このペ−ジは、斉藤数馬さんの「MFP」内の http://www.zen-com.co.jp/mfp/asama2005/asama2005.html
     より引用して掲載させていただきました。(掲載のご了解を頂き有り難うございます)



ASAMA 2005
★1955年…この年をバイク乗りは忘却してはならない。
すべての伝説は浅間から始まったのだから…。

          
        
 ●1955年/第1回レースのパンフレット   ●1959年浅間出場のHONDA RC160


<序章>
1955年(昭和30年)10月群馬県浅間高原において、日本で最初の本格的モーターサイクルレースが開催された。実際にはその2年前の1953年に名古屋TTレースと富士登山レースが行われていたのだが、メーカー参加による本格的レースは浅間が最初だったのである。

本来、浅間火山レースの行われたコースの正式名称は「浅間高原自動車テストコース」と言い、名称が示すとうり当時の国産自動車産業の推進を目的として建設されたコースだった。コースは火山灰地の土壌を固めただけの現在から見ればダートコースとも言うべき施設だったが、全長9.4kmのコースは当時としては画期的なレーシングサーキットでもあったのだ。

第二次世界大戦終了から10年。日本国内は復興に向けて全国民が一丸となっていた時期である。荒廃した産業も活気を見せ始めていた。そんな中で浜松を中心とするオートバイ産業の進歩には目覚ましいものがあり、多くのメーカーがしのぎを削っていたのだ。しかし、当時の技術水準は欧米に比べると残念ながらレベルは低く一日も早く欧米のレベルに追い付き追いこす事が急務であった。そのような状況下において建設されたのが「浅間高原自動車テストコース」だった。

しかし第1回の全日本オートバイ耐久レースが行われた1955年の時点ではまだコースは完成しておらず、なんと第1回のレースはコース建設予定地である浅間牧場の敷地をメインに北軽井沢の公道を使用して行われた、日本版マン島TTレースともいえる、現在では考えられない画期的なレースだったのである。

1957年(昭和32年)7月19日。第1回レースから約1年半の月日がたち待望の「浅間高原自動車テストコース」は完成した。同年10月19日、新生なったコースで第2回全日本オートバイ耐久レースは開催された。そしてこの第2回から浅間火山レースという名称にもなったのである。この第2回浅間火山レースは当時の交通事情の悪さの中でも観客1万5000人を集客するビッグイベントとして成功している。まさに現在のF-1GPにも匹敵する人気があったことを思わせる。

この第2回レースまでがメーカー主導型の業界振興レースであったが、1959年(昭和34年)の第3回浅間火山レースはアマチュアを主体としたクラブマンレースへと様相を変え開催される事となった。しかしメーカーの参加も認められ「模範レース」と称しHONDA等の今で言うワークスマシンのレースが繰り広げられたのである。この時に出場したのがHONDAの画期的4気筒マシンRC160だった。

しかし第4回は諸々の事情からか残念な事に浅間では開催されなかった。
その後、浅間のコースは本来の自動車テストコースとして昭和50年代まで存続、高地耐久テストや寒冷テストのコースとして使用され、浅間牧場との使用契約期間の終了とともに静かにその使命を終えたのだった。

しかし、この浅間テストコースと3回のレースがその後の日本車の発展に与えた影響には計り知れないものがあり、特に現在のモーターサイクル業界の発展の歴史には重要な位置ずけとなっていることは事実である。ここからホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキという世界の4大メーカーがスタートしたと言っても過言ではない。そして、永久に日本のモーターサイクルレース発祥の記念碑的場所として語り継がれなければならない地でもあるのだ。

だが、現在の浅間の地にはすでに昔日の面影はない。また、一部の人々を除き大多数の人達は浅間の存在すらも知らないのだ。多くの名車を生み出し、多くの優れた人材を世界に送った浅間はい今静かに眠りについている。私達はその眠りを妨げようという気は無い、浅間は使命を終えたのだから。しかし、その存在が人々の記憶と歴史から消え去ってはもらいたくいないのだ。特に浅間の地元群馬県に住むモーターサイクルを愛好する者たちには。私達は誇りを持ってこう言いたい。

「浅間は日本のモータースポーツの発祥地なのだ!」

下の写真が現在の浅間コースである。コースのほとんどは浅間牧場の敷地であったため契約終了の段階で本来の牧場の姿へと改修されてしまったが、実は一部現存しているのだ!そのコースの一部とは下の当時のコースレイアウト図の赤いラインの部分である。なぜこの部分だけが残ったかと言うと、この地域は浅間牧場の敷地では無く、群馬県吾妻郡嬬恋村の村有地だったからである。当時、嬬恋村からも敷地を借りていたのである。契約終了後も嬬恋村は全く手付かずで放置しておいた事が幸をそうし、コースの完全消失を免れたと言えるだろう。
しかし現状は御覧の通りであり、予備知識が無ければこれが日本最初のサーキットとは思わないだろう。しかし、これで良いのかも知れない。自然のままに朽ち果てて行く事が自然の定めなのだから。ただ、歴史的記念碑としてモータースポーツファンの記憶には留めておきたいものである。


          2000年夏...浅間火山レースの残像...

                   2000年8月3日(木)撮影



         <浅間高原自動車テストコースのコースレイアウト図>
    ★現在唯一残っているコース跡は、地図上赤枠の内一部のみである。
一部のみである。
軽井沢への裏道として有名な県道長野原倉渕線の二度上峠より見る浅間牧場近辺。かつてここに日本最初のレーシングコースが存在したのだ。軽井沢と言う最高の地に、このコースが現存していたら、日本のモータースポーツの歴史も変わっていたかも知れないと、いつも思い感慨ひとしおになる場所。 コースへの入り口。と言っても基本的には立ち入り禁止区域であり、現在は群馬県吾妻郡嬬恋村の村有地となっている。
村有地ゆえに開発もされず、まったくの手付かず状態でコースが保存されたのだろう。この敷地内に奇跡的に当時のコースが一部が現存しているのだ。
これが現存しているコースの一部だ!コースの存在を知らなければ、どう見ても林道か村道としか見えないだろう。
しかしこれこそが、当時火山灰を踏み固めて作った日本最初のレーシングコースなのだ!
正式名称は「浅間高原自動車テストコース」一周9.4kmの砂利道のコースだった。名称が示すように本来は当時の自動車産業を振興させるための施設として作られたのだ。
しかし、ここから日本のモータースポーツも始まったのでる。写真は現存するコースにおけるストレート。
この付近になると、さすがに雑木林に覆われてしまい正に森の小道と言った感じになる。予備知識がなくここに来ると大変なことになり、現在のSUZUKAやMOTEGI等のイメージで来ると愕然とすること確実。ここはロマンと想像力が要される場所なのだ。 浅間牧場と隣接した敷地のコース跡。当時相当に路面に圧をかけて疑似舗装路としたのだろう、45年経過しても雑草も生えていない場所があることに驚く。この部分は特にそれが分かる場所だ。
浅間を憶うライダーが立てたのだろうか?浅間火山レース跡を示す手作りの看板を発見した。しかし朽ちかけて文字も判読不可能な状態となっていた。寂しいかぎり....。 現在、かつてのコースのほとんどは県営の浅間牧場敷地となっており敷地内に立ち入る事は不可能。
しかし、牧場内のコースは壊されてしまい嬬恋村有地のように当時のコースらしきものはほとんど存在していない。
雑草や雑木に覆われてしまい一見すると城跡の石垣のように見えるが、実は当時の観客席、ようするに今で言うグランドスタンドの跡。
左の観客席全景。よく見ると鉄製の手すりが残存している事がわかる。しかしグランドスタンドと言っても縦横各15m程の小さいものだ。しかし当時はこのスタンドに観客が鈴生りになってレースを観戦していたのだ。



 ホ−ムペ−ジ管理者の「斉藤数馬」さんから戴いたメ−ルの抜粋を紹介します


私は浅間火山レースが開催された当時に生まれておりますから、もちろん当時のことは知りません。
後にバイクファンとなって色々と知ってゆくうちに、かつて地元の群馬県で浅間火山レースが行われたことを知り、モーターサイクルとモーターサイクルレースが好きな自分にとって地元群馬で行われた、日本最初の本格的レースを多くの方に知ってもらいたく、ここ10数年ほど浅間を追い続けております。

私の本業は○○○○であり、実は10年程前に地元のテレビ局でバイク番組を制作しておりました、その時に本格的に浅間を追い始めたのです。当時その番組では現在故人となってしまいましたヤマハワークスの野口種晴氏やホンダの田中禎助氏などを取材させていただき、紹介いたしました。当時はまだ建物等も残っていました。現在は当時の観客席が木立に埋もれて残っていますが、ここがその場所だとは多くの方はわからないでしょう。コース跡も知らない方が見たら単なる林道にしか見えませんから。しかし、そこにはしっかりと当時の残像が残されているのです。浅間火山コースは立派な歴史的文化財です。これを忘れてはいけないのです。私などの若輩が言えた事ではないのですが。ここから、日本のモーターサイクル文化、強いて言えば現在の世界に冠たるモータリゼーション文化が始まったのだと思います。

浅間を絶対に忘れてはいけません。現在のホンダやヤマハ、スズキ、カワサキはこの浅間があったからこそ現在があると言えるでしょう。ぜひ、当時を知る先輩の方々や私たち後輩が、浅間を語り継がなければいけないのではないでしょうか。

また、群馬に住むものとしてもこの事実は誇りを持つべきものなのです。なんと言っても「群馬は日本のモータースポーツの発祥地」とも言えるのですから。しかし残念ながら地元の多くの人たちも、この事実を知る方は多くありません。

何らかの形で、この事実を残さなければならないのです。実は、ペ−ジタイトルの「ASAMA2005」とは、多分ご推察と思いますが、2005年が1955年に開催された第1回浅間火山レースから50周年にあたる年なのです。この50周年に向けてなにかささやかな形となることが出来ないかとの思いをこめて付けたタイトルなのです。出来れば記念碑などを有志が集まって建てたいものです。ご存じのように現地には何も記念のモニュメントもないのですから。これがヨーロッパ等のモータースポーツ先進国だったらば必ず何らかの記念碑があってもおかしくありません。日本のモータースポーツへの理解が欧米に比べて遅れているのも、この事実からも歴然です。愚痴ばかり言っていても仕方ありません、なにかの行動を起こさなければならないのです。私もささやかながら行動を持続させてゆくつもりです。


<ASAMA関連リンク>


日本モーターサイクルの黎明期、SUZUKIワークスに関わって貴重な時代を
体験された、中野広之さんのサイトです。浅間の資料も充実しています。



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