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1964年

1964年世界選手権レ−ス 50cc 得点表
順位 ライダー名 国籍 マシン 総得点 有効得点 アメリカ スペイン フランス TTレース ダッチTT ベルギー 西ドイツ フィンランド
5 Race
1 Hugh ANDERSON NZ Suzuki 42 38 8 6 8 8 - 4 - 8
2 Ralph BRYANS GB Honda 30 30 - - - 6 8 8 8 -
3 Hans-Georg ANSCHEIDT D Kreidler 38 29 3 8 6 3 3 6 3 6
4 森下  勲 J Suzuki 32 25 6 3 2 4 6 2 6 3
5 伊藤光夫 J Suzuki 21 19 4 4 - 2 4 3 4 -
6 Jean-Pierre BELTOISE F Kreidler 6 6 2 - 4 - - - - -
7 Luigi TAVERI CH Kreidler 5 5 - 1 - - - - - 4
8 Jos? BUSQUET E Derbi 3 3 - - 3 - - - - -
9 Rudi KUNZ D Kreidler 3 3 - - - - - 1 - 2
10 Angel NIETO E Derbi 2 2 - 2 - - - - - -
- Cees van DONGEN NL Kreidler 2 2 - - - - 2 - - -
- Peter ESER D Honda 2 2 - - - - - - 2 -
13 Dick ALLEN USA Ducati 1 1 1 - - - - - - -
- Tarquinio PROVINI I Kreidler 1 1 - - 1 - - - - -
- 谷口尚巳 J Honda 1 1 - - - 1 - - - -
- Albert BEIRLE D Kreidler 1 1 - - - - - - 1 -
- Charlie MATES GB Honda 1 1 - - - - - - - 1


道はますます遠のく

 現在、私はこう思う。一九六三年が私にとってレースの能力がついてきて最後の賭けの年となったー何度かそれは証明されたがーということは私はうれしい。クライドラーと比べて日本の車は同等以上の性能をもってきた。また一方、冷静に考えるとスズキの性能は特に優勢というところまできた。
 われわれクライドラーがレースをやめてしまったら、もう日本以外で唯一の王者になる可能性のある会社はなくなってしまうのではないかという印象を当時私は持った。新たに車を発展させるためにはずいぶん仕事がふえたし、頭も使わなくてはならなくなった。それに、そうするにはずい分、金も投資しなけれはならない。大いにレースに参加していくために、危機感は会社の経営者を通してだいぶはっきりしてきた。経営者に課せられた命題は、すべての反対をおしきって、走れ! レースをやろう! である。いいかえると効率よくレースをするために緊張しつづけろということであった。
 そうこうするうち、一九六三年から六四年にかけての冬に新しいレーサーマシンが開発された。それは「走る剣」と名づけた。それは日本のメーカーも恐れをなすはずであった。だが、日本でホンダがつい最近のレースで、ついにスズキをも、もちろんわれわれをも負かせるような車を製作したということを示しはじめた。一九六四年にはわれわれは日本の二つの敵を持ったことになる。
 われわれのレーサーマシンはフレームが前より少し小さくなり、そのためちょっと取り扱いにくくなった。エンジン性能はいまや十一・五馬力以上、そのときの回転数は一三〇〇〇rpmにもなっていた。それはドイツの深遠なる学問からすれば別に常識外でもない。そして、変速機は従来どおり十二段である。(それは足で四段変速し、手で三段変速するもの)また(前進二段)×(九段ギヤ)=十八段のものも用意した。
 これらの変化はあらたな契約ライダー、タベリとブロピーニにはとっつきにくいものであった。タベリは足と手の両方で操作する十二段変速は故障につながりやすいのではないかと考えてもいた。彼は自分のわきにはいつも長い間使っていた別のマシンを持っており、それはクライドラーとはちがった機構の変速方式がついていた。新しいマシンほ相当取り扱いにくくなった。無骨ともいえるフレーム構造、多少重くなったエンジン、そして新しいブレーキは重量を増していた。スタンドでのテストは実際にあらゆる点で性能検査された。だが、走行試験はいまだもって行なわれていない。そういった成績は本来、昨年七月に行なわれるべきものであった。
 このような時にでも、ライン河の水は流れ続けていくのだ!

冬の眠りから早くも目をさまされたデイトナビーチ・レース

 ロンドンで行なわれたFIMの会議で、一九六四年第一回のGPをはじめてアメリカ合衆国で行なうことになり、場所はフロリダ州のデイトナビーチに決定した。日は二月一日、二日!そんなに早い国際レースははじめてのことだ。
 だが、フロリダについて勉強し、そして知るのはなかなか魅惑的ではある。ドイツの冬の厳寒地からデイトナの温暖な気候のところへ行けるとは楽しみであった。本によれば、オレンジの実がなり、果物が一杯のところへ飛行機で行けるのもまたこたえられない。
 わがクライドラーチームとしては、私とともにルイジ・タベリ、タルキニ・プロビーニが同行することとなった。日本製のかなりの性能をもったレーサーマシンと対抗せねばならないと予想すると、今後のレースからレースへの道はけわしい。フロリダでは四台のスズキチーム、それと三台のホンダチームと競うのほ本当にむずかしい。それで、対抗チームのマシンの方がずっと速いときにほ、わがチームの戦術的かけひきによって追う者と追われる者との間で工場チームの能力を高めようと練習するんだが、それは考えるだけでも困難であろう。たしかに、そのときクライドラーチームほ、それほど活動的ではなかった。それほど、デイトナビーチでは悲観的になってしまった。スズキの車は一周で二秒から二・五秒ぐらい速いようであった。
 仲間のタベリ、特にプロピーニはマシンに重大なトラブルを起こしてしまった。彼等ほ新しい十八段ギヤには十分慣れきっていない。よしかれ悪しかれ、古い十二段ギアの方のマシンで走らなくてはならなくなった。ということで、私は新しいチームメートの援助を期待できなくなった。私についていえば、当然、ほんの少しの故障も起こしたことはない。というのほ、私ははじめから車の設計製作に関係していたからである。
 雨でつぶれてしまったトレーニング予定日後、日曜にほ太陽が輝いた。気温ほ零下五度Cぐらいで、家ののき先にはつららが花のようにたれ下がった。
 レースでは私は特に幸運なスタートをきった。しかし徐々にスズキチームに抜かれ、間もなくアンダーソンがトップに立った。それに森下勲、伊藤光夫が続く。第二周目のはじめにはすでにアメリカ人リー・アレンは一周遅れにされていた。三周目にはルイジ・タベリがマシントラブルで脱落した。四周目にはプロピーニも落ちていった。ああ、もう自分に頼るしかない!それからもアンダーソンはぐいぐい前へ出てゆく。クライドラーが車を貸して自由に走らせたベルトーゼも.一周遅れにされた。われわれはシュンとしてしまった。デイトナビーチでスズキにとって偉大な日を迎えるだろう。ヒユー・アンダーソンは平均速度一二七・〇一km/hで勝ち、以下、森下、伊藤と続いた。私は四位となり、その後に一周遅れのベルトーゼが続いた。私は一九六二年と六三年の第一戦の世界選手権、バルセロナでは二回とも勝ったのに、ことしは四位の三点しか稼げず、蒼白ともいえるスタートとなった。非常に確実に走るスズキを前にして私は本年は光栄あるシーズンを期待できそうにない!私がもともともう少し神経を使うたちだったら、デイトナビーチにもっと注意を払っていたのに、一九六四年はどうもよくなさそうだ!

またもや勝ったバルセロナのレースーそれとまたあの向うみずのブスケッツ

 いまや私はバルセロナで二度勝った。そして本当に大胆で無鉄砲な走り方をするデルビのやつ、ブスケッツは二度カーブの入り口と出口で戦いをしかけてきた。だが、結局それを追い払った。そしてあのスズキの人たち、それからホンダのブライアンズ、ロブ、それと一九六二年のマン島T・Tで転倒してからやっと回復した高橋、私は彼等にも勝ったのだ。
 ブスケッツーわれわれはもともと彼をチャメ気十分なやつと思っているがー彼は軍に服務中であった。彼はこのレースのため二、三日の休暇をとって参加した。だから今度ほ本気でやってきたんだろう。
 十時スタート。太陽は雲一つない空に輝く。そんな日にはたいてい勝てる自信がある。そのうえ、バルセロナのコースはいちじるしく特色のある短いコースだから、まさに私向きのコースである。もし、ここでうまくいかなかったら、本当に今シーズンはあきらめなくてほならないq
 スタートラインの第一列にスズキの二台、森下と伊藤が並び、第二列にアソダーソンと私が並んだ。最初には森下がトップに立ち、それに、私がつづいた。少しはなれて伊藤が行く。それからブスケッツ。後はブライアンズ、ロブ、高橋のホンダ勢が続く。そして二周目にはついにブスケッツが先頭に立った! 私は二番目、それから森下、伊藤と続いた。高橋は五番目であり、私の僚友・タベリは六番目に位置していた。
 休暇をとって参加した軍人ブスケッツはまたもや生き生きとしている! 私は彼のすぐ後ろにつき、そうこうするうちにタべリが三位に上がってきた。ホンダ勢はわれわれが恐れているほど速くはなかった。私たちの後ろにはアンダーソンと伊藤が位置していた。
 第九周目に入っても私の後ろの順位は変わりなかった。私はなかなかブスケッタのすぐ後ろにつくということはできなかった。アンダーソンと伊藤が威かく的に追い上げききた。第十一周日にこの四者はくっついた状態になった。私はブスケッツのすぐ後ろに密着し、アンダーソソ、伊藤、それにタベリ、森下もついてきた。(実はタベリはこのとき一周遅れになっていた)
 十二周目、ついに私はブスケッツを完全にとらえた。アンダーソンは後ろに落ち、同時に伊藤がぐいぐい出てきた。二、三秒後には一周遅れのタベリが私をエスコートし、その後ろに森下がいた。
 十三周目、ついに私がトップに立つと、ピットではクライドラーの歓喜の声が上がる。私の後ろにもうブスケッツは消えていて、アンダーソンと伊藤が続いていた。
 ブスケッツはついにもう一度決死の走行はできなかった。というのは不運にも後輪のスイングアームがいかれてしまったのだ。それもあと二周目のところで!
 ついに私は三度もバルセロナで勝った。それも、勇気十分、向うみずとも思えるブスケッツに対抗して。本当に異常なほどむずかしい、神経のくたびれる戦いであった。私がレース終了後、彼のところに行くと、私は彼の肩に手をやった。彼の目は涙で一杯で、なんともなぐさめようもなかった。レースでの堅い仲間であるため、涙は止まらなかった。彼はレース以外では何ともあわれみ深い普通の若者なのである!彼の不運に同情をよせるにしても、それは私には本当につらいことだった。
 彼のマシンの後輪のスイングアームが折れたとき、私はそのすぐ後ろ二メートルぐらいのところを走っていたのだが、そのとき何か小さい破片が私の頭の横をすっとんでいった。私は本能的に頭をかがめた。気の狂ったようにすっとんだ溜霞弾のような破片が当たったら、私の頭はずたずたになっていたろう。本当に幸運だった。われわれレーシングライダーは時としてちょっとした幸運を必要とする場合もある。だが、そういった幸運の意味がわかるようになるには、ずいぶんレースをやってからのように思える。
 またもや私はバルセロナで八点を稼ぎ、アンダーソン、伊藤、森下を抑えた。だが、タベリほキャブレターの故障のために一周遅れになり、六位にとどまった。
 私はブスケッツの不幸がなかったら勝っていたろうか。でも勝つ希望はもてたかもしれない。すばらしい闘士・ブスケッツに称賛を贈ろう。すごい勇気を持った豪傑、向うみずとも思える男ほ、車の性能を超越して実に速く走る。いずれにせよ、ここにレーシングライダーの裏面がかくされているのだ。

マン島T・Tレースーどうやっても及ばないレースー

 ダービンハーベンホテルに三度目の宿をとった。同国人パーン氏のホテルに泊ってお世話いただいたのである。尾のない猫のような形をしたマン島、それはアイルランドの海に浮かぶ小島で冷凍羊肉からごま入りソースまで本国イングランドからとりよせている。レースだけが最大の催し物である。
 五〇∝クラスでは二十人のレーシングライダーが参加した。私の記憶によれば、クライドラーからタベリ、プロビーニ、それと私。スズキからはアンダーソン、伊藤、森下、越野。それから一年ほどひっそりとしていたホンダ勢は二気筒の四サイクルエンジンを出してきた。それにはブライアンズ、谷口が乗る。その他に八人の個人出場のレーシングライダー、二台のトーハツ、一台のイトム等であった。越野と私が第一番目にスタートした。越野は私よりずっと速く、またたくうちに見えなくなった。私と越野の十秒後にアンダーソンとタベリがスタートした。バラクラインのところでは越野はずっと後ろにいた。おどろいたことにヒユー・アンダーソンがいまや私を追いこそうとしている。私の後ろにはブライアンズ、タベリ、谷口、伊藤の姿が認められた。サルビーブリッジではアンダーソンは私のはるか前を走っていた。彼はかなり懸命になって走っている。私は全体からみると五番目ぐらいだろうか。町の繁華街にはいる頃には私の十二段ギヤのエンジンの調子がかなりよくなってきた。ピットからのサインでは一位の指示が目にほいった。直線の終わりの部分でほ八秒リードしていた。だがT・Tレースで一位ということは無条件に一位ということではない。というのは、前にも述べたように十秒間隔でスタートしているのであり、アンダーソンは私の十秒後にスタートしている。最終的には、私はどのあたりに位置しているかはわからない。アソダーソンが見える。文句なしに彼が一位であろう。私と一緒に戦う五人の勇者は歯をくいしばっている。一位をめざして!
 二周目のサルビーブリッジでは越野が私を抜いた。ブライアンズがずっと近づいて来た。彼は私よりたった二秒遅れである。ヒユー・アンダーソンはすでにグーテリー・メモリアルを通過している。これが最終回である。彼は着々と勝利に近づいている。私はゲート寺院では二番目を走っていた。ラルフ・ブライアンズと森下が私のすぐ後ろに続く。森下は徐々に二位に出ようとしている。
 ヒュー・アンダーソンがゴールした。一九六四年T・Tの勝者となった! 私はゴールした順序からいうと二番目である。しかし、ブライアンズは私の二十秒後にスタートしているから彼が二位を占めたらしい。彼はうまいレースをしたもんだ!
 私は結局森下にも勝つことができなかった。私は四位ということである。
 ヒュー・アンダーソンは前にデグナーが出した新記録より四十三秒も早かった。二位のブライアンズによってホンダがよく走ることが証明された。森下は最小クラスで決して疲れることを知らないスズキで三位を確保した。
 そして私は? よく走った。本当によく。しかも私の信頼高きクライドラー・・・結局四位で三点。これ以上幅を狭くできない狭胸の計算機のようなエンジンで、一九六四年はどうにか総合成績二位になれるか、なれないか?

オランダ・アッセンでのレース、スズキに勝ったホンダ

 また六月の最終日曜がやってきた。習慣によりこの日が、誇り高き「ダッチT・T」と呼ばれるオランダGPで、本年はアッセンのファン・ドレンテ・サーキットで行なわれた。このレースで私の唯一人のチームメートはオランダ人のバン・ドンゲンであった。クライドラーはかってイタリア人との契約をゆるめていたが、それはあまりうまくいかなかった。ルイジ・タベリはトレーニングでは三番目に速かったのだが、ホンダの二五〇CCで練習中、転倒してからだがふっ飛び、脳震盪を起こして病院に運び込まれた。結局、私は練習不十分で第二列のスタートラインについた。第一列には勿論!アンダーソン、森下、伊藤がいた。
 私はみごとなスタートをし、伊藤をグッと離した。アンダーソンも後ろにいる。かなり有望な開幕である。
 だが、一周目でラルフ・ブライアンズ、ヒュー・アンダーソン、それに伊藤も私を抜いていった。ホンダがトップに立ったのだ。ブライアンズはアンダーソンからの攻撃を打ちのめしつつある。私の前に伊藤が行く、そして私の後ろに越野、森下が続く、時々アンダーソンがブライアンズの先頭を奪い返すこともあった。
 三位は伊藤、四位越野、そして五番目に私が走る。しかし、四周目になるとブライアンズがまたアンダーソンを離す。だが、しばらく二人は猫とねずみのような追いかけ合いを続けていた。ブライアンズは直線でいつもつかまりそうになる。
 六周目に彼は完全にトップに立ち、彼の思うままに独走態勢にはいった。ずっとおくれて二位伊
藤、森下、そして私が続いた。ヒユー・アンダーソンはガソリンもれで去ったのである。手に汗握らせる二人の対決は完全に終わり、ブライアンズのマシンは気持ちよくかけまわる。二十六秒のリードをもって勝者となった。これは、ホンダにとってはヨーロッパの五〇CCレースで初めての勝利であった。二位、森下、三位、伊藤、そして私はまたもや四位に終わった。
 日本製の車の進出にはもうほとんど勝てそうにない。私は何度か自問した。一九六四年世界選手権を得るために、面白い戦いができるかどうか。ああ、もうだめだ!

新設計のクライドラー(一九六四年七月十九日・ゾリチエードにて)

 われわれが新たな考えのもとに設計した新レーサーの信頼性を確かめた。六三年から六四年にかけての冬に、ありとあらゆる手段と考えをもとにして作られた車が、ある問いに対し答えを出すべくその姿を現わした。その問いには、スズキとホンダに十分対抗できるかどうかということである。
 新設計レーサー、新設計エンジン、新設計クランクシャフト、新設計クロマル・シリンダー、それに加えて新設計の変速機、その変速機は従来のものにさらに手を加えたものである。大いなる期待、性能に関する楽観論。これらは七月十九日のトレーニングにおいて確かめられることになっていた。私は今後の車に対し大きな信頼感をもってトレーニングに臨んだ。この新しいモーターサイクルには非常に多くの労力をつぎこまれている。クライドラー社が、はじめて開拓者精神をもって二年間かかってつくった五〇CC車である。そのうえに現在の状態においてほ、大きな希望と確信がその車にかけられている。ルイジ・タベリのために一台、私のために一台、トレーニングに用意された。レースにおける沢山の経験が、新たに結実するために不可欠なものであると私は確信している。
 新しい変速機は注意深く取り扱わねばならなかった。加速走行には何度も変速をくり返す必要が生じるので、それに要する時間の損失を最小限にしなければならない。新しいエンジンは相当に高出力なのでパワーバンドはほんの四〇〇rpmぐらいしかなかった。これらすべての新機構を完全にマスターすることは実にむずかしいことであった。
 ゾリチエードにおける走行テスト結果ほ「もうやめろ!」の一語であった。つまり、エンジンに欠陥が生じたのだ。ピストンのスカートに割れが出ていた。これでは私はもう今度の新しいマシンで走ることもできなくなった。というのは、クライドラーでは一人当たり一台のマシンしか用意していないのである。これではあまりに近視眼的ではなかろうか? 日本の工場チームは一人のライダーに二台のマシンを用意している。彼等はトレーニングで万一マシンが壊れても、もう一台持っているから別に困ることはない。それに対してクライドラーでは、マシンを壊すことは、親をなくして孤児になってしまうような気がした。
 いま述べたように、私のマシンが駄目になってしまったので、やむをえず私は本来ならルデイ・クンツが用いるはずのマシンをレースに使用することになった。その車は公式練習ではたしかに速く走りはしたが、どうも私にはピリッとこない。ここというとき、回転が上がらないことがあるので、レースでは「宝くじ」を引くようなことになるかもしれない。初演で不運に終わるかもしれないし、沈黙という外套を自ら好んで脱がねばならないかもしれない。
 地元ゾリチュードにおけるレースはまたもやホンダとラルフ・ブライアンズのために用意されたパレードになった。彼は九周をスズキの森下と伊藤を何と四十八秒も離して勝ったのだ!私は四位に終わった。
 今度の敗北によって、私は憂うつになった。はじめて見物人から批判の声が私にあびせられたからだ。どこでも普通、地元のレースで愛国心的な見方をする多くの人々は、私のレースぶりにすっかり失望してしまった。シュトットガルトのクライドラーは自分の園″において負けたことは、ゾリチエード城が毒で一杯にされたことを意味するのだ。
 スズキとホンダのチームに対して、われわれクライドラーはもう一位になることはできないのだろうか? 本当に、クライドラーは秀れているのに。ため息ばかり出る。この一九六四年七月十九日は私にとって灰色の日となってしまった。

アンダーソン、ついに世界選手権者に

 本年のフィンランドGPはイマトラのコースで行なわれることになっていた。そこでもホンダのラルフ・ブライアンズが勝って、結局、世界選手権者になるのではないかということは、最近の速いホンダを知っている者ならば誰も疑う者はなかった。
 彼はスタートからだん然トップにおどり出て、アンダーソンと私を離した。五周まで彼はリードした。が彼の運はここでつきた!彼の車の前輪ブレーキの固定部がゆるんできたのだ。そのため彼は、前ブレーキを用いることができず、カーブでは常に一段または二段下のギヤを用いなくてほならなくなった。その結果、点火が徐々におかしくなり、回転が上がらなくなって、ついには片方のシリソダーは爆発しなくなった。ここにおいて、ブライアンズとホンダは世界選手権を手中に収める野望は消えてしまった。
 ブライアンズは消え、アンダーソンが一位になり八点を獲得し、一九六三年につづいてアンダーソンが、そしてスズキが世界選手権を得た。
 そのレースで私が二位に、タベリが三位、ルディ・クンツが五位にはいり、クライドラーとしては満足すべき成績を収めた。だが、一九六二年以来、本年も私は世界選手権者とは縁遠くなってしまった。
 いや、そうじやないんだ。またそのうちチャンスが来るさ。

栄光ある八種目世界新記録

 すでにイマトラで世界選手権者は決定した。本年最後の日本GPに参加したところでクライドラーには何の意味があろうか。
 十一月一日、その日に日本では新たな名声、栄光を持ったレーシングライダーが現われるはずである。そんな日にクライドラーはパリ近郊のモンテ・コースで世界新記録を樹立した。モンテリーはまったくのテストコース向きでモンツァでのイタリアGPの後で、モーターサイクルの記録走行をやってみたくなるところである。というのは、そこはモンツァ同様見かけは単純なコースである。またモンツァ・イタリアGPの後にはモンテリーで走行を行なうまで十分の期間がある。記録走行には〔前置三段〕×〔四段ギヤ〕=十二段のを用いる計画である。また、〔前置二段〕×〔六段ギヤ〕=十二段のものも携行することに決めた。この記録走行ではなかんづく著大な業績を上げる必要がある。私は四段ギア×三=十二段の方が速いので、それを用いることにした。また記録ライターとしてヨッケン・ブロック氏に現場に立ちあってもらい、十キロメートル、一〇〇キロメートル、一時間、六時間走行等の記録をとってもらうことにした。
 六時間走行記録挑戦には、私と一緒にルディ・クンツ、オランダのバン・ドンゲンが走ることになつていた。ところが、ルディほ第一回のテストランで不運にも転倒し、入院という事態になってしまつた。軽い鎖骨骨折で、記録会には参加できないが、それほど重傷でなかったのは不幸中の幸いであった。それで彼の代わりに急いでフランスのジュニア選手権保持者クロード・ヒグレーを抜てきすることになった。彼にクライドラーで一周走らせてみると優秀な走りぶりであった。また燃料としてはアルコールではなく、ガソリンを用いたのはもちろんである。(訳者注:アルコールの方が馬力が出る)

時間に六つの新記録!

 気温は夜の間に驚くほど下り、われわれは十月三十一日午前九時の第一回スタート予定を二時間延ばした。十一時に記念すべき第一の新記録が出るはずであった。五周目をすぎたところで十キロメートルの新記録が出た。旧記録はドイツNSUのH・P・ミュラーが一九五六年に出した十キロメートルでの平均速度一三四km/hのものであるが、私はそれを一五・七九km/h上回ることの一四九・七九km/hである。新記録NOl。
 タンクを満タンにすると、次に一時間走行の挑戦にかかるべく、再スタートした。この走行では十キロメートル、一〇〇キロメートルへの記録挑戦も兼ねている。四周目に私は一周五五・八秒で走り、平均速度一六一・三km/hとなった。そして結局、十キロメートルではさっきの記録をさらに上回る平均速度一五一km/hを記録した。五〇周を過ぎた時点で一〇〇キロメートル走行世界新記録一五八・六七km/h・・これはやはりNSUのH・P・ミュラーが一九五六年に出した記録一四二km/hを大きく破るものである。
 六十四周をしたところで、一時間走行記録が生まれた。一時間に走った距離一五九・一〇八キロメートル。旧記録はイタリアのパッシーニの一四三キロメートルで、それを光の如くうち破ってしまった。
 一時間の間に同時に六つの世界新記録の樹立である。
 また、この中の三つは七五CCクラスの記録をもしのぐものであった。

六時間で走った距離が八三九・九一二キロメートル

 翌日十一月一日九時、六時間走行の記録挑戦のためスタートするはずになっていた。ところがモンテリーのコースにはスープ色の濃い霧が立ちこめ、記録挑戦はまず不可能となった。その日の走行はやめるかどうか決めかねていたところ、十時をすぎた頃、少しずつ霧が晴れはじめ、太陽も姿を見せはじめた。コースの気温も七度以上には上がりそうもないので、いよいようれしい記録挑戦となった。(訳者注:気温が上がることは馬力低下を意味する)
 十時五十五分、われわれ三人のトップバッターとしてバン・ドンゲンがスタートした。彼の走りっぷりはかなり前途有望なものであり、一周を約五十九秒で回った。それにもかかわらず、最初の一〇〇キロメートルを走り終わったときは、平均速度一四九・三七血/hにしかなっておらず、これはH・P・ミュラーの記録を七km/h上回ったにすぎない。一時間をすぎた時点ではかなり気温変化がおこり、風もでてきたのでマシンの性能は徐々に下がっていった。
 二番手クロード・ヒグレーが次の一時間走行のためにマシンに乗って走り続けた。彼はバン・ドンゲンほど遅くはなかった。彼が一時間乗った後、私が引き継いで乗る前に、念のためバッテリー交換を行ない、部品点検をした。私は一周平均五十七秒で回った。
 最後の一時間、バン・ドンゲンが走っている間に六時間が経過した。クライドラーのレーサーマシン「走る剣」はいまや八三六・九一二キロメートルを走った。その間の平均速度は一三九・四九km/hである。・・それもバッテリー交換、タイヤ交換、ガソリン補充の時間も含めてである。
 これらの新記録は世界選手権をとれなかった幻滅を少しでも小さくする役目をはたしたし、同時に行なわれていた日本GPをけん制することにもなったであろう。
 クライドラーによる以上の新記録のうち特に三つの記録、十キロメートル、一〇〇キロメートル、一時間走行は、私のレーサー生活に大きな喜びをもたらした。また、六時間走行での新記録は、その喜びをバン・ドンゲン、クロード・ヒグレーと分かちあった。
 一九六四年、これらの世界新記録がなかったら、この年は私にとってどうなっていたろう。私の生涯の一句読点をここに置くことができる。

総決算

 モータースポーツ選手として十年間活動してきたことについて、一九六四年を回顧してみるのは、アジア時代にはいろうとしているとき、私にとっても無意味なことではなかろう。現在の冷静なとき、現在の天職ともいうべき私の職業を考えたとき、十年の選手生活の決算、赤字か黒字か。それは黒字であった。たしかに私にとって本年ほいつもとちがって相対的に控え目の年であった。モトクロスからの私の道は銀メダルで始まった。そして、ロードレーサーとしてはじめてスタートしたとき、その結果は二年にわたって世界選手権第二位のもので、その道は期待で十分満たされていた。それからすでに私の名誉は小さくなりつつある。
 十年の次のスタートはいまや交叉点の赤信号で止められようとしている。
 いままでに私は、自分で企てたものをほとんど達成した。一九六五年に次の十年が始まろうとしている。私はそれに対し、大きな能力をもって、豊かな経験をもって、新しい勇気をもって対処しよう。私は二度もこの五〇CCクラスで世界タイトル二位に終わったとき、私は次のことを試みよう。
 再び世界選手権第一戦が始まろうとしている。そして再び野心あるライバルが現われようとしている。私の職業はその行為において美しい天職とも思っている。いつでも私の職業でのライバルを私の友にしてきたことは疑いもない。マシン運送車の中でのふん囲気、レースの日、輪と輪の戦い、そしてエンジンのバリバリいう金属音のようなメロディ・・もう思い出すのはやめよう。


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