1965年
1965年世界選手権レ−ス 50cc 得点表
順位 |
ライダー名 |
国籍 |
マシン |
総得点 |
有効得点 |
アメリカ |
西ドイツ |
スペイン |
フランス |
TTレース |
ダッチTT |
ベルギー |
日本 |
5 Race |
1 |
Ralph BRYANS |
GB |
Honda |
38 |
36 |
- |
8 |
6 |
8 |
- |
8 |
2 |
6 |
2 |
Luigi TAVERI |
CH |
Honda |
39 |
32 |
- |
6 |
3 |
6 |
8 |
4 |
4 |
8 |
3 |
Hugh ANDERSON |
NZ |
Suzuki |
37 |
32 |
6 |
4 |
8 |
1 |
6 |
6 |
6 |
- |
4 |
Ernst DEGNER |
D |
Suzuki |
26 |
26 |
8 |
- |
- |
4 |
4 |
2 |
8 |
- |
5 |
伊藤光夫 |
J |
Suzuki |
16 |
16 |
- |
3 |
- |
3 |
- |
3 |
3 |
4 |
6 |
市野三千雄 |
J |
Suzuki |
6 |
6 |
4 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
2 |
7 |
Hans-Georg ANSCHEIDT |
D |
Kreidler |
6 |
6 |
- |
1 |
2 |
- |
- |
- |
- |
3(suzuki) |
8 |
Jose BUSQUET |
E |
Derbi |
4 |
4 |
- |
- |
4 |
- |
- |
- |
- |
- |
9 |
Jacques ROCA |
F |
Derbi |
4 |
4 |
2 |
- |
- |
2 |
- |
- |
- |
- |
10 |
越野晴雄 |
J |
Suzuki |
3 |
3 |
3 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
Charlie MATES |
GB |
Honda |
3 |
3 |
- |
- |
- |
- |
3 |
- |
- |
- |
12 |
Angel NIETO |
E |
Derbi |
2 |
2 |
- |
2 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
Ian PLUMRIDGE |
GB |
Derbi |
2 |
2 |
- |
- |
- |
- |
2 |
- |
- |
- |
14 |
Cees van DONGEN |
NL |
Kreidler |
2 |
2 |
- |
- |
- |
- |
- |
1 |
1 |
- |
15 |
Gaston BISCIA |
U |
Suzuki |
1 |
1 |
1 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
Barry SMITH |
AUS |
Derbi |
1 |
1 |
- |
- |
1 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
Leslie GRIFFITHS |
GB |
Honda |
1 |
1 |
- |
- |
- |
- |
1 |
- |
- |
- |
- |
伊藤 晶 |
J |
Honda |
1 |
1 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
1 |
ある決定の年
われわれは「運」を利用しなくてはいけない。しかし、クライドラーについていうと、来たるべき年は暗いベールにつつまれてしまっている。競争相手の中で新しくない車、つまり、〔前置二段〕×〔九段ギヤ〕=十八段変速の車でレースに参加するなんて恥さらしなことだ。
レースでカーブにさしかかると、前方を見つつ、減速を行ない、また最大の加速をする。そのときに時間の損失が起こる。新しい変速機では、われわれは何度もそれを行なわなくてはならない。特に直線の加速では変速のときの時間の損失が大きい。
「新しい幸運の新しい年」を待つには私の性質はナイーブすぎる。「幸運」は元来、ライダーとマシンの戦いによって得られる獲物なのである。
ニュールブルク・リンク:ホンダーホンダースズキースズキーデルビークライドラー
レースで、はじめから勝利を断念してしまうのはよくないことはわかっている。ホンダとスズキは偉大な時代を迎えつつあることは、昨年の経験から、私はたえず感じた。一九六五年の第一戦でホンダは六四年型の二気筒を、特にスズキは十二段変速ではじめての二気筒、しかも水冷のエンジンを持ち出してきた。
日本レーサーマシンのオンパレード!ラルフ・ブライアンズが勝者、二位ルイジ・タベリ、彼も二気筒のホンダに乗っている。続いてスズキ二気筒のアンダーソン、伊藤と続く。そして、デルビのニエトがまた速かった。彼はマシントラブルにあったにもかかわらず。ああ、むなしい!
だが、レースは私の天から与えられた職業だ。私はそれを心から愛す。
このレースで、私は結局六位で一点を稼いだにすぎなかった。もう期待はもてそうにない。
バルセロナ・・三度はうまくいったんだが
私はスペインGP、バルセロナで過去連続三回勝ってきた。三回うまくいっても、四回はうまくいかないことを、四度目にして私は悟らされた。古いがよく走る六三年型クライドラーがパドックに運ばれた。その事は最後のお役目になるかもしれない。「古いのを捨てなきゃ、新しいのは来ないさ」ということばも私はわからないことはない。すべての要求を満たすようなレーサー、それは速いかもしれないけど、新しいがゆえによい結果を生むとはかぎらない。
スタートからデルビのヨゼフ・ブスケッツが驚くべき速さでふっとばした。タベリの姿がまたたくうちに消えた。一周目ではブスケッツ、ブライアンズ、アンダーソン、カネラス(デルビ)、バリー・スミス(デルビ)それから私と続いた。デグナー、伊藤はかなり後方にいた。
二周目ではアンダーソンン、ブスケッツの順であった。五周目には彼は自分の新記録を破るラップタイムを出した。
私の持ってるメモによれば、八周が終わったところでアンダーソンからおくれること十八秒差ブスケッツ、二十四秒差ブライアンズ、三十五秒差タベリ、五十秒差の私!
そしてあと六周を終わったところで、その差はもっと大きくなった。一分以上もおくれて私は五位!私は本年度二回の世界選手権で三点しかかせいでいない。しかも、バルセロナは私のコースなのに!いい訳めくが、私の古いクライドラーでも最高ラップは七秒も速くなっている。
バルセロナ戦のたった八日後に世界選手権第三戦が行なわれる。ことしはクレルモン・フェランではなく、ルーアンで行なわれる。
郷里へ帰る畷さえない。われわれは最初の三日間は、今度のレースにそなえ、スペイン・モンジュイッチ公園で休んだ。そして、旅行中の水曜には、モーターサイクルの会社「ブルタコ」に立ち寄った。私のプライベートマシンの補充部品を購入しょうというのだ。レーサーマシン輸送用の自動車は工場のすぐそばに駐車しておいた。
ところが、工場を回っていた四十五分ぐらいの間に、二人組らしい泥棒が私の車から、ありとあらゆる物、役に立ちそうな物は何でも持っていってしまった。すべての用紙、旅券、運転免許証、身分証明書等全部やられた。それから東奔西走が始まった。まず警察へ、ドイツ領事館へ。見知らぬ町でこれらの官庁を捜すのである。
やっとのことで木曜日に簡単な盗難証明書を手にして戻ると、盗まれた免許証、ライセンスが返ってきている。とたんに、私はへなへなとなった。となると急きょ出発である。ルーアンでのフランスGPの公開練習日にあと十七時間しか残っていない。そこまで一一〇〇キロメートルもある。となると時速六十五キロで走らなければ間に合わない。進め!フランス国境二〇〇キロ手前のコスタ・ブラバの海岸町を走りに走る。国境のすぐ手前、美しい小さな町に小ざっばりとした「ラリー・ホテル」がある。それについてわれわれはすでに一年前からなじみになっているが、そこでちょっとコーヒーを飲みに寄り、旅行用サンドイッチを作ってもらった。そうしていると、わがクライドラーの付き添い人であり、エンジニアのヨッケン・ブロック氏がいらいらしながらいった。「マイナス二十分!」
われわれはルーアンへ向けてツールーズ、リモージュ、ツール、ルマン、ルーアンを通りすぎる。金曜日の朝、夜行でくたくたになりながらコースに到着した。平均時速は六十五キロより速い六十九キロであった。
ルーアンでまた負ける
ニュールブルク・リンクでも、バルセロナでも六十五年型クライドラーは、いわゆる六十三年型よりすぐれたマシンであるということは一度として証明できなかった。だが、ルーアンでは私は新型に乗るつもりであった。公式練習では、それで三番目のラップタイムで走れたが、レース当日、第一周目でエンジンはストップした。万事休す。
クライドラー、レースを断念
ルーアンでの私の失敗は、いままでの成績に一大汚点を加えてしまった。光栄ある将来に向かって新しいスタートを求めて、クライドラーは根本的テストをするためにレースを休業する!
多分、近視眼的な見方と私は今日ではいわねばならないが、さけがたい結果から今後、休業するなんて何とがん固な考え方であろう。一九六四年のモンテリーの威光ある世界記録を持ちながら、完全に退場する。そのときは、本当は日本での最後のGPに参加すれば世界選手権二位になれたのかもしれないのを断念したんだ。「世界第二位」・・そんなもんで私は十分ではない。クライドラーは退場する運命にあったんだろう。いつか、ある人がいったように、それはいつ?偉大なる時代は過ぎ去ってしまった。ルーアンで、回転しなくなったマシン。かって二回にわたって準世界選手権者という光栄ある成績を残したクライドラー!
私の年間契約は一九六五年までであった。私はクライドラーに縛られている。馬なしの騎馬兵のようなレーシングライダーになるなどという考えを持つことは賛成しかねる。
用意した自分の馬
実は私は「馬小屋」に一頭の「馬」を持っていた。昨年の冬の間中、私は一台のプライベートマシンを組み立てていた。六三年のクライドラーのフレームを改造して、それに一二五CCのMZのエンジンを載せたものである。六一型のMZのエンジンは、多少改造しても、世界選手権戦で十分戦えるようにはならなかったが、プライベートレーサーのうちでは、一位になれると確信できるほどになった。
私のクライドラーとの契約ではその契約持続中、私が他の工場マシンで走らなけれはよいということになっていた。だが、ルーアンの後、私はクライドラーの工場マシンで世界選手権に出場してはいけないと命令されていた。多分、もうよい成績を上げられるチャンスはないと思っていたのであろう。だが、ついに私は個人出場することを決心した。私は内外をとわず、多くの国際レースに参加することになった。そこで、まずモンツァにおけるイタリアGP一二五クラスに私のMZで参加することになった。
モンツァは朝からすさまじい雨の日であった。コース上、あちらこちら路面があれていることがうかがわれた。空の神がレーサーを悲惨な目にあわせたくてたまらないかのようにどしゃぶりとなった。
私は全部で十一台の工場マシンを相手に走ることになった。このひどい天気のために、かなりつらいレースとなった。結局、私は二台のスズキ、二台のMZ工場マシンの後の五位となった。七台の工場マシン≠消したことになる。私はいまでもかなりの成績と思っている。この結果は、私の能力を証明し、私はまだ、かつての偉大なるクライドラー時代と同様、走れるのであるという信用が私に与えられた。
なるほどこの成績が私にひらめきを与えたことにはならないが、それが再び昇りつつある太陽のような予感となった。遠いところで輝いていた光が再び私に向かってくるかのような感覚になった。
完全にクライドラーの失われた時代に、私は十回のレースに個人出場で戦いをしかけた。それらの出場に要する金は必ず自分のポケットから払わねばならないが、それもまた美しき欠点でもある。趣味というのは金のかかるものである。私の趣味はモーターサイクルレースである。
クライドラーはもうレースを行なわないが、われわれは一九六五年の末、ホッケンハイム・リンクで、ある一つの世界記録挑戦を行なった。それはスタンデインダスタートにより一キロメートルを走るものである。最も軽い六二年型のフレームに、六三年型のエンジンを使用した。前輪ブレーキは付けないで総重量四十八キログラムという軽さである。
世界記録はイタリアのモトムの平均速度八十二km/hである。私は一キロメートルのコースで平均一一〇km/hに達し、一九五八年の旧記録を二十八km/hだけ上まわった。この値は大変なもので、七五CCクラス、一〇〇CCクラスの九十三km/hも上まわるものである。
また、六三年型と六四〜六五年型の合作車で世界新記録に挑戦してみたが、それは駄目であった。
日本からの電報-スズキの契約ライダーとなる
自分の不本意とは知りながら、私は自分の欲望から個人参加の形で走り続けた。私が思うに、一つの決心が必要となってきた。クライドラーの退却は思い出してみると、ずい分無常な形のものだった。
そのころ、私はある友だちと接触しつづけていた。モンツァでは一二五CCクラスで比較的良好な成績を収めたが、これには自分で納得して満足していたところへ、突然、電報が配達されてきた。
電報は「スズキ商会」の名で、私に「ブリュッセルの事務局と連絡されたし」とあった。
何だろう−。
私はつぶやいた。「活躍できないアンシャイト! スズキはおまえのできないことを何でもしてやれるんだぞ。多分、スズキはおまえを単に機械組立工として雇うのか? ごじょうだんを!多分、私にいい値をつけてくるだろう。行こう−ブリュッセルヘ!」
私は当時、スズキが日本の浜松にあることも知らなかったし、ブリュッセルにスズキ総代理店があるのも知らなかった。
ブリュッセルではある男が私を待っていて、いいのがれなしに質問してきた 「クライドラーとの契約はどうなっているのか?一九六五年最後の世界選手権日本GPに走れるか? 場合によってはあなたはスズキに興味があるのか?」
私のクライドラーとの契約はいつまでも続くのではないということを私はよく知っていた。だが、すぐに動き出すには十分な時間もない。私は自分の決意を後日述べることにして、次に会う時刻を約束した。
いま、取り消した方がいいのではなかろうか。クライドラーと対抗する会社と契約するなんて。
私は迷いに迷い「やめろ!」の一語が早く自分の口から出てこないものかなとも考えた。私は欺くことになる。
ついに私は絶望して、クライドラーの社長に自分自身ですっかりこの件を話し、すべてを明らかにした。空は曇りだ。天気になるだろうか? ついに私に許可が出た! 彼は納得した。私が日本へのあこがれから日本で走っても、また故郷へ戻ってくるであろうということで社長は納得したのだと思う。
日本へ
約束に遅れることなく私は日本に到着し、スズキの会社の人に会った。彼は私と契約する点についてさほど心配していなかったようである。
私は十二段変速機を見つけた。それもただ足だけで操作できるやつ、これが私に大きな圧力を与えた。大きなチャンスはできるだけ利用するように。
二日目に浜松のテストコースでテスト走行を行なうことになった。マシンを見るや否や「私とスズキ」との相互間に通ずる愛情が心の中を走った。テストコースの私の一周目、四年もスズキで走っているヒュー・アンダーソンのベストタイムより、わずか十分の一秒しか遅くなかった。私の実力に、スズキのレース関係者の驚きぶりは面白かった。走行を終わるとすぐに契約を申し出てきた。だが私は、別に戦術的な意味からではなく、少し猶予を与えてくれるようたのんだ。新しいパートナーに縛られる前に、私は十分間に合う実戦的経験から、もう少し実際的に考えたかった。
一九六五年の世界選手権最終戦は、外国ということもあり、それにエンジンに一個所だけ故障を起こしてしまったが、この選抜されたライバルの中で四位になることができた。この成績は公平に見て抜群のものであろう。
私は完全に決心してしまった。
だが、スズキの金銭的提供は、クライドラー以下であった。これにはちょっとがっかりした。だが、契約した。再び世界選手権としての威光をすぐにとり戻そうということからである。私はこれまで”ずっと後方ばかり”走っていた。弱いマシンとある男、過去の男の間にミゾを作ってしまったジャーナリズムに、また考えを改めさせるために。
クライドラーでのここ二年間、時々経験してきた冒険は少しもちっぽけなものではなかった。クライドラーは本当に弱く見えたばかりでなく、もうさかりをすぎているようにも見えたろう。もし私がもっといいマシンを手に入れれば、絶対世界選手権者になれるのに。クライドラーは本気に有名なライダーを持っていたのに‥…・。ルイジ・タベリ、プロビーニ、それに私。
一九六六年(昭和四十一年)から私はスズキで走った。それを今でも後悔していない。それに、私は力強い、信用できるマシンで走って、世界選手権を取ってみせるぞ!
クライドラーでの五年間、私はその時代を決して忘れはしない。それは偉大な成果への道を私に開いてくれたのだ。私はそれに感謝しないはずはない。そして私の恩のすべてだ。私は脱走兵ではない。契約変更をしただけだ。
スズキー私の大きな驚き
スズキ工場ライダーとなって、まず感じたのは若い人の多いことであった。彼らはほとんどが、中学校、高等学校を出ている。そのうえに誇りと喜びを感じている。来たるべき偉大なる成果の前に、私はそれこそ速いマシンを与えられた。
私の大きな喜びのそのうえに、大きな驚き、クライドラーでのわれわれの仕事と、スズキのそれを比べたとき、相当の差がある。
クライドラーでは新しいマシンをテストすることはほとんどなかった。検査がよい結果を示せば、レースでもそのマシンを信用するよりほかなかった。
スズキでは、私は経験した″のだが、一つのモデルについて、二十台ものマシンを作るのである。新しい二気筒を例にとれば、ヨーロッパ遠征するときには工場では二十個の部品を用意する。これら二十台のマシンは、徹底的にコースでテストされる。伊藤光夫ほか五名ないし六名のテストライダーは、朝から夕方までテストコースを回り続ける。テスト走行では何台かのマシンが古鉄になるまで走りこむ。それに対してクライドラーでは、テスト走行で新しい一台が駄目になれば絶望を意味した。死せるマシンと、存在するマシンとの間に、大きな性能の差が生ずる。スズキでは最初のアルミニウム・フレームのマシンが用意されつつあった。
私の大きな驚き、それはほとんどの部分が、鉄より軽くなる!そして、貴重なチタン合金もマシンに用いられている。小ねじ、ナット、ボルト、前輪軸など・・ということだ。
レース係りのいわゆる「棟械屋は、もはや単なる「機械屋ではないことも私は気づいた。彼等は定期的に市販車の組み立てラインに配置替えされる。また、彼等は製図板の前にも立たせられる。そのようなやり方で、新しいモーターサイクルの発展の中に立たされるのである。
クライドラーでは製図されてから一台のマシンが作られ、テストされ、レースできるまで費される金額は・・七万マルク(約六十三万円)である。
スズキでは製図され、レースに出て勝てるような一台のマシンが作られるまで一万二千五首マルク(約一一三万円)である。
クライドラーのように小さい組織の会社と、スズキのように大きく組織された会社との間に、確実性において、どれだけ違ってくるであろうか? トップで走っているこの工場のモーターサイクルをさらに走らせるのにどの程度揚力が違ってくるか?前々から私に疑問を投げかけていたことが、いまここに示された。
一九六五年、すべての心配は打ちのめされて小さくなった。クライドラーで五年間国際レースに参加してきた私の名前は、すっかり青白く、死にそうになっている。そんな私の苦悩を根本から救う・・・私の名前は再び太陽の如く昇っていく。
スズキ!
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