<序章>
しかし第1回の全日本オートバイ耐久レースが行われた1955年の時点ではまだコースは完成しておらず、なんと第1回のレースはコース建設予定地である浅間牧場の敷地をメインに北軽井沢の公道を使用して行われた、日本版マン島TTレースともいえる、現在では考えられない画期的なレースだったのである。
1957年(昭和32年)7月19日。第1回レースから約1年半の月日がたち待望の「浅間高原自動車テストコース」は完成した。同年10月19日、新生なったコースで第2回全日本オートバイ耐久レースは開催された。そしてこの第2回から浅間火山レースという名称にもなったのである。この第2回浅間火山レースは当時の交通事情の悪さの中でも観客1万5000人を集客するビッグイベントとして成功している。まさに現在のF-1GPにも匹敵する人気があったことを思わせる。
この第2回レースまでがメーカー主導型の業界振興レースであったが、1959年(昭和34年)の第3回浅間火山レースはアマチュアを主体としたクラブマンレースへと様相を変え開催される事となった。しかしメーカーの参加も認められ「模範レース」と称しHONDA等の今で言うワークスマシンのレースが繰り広げられたのである。この時に出場したのがHONDAの画期的4気筒マシンRC160だった。
しかし第4回は諸々の事情からか残念な事に浅間では開催されなかった。
その後、浅間のコースは本来の自動車テストコースとして昭和50年代まで存続、高地耐久テストや寒冷テストのコースとして使用され、浅間牧場との使用契約期間の終了とともに静かにその使命を終えたのだった。
しかし、この浅間テストコースと3回のレースがその後の日本車の発展に与えた影響には計り知れないものがあり、特に現在のモーターサイクル業界の発展の歴史には重要な位置ずけとなっていることは事実である。ここからホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキという世界の4大メーカーがスタートしたと言っても過言ではない。そして、永久に日本のモーターサイクルレース発祥の記念碑的場所として語り継がれなければならない地でもあるのだ。
だが、現在の浅間の地にはすでに昔日の面影はない。また、一部の人々を除き大多数の人達は浅間の存在すらも知らないのだ。多くの名車を生み出し、多くの優れた人材を世界に送った浅間はい今静かに眠りについている。私達はその眠りを妨げようという気は無い、浅間は使命を終えたのだから。しかし、その存在が人々の記憶と歴史から消え去ってはもらいたくいないのだ。特に浅間の地元群馬県に住むモーターサイクルを愛好する者たちには。私達は誇りを持ってこう言いたい。
軽井沢への裏道として有名な県道長野原倉渕線の二度上峠より見る浅間牧場近辺。かつてここに日本最初のレーシングコースが存在したのだ。軽井沢と言う最高の地に、このコースが現存していたら、日本のモータースポーツの歴史も変わっていたかも知れないと、いつも思い感慨ひとしおになる場所。 | コースへの入り口。と言っても基本的には立ち入り禁止区域であり、現在は群馬県吾妻郡嬬恋村の村有地となっている。 村有地ゆえに開発もされず、まったくの手付かず状態でコースが保存されたのだろう。この敷地内に奇跡的に当時のコースが一部が現存しているのだ。 |
これが現存しているコースの一部だ!コースの存在を知らなければ、どう見ても林道か村道としか見えないだろう。 しかしこれこそが、当時火山灰を踏み固めて作った日本最初のレーシングコースなのだ! |
正式名称は「浅間高原自動車テストコース」一周9.4kmの砂利道のコースだった。名称が示すように本来は当時の自動車産業を振興させるための施設として作られたのだ。 しかし、ここから日本のモータースポーツも始まったのでる。写真は現存するコースにおけるストレート。 |
この付近になると、さすがに雑木林に覆われてしまい正に森の小道と言った感じになる。予備知識がなくここに来ると大変なことになり、現在のSUZUKAやMOTEGI等のイメージで来ると愕然とすること確実。ここはロマンと想像力が要される場所なのだ。 | 浅間牧場と隣接した敷地のコース跡。当時相当に路面に圧をかけて疑似舗装路としたのだろう、45年経過しても雑草も生えていない場所があることに驚く。この部分は特にそれが分かる場所だ。 |
浅間を憶うライダーが立てたのだろうか?浅間火山レース跡を示す手作りの看板を発見した。しかし朽ちかけて文字も判読不可能な状態となっていた。寂しいかぎり....。 | 現在、かつてのコースのほとんどは県営の浅間牧場敷地となっており敷地内に立ち入る事は不可能。 しかし、牧場内のコースは壊されてしまい嬬恋村有地のように当時のコースらしきものはほとんど存在していない。 |
雑草や雑木に覆われてしまい一見すると城跡の石垣のように見えるが、実は当時の観客席、ようするに今で言うグランドスタンドの跡。 |
左の観客席全景。よく見ると鉄製の手すりが残存している事がわかる。しかしグランドスタンドと言っても縦横各15m程の小さいものだ。しかし当時はこのスタンドに観客が鈴生りになってレースを観戦していたのだ。 |