた。そして今日、最終的にどちらにするかを決めるつもりだった。しかしなかなか決心できない。
 私はまず一周した。わずかに三キロメートルたらずだ。次に全速で二周目にはいった。
 いまカーブにさしかかった。一二〇km/hである。傾斜の標識がある。
 そのときだ!!
 異常な衝撃!
 マシンは横にかたむき、私を乗せたまま空中にとび上がった。
 二回だったか三回だったか、あるいはもっと多かったか? マシンと一緒に宙がえりした。
 呼吸困難な垂直のメリーゴーランド!!
 そのとき、私とマシンは離れた。私もマシンも一メートルぐらいとび上がった。マシンのどこかから激しく火花がとんだ。そして何かに衝突した。なんともいたかった。二〜三メートルすべって敷き石に激突した。肩の骨をいためた。
 この落下の瞬間を写真入りで報道すれば特ダネになったろう。
 本能的に私は起き上がった。頭が全然働かない。何も考えることができない。しばらくして人間、アンシャイト、へまをやったものだ!″というようなことが頭にうかんだ。私はもうろうとしながらあたりをみわたした。なにか厚いきらきらしたガラスごしに物をみているようだ。
 しばらくして、私は肩がちくちく痛むのがいまいましかった。うでをうごかそうとして、ひたいに冷汗をかいた。眼が白黒し、胃がいたい。どうしようもないほど痛い。私の胃はもともといたくなることはよくあったが。私は胃をおさえた。
 そして夢心地からさめた。
 ブエノスアイレスでのレースの意味は何も変わりはしないのだ。
 視力が弱ったことに私は寒気を覚えた。肉根ではたしてだいじょうぶだろうか?
 カーブの真中の、傾斜の一番急なところで、エンジンがとまった。エンジンがとまると、後輪に衝激が加わった。回転の逃げ場がなくて無理が生じる。そうなるとマシンは横倒しになる。でもそれまで一一〇から一二〇km/hに近いスピードで走っていたのだから、レーサーは数メートルも放り出されるのだ。
 敷き石がなければ、それに当たることなくすべっていって、鎖骨が折れることはなかったろう。マッチ棒を机の角で折るように、その角で骨を折ってしまったのだ。手の皮がむけたり、ひじの関節がはずれたのはもちろんである。
 私のおそれていたことが現実になってあらわれてしまった。

人は前ぶれを信じるべきか?

 もう確実になりかかっていた世界選手権者への道の途上で、よりによって「転倒」したことを後になって考えると、それに到達するには、なんとなく今度は選手権者になれそうだというようなものでは十分でないことがよくわかる。
 歯車がほんの少しどうかなっただけで一連の災難が起こり、私の希望は粉砕されてしまった。
 その過程を考えると次のようになる。クライドラーでは前年の経験を生かすこともしないで、長い間の討議のすえ、ライダーのためにマシンをブエノスアイレスヘ、ルフトハンザ航空で時間どおりに空輸することになった。多数の箱はレースの十日前に飛行機で着く予定であった。いそいで処理をしてくれれば、空中状態がどうあれ、指定した日には引き渡しが可能であるのに。
 箱のうち、残りの三個はレース前の火曜日に送り出され、それで着いたのはもうレースのわずか三日前だった。そのように突然に計画を変更されるとわれわれレーシングライダーとしてはいらいらして心が安まらない。しかし、世界選手権レースといっても、世界的視野からみればささいなことなんだろう。すべては相対的なものなのだ。なかでも私個人にとって、それがいくら急いでいるからといって、レースをもっと大事なものと考えて特別に扱ってくれと頼むわけにはいかない。
 骨を折って、その痛みから顔を青ざめ、ライバルたちのレースを見た。
 ヒユー・アンダーソン(スズキ)がエルンスト・デグナー(スズキ)とパガーニ(クライドラー)を終始リードして勝った。パガーニは二台のスズキにおくれること二周、約六キロメートルの差をつけられた。しかし、これでエルンスト・デグナーはもう世界選手権への私の支障ではなくなった。ブエノスアイレスを終わって、いまアンダーソンが得点でトップだ。状況は常に変わり、どんどん新しくなる。
 私はあまり物おじしない楽天主義者である。日本のスズカサーキットでの最後のレースの勝者が決まり、もしアンダーソンの前に誰か別の二人が入ることになれは、その時こそ私は救われるのだが。

案ずるより産むが安し

 一九六三年の最後のレースの日、十一月十日まで十分な時間はなかった。私は肩の状態によって最終的な決定をしなければならない。
 もちろん、私はブエノスアイレスでずっと治療を受けていた。そこで「治療」ということばが、医者の処置に対するものすごいお世辞のように思えた。たしかに私には医者の能力に疑いを抱く権利はない。しかし医者は私の腕をほうたいでつるしたまま何もしてくれない。私としては一日でもはやくレースができるようにして欲しいのに。用心のため医者を信じることにしていたが、とうとうがまんならず、医者とけんかしてしまった。
 さすがにその日は、あまりいい気持ちはしなかった。そして、日本でのレースのことを考え、アルゼンチンを去ることにした。
 帰りの飛行機は拷問にあっているようだった。痛いの痛くないの。二十時間の飛行時間の間ずっと目をとじたままで、肩からひざまで完全にマヒしてしまったみたいだった。
 やっとのことでシュトットガルトについた時には、へとへとにつかれて、タラップを一人で降りることさえできないくらいだった。
 日本勢にすべてが好都合にいっているようだ。
 有名なシュトットガルトのスポーツ教授″ハイスは、腕のほうたいよりも鎖骨のめんどうをみてくれた。私は毎日付属病院にかよった。体操をやることをすすめられた。クライドラーは私が出場するものと思ってレースの準備をととのえているうちに、私の痛みもやわらいできた。
 レースの一週間前に、私自身わずかではあるがのぞみをかけて東京へ発った。
 レースの三日前、はじめてマシンにまたがってみた。はじめて自分がマシンに乗った時にどうだったかなんて忘れるというけれど、そのとおりで、私の肩は軽い衝撃を受けただけで痛むのだ。
 出場≠ゥ欠場″か、それしかないのだ。
 私は公開練習の結果に満足した。タイムは肩をかばいながら走ったが、たいてい二番目か三番目くらいだった。
 四時間以上は続けて走ることはできない。痛みがますますひどくなってくる。
 私が自分の練習タイムに満足したといったのは、もちろんハンディキャップを考えに入れてのことである。この練習で見逃がせないことがある。というのは、この最後のレースに二気筒のマシンを送りこんだホンダがいることだ。そのマシンはわれわれの想像以上に断然速い。

軸受がバラバラになる!

 十一月十日の朝、私はあまり早く目がさめてしまって上機嫌ではない。なんとかなるという気分にはほど遠いものだった。
 私は練習で、レースを完走するまでは肩が痛くならないという確信を持たずにレースにのぞむことになった。ホンダにはもちろんだが、スズキにも勝てないのではないかという気持ちをおさえることができなかった。いままでレース前にそんな気持ちになったことはない。私はいままでも、これからも、こんなにまで動揺することはないだろう。もちろん、私はそんな迷いに負けるような人間ではない。要するに、たいした原因もないことに、少々心がめいっているだけなのだ。スタートが近づくにつれ、そんなものはみんな吹きとんでしまった。自信もわいてきたし、全然痛みも感じなかった。レースの興奮がそんなものを吹きとばしてしまったのだ。私は緊張していたが心は平静だった。
 スタートの旗がおりた。私はすばらしい出足だった。
 私はトップに出た。一周目はそのままトップを走った。二周日にはいってすぐホンダに乗ったルイジ・タベリが私を抜いた。私は彼の後ろにつき、スリップ・ストリームにはいって一〇〇メートルほど走った。しかし、上り坂が近づき、そこで一気にホンダが離すだろうということは明らかだった。タべりは私をぐんぐん離して、三周、四周とすぎると、私との差を十秒にしてしまった。今日はこのホンダには誰もかないそうにもない。私はずっと二位のままだった。
 スズキに乗ったヒユー・アンダーソンは私より後で、その差は八秒あった。もしこのままアンダーソンが前に出てこなくて、私が二位になれば?
 私と彼との差は八秒あり、これはほぼ安全圏に近い!もう彼には勝ち目はない。
 おどろいたことに、アンダーソンとくらべて、私の方が一周につき〇・七五〜一秒速いのだ。もしこのままいけば私は二位になり、一九六三年度の世界選手権者だ!
 もしうまくいけば!
 六周日をむかえた。
 そのままの状態でレースは展開している!!
 七周日にはいるや、私のエンジンが急に異常音を発した。いかにも痛みに耐えているというように。そしてエンジンがとまってしまった。コネクティングロッドの大端部の軸受がゆるみ、ばらばらにこわれてしまったのだ。
 万事休す!
 リタイヤ、得点なし。世界選手権は得られなかった。
 二気筒のホンダに乗ったルイジ・タベリが優勝。二位ヒュー・アンダーソン、三位は日本の新人レーサー増田でともにスズキ。私はまたもや準世界選手権者に終わってしまった。
 人は「アンシャイトは万年二位」だという。
 もし、マシンがこんな時に故障を起こさなければ、私は世界選手権者になっていた。私とアソダーソンとが入れかわっていたのだ。
 ”もし”なんてことばをいままで私は軽べつしてきた。
 ”もし”なんていってみたところで何の意味があるのか?
 私の不運がアンダーソンの幸運であるのだ。彼は世界選手権者になったのだ。私は自分の負けは負けとして、友人アンダーソンに心からおめでとうをいった。
 もちろん、準世界選手権者だって簡単に得られるものではない。「準」とついているだけで人の口にのばることはあまりないが。その後、デグナーとの激戦の末、ドイツ選手権には勝った。モーターサイクル・レースというものは、勝つ時もあれば負ける時もある。勝とうとして勝てるものではないことが、日本でのレースでよくわかった。
 一九六四年度への私の抱負は後に書くことにして、ここに少し書いておきたいことがある。世界を征服するため、日本人は異常なまでの意欲を示している。その名誉心が全国民を一つにし、そのために精密な技術と臨機応変な処置が可能なのだ。そのことは何もモーターサイクルとそのレースにだけ限ってあてはまることではない。

日本人に助けられた話

 われわれは新しいピストンを持って日本へ行った。
 ところが、ピストンを取りつける際、ピストンピンのスナップリングを折ってしまった。もっと慎重にやってくれればこんなことにはならなかった。かといってドイツからもう一度それをとりよせることもできない。そしてその時に、さむらい″の話としてしか知らない、とても信じられないような武士道″の精神を教えられたのだ。
 ホンダのレース監督がわれわれの困っているのを知って、何か手助けできないかといってきた。
 我々は彼の真意がわかりかねてためらっていた。彼が何をしてくれるというのだ? こわれたピストンをなおすにしても、新しいのをつくるにしても、残された短い期間では不可能ではないか。何か彼に思惑があるのか? 自分の会社のエンジンの秘密を競争会社にだれが明かせるのだ?
 結局は、彼には他意がないのだと信じる以外になかった。ホンダの人に助けてもらうのはありがたいが、我々は秘密がもれはしないかと悩んでいると打ち明けた。ホンダのレース課の技術者が十人集まって我々と会議した。そしてすぐに結論が出た。それからぶっつづけで十五時間ほどかかってピストンピンを修理してくれた。すべての困難は克服された。
 我々が最初に信用しなかったことを恥ずかしく思った。レース仲間の友情の実例だ。
 ただ、レース中にこわれたのはコネクティソグロッドの大端部の軸受であったことを強調しておきたい。ホンダのやってくれた処置には決してあやまりはなかった。

二気筒エンジンのホンダマシン

一九六三年度の最後のレースで、おどろくべきことを知った。ホンダはこのレースで初めて二気筒エンジンを登場させた。なんと五〇CCでだ!シリンダー容積を半分にして二個のシリンダーをつけ、小さなピストンで二万回転の負荷を支持することは不可能だと考えられていたのに。それは日本人の名誉心と発明心の鼓舞のたまものであろう。
 スズキでも、すでに二気筒エンジンを開発していた。これらのおどろくべき研究開発の業績も、たとえばホンダでは七百人もの人がレース課で働いていることを知ればうなずける。
 わがクライドラーの十人に対して!
 一九六四年度には日本勢はびっくりするようなことをやってのけるだろうか?



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