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1966年

1966年世界選手権レ−ス 50cc 得点表
順位 ライダー名 国籍 マシン 総得点 有効得点 スペイン 西ドイツ ダッチTT TTレース イタリー 日本
4 Race
1 Hans Georg ANSCHEIDT D Suzuki 31 28 6 8 3 - 8 6
2 Ralph BRYANS GB Honda 30 26 4 6 6 8 6 -
3 Luigi TAVERI CH Honda 29 26 8 3 8 6 4 -
4 Hugh ANDERSON NZ Suzuki 22 16 3 4 4 4 3 4
5 片山義美 J Suzuki 10 10 - - 2 - - 8
6 Barry SMITH AUS Derbi 3 3 1 - - - 2 -
- Ernst DEGNER D Suzuki 3 3 - - - 3 - -
- 伊藤光夫 J Suzuki 3 3 - - - - - 3
9 Angel NIETO E Derbi 2 2 2 - - - - -
- Oswald DITTRICH D Kreidler 2 2 - 2 - - - -
- Brian GLEED GB Honda 2 2 - - - 2 - -
- Tommy ROBB GB Bridgestone 2 2 - - - - - 2
13 Cees van DONGEN NL Kreidler 1 1 - 1 - - - -
- 森下  勲 J Bridgestone 1 1 - - 1 - - -
- Dave SIMMONDS GB Honda 1 1 - - - 1 - -
- Andre ROTH CH Derbi 1 1 - - - - 1 -
- Jack FINDLAY AUS Bridgestone 1 1 - - - - - 1


故郷のニュールブルク・リンクで完勝

 スズキチームは私の強い要求により、いつもより早くヨーロッパに来た。八日も早く現われたのである。私の要求がいれられたのはうれしかった。私は、一九六六年は、はじめからライバルに囲まれることは間違いないと確信していた。私は、そのさいチームワークに左右されると見ていた。世界選手権への第一回トレーニングのとき、日本とヨーロッパとの間の気候の変化から、ある故障が生じた。そして部品が第一回レースには間に合わせることができなかった。
 新しいシーズンではじめて、郷里の舞台に私はスズキを持ち出した。
 私は五〇CCクラスばかりでなく、一二五CCにも参加した。契約では五〇CCだけ義務づけられていたのだが、私が一二五CCにも興味を示すと、ひとつ一二五CCでも走ってみないかとすすめられた。ニュールブルク・リンクは私の思い出のコースである。というのは国際レースではじめて全ドイツロードレース選手権を取ったからである。
 ニュールブルク・リンクの上にそびえるアイフェル山脈はつめたく雨が降り、風が吹いていた。だが私のマシンはドイツのレースということで太陽のような輝きをしている。
 五〇CCレースでは、三度世界選手権者になっているヒユー・アンダーソンに二十五秒以上の差をつけて勝った。三位は一周差をつけてスペインのニエト(デルビ)、四位・五位はクライドラーのルデイ・クンツ、デイトリッヒである。平均速度を比較してみよう。私の場合一二二・四km/h、そして最高ラップが一二四・三km/h。私のかつての同僚ルディ・クンツが一一〇・八km/h、デイトリッヒが一〇八・九km/h。どの見物人も両者の差をまざまざと見せつけられたにちがいない。
 一二五CCクラスには四十一人のレーシングライダーがスタートした。私のスタートはすばらしくて他のライダーをたちまち離した。が悪いことに、待っていたかのようなルイジ・タベリ、ホンダにつかまってから、勝負は明らかになった。私は二位。このレースで男ぶりを発揮したのがヒュー・アンダーソンである。彼は途中ピット・インするはめになり、再び走り出したときには二十一位まで落ちていた。それからすごい大追走がはじまる。六周日では十五位、そしてそのときすばらしい新記録ラップを出した。それから十周を終わったゴールでは何と三位!−「ヒユー」は何と偉大な男なんだろう。
 私が新たにスズキチームに転向したことでずいぶん速く走るようになったと、友人は皆驚いたらしい。アンダーソン自身、当時いっていたが、スズキに四年前移ったときは、完全にマシンを取り扱えるようになるのにほとんど一シーズンかかったそうである。私については、五〇CCのマシンはいつのまにか自然に慣れてしまった。私は大排気量車から一番小さい五〇CCに乗りかえたわけでなく、はじめっから、小排気量専門だったからだろう。
 夕方になると、私はいつもモーターサイクルのことを考え始める。だが、いまはその成績については考えないことにしている。

バルセロナ、ラップ新記録にもかかわらず二位

 気持ちのいい日であった。太陽は輝き、さわやかな風が海から吹く。私のバルセロナで過去の成績は一九六二、六三、六四年優勝、そして今度はスズキに乗る。
 私の将来を明らかにしょう。私に幸運を授けるはずの将来を・・・。
 バルセロナのスタート。私はそれにすっかり失敗し、みじめなもので気がついたときはビリであった。ヨーゼ・ブスケッツが先頭におどり出て私から見えなくなった。(今回は、彼は二人の同僚カネラ、エスキューターと一緒である)ブライアンズ、アストン、タベリのホンダチームの後にスズキに乗るアンダーソンがつづいた。スペイン人よりもっと速い者がいた。つまり一周目の終わりにはルイジ・タベリが完全に前に出たのである。彼の約一〇〇メートル後にアンダーソン、ブライアンズが行く。彼等と私との間にまだブスケッツががんばっている。三周目にはやっと彼をとらえた。五周日、タベリはアンダーソン、ブライアンズに先行すること五秒。私は彼等から十二秒の遅れ。九周目、私はラップの新記録を出す。二分〇二秒、この記録はアンダーソンの従来のものを三秒しのぐ。この間に私はブライアンズとアンダーソンを追い抜いた。タベリのマシンはわずかに不調になったもようだ。彼はピットを通りすぎるとき、何かサインを出した。だが、それどころか彼は殆んど遅くはならない。十一周目、アンダーソンとブライアンズの攻撃を受けた。うまく撃退できない。彼等にひっとらえられて抜かれる。十二周目、私が今度は彼等をとらえて抜く。私と彼等と戦っている間に、タベリはすでに離れてずっと前にいる。負けた!もう二周あったら、結果はどうなっているかわからないのに。
 ルイジ・タベリおめでとう!私はスタートに失敗したのにもかかわらず二位、まず満足である。

ホッケンハイム・リンクではじめて実力発揮

 私の欲求をすべて満たしてくれるようなクライドラーのマシンに乗って、ホッケンハイムを疾走している夢にうなされた。
 私たちが九時四十分スタートしたときには、十万人もの見物人がまだリンクをうろついていた。多くのライバルを相手に、私は公式練習中にすでに二気筒マシンで平均速度一四四・一〇km/hを記録していた。そのときのライディングフォームはかなり見事だったにちがいない。
 本番でのスタートは一番よかった。バルセロナでの失敗は例外として忘れて「神に感謝」しなければならない。アンダーソンがまた出てきて、たちまちのうちに私、ラルフ・ブライアンズ、ルディ・クンツ、バン・ドンゲン、デイトリッヒの前に出た。タベリは不調でずっとおくれた。そして、ついにタベリのエンジンがストップしたらしい。三周目のはじめに私がトップにおどり出た。タベリはすでに四位。ルディ・クンツ転倒。プライアンズがアンダーソンを抜く。
 六周目、私はブライアンズに先行すること十四秒。七周目、二十砂。八周目、デイトリッヒを一周遅れにする。そして周回ラップ新記録一四七・二三六km/h。だが、二台のスズキ、二台のホンダは同じ周回数にいる。私の後ろの三台はまだ消えてなくならない。しかし、それらの反撃は許さない。
 十五周目、私は十万人の称賛の歓呼にむかえられ、三十五秒差をつけてゴール。二位プライアンズ、三位アンダーソン、四位夕べり。三位のアンダーソンには正しい評価を加えねばならない。つまり、彼のエンジンは、はじめっから調子が出ず、彼一流の腕をふるえなかった。
 以上で合計十四点、このマシンはどうやらいけそうだ!

ダッチT・T−三点しか稼せげず

 私の手元に置いてあるモーターサイクル専門誌で、アッセンにおけるオランダGP報告記から論議を進めていこう。そこにはこう書いてある。「スズキチームのマシンはホッケンハイムで示したような実力を今度は示していないような印象を受けた」。
 この印象は確かに当たっている。トレーニングではマシンは十分な性能を発揮していたのだが、本番のレースではそれがくずれてしまった。これには十分な理由がある。最後の公式練習を終わっても私の新しいマシンは七〇〇キロメートルしか走っていない。これは新しいエンジンを取りつけた状態では限界以下だ。
 まだ、信頼できるかどうかわからない新しいエンジンで冒険をおかせるか? それで性能をただちに発揮できるかどうか?エンジンの調整が十分できているかどうか? それではと、古いエンジンを用いたところで大きな期待ができるかどうか? こんなことは軽々しく決心できない。
 十分熟考を重ねた上で、古いエンジンのほうが信用できるかを決めねばならない。そして、その決心を正当なりと認める理由がなくてはならない。だが、その性能に対する期待は半ばにしてくだかれた。マシンには疲労が残っていたことを読者方々に秘密にはしない。
 アッセンではじめて二台のブリヂストン二気筒の二ストロークがスタートラインに立った。それに乗る一人はかつてのスズキの速い人・森下である。わが方には、エルンスト・デグナー、彼は転倒負傷後、長らく休んでいたが、その後はじめて出場する。それから、やはり転倒負傷後、久しぶりに出た片山。
 このレースは純粋のホンダチームの二人、タベリとブライアンズの対決となった。二人はくっついたまま走る、そしてついにゴールではタベリがブライアンズ二十メートル先んじた。ヒュー・アンダーソンは三位、そのあと私と片山。森下は途中からデグナーと「いたちごっこ」をやり、結局、六位。
 ルイジ・タベリは私の十七点を追いこして十九点、これで彼の方が世界選手権者に一歩近づきつつある。
 「ホンダ対スズキ!」最後はどうなるか?

T・Tレースで後退

 再び一九六六年、マン島ツーリスト・トロフィーではいつもの習慣が破られた。いつもは初夏に行なわれるのが、ことしは秋となった。それから、二台ずつ十秒間隔スタートが、全員一緒のスタートとなった。まず、第一の疑問に対する理由は海員組合の長期ストライキにより、マン島が封鎖されてしまったためである。全員一緒にスタートする方式は、これは私の意見だが、レースに活気を与えることになったと思う。というのは、今度は時計との対決ではなくなったからである。
 一周目、ブライアンズ、すぐその後タベリが私たちスズキ車をはなして通過、このレースではわれわれ二サイクルはホンダにだいぶおくれをとっているように見える。私のすぐ後ろに片山、アンダーソン、デグナーが一団となって続く。
 一周終わったところでは、ブライアンズ、タベリと片山との差二十一・六秒。アンダーソン、デグナー、スミス、ロブの後ろに私。スタートした十七人が全員、一周目を終わる。途中で一人もリタイアせずに一周目を終えることはマン島T・T六〇年の歴史でなかったことだ。
 だが、二周に入るとロブが落ちた。プレーヒルで私のマシンのピストンがいかれた。これで私の期待はまったく消えた。
 結局、ラルフ・ブライアンズが優勝。私の大きなライバル、ルイジ・タベリは二位。アンダーソン三位。このレースが最後になろうともらしていたデグナー四位。
 タベリ六点、私0点。
 T・Tが終わったところでの総得点はタベリ二十七点、私十七点。本年も私は二位に終わるのだろうか?

モンツァぜひとも勝たなくてはならない

 タベリのリードに対し私は不安でたまらなかった。モンツァではぜひとも八点ほしい。
 ここで、私たち二人だけのスズキチームが戦いをいどむことになった。エルンスト・デグデーは契約によりスズキをやめている。われわれのチームメート片山はすでに命令あって日本に帰ってしまっていた。
 八点欲しい−私の頭の中はそれで一杯だ。最初の公式練習でそれがあやしくなってきた。われわれの二台のマシンはイタリアの暑い気候に合ってくれない。ホンダはわれわれより二〜三秒速い。タベリは周知のごとくホンダに乗っている。私は思い悩んだ。どうもキャブレターが合っていないようにも見える。エンジンは整備をすませた。
 どうしたのだろう? どうも一六、〇〇〇rpm以上回転が上がりにくい。本来、一七、〇〇〇まで上がらなくてはいけないんだ。ホンダは一周二〜三秒速い。とすると、十五周で四十五砂程度は離されてしまう。
 最後の公式練習日がやってきた。やはりエンジンの性能はよくなりそうにない。これでは私は狂気ともいえる大冒険をおかさなくてはならない。だが、何事も失いたくない。
 日本人のメカニックの疑問に対し、私は、排気管を十五ミリほど短くしてはどうかという提案をした。それも、膨張管の末端の部分を。日本人メカニックはただちにその仕事にかかった。それから彼等は目を輝かせて顔を天に向けた。よし!これだ!
 私の確信していたとおり、最後に残された唯一の根本治療法がエンジンの性能回復に役立った。こんなことは自動車入門書には絶対にのってはいない。私はクライドラーの「古ぎつね」の中にいたから、これ以上どうしていいかわからないで困っているときの療法を知っているのだ。
 最後の最後の公式練習で私はついに第二番目のラップ記録を出すことができた。そして、これ以上、調子よくなることはなさそうだ。キャブレターのセッティングも減速比の調整も新しい排気管に合わせた。エンジンは一七、〇〇〇〜一七、三〇〇rpmまで回転が上がるようになった。
 マシンが最後までもちこたえるならば、夢にまで見た八点が手に入る。だが、ルイジも今度はピンピンして元気である。勇気を持って走ろう!
 スタートフラッグが振られるやいなや、タベリとブライアンズは前に出る。私とアンダーソンはそのすぐ後ろにつく。
 タベリとブライアンズが離れていく、たちまちのうちに十秒は離された。私はハンドルに取り付けられているレバーでキャブレターをちょっと調整する。ふたたびマシンは時計のように走り出した。そうなると、私はホンダにもうチャンスを残してやらない。
 私はブライアンズとタベリに十秒差で勝った。平均速度一五二・一七五km/h。最高ラップ一五五・九九〇km/h。八点!私が個人的にみて、最高の勝利である。会心のレースである。
 ピットに戻ると日本人メカニックが手を振る。そして彼等はふたたび目を輝かせて顔を空に向けた。私の顔は笑いで一杯であり、われながら驚いたふうな会釈を見せた。こうしなかったらどうしたらいいんだい?
 ヒユー・アンダーソンは一分弱遅れて四位。
 世界選手権タイトルがふたたび私の目の前に明瞭にえがき出されてきた。
 モンツァでは・・・本当にうまくいった。追い上げるぞ!

世界選手権者に

 最後のレースは、日本の富士スピードウェイFISCOで行なわれる。私に三度目のチャンスがきている世界選手権タイトル、私の最後の目的がそこで達成できるかどうかが決定される。
 われわれが完全に驚いたのは、ホンダが何の申し出もなしに参加を取り消したことだ。それも全クラス。
 私に大きなチャンスがめぐつてきた。だが、タイトルを決めるレースで、古代ロ−マの開祖と、映画監督が巧妙に演出するような胸と胸を接するようなゴール前の戦いができないとは悲しい。だが、ルイジ・タベリはFIMの規定により世界選手権者の可能性保持者の資格で費用が出され、レースに参加することもできる。
 となると、私は少なくとも二位にはならなければならない。私のチャンスはだいぶ危険にさらされているように見える。もちろん二位になりさえすれば世界選手権者になれる。私が二位になりさえすれば、スズキはチャンピオンになれる。
 私のマシンの調子が悪かったら、私がテクニックを誤ったら、そうなったら私を二位から押しのけることになるのだ。アンダーソン、片山、伊藤、市野、越野、それと無気味なブリヂストン、スズキの仲間は、監督の指令なしでも、私の立ち場を理解してくれていた。
 走り終わった。そして私は一位にはなれなかったが世界選手権者になった。
 片山が平均速一四四・八五八km/hで優勝。私はタイトルに重要な二位を確保した。私は冒険はしなかった。
 一九六六年はどんな年であったか? 六五年の最低の年から今日FISCOのレースまでどんな道だったか?
 日本からの一通の電報≠ェ、今日の受賞をもたらした。世界選手権保持者として私は一九六七年を出発し、またもどってくるだろう。
 私はブルノ・ボイスに教わった小さな丘を忘れない。クライドラーで味わったあのつらい最後の時代を忘れない。
 親愛なるスズキは私のためにチャンピオン獲得記念パーティーを開いてくれた。その夜はいつまでも続いた。
 私の郷里シュトットガルトに帰ると、私はADACの代表者、沢山の団体の代表者からの挨拶を受け、市長から金の記念トロフィーをいただいた。それは前もって有名な彫刻家グレフェニッツ氏が彫ってくれたものである。
 また、私の得たタイトルに対し、どんなにか多くの賛辞と祝詞をもらったか知れない。
 「世界チャンピオン・アンシャイト!」


ヨーロッパ−アメリカ−日本−世界の半分を見て

 私はこの本で、レースに出場しながら長年種々の町を訪れたのに、その美しさ、特徴について少しも述べていないことに対して、若い読者は多分ご不満であろう。私はいつもレースについては述べてきたが、その土地、そこに住む人々がどういう感じの人々なのかは述べていない。
 実は、白状すると、私は外国の美しさなんか見そこなっている。私が行く大陸、町はいつもレースがあって行くのである。だから、この本では旅の描写はあきらめさせてもらいたい。
 どのレースの時でも、思いうかべてみると私は苦悩でいっぱいなのだ。どのスタートも、何日にもわたる鉄道旅行、二十時間以上もの飛行機旅行に対する心配から始まる。
 たとえば東京に着いたとしよう。飛行機から降りると、ホテルでやすらぐ畷もない。時差の関係から十七時ごろには疲労こんばいしてしまう。それでも朝の三時ごろやっとねむれる。
 トレーニングがあるとなると、二晩もねむいのにねむらずにいると神経がまいってしまう。トレーニングに神経は集中できない。
 レースの終わった夜、勝利祝賀会が開かれる。そして次の日は帰国、あるいは次のレースへの出発ということになる。
 こんなわけで、読者方々に旅行についての報告を何等できないのは申し訳ない。


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