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生い立ち〜クライドラーと契約

苦しく、きびしかった修業時代

 私の両親も、東プロイセンのケーニヒベルクで一九三五年十二月二十三日に生まれた自分の子が、後にレーシングライダーになろうとは思いもしなかった。父は潔ペキで、腕のたつ理髪師であり、母は洋裁師であった。そして我が家は、主に父の理髪業で生計をたてていた。当時の私はといえば、この世で名声を博そうとする欲望を持ちそうな気配さえなかったようだ。
 なんとか歩けるようになってから数年問というものは、もっぱら歩くということに熱中しはじめた。いつだったか思い出せないが、からだの大きくて強そうな奴から逃げだすために足を折ってしまったこともあったが、足は速かったように思う。私にもっと勇気があれば、彼と仲よくやっただろうということではなく、私が人見知りするためだ。相手が非常に強そうな奴でも、みるからに弱々しいやつでも同じである。
 母の話によると、おさないころの私は、いつも一人で歩きまわっていて、よく町角に立ちどまっては自動車を見て遊んでいたらしい。私がまだよちよち歩きしかできなかった時にも、小さなおもちゃの自動車にのってはあっちこっちを乗りまわしていたらしい。そして「ママ」とか「パパ」とかいえるようになる前に、もう「自動車、自動車、自動串」なんて口ばしっていたという。

はじめての旅での新しい経験

 いまにして思えば、やはり子供のころは無邪気そのものだった。第二次世界大戦の暗い陰が私の家にも押し寄せてきたのだが、両親の苦労なんて何もしりはしなかった。
 しかし、私が生まれ、静かな環境、夢みながら歩いた道、自分の自動車を乗りまわした、その故郷を去らねばならなくなった時、ことの重大さに気づいた。
 当時、私は九歳だった。楽しい思い出のある故郷をあとにして、新しい経験をするということは、私には悲しいよりもむしろ人騒がせなことだなと感じられた。
 母の悲しそうな顔や、父がすっかり元気をなくしてしまっているのを見て、いかに悲しんでいるのかがわかった。そして、身のまわりのものだけをもち、これまで使っていたものはすべて置いたまま、故郷を去るということが、いかに悲しいことなのかよくわかった。
 トラックに乗って数週間、その後、汽車にどれくらい乗ったろう、第二の故郷となるべき見知らぬ土地に着いて混乱の旅は終わった。
 この新しい土地ではあらゆるものに興味をもった。だが、ここでも人々は戦争の気配を感じていた。でもやはり、はじめのころは退屈でなんとなく悲しい気分だった。
 私はここでふたたび学校に通うようになり、東プロイセンの方言を「純粋のドイツ語」に学び直した。(純粋のドイツ語というのは、私の新しい好奇心の強い学校の友達が、私の話し方に対して、皮肉をこめて屁理屈をこねてなづけたものだ)
 私は学校なんか行かなくてもいい年が早くくればいいと思った。
 それは遠い先一九五一年だ。

卒業後、自分をとらえたものは

 学校を出る時には、自分のこれから進むべき道は決めていた。学校を去る少し前、十四歳の時、私は自動車の免許をとった。
 母は心配し、父は反対したが、私の反抗の前にあきらめて承知してくれた。
 私は運転免許第四種をとった。そのことに対しては大変自負を持っていた。これがすべての始まりで、多分私の道を決めることになったと思う。
 私は自動車工場で働くことになった。他の職につく意志は全然なかった。しかし、将来レーシングライダーになろうなどということは考えていなかった。そこの仕事はつらいものだった。しかし、今はそのことに感謝しているが。そのつらさに打ち勝ってこそ、自分の人生を送ることができるんだということがすぐにわかった。
 この時、モーターサイクルスポーツというものがいかに情熱的であるかを知ったのだ。
 今になって考えてみると、その時からの自分の人生は、自分自身をどのようにうまく措くかということだったとわかる。

日のあたる場所へ出るための努力

 子供がいろんなものをねだるとき、金がないために子供にそれを与えられない両親は、よく「そうかそうか、それならおまえはちがう人の子になるんだね」という。私は、自分の両親に何かをねだるということはもうとっくにあきらめていた。しかし、その望みを持ち続けることが人生につながっていくのだ。幸運かどうか、私は山羊座の生まれだ。山羊座の生まれの人間というものは感傷的なものには抵抗を示すものらしい。私が自分のやりたいことを人生でやりとげることができたとしたら、そのおかげだろうと思う。
 一九五三年、まだ工場づとめをしていた私は、モトクロスをはじめた。それはまったく偶然にはじめたことなのだが、私の人生をまたたくまに変えてしまった。

ブルノ・ボイスとの出会い

 当時、私の住んでいた町の隣に、非常に有名なモトクロスライダーが住んでいた。彼の名前はブルノ・ボイスである。私は彼の所をよくおとずれたが、彼の言葉に感激し、彼の名誉に心服したものだった。彼は私にとっては、人がある年齢の時に持つ「アイドル」だった。
 練習には小高い山を利用した。それはモトクロスの練習用としては格好のものだった。道なき道、丘、窪地を仕事がない時に、暗くなるまで腕をみがくために走りまわった。
 ブルノ・ボイスも一緒に走ることもあり、私の面倒をよくみてくれた。毎日が面白かった。一度正式のモトクロスに出てみないかと彼は私にいった。
 彼は、こういうことで私をおどろかそうとしていたことは知っていた。一方では、正式のモトクロスに彼と一緒に出られることも。だが、あまりのうれしさにどぎまぎした。他方ではやはり、プルノ・ボイスのような大ベテランと試合ができるほど技術が上達していないことに、おそれを感じた。
 いろいろ迷いはしたが、結局はレースに出場することにした。ところが、たちどころに銀メダルを獲得してしまった。
 そこで私は、このスポーツに命をかける気になった。他のどんな職につくよりもモトクロス・ライダーになりたかった。週に三回ぐらいは練習ができた。私はまだ工場づとめをやめていなかった。
 私がこのつらい日々をどのようにしてがんばりぬいたのか、もう忘れてしまった。ただ、当時はいつも金がなくて、コーラの一本も買えないくらいだったことは覚えている。
 いまだから簡単にいえるが、それはつらい時期だった。とうとう私はいっばしの人間にまで成長した。そして生きていくうえに必要な、いろんなものを経験した。また自分の心の内に生ずる種々の迷いとたたかわねばならなかった。そして常に、人生の表側を歩こうという目標をかかげた。
 私はディルコップ一五〇CCの車で最初の勝利を得た。
 私が、整備試験に合格して工場をやめた時、工場の親方はいい人だなとわかった。というのは、彼は、一九五四年のレースに参加するのにDKWモトクロス用のマシンを用立ててくれたのだ。

二十五個の金メダル、しかし相変わらず空っけつの財布

 私は近づいたレースのため、あらゆる時間をさいて、マシンの整備にかかっていた。
 モトクロスは、金がかかるとかかからないとかそんなものではない。とにかく金がかかった。その額たるや私のようなかけだしの貧乏ライダーには法外なものだった。
 そのコースは、二五〇キロメートルから三〇〇キロメートルである。穴とか石ころなどに対する整備は全然やってないのが普通である。このコースは、どれもこれもすっかりエンジンやフレームの調子をくるわせてしまう。
 一回レースをやると、少なくとも次のものを補充しなければならない。すなわち、新しいバッテリー、ブレーキ、タイヤ、ヘッドライトなどである。転倒によって、それくらいの損害をこうむるのだ。これらを自分の財布から支払わねばならない。普通の人なら、そんな状態がいつまで続けられるだろうか?
 金がなくなったらどうすればいいのだ? そんな時、こんなことばを口ばしったものだ。「歯をくいしばれ、穴があるぞ、革ベルトをしっかりしめろ、もっとがんばろう、何もないものはないままでなんとかすまそうよ」と。
 一九五六年(昭和三十一年)までこんな状態でやりぬいた。私はもっともっとがんばり抜くつもりだった。この時までに何と二十五個の金メダルを獲得していた。
 その当時、私は一度ロードレースをやってみたいという強い欲求にかられていた。

モトクロス−あらゆる走法を学ぶための学校

 もちろん、どんな若者でも「本来モーターサイクルスポーツの魅力は走る」ことにあるというだろう。しかし私は、次のことをいいたい。「モトクロスは本当のレーシングライダーを作り出す」と。
 マシンに対する非情な熟練、コンディション、反射神経、危険に対する本能的な訓練、とくに器用さとライダーとコースおよびマシンとの絶対に必要なつながり−このことについては他のいかなるモーターサイクルスポーツにおいても経験することはできない−これらがモトクロスというむずかしい学校を通してのみ自分のものとなるのだ。我々の知っている大成功した名ライダー、たとえばショルシュ・マイヤーやベルナー・ハースがモトクロスを普通のコースにおきかえることによって成功したのであり、彼等自身、暇をみつけてはいつもモトクロスをやっていたのも、決して偶然ではないのだ。
 私は、誰にもかれにもこのことをすすめているのではないし、近い将来においてモーターサイクルレースがスポーツとしてそれほどまでに普及するとは思ってもいない。ただ若者が私に「あなたはどのようにして立派なレーシングライダーになったのですか」とたずねるなら、私はなんのためらいもなく次のように答えたいだけなのだ。「まずなによりもモトクロスの立派なライダーになることを考えるんですね」と。
 そして、後にいつかサーキットライダーになる時に−その人のおやじが大金持ちでなくて、モーターサイクルスボーツに熱中している人に私は約束するのだが−モトクロスがその成功を約束する道であることに気づくだろうことを。たしかにそれには金がかかるし、犠牲もともなうが、そこで修得したものはサーキットでのレースで十分通じるレーステクニックへの橋渡しとなるのだ。

一つの成功の前に狂乱の神ありき!

 走れ!スピード! −たちまちのうちに私をとりこにする。
 モトクロスでうでを磨いたものにとっては、サーキットで走るにはただそのスピードに問題があるだけだ。もちろん、わずかに幸運ということも作用するが。車を車庫へ入れ、タイヤをはずし、新しいチューブをとりつけ、ポンプで空気を入れてマシンに再びとりつけるというパンクをした場合の全所要時間が六分という記録に自信をもっている。スピードがいやが上にも私を興奮させる。それこそがモーターサイクル・ロードレースだ。
 しかし、そのためには別のマシンが必要になる。私はレース用のマシンをもちろん持っていないので、それを得るために仕事に精を出した。そのため、私と同年配の者なら誰もが喜びをもって接するようなものすべてをあきらめて。そして、ついに二台のマシンを手に入れた。「ディルコップ一七五CC」と「マイコ二五〇CC」だ。フレームはそのままにして、最大速度が上がるようエンジンを改造した。すべてはそのスピード次第であって、それを再びとりつけた。
 一九五七年(昭和三十二年)最初のレースに出るつもりだつた。どんな困難が私を待ちかまえているか、そんなことは一切考えなかった。
 当時は主催者側から、希望者の三分の一くらいしか許可の通知が届かない現状だった。モトクロスのよい成績があってもサーキットライダーとしては新参者であるから、私が出場できる見込みはなかった。私はあるモーターサイクルのスポーツクラブに入り、そのクラブチームの一員として出場することを決心した。そこでクラブの後援で出場の機会が得られた。
 それからは、北ドイツ地方でのレースにはかかさずに出場した。ハンブルグ、キール、エルムショルン、シーシェル、シュバメ、クロッペンブルグ、ビルデスハーゼンなどである。私はそれらを何の苦労もなく数え上げることができる。それらは今後の私の栄光への前座だった。当時、それらが私の大成功への門を大きく開いたことをはっきりと感じていた。

決定的な緊張! 私は工場ライダーになった

 なんでもかんでもある考え方を人におしつけようとする狂信者−私がそう思われると話が面倒になつてしまう。
 ただ私は、若者たちに自分の力に応じて、力の及ぶ限り、苦しい修業の時代に耐え、自分の本当の志を貫き通して欲しいということをくり返しのべているのだ。
 一度基礎からみっちりならったもののみが、どんな相手にも、どんなものにも屈しない力となるのだ。
 私自身の場合、むずかしい、きびしい訓練のたまものだと思っている。それだからこそ、自分が整備したフレームと、自分が調整したエンジンを信頼して、あらゆるレースでの恐怖心に打ち勝てるのだ。
 一九五七年から五九年(昭和三十四年)までに、私は四十回レースに出て、一位が三十一回、二位が五回、三位が二回という成績だった。そして、いまや私のうわさは、北ドイツにだけ限られたものではなくなった。
 こうした私の成功は、ものすごい早さであちらこちらへ伝わっていった。中央ドイツから南ドイツあたりまで。シュトットガルトでも私のことがとりざたされだした。
 クライドラー製作所が私に注目した。そして一九六〇年(昭和三十五年)私に工場ライダーの契約の話を持って来た。バンザイ!
 またちょうど、ロ−ドレースに五〇CCクラスを加えることが決まったのだ。ホッケンハイムのモータークラブでもこの小さくて速いマシンの最初のレースの告示をした。
 契約によって忙しくなった。契約内容では次の二つのことが要求されていた。すなわち、私がシュトットガルトに住むこと、そしてクライドラー製作所のレース課で働くこと。この要求は私には都合のよいことだった。個人ライダーはいつか工場ライダーになることを夢みている。いま、そのことが私の署名によって実現したのだ。私は契約書にサインをし、それによってあらゆる心配から解放された。
 今後は、マシンの維持や準備金やその他の不利だったことがらはもはや私の関心ごとではなくなった。わずらわしいことや生活費のことを考えなくてもよくなり、ただモーターサイクルスポーツとその仕事のことだけを考えていればよくなった。もちろん、私の本当の喜びは非常に重大な義務をはたすことにあった。
 マシンを作る側としては、作り上げたマシンが無事にチェッカーフラッグの下をくぐりぬけるのを見届けたいものだ。なにもクライドラーは私を喜ばすために契約を結んだのではないのだ。
 一九六〇年、私はシュトットガルト製作所のレース課に配属になった。
 私には何の牲犠も不足もなかった。最初の試みに着手したいという私の執拗な主張が報いられたのだ。工場ライダーとしての人生の新しい決定的な時が始まったのである。
 人がうぬぼれて書いたものなんて読めたもんじゃない。私はそんなことをしたつもりはない。うぬぼれなんてばかなことだ。本当の喜びはうぬぼれなんかとは関係ない。私はそのことは十分承知してこの本で私のレーサー人生を書いている。そのことは、人間自分の道をまじめに抑制しながら進むなら、自分の人生でどこまで達成できるかなんてことはわかってくるものだから。その時、人はあたかも自分自身を主張することなく、惑いのない意志を持ち、自分の道の妨害を排除し、不自由を気にせず、自分自身に対する確固たる信念とわずかな幸運を信じるようになり、自分の能力を発揮できるのだと私は思う。ただ、幸運をあてにするのはカゲロウのようなものだ。自己鍛練こそが最良の基礎なのだ。
 「天才は八十%まで勤勉のたまものなのだ」とアルバート・アインシュタインがいっている−そして彼自身、天才であることは誰でも知っている。
 我々はみんな−もちろん例外もあるだろうが−八十%の努力ではたりない。そうすれば我々のうちで誰が天才の名に値するだろうか?


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