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1967年

1967年世界選手権レ−ス 50cc 得点表
順位 ライダー名 国籍 マシン 総得点 有効得点 スペイン 西ドイツ フランス TTレース ダッチTT ベルギー 日本
4 Race
1 Hans-Georg ANSCHEIDT D Suzuki 42 30 8 8 6 6 3 8 3
2 片山義美 J Suzuki 28 28 6 - 8 - 8 6 -
3 Stuart GRAHAM GB Suzuki 22 22 - - 4 8 - 4 6
4 Angel NIETO E Derbi 12 12 1 - 2 - 6 3 -
5 Barry SMITH AUS Derbi 12 12 - 3 3 - 4 - 2
6 伊藤光夫 J Suzuki 8 8 - - - - - - 8
7 Rudolf SCHMALZE D Kreidler 6 6 - 6 - - - - -
8 Benjamin GRAU E Derbi 4 4 4 - - - - - -
- Jose BUSQUET E Derbi 4 4 - 4 - - - - -
- Tommy ROBB GB Suzuki 4 4 - - - 4 - - -
- 河崎裕之 J Suzuki 4 4 - - - - - - 4
12 Aalt TOERSEN NL Kreidler 4 4 - - - - 2 2 -
13 Juan BORDONS E Derbi 3 3 3 - - - - - -
- Chris WALPOLE GB Honda 3 3 - - - 3 - - -
15 Daniel CRIVELLO F Derbi 3 3 2 - 1 - - - -
16 Dieter GEDLICH D Kreidler 2 2 - 2 - - - - -
- Leslie GRIFFITHS GB Honda 2 2 - - - 2 - - -
18 Paul LODEWIJKX NL Jamathi 2 2 - - - - 1 1 -
19 Werner REINHARDT D Reimo 1 1 - 1 - - - - -
- Stan LAWLEY GB Honda 1 1 - - - 1 - - -
- 赤松 勝 J AE-BS 1 1 - - - - - - 1


緊張のとけた年

 友人からこの本を書けと圧力を受けている間に、私がフランコルシャン・レースで一九六七年度世界選手権者に決定したのである。これで、私のレース生活に骨ができた。
 二度の世界選手権者への道を思い出すと、フランコルシャンの生き生きした様子が目に浮かぶ。一九六七年度のレースの半分は私にとって完全なものであり、それは、二回の世界選手権者の大きなかけ橋となっている。

スズキ、ドイツGP・アイワェルのレースで再び勝利

 その年のはじまりには、スズキ契約チームに大きな変化があった。ロードレース契約ライダーは片山と私、それからいままでホンダの二五〇に乗っていたスチュアート・グラハムである。一九六六年、自分としては不満足な成績しかあげていなかったヒユー・アンダーソンはいなかった。彼はモトクロスに転向するためにロードレースを引退したと聞いて、私は少なからずろうばいした。彼の過去の偉大さをあらためて思い出すのである。彼がそのうち、ロードレース同様偉大なモトクロスライダ一になることを望んでやまない。
 ニュールブルク・リンクでのレースにスズキはふたたび姿を現わした。われわれはバルセロナのレースに備えるため、オランダに寄った。その一週間後のことである。ニュールブルクに間に合わせるためにスズキチームは昼夜兼行でマシン調整に当たった。
 かなりひどいレースになった。四月になるというのに公式練習最終日になっても路面に五センチも雪が残っていて、非常に寒い。レースに備えて、コース上に大量の塩をまいたが、路面はべとべとで、鏡のようにピカピカ光る。
 ニュールブルク・リンクのアイフェル・レースは第三十回をむかえ、その記念式が悪天侯の中で行なわれた。記念の贈り物として、太陽の光線の代わりに「雪のぬかるみと風と霧」が贈られた。
 全ドイツ・ロードレース選手権のかけられたこのレースに、私は五〇CCクラス、一二五CCクラスに出場した。
 「五〇CCは面白くならないだろう」とあるジャーナリストは考えた。実は私は、彼がそう考えることを恐れていたのだ。それでレースについて次のことばを加える。
 「アンシャイトはマシンを地面すれすれに傾ける。ヤマハに乗るオランダのマーチン・マイワートはなかなか周遅れにならない。一周目、無条件に彼のテクニックを十分駆使しているアンシャイトは、他のライダーを二十秒以上はなした。そしてゴールの七周終わったところでは四分三十秒ぐらいはなしていた」。
 「気の毒千万」である。スズキチームは、もうライバルがいなくなった。要するにハンス・ゲオルグ・アンシャイトは、緊張する時間もなくなった。ロータリーディスクバルブの採用のクライドラー工場マシンに乗るロルフ・シュマルツレは二位であった。彼は四周目までにオランダのマイバートを一周遅れにした。
 私は本当の報告をするために、一語一語に注意するということはできない。
 一二五CCクラスは、片山と非常に緊張した対決をした。何も私は全ドイツ選手権の点数を問題にはしないが、片山は私に少し遠慮するよう要求してきた。私は、今度の二人の対決に当たっては、名誉を求める心を持っていた。
 五周目まで、われわれは他を何十秒とはなした。その順序は交代しなかった。二人は踵を接した。ゴールでは私は彼を八秒離した。三位グラハム、四位ホンダのカリー、五位モンテツサのビセンチであった。
 このように、私は両レースに勝つことにより、今日まで八つのドイツ選手権を持つに至った。

バルセロナ・・もちろん

 ホンダの姿はスタートラインになかった。ホンダ工場チームはスズキとの対決をさける意味からいち早くレースから遠ざかることを決定していた。「本田宗一郎のように用心深い男」、そのような男の決定したことだ。本田社長が決めた決定を無条件でわれわれは引き受けねばならない。
 ホンダがいないレースでは、われわれは確信してこう予言できる。「今度のレースはスズキが勝つ」
 私と片山との対決、大変な、ごつい対決になるだけだ。
 スタートが勝負を決めることが多い。私のファンタスティックなスタート。それに対し、片山のスタートは異常なほど輝けるものであった。私はキャブレターのセッティングに完全ともいえるほど気を配った。あるレポーターが意地悪くいった。「アンシャイトがスズキの中で二位なら、片山は完全にトップだ」
 片山が十四段変速のマシンに乗っているのに対し、私のは十二段変速である。
 私はたちまちのうちにトップに躍り出るやいなや、片山を置き去りにした。絶対うそはつかない。私はこのときは比較的無とん着なレースぶりをした。しかも、前年に比べればそんなに速くないはずだ。熱心に走っているスペイン・デルビのライダー、ブスケッツをも完全にはなした。彼はことしも大胆不敵に戦いをいどんでくるが、絶対相手にしなかった。私、片山、グラハムの三台のスズキの後は、全部デルビと個人ライダーであった。
 結果は早くも八点いただいた。

オーストリアへの夜行運転

 四月三十日のバルセロナのレース終了後、五月二日のオーストリアのレースへも行くと約束したのは私もうかつだった。(実は五月一日というのを知らなかった)私は面倒なことさえなければ、二十四時間後にオーストリアのザルツブルグへ出発できればいいと考えた。また、私はシュトットガルトの友人に私の一二五CCマシンを自動車でザルツブルグへ運ぶよう頼んだ。モン・ジュイッチ公園のレースが終わると、私はすぐにドイツのフランクフルト行きの飛行磯に乗りこみ、到着するやいなやすぐにザルツブルグに向けて自動車に乗り、夜中にそこに到着した。次の日の朝、すぐに私は二周だけ公開練習をし、それから急いで一二五CCを調整した。ホンダ工場チームをやめた私の友人・ルイジ・タベリはバルセロナには来ていなかったが、今度はもう数日前からトレーニングをはじめていた。
 彼こそ本当に私の唯一のライバルである。
 私は閃光の如きスタートをきった。ルイジ・タベリは、はるか後方の戦列にいる。四周目、ついに彼は私に切り込みをかけてきた。が彼のマシンは急に回転が落ち、そのままとなってしまった。というわけで私は軽く勝った。考えてみると私は二十四時間以内に二度ゴールラインを一位で通過したことになる。

ホッケンハイムで八点

 一九六五年にはクライドラーはあまりに弱いがゆえに、走っていても純粋の喜びはまったくなかった。ところが今度は、スズキがあまりに強すぎるがゆえに、スズキで走っていても喜びはやはりなかった。何しろ強すぎる!スズキはそびえ立っており、スズキは絶対に勝つとわれわれは確信していた。ホッケンハイムでもはじめから勝負にならないといわれていた。
 片山についていうと、スタートはしたがエンジントラブルを起こし、二周後にはいなかった。スチュアート・グラハムが私を間近にして反撃してきた。とまもなく、私のマシンの片方のシリンダーがストップし、グラハムが私を抜いた。その二周後、再び私のエンジンは調子が戻った。すると私がまた先頭をとり返す、十周目、今度はグラハムのエンジンがストップ、かくしてあとは私が走るのみ。クライドラーで個人出場のシュマルツレ、すべてのデルビ車、クライドラーのボルフガング・デイトリッヒらを次々と周遅れにする。
 結局、二位は三周遅れのブスケッツ、それからバリー・スミスと続いた。
 無色の勝利、強すぎるスズキは当然勝った。

フランスGP・クレルモン・フェラン

 フランスGP・クレルモン・フェランでは、やはり私の勝利、完全に注釈もいらないかもしれない。ある専門誌を引用すると「・・・デルビのニエト、スタートフラッグのおりるのと同時に先頭にとび出る。だがつかのまに−−スズキが先頭をとり返す。ハンス・ゲオルグ・アンシャイト、つづいて片山義美、スチュアート・グラハム。一周目の終わりには片山が先頭、三周目、片山がデルビのバリー・スミス、ニエトを一分以上リード、片山は相当な速度で走る−だがすぐ後ろにアンシャイトがつく。グラハムはだいぶ遅れる。しばらくして、グラウンドを何かがころがっていく。彼のマシンのタンクのキャップがとれたのだ。混合ガンリンがしぶきをとばし、彼の顔にかかる。カウリングの透明部分が不透明になって前が見えないらしく、グラハムは上体を上げたまま走っている。だんだん遅れていく。片山、アンシャイトはもとのまま行く、いま一度アンシャイトはスピードを加えてつき進む。だが片山にわずか二秒速れでゴールラインを通過、スチュアート・グラハム三位、スミス四位、ニエト五位」。
 実をいうと、スズキはクレルモン・フェランで、スズキ製の映画を作成するため、映画撮影チームを送り込んでいた。親愛なるスズキ、彼等日本人は、ミスター片山がトップでゴールラインを通過するということを前々から知っていた。
 人は日本人にいうだろう。「注意しろ、映画監督さん!このレースは片山が勝つんだぜ……」。
 ある高く評価されているレポーターがいうには「いま一度、アンシャイトはスピードを加えてつき進む」そして「わずか二秒遅れて……」。
 私は少なくとも映画で「脇道具」になんかなりたくない。何がどうなってるんだ?

T・Tレース・・・片山義美脱落

 英国らしくない天気だ。太陽は空に燃え、海からの風が炎熱を運ぶ。紅の光線ではない。見事な太陽のしゃく熱だ。このよい天気は開会式をも驚かそうというのだ。T・Tレース、六〇年ではじめてかもしれない。
 十一時ちょうどの三周のレース開始。私のスタート、かなりいい。私は第二列に並んだにもかかわらず、すぐトップに出る。片山が来ない。彼は点火プラグを交換しているのだ。
 スタート後二十キロメートル地点、キルク・ミッシェルでは片山は私とグラハムより二分遅れている。五〇キロメートル地点、バンガロウでは、約三十秒回復、スタート兼、ゴール地点前十キロでは、あと一分まで回復、彼についてはパドック協約にょり特別扱いである。彼のマシンは私のや、グラハムのよりずっと速いはずなのだが!四周目、キルク・ミッシェルでは十五秒差となった。ラムゼイでは三人一緒に通過。と、うしろを見ると、片山がいない。彼は転倒したのだ。私はどうも気分がすっきりしない。片山が一位になるものと信じていたのに彼には神がついていなかったんだな。
 三周目、私のマシンの片方のシリンダーが駄目になった。当然、スピードは落ちる。片方のシリンダー、二五CCで実にゆっくりと走る。グラハムはどんどん私を離していく。バーリーブリッジには、スキーのジャンプ台みたいなところがある。私のマシンはそこで数メートルジャンプした。そのジャンプのせいか、二気筒とも突然動きはじめた。どこかの電気関係のトラブルが直ったのであろう。回転は上がる。よく走る。だがグラハムは断然前にいて、ゴールインしたときは約三〇秒遅れていた。
三位はスズキ市販レーサーに乗るトミー・ロブ、それから、やはりホンダ市販レーサーに乗るワルポール、グリフィス、ローレー、フィーンズ、グリードであった。
 T・Tを終わっての得点、アンシャイト二十八点、片山十四点、グラハム十二点。

ダッチT・T、片山八点獲得

 オランダ人のモータースポーツへの歓喜を前にすると、われわれはおじぎをせざるをえない。
 レースだというのにいつまでも細雨がやまない。閃光の如きスタートをきり、片山をリードする・・・と、また私がいわなくてはならないのでは読者の方は多分退屈するでしょう。
 最初の二周は私が先頭に立った。ところが途中から、エンジンがかぶりだした。片山と約束した対決で、私は遅れをとりはじめた。雨が原因でプラグがかぶり出したのだろう。それにもかかわらずエンジン性能はそれほど低下してはいないが、私にもう勝てるチャンスはなくなった。
 さらに悪いことに、マフラーをささえている排気管のスプリングが折れ、マフラーが落ちた。大急ぎで、ピットインし、新しいマフラーを取りつける。片山ははるか先に消えてしまっているが、私は止まることなく走り続ける。こんなことをしているうちに、デルビのニエト、バリー・スミスも私よりリードしている。スチュアート・グラハムは四周目、明らかに交換すべきであった点火プラグを破損し、消えていた。
 われわれスズキチームは二種目優勝でレースを終えた。これはFIMの評価にどう映るか。
 私は、今度のGP、フランコルシャンですべてを決めよう。私はベルギーで片山をやっつけねばならない、世界タイトルを防衛するために。そう私は決心した。
 緊張させる映画監督も、もういない。フランコルシャンでの勝利を前に、私は生き生きしてきた。私が郷里へ帰ってから、この本にその勝利を書き込むために。

フランコルシャン・・・二度目の世界選手権獲得

 私はフランコルシャンのコースをスズキに乗ってトレーニングで走り回っている。狂いのない心よい響き。
 ベルギーの沼地の高原を毎日毎日暑さをしのぎ、走りまわっている。この高原は、見わたす限り沼地そのものである。そよ風に木の葉がゆれることもありはしない。
 ヘルメットを持ちあげて休んでいる時も、フランコルシャンのこの高速コースをどう走るかということが頭からはなれない。
 コースや乾いた灰色の草の上にはかげろうがのぼっている。
 フランコルシャン!
 私の二度目の世界選手権への途上の決定的な段階。
 アルメディとスパの間のフランコルシャン、このベルギーの町の名はずっと私の耳から離れない。
 この地で私は二度目の世界選手権者になれるだろうか? あるいはすべての努力、今までの得点、高い望みはこのフランコルシャンで無に帰してしまうのだろうか?
 レーシングライダーの宿所は緊迫した雰囲気である。いそがしさの中に、参加者の緊張も、心の
不安もかくれてしまっているが。もちろん、普通はほとばしる熱情をおさえようとするし、疲れれば
休みもする。
 しかし、その人の気持ちがどうであるかということは、誰にも関係のないことだ。
 私がこのレースに勝てば、片山義美(編注1)の計算がくるうことになる。もし彼が勝てば、その時には、スズキの同僚でありレーサーテクニックの上での本当のライバルである片山のその心よくひびく名前がモーターサイクル世界選手権史に新しいページを加えることになる。
 そして片山は、それを成しとげようとしている!
 彼はこの初めての世界選手権者になるチャンスにスズキチームの作戦である「パドック協約」の援助を受けることになっている。こんな「パドック協約」なんか追っ払ってしまえ。
 片山はこの前の二つの世界選手権レースに勝っている。しかし、かといって彼が今度も勝つとはきまってはいない。我々二人が所属しているスズキのメーカーサイドはそれを望んではいるが。
 もちろん、片山と私はよき友である。
 黒白チェックのスタートの旗が振られるまでは・・・。それからは我々は宿命のライバルである。フランコルシャンで通用しなかったが、この「パドック協約」が私にはしゃくにさわるのだ。
 もちろん、片山はそのことについては何等の権限ももってはいない。しかし彼はその利益を受けるのだ。
 そして、そのことに対して、たとえ心の内でぶつぶついったとしても、そのことが片山に接する私の態度に微妙に影響するように思える。
 一体どうすべきなんだろう?
 人間はやはり人間でしかありえない。
 そこでフランコルシャンでも、今までどおりに彼のめんどうを見た。彼の行動やトレーニングやトレーニング計画について。
 浜松のスズキにおいても、作戦を決める時には、誰を勝たせるかで議論が百出した。一九六七年度の今までのGPでの成績が一定していないということに固執したらしい。工場の業績の宣伝ということからも、今度のレースにスズキは勝たなければならなかった。すなわち、どうしてもスズキに乗ったレーシングライダーに勝たさねばならないのだ。
 いま片山か、アンシャイトか、どちらが勝つかわかる。
 モーターサイクルレースにおいては、このことは誰でも知っているが、距離と時間のかけひきの激しい戦いであるとともに厳しい神経戦なのだ。戦術と、そして純粋なスポーツには関係のない会社間のかけひきがレーシングライダーの神経をより一層つらいものにするのだ。
 レースの二、三日前、会社側はより一層の混乱がおこらないよう、また神経がいらだたないようにいろいろ世話を焼く。
 フランコルシャンに新しいエンジンを送って来た。片山も私もこの新しいエンジンについては知っていた。しかし我々は、このレースに間に合うとも、またこのレースで初めてそれを取り付けることを要求されるとは思ってもみなかった。この新しいエンジンは、今度の日本での世界選手権レースで登場するだろうというのが今までの大方の予想だった。というのは、その日本でのレースに、新しい五〇CCの三気筒のモーターサイクルを発表しょうとしている競争会社のホンダにデモンストレートして、それを見せるだろうと思っていたからである。
 しかし、スズキは今あえてそのエンジンを登場させたのである。短期間にどちらのエンジンにするかを決めねばならない、レースはもう目前なのだから。
 それは私にとって大きなチャンスなのか? あるいは、そのなかに未知の落とし穴がひそんでいる「トロイの馬」であるのか?
 私は非常に重大な決定の前に立っている。そしてだれ一人として私からその重荷を取り除くことはできはしないのだ。
 ライダーは準備の最後の段階からすでに極度の孤独感におちいり、それはレースの間中容赦なく続くのだ。
 私はいま、いつもやるようにして決心しょう。もちろん、そうすることは誤っているともいえるかもしれないし、これこそが正しいともいえるかもしれない。すなわち賭け″と割り切るのだ。そう考えれば比較的簡単に決心できることになる。
 私は、自分がなじんでいる今までのエンジンでやることにした。その方が危険は少ないだろう。私はそれに頼ることにした。
 片山は私の決定に対してジャパニーズ・スマイル″を示した。そして彼は、自分のマシンには性能がよくなっていると思われる新しいエンジンをつけ、自分の決心に運命の女神がほほえむことを信じている。
 いま、彼には相当の自信があるように思えた。

 すでに最初の公式練習で、新しいエンジンをつんだ片山のマシンはバッグンの走り方をした。私はすでに古いエンジンを選んだことによって、最後のチャンスを逃がしてしまうかもしれないという疑いを抱くようになった。
 片山の取り付けたエンジンは、単に性能がすぐれているというだけではなく、キャブレターのセッティングがうまくいっているようである。
 しかしながら、それでも私は自分にとってもチャンスがあることを確信していた。
 そうかといって、スピードで争っていては、絶対に勝ち目がないことは十分承知している。だから、スピードで勝とうと考えるのではなく、自分のマシンが高速回転時において故障が決してないように、すべてにわたって整備することに全力を注ぎこむことにした。
 それは、なにも私のレースへの見通しが甘いのではない。練習後、パドックで休みながら、片山の練習を見ていて次のことがわかったからなのだ。
 片山は、一周につき私より四秒は速いのである。しかしながら、スピードを上げるために犠牲を必要としているのである。
 コースを数周後、点火プラグ交換のためにパドックにはいったが、私は意気揚々と片山と彼のマシンに近づいていった。
 そして、彼が落ち着きをなくしているのを、はっきりこの目で見た。というのは、数周しただけだというのに、彼のモーターサイクルのエンジン冷却のための水温が私のより五度Cだけ高くなっているのだ。
 片山と抜きつ抜かれつで三周すると、確かに片山の方は、私のマシンの水温より一五度C高いのだった。
 そこで私は計画を立てた。
 「水温が上昇すれば一般的にいって効率は落ちるし、カーブすることによって一層過熱されることになり、そうすると片山はおそくとも四周目にはスピードが相当落ちることになる。その時こそ一気に彼を抜けるにちがいない」と。もちろん、これが自分の希望的観測であることは、今日の練習でもよくわかっている。しかし、やはりレースに勝ち、一九六七年の世界選手権をドイツにもち帰るにはこれしかないのだ。

注l
片山義美(かたやま・よしみ)昭和十五年一月十五日、兵庫県三木市で生まれ、四歳の時に父親死亡。神戸の布引中学校卒業。レース初出場は第二回全日本モトクロス(昭和三十五年四月十七日、於・朝霧高原、MCFAl主催)であり、その後第四回全日本モーターサイクルクラブマンレース三五〇CCクラスに優勝。一躍「怪童片山」の名は、またたく間にひろく知れわたった。昭和四十年スズキの契約ライダーとなり、世界GPに出場。わが国のトップライダーになる。現在は四輪車に転向し、マツダの契約ライダーである。


 一九六七年七月二日−フランコルシャンの世界選手権レースの日。
 その日は、レース史上、なんの変哲もない日かも知れない。しかし私には、この日は数日来の私の生活そのものなのだ。
 全周一四・一二キロメートルにわたり、挑みかかるような暑さでむっとしていた。
 見物人は大挙しておしかけていた。
 我々はスタートの位置についた。
 無風のむし暑さに私の気持ちは少しも落ち着かない。二すじの汗が革の服の下、胸をつたって流れるのを感じた。神経はもちろん興奮してはいるが、とぎすまされていた。
 あらかじめ計算したレース展開、これからのレースにひそんでいるだろう謎、それはいまの私の意識にはなかった。レース前の日に手触りで見つけたなんとなく勝てる″という考えが、ちらっと頭をかすめた。このレースはその可能性への挑戦だ。
 すべてがはじまるー最後までやるだけだ!
 スタートまでまだ一分ある。
 それは途方もなく長く感じる。
 観衆は終始ざわざわしていた。職員があっちへ走ったり、こっちへ走ったりするのが、観衆の注目する所が定まらない原因である。
 そしていま、時計は最後の一秒をきざんだ。
 スタート!
 片山はすばらしいスタートをみせた。
 私はそれに圧倒されることはなかった。私は普通のスタートを切った。
 たちまちのうちに観衆は白いちらちらする煙の流れの中に融けこんでしまった。
 スタートは終わり、いまからはコースの勝負だ。
 いま、問題は残る七一キロメートルをどう走るかである。
 そして、それが終わるところ−ゴール−には私に世界選手権の栄冠が待っている。
 いや、ひょっとすると、それは片山についていえるかも知れない。
 エンジンはここちよい金属音を発していた。
 カーブが待ちうけていて、そこではからだをねじるのである。
 片山はずっと前を走り続けている。
 一周後、彼と私との差は約一〇〇メートル。時間にして正確に四秒のひらきがある。私の心配は大きくなった。
 二周目で、彼の先行距離はますます大きくなった。
 三周目では八秒になった。
 彼のマシンは走り続ける。何の支障もなく、スピードも落ちないまま。その速さと正確さの前に私の計画は台なしになってしまうのか?
 ところが、ついに片山は最初の小さな失敗をやってしまい、それが決定的なものとなってしまったのだ。彼はからだを動かす左右のコンビネーションを早くやりすぎたのだ。カーブの出口が勾配十分の一の下り坂になっている所で、アクセルをもどす。しかし、カーブにはいるのがあまりに早ずぎたので、カーブをふくらんでまわってしまい、かえっておそくなったのだ。
 そこで彼は時間をくってしまった。
 そのため、彼との差は少しちぢまった。四周目にはいる時には、その差は四秒になった。このことは私の計算にはなかったことだ。これは不本意にも片山が私に与えてくれた贈り物である。それはわかっていたが、私は片山に感謝した。
 そしていま、ついに、トレーニングのときに気づき、私が望みをかけていた、そのことが生じたのだ。
 もう片山のスピードは私より速くはないのである。
 片山の先行距離は一定のままだ。
 もちろん、まだ四秒の差だ! しかし、その差は大きくはならなかった。
 ヘアピン・カーブにさしかかった。もうゴールまでは遠くはない。
 ここで片山は二つ目の失敗をした!
 彼はブレーキをあまりに遅くかけすぎたのだ。そのため、コーナーをするどく切ることができず、またふくらんでまわってしまった。
 これで、いままで執拗に守ってきた四秒の差をついやしてしまった。
 最後の一周にはいる時、私はトップを走っていた。
 もう勝敗あったか?
 しかし私にはそうは思えなかった。
 いま片山は、私のスリップ・ストリームにはいっている。片山は、ゴール前三〇〇メートルのフィラゲデラソースと呼ばれるヘアビン・カーブで、私と勝負しようとしていることはわかっていた。
 もちろん、私はレースでの有効な駆け引きは知りつくしている。
 片山にしても同じである。
 事態は切迫していた。我々はヘアピン・カーブにさしかかった。
 スピードと、スムーズにカーブを走り抜けるかねあいから、ブレーキをカーブにはいる前一三〇メートルでかけるのが正しい。確かに、ブレーキ地点を遅らせることは可能である。いまの場合、これは適当でない。というのは、十四段変速を採用しているので、いまこれをやると当然カーブをでてからの加速がおくれる。
 私はブレーキ地点に照準を合わせた。
 片山はいま前に出て来るにちがいない。
 片山が出てきた!
 片山が私のスリップ・ストリームを抜けだすのを感じた。
 私は普通のレース常識とは逆に、カーブを左側からはいった。片山が私より小さな半径で回るように誘いこんだのだ。そして、彼はその誘いにのってきた!
 私は、いままでと同様、一三〇メートル前でブレーキをかけた。
 片山は私を追い抜いた。それは私の思った通りの展開だ。
 いったい、彼はいつブレーキをかけるのか?
 すでに一〇メートル以上ブレーキ地点をすぎてしまっている。
 この異常なほどの危険な冒険で、その時機を逸した以上、十四段の変速に時間がかかるのだ。
 曲がり角をすぎてから、彼は変速にやっきになった。
 しかし、私は再び手際よくトップに入れ、カーブから加速し始めた。
 私がリードした!
 片山も懸命に加速した!
 私はゴールに近づく!
 二〇〇メーター!一〇〇メーター!世界選手権獲得!
 エンジンは、私と自分に満足したかのように、レース後もその金属音をたてている。
 つもりつもった緊張から解放され、からだは元通り生気をとりもどした。
 新しいエンジン、パドック協約、ちょっとしたチャンス、激しい名誉心が片山を準選手権者にしたのだ。
 ただそれだけのことだろうか? 私のからだ中の緊張がとけた時、はじめて少しばかり大胆な気持ちになった。
 準選手権者−−それ自体はまったくすばらしいことである。

日本GP−世界選手権者、ゴールでもたつく

 一九六七年度、第七回、最後のGPは日本の富士コースで行なわれた。
公式練習、雨、雨、すべる、べとべとのコース、あの偉大なるマイク、ヘイルウッド、フィル・リード、片山の姿も見える。ところが片山は練習中、鎖骨骨折、この最後のレースには出場できなくなった。
 公式練習では私が一番速かった。そして、私はこのレースでは−−−確信しつつあった。スズキの監督から「自由に走れ」との指示も出ている。私はスタートからとび出した。そして第−のカーブにさしかかる。このカーブはかなりきついカーブで、ブレーキを強くきかせ、私はうまくはいる。ところが加速の瞬間、エンジン回転が上がらない。キャブレターの液面が上がりすぎてしまった。私は四位に落ちていた。だが一周目の終わりには再び二位まで上がった。そしてまたもやあのカーブ。そしてまたエンジンはかぶってしまう。煙ばかりスパスパ出す。この不運も何とかもり返す。私は、いまや世界選手権者であり、それを守らねばならない。当然、私は今シーズンの結末をきれいに終わりたい。それなのに!
 いや、私は勝利を決定的なものにしたい。もし、それが不可能であるなら、もっと気楽に走ることで満足できる。
 私は二度目の世界選手権者になった。このことは来年への義務を負うことになる。私が、いままで疾走してきたように、また私を疾走させるのか。また世界タイトルを得るために。
 私は十五年問のレーシングライダー生活で、八度の全ドイツ選手権タイトル、そのうち二回の五〇CC、一二五CC両クラスのダブルチャンピオン、二回の準世界選手権者、そして二回の世界選手権者。そして、三度目がうまくいくなら、私がその能力を持っているなら。

誰でも転倒する

 実をいうと、私は、富士コースでの練習中、転倒して怪我をしていた。転倒について少しふれよう。
 高速度走行中に転倒するとどんなに困ったことが起きるか、と私は時々きかれる。私はある時はこう答える。転倒すると、通例、何日間か精神的傷害を受けないにしても、本当に困ったことになるんだ。私はこういう。私はすき好んで転倒するのではない。転倒すれば、すべてが破壊される。
 完全なロードにおいて、私は過去十五年間に五回も落ち″た。そのうち三回はエンジンが急に止まったためであり、一回はタイヤを新品と交換したためである。新しいタイヤは、路面へのくっつきが悪くなるのを忘れて走ったからだ。レースができるのは幸運のようだが、本来、何も保証されていない。
 こんな転倒の仕方もある。ライダーはマシンから高く放り上げられる。テニスのサービスの球のように、ライダーの肉体はマシンに対し速度をへらしつつ「馬鈴薯」の玉みたいに(われわれレーシングライダー仲間ではこういっている)路面に落ちる。空中を飛行し、路面に直角に落ちる。革のつなぎを着たライダーは地面をすべり、美しくすっとんで行く。そして、望むらくは草のところで止まればいいのだが、そうでないときは何かの壁のふちにどかんとぶつかる。一九六三年ブエノスアイレスでの記憶はそんなものであったと思う。
 相前後して経験した二回の転倒の後、私はすっかり神経質になってしまった。それから三回目まではだいぶ間があった。
 転倒の後、本当に長い間病院生活ということになる。私のよく知っているあるレーシングライダー仲間の一人は、二年半も入院したままである。「倒れる」ということは、その人の人生を終わりにしてしまうこともありうる。
 モータースポーツにおいて、テクニックの向上はずい分早くなってきている。ところが、レーサーマシンは、ここ一年の間に急激に速くなり、テクニックでも取り扱いにくくなりつつある。
 十二カ月も病院で寝ていると、精神的にまいってしまい、それから、退院して、再び名誉を得ようと、レースに出場しょうとしても、そのときはからだの方が故障している。そんな人間は間違いなしに徹底的に重い傷害を受けてしまっているのだ。自由の身にはなったが、事はちっともうまく運ばない。病院のベッドに寝ている間は、テクニックの向上はすっかり止まってしまうから、その後トレーニングでコースを何回まわっても元には戻らない。それで、その人は「モーターサイクル専門誌」でも読んでいるはめになってしまう。
 ある日「倒れる」、そして入院する。退院する。その後、レ−スに出ようにも彼用の場所はない。どのメーカーも彼と契約しょうとはいつてこない。それで、彼のレーシングライダー生活は終わりである。彼はモータースポーツで月桂冠をかぶることはない。そして多くは悲劇で終わる。多年にわたり偉大な成績をおさめ、それで、金も少しはためる・・それがたしかに望むところであろう。しかし不運にしいたげられ、レースに別れをつげたライダーは、ますます自分の生活は失われてしまったと考えるであろう。レースではこんなことばが通用している「倒れる、そしたらまた起て!」


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