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       1961年第4回クラブマンレース(ジョンソン基地)ー3

日本選手権125ccクラス

30周 96.1 km

鈴木誠一(コレダ)着実な勝利
2位藤井敏雄(コレダ)。1,2位ともに城北ライダース
外観TTレーサーと同一車が登場


 選手権レ−スは今回はじめて行わたものである。このクラスは過去のクラブマンレースの入賞者,メーカー所属のライダー,世界選手権レ−ス出場者で,いわゆる一流ライダーが出場資格を与えられている。レーサーも市販車,工場レーサーの区別はない。そして,クラブマンレースのそのクラスの1位より5位までの入賞者は,このレースに招待され出場できる。1959年浅間の第2回クラブマンレースと耐久レースの同時開催の時に行われたのと同じようなケースである。このこ125ccの工場レーサーの出場はトーハツ8車,コレダ3車である。トーハツはクレイドル型の銀色のパイプフレームにLDVのエンジンを載せたLRと,LDVにタンクに上をつぎ足したものが出場。コレダは2台のロータリーバルブ2気筒と1959年浅間の耐久レースに使用した単気筒ピストンバルブ工場レーサーが出場。しかし,これに乗るはずの松内弘之が,レース前この車で足に怪我して,この車を止め,市販車のセルツインに乗る。ロータリーバルブの方は鈴木誠一と久保和夫がのり,その車はT・Tレーサーと外観はまったく同じで,グラスファイバーのカウリングもついているが,城北ライダースでは外国向けの市販ロードレーサーであるといっている。
 2時30分,コレダレーサーピットから出る。日照りは強く,風はゴールからスタートに向って強く吹いている。
 2時40分スタート旗はおりた。玉田真市(トーハツ)花沢昭(トーハツ)井上正夫(トーハツ)吉村嘉光(トーハツ)が早くも光った。
 1周目10mおきに森下勲(トーハツ)、吉村,花沢,久保和夫(コレダ)鈴木誠一(コレダ)一之瀬一郎(トーハツ)田村三夫(トーハツ)が通過。
 3周目,森下トップ,20mおくれて吉村,100mで一之瀬,鈴木誠一,藤井敏雄,久保とつづく。
 4周目,森下は30mリード,2位吉村に100mおくれて一之瀬,鈴木,藤井をぬいて久保が5位。
 5周目,トップ陣の順位は変らないが,久保がピットに車を停めた。エンジン下部から青い煙がもうもうと上っている。ピットマンがわっと寄った。しかし手がつけられないらしい。1分たった。だれも車をいじってはいない。なおも煙はでる。2分たった。久保はヘルメットを脱いだ。そして歩み去った。同じ城北ライダースのコレダ組,松内弘之もビットに寄った。しかし彼は2分後に再スタートした。
 6周目,鈴木誠一は一之瀬をぬいて3位に上った。カウリングの中に納まった彼のフォームはすばらしい。
 7周目藤井敏雄が一之瀬とせり合い,これをぬき鈴木誠一の50m後方第4位に上る。
 8周目トップの森下,100mおいて吉村,50mで鈴木誠一,100mで藤井敏雄,100mで一之瀬。このあと1kmくらい車はない。野地と田村がせり合って直線に出てきた。
 9周目,鈴木誠一は吉村に10mとしのび寄った。藤井敏雄も鈴木3mと近づく。花沢はビット寄り,2分近くロスして再スタート,松内もピットに寄り,2分後に彼はレースを放棄した。
 10周,最初に目に映ったのはGPスタイルのカウリングだ。コレダだ。鈴木誠一だ。つづいて吉村,藤外 ちょちと離れて森下勲が,彼はどうしたのだ。ピットに入った。(あとできくと,クラッチのすべりだという。ピットでも完全に直らずそのまま走り続けた)。
 11周,鈴木誠一がトップ,50mおくれて吉村,20m後に藤井、60m後に有川が,100m後に一之瀬,そして1kmも車はとだえ,野地と田村がなおもせり合いを続けている。
 13周吉村第2ヘアピンで転倒して3位におちる。12周,レースはトップ5車と第2群の車で別々に行われている。第1群はトップの鈴木誠一,藤井敏雄,吉村,一之瀬,有川(周遅れ)第2群は野地,田村,森下勲,玉田であり,これで全部である。
 14周も変化なし。
 15周も同じ。
 16周藤井敏雄がトップに立つ。10m後で鈴木誠一がこれを追う。鈴木ピットに藤井を指差し何かいっている。この2人は同じクラブなので,多分藤井の奴,少し早すぎるぞとでもいったのか。そんなことを想像させるだけの誠一の自信がこの時感じられた。
 17周,誠一がトップ,10m後の藤井が第5コーナーの右力−ブを廻るのを振り返ってみている。
 19周,再び藤井が誠一の前に出る。
 20周も藤井がトップ。
 24周からそのリードは100mとなる。25,26,27周までその順泣と差は変らず,そして吉村の3位,その前の3周辺りの有川,3周遅れの一之瀬,同じく森下勲,この時までは1周遅れの玉田の7人が走り続ける。
 28周,鈴木誠一はトップの藤井に20mと近づいた。
 29周誠一は10mにせまった。
 30周,29周にこなかった森下が直線に頭を出した。すぐ後を藤井に代った鈴木誠一が森下に追いつき,ゴールイン。しかし市松のゴール旗は森下の前から揚げられたので,森下はこのままでゴールした。鈴木誠一の後は2周遅れとなった玉田(29周にこないので)。そして藤井敏雄が完走2位でゴールイン。鈴木と藤井の差は約30m。それから約30秒おくれて完走3位の吉村嘉光が96.1kmを走り終えて帰ってきた。有川英司は次に入ったが3周遅れ,最後に入った一之瀬一郎が1周遅れで4位となった。このクラス,市松旗を見たものは完走3名,周遅れ4名である。
 鈴木の平均時速は 99.36km/h、周回が30周 96.1kmの距離の関係もあってか、クラブマン125ccクラスの藤井敏雄が記録した100.32km/hに及ばなかったのは,選手権レースであるだけに惜しい。

       
                優勝した鈴木誠一(コレダ・ロータリーバルブ2気筒)

日本選手権 125cc 30周 96.1km
順位 ライダー名 車名 クラブ名 タイム 平均時速
1 鈴木誠一 コレダ(RT61) 城北ライダース 58.02.0 99.36
2 藤井敏雄 コレダ 城北ライダース 58.04.7 99.28
3 吉村嘉光 ト−ハツ 東京オトキチ 58.37.0 98.37
4 一之瀬一郎 ト−ハツ ト−ハツスピード 1周オクレ
5 森下 勲 ト−ハツ オールジャパンGP 2周オクレ
6 玉田真市 ト−ハツ ト−ハツスピード 2周オクレ
7 有川英司 ト−ハツ ト−ハツスピード 3周オクレ
R 野地 誠 ト−ハツ ト−ハツスピード
R 久保和夫 コレダ(RT61) 城北ライダース
R 田中 章 ト−ハツ ト−ハツスピード
R 井上正夫 ト−ハツ 東京オトキチ
R 花沢 昭 ト−ハツ ト−ハツスピード
R 松内弘之 コレダ 城北ライダース
R 田村三夫 ト−ハツ オールジャパンGP
R 本田 広 ト−ハツ オールジャパンGP


日本選手権250cc

30周 96.1 km

宇野順一郎(ドリーム CR-71)独走1位
望月泰志またも落車,鈴木誠一脱落失格


 選手権レース250cc出場者は6車である。コレダロータリーバルブに乗るのは鈴木誠一ひとり。久保和夫は不出場、望月泰志(ヤマハ)はクラブマンレース250ccクラスの不調車を直し出場、クラブマン250cc優勝者のうち,1位折懸六三と4位堀越正一は不出場。このため2位の宇野順一郎(ドリームCR-71)岡野正雄(ヤマハ)市川勝夫(ドリームCB−72)が招待され出場。この他にスチュードベンツがヤマハで出場する。
 選手権125ccクラスレースが終った30分後,4時10分スタート旗はおりた。望月泰志がとびだす,そして岡野が,宇野が,スチエードベンツが,市川が殆んど同時にとび出した。しかし,鈴木は走らない。車を押して,いまはもう歩いている。エンジンは廻るのだが爆発をしないのだ。強い日照りの下で鈴木誠一はギアの入った車を押している。1分たった。100 m歩いた。150mになった。ピットからたまりかねた1人が誠一の方ヘ走ってきた。しかしその彼はレーサーに手を触れることができないので,車の5歩くらい前で止まった。誠一も止まった。いまは口を開け、金歯を見せて泣きだしそうな表情だ。その時,本部前から黄色い役員帽をかぶったのが一人,とび出し走ったかとみるうちにレーサーを押した。それにつられたようにさきほどの1人ともう1人が加わってレーサーを押した。(これは競技規則で違反行為となる)ちょっとかからない。かかった。しかしトップの1周目が第2ヘアピンを廻っている。トップは望月だ。この望月の300m前を誠一は1周目のスター卜をきった。望月に100mおくれて,ヤマハの岡野がすぐ後10mを宇野が追っている。400m離れて市川のホンダ,150m はなれてスチュードベンツのヤマハが続く。
 2周目,4サイクル車がトップだ。宇野だ。10mおくれ岡野,400mで市川,1km近く離れてスチュードベンツが,そしてまた1kmおくれて誠一がきた。望月泰志はこない。
 3周目,宇野は岡野を150m離しトップ,順位は変わらない。望月はこない。どうしたのか。(第4コーナーではじき出された小石に前輪がとられ,彼は2度目の転倒をやり,ついに脱落した)
 4周目,スチュードベンツは,誠一の射程距離に入った。その差200mである。
 6周目,誠一はスチュードベンツを400mリード,しかし,先行の市川とは1kmも離れており、誠一の攻撃はとどかない。6周目,誠一以外は変動なし。誠一は市川に600mと近づいた。
 7周目,3位の市川は2位岡野に1kmも離されており,誠一は市川に400m。
 8周目、スチュードベンツはトップの宇野に1周抜かれた。
 9周目,スチュードベンツのヤマハは不調。おそい。いま2位と3位の間にいる。1周遅れである。誠一は市川に150m。
 10周目,誠一は20mと近づく。スチュードベンツは誠一の後80m。
 11周目,直線に入るとすぐ誠一の攻撃がはじまる。市川は誠一にとらえられ,そしてぬかれる。観衆の多くが拍手を送った。
 12周目,誠一はこんど2位岡野をねらう。その距離は600m。
 14周,誠一の攻撃がはじまった。200mと接近した。
 15周目,攻撃は続く。100mとあった。
 16周目,岡野は降伏し,誠一は100mリード。スチュードベンツはピットに寄り,2分後,次の周の岡野の後に出る。
 17周目,誠一のねらう獲物はトップの宇野1人となった。この宇野は1kmくらいも遠く離れている。しかし,あと13周ある。誠一が何周目に宇野を攻めるか。レースの興味はお一点にかかってきた。
 18周目,トップの宇野は去った。1kmおくれて誠一が通過する。いやしなかった。ビットに寄った。どっと人垣ができ,誠一のヘルメットしかみえない。1分たった。人垣はくずれず動かず,厚くなるばかり,2分近くなって,トップの宇野が19周を廻ってきた時,人垣は割れ,誠一が出てきた。棄権するらしい。(これはスタート時に他人がレーサーを押したので失格となり,誠一はいまそれを知ったのである。それとマシントラブルで脱落となった)『おしいなあ』という嘆声が起り,ひとしきり誠一の追いぬきぶりと,今後の可能性について議論がもち上る。まるで,みんな鈴木誠一の友達か親戚になったようである。
 誠一を失なったこのレースでは興味が半減した。21周目観衆はぼつぼつ帰えりはじめ,宇野,岡野,市川の3名は全コースを3等分して廻っている。スチュードベンツは20周の時,またピットに寄り2分ロスし,22周にはこない。
 22周は宇野が1.2kmの直線を完全にリードして岡野がつづき1kmにおくれて,市川が最後尾を受待つ。レースはこの3人だけで行われ,スチュードベンツは公道における法定速度に近いツーリングをやっている。
 24周,宇野のCB−72の音はさえ,直線の果になっても消えることなく残り,ヘアピンでその音が少なくなった時,岡野YDSの肌を震わす2サイクル音が聞えはじめる。しかし,岡野のYDSは速度が落ちてきたようだ。宇野との差は開き,3位の市川が近づいている。
 25周目、宇野は2kmもリードした。岡野の最善の努力にもかかわらず,YDSの歩みはおそく,市川のCB−72が20m後方にせまった。スチュードベンツはまた2分間ビットで遊んだ。
 26周目,宇野は半周リード。岡野と市川は激しいせり合い。車は最後の力をふりしぼって戦っている。
 27周、いま宇野は岡野、市川を追っている。岡野,市川の死闘は続く。市川のCB−72がわずかに余力がありそうだ。市川が岡野をぬいて2位に上った。岡野はあきらめない。関東ヤマハ会周辺のビットから拍手と喚声が起った。何んだ。岡野のヤマハがぬきかえしたのだ。
 29周,岡野と市川はデッドヒート,彼等の車はもはや90オクタンのガソリンで爆発しているのでなく,選手とそしてそれを応援するものの祈りで爆発し走っているのだ。
 4時6分,宇野がただ1人ゴールインした。40秒たってきたのはヤマハとホンダ,岡野と市川だ。前者がインコースでわずか距離的に早く,後者はアウトコースで速度的に早く,直線に現われた。それから,この2人は同時にアクセルを全開にし,300m先きの市松旗めがけて突進した。ホンダの音はヤマハのそれより力強く,そしてわずかに速いように思えたが,アウトコースを廻した不利で,ヤマハの前輪だけおくれている。この時,市川は,体をおこし,ぐいぐいと車をあおった。でた。ホンダがでた。岡野はぴつたり伏せ,勝敗を天にまかせた。0.6秒の差でホンダの市川がヤマハの岡野の前にゴールインした時,観衆ははじめて息を吐きだした。4時8分,拍手が起った,スチュードべンツが帰ってきたのだ。弱り果てたヤマハに乗って,この外国人は日本人の拍手に迎えられ,本レース最後のゴールインをした。

            
        鈴木誠一が乗った「コレダ・ロータリーバルブ2気筒」

日本選手権 250cc 30周 96.1km
順位 ライダー名 車名 クラブ名 タイム 平均時速
1 宇野順一郎 ドリ−ム レンシュポルツ 55.43.5 103.47
2 市川勝夫 ドリ−ム エキスプレス 56.23.9 102.24
3 岡野正雄 ヤマハ 東京クレージーライダース 56.24.5 102.22
4 スチュードベンツ ヤマハ 三沢ライダース 7周オクレ
R 望月泰志 ヤマハ ハイスピリッツ
R 鈴木誠一 コレダ(RV61) 城北ライダース


選手の横顔

 折懸六三

 「おりかけむつみ」というのが正式の呼名だが,人,彼をよんで,「むっちゃん」とか「ろくさん」とか或いは「むつ」とか「ろく」とか呼びすてにする。クラブマンレースは第1回から連続出場しており,1958年第1回アサマはメグロ,1959年第2回アサマはホンダで大怪我をし,1960年第3回宇都宮で200cc l位,250cc 2位の成績をもち,スクランブルには出場しないロードレースとダートトラック専門の選手である。
 250cc決勝の23日朝,彼はルブローレンのレーシングオイルを入れ換えしていた。やることはそれだけか,というと,そうだ,車をいじり出すときりがないから,という。250cc決勝で優勝した後に,誰れをマークしたか,と訊ねると,”もっちゃん‥(望月泰志のこと)一人だけだ。他の奴は知らんし,−−もっちやんが落ちた時はほっとした。だけど,もっちやんがいなくなって,それで知らない奴にアタマをとられるのはシャクだから,やっぱり頑張った。なにしろ,友だちにウルサイのが沢山いるだろう。奴らがコーナーのとりかたを教えてくれるんだが,やっぱり奴らのいう方が速いね(田中健次郎とか島崎貞夫のことをいう)−招待された選手権レースには何故出場しなかったのか−というと,一瞬困ったような変な表情をしたが,“他の選手の車やタイムや走りっぷりをみて考えてみると,こりゃアブナイぞ,と思って止めたんだ。”それが本心か,それとも他に何か理由があったのか,それはわからない。
(東京都・ハイスピリッツクラブ所属・28才 現在モータースを経営)

 片山義美

21才。250ccでは他人の1周する間に2周して周遅れをとりもどし,350ccでは1位となり,2位以外をすべて周遅れにしてしまった選手である。レースをはじめたのは約半年前だという。富士山麓のモトクロスで250cc 4位,125cc 5位となり、九州雁の巣基地のロードレースで200cc l位をとったことがある。ボウズ頭の正直そうな童顔の青年である。「350ccはスタートが悪かったが,バックストレッチでトップに上った。優勝確実と思ったのは20周あたりだ。第1ヘアピンを折返して右カーブに入る時に2位とすれちがうので,もう優勝は固いと思った。車はCB-77,メガホンは自家製,キャブレター,メインジェットはスタンダードのまま,シリンダヘッドのガスケットを薄くして圧縮を上げ,ピストンスカートを 2mmけずり焼き付き防止をはかった。減速比はエンジンスプロケットを1枚落した。理由は直線が短かいからである」と語っていた。
 職業はモータース勤務,母親が神戸からトヨペットに乗って一緒にきており,”来たかいがありました”と喜んでいた。
(兵庫県・神戸木の実クラブ所属)

 西久保功

50ccの優勝者,第2回クラブマンは山口のオートペット,第3回の宇都宮ではランペット。そして昨年4月の朝霧モトクロスは山口のオートペットで2位。---優勝するとは思わなかったんですが、車がよかったんですよ---とはレース後の彼のことば。9周まで3位におり,第1ヘアピンでサイクロンの石橋保をぬき,直線入口のスタート付近で東京オトキチの横山をぬいた彼は,(車が直線で予想以上に伸びるので,へタにトップに立ってアオラレ転ぶより,最後で勝負しよう)と考えたという。昨年のランペットとくらべて,ランペットはぐんとよくなっている。絶対にコワレないという気がしたともいっている。23才,商売はいま流行の買物紙袋の製造販売。(東京・ABCスピードクラブ所属)

  鈴木誠一&久保一家

久保一家は城北ライダースの根拠地。その元締である。このレースには父親,長兄靖夫,次兄寿夫,三男和夫の4人がきていた。長兄の靖夫は羽田空港税関の役人である。仕事の関係からか,彼はレースのたびにピットマンの役をしているが,出場するのはまれである。今回は125ccに出場したが,シリンダヘッドボルトが折れ脱落した。彼は総領らしく落着いており知的でもあり,好男子でもある。次の寿夫は今回出場しないでピットマンを勤め,三男和夫は250ccに出場したがエンジントラブルで脱落した。そしてこの久保のオヤジさんはレースとなれば家業の寿モータースを閉めて何処にでもついていく,レースマニアである。レース場では城北ライダースのテントの内に頑張り,同クラブを指揮する。そこでは他人の息子と自家の息子との差別はない。
 レース後,このオヤジさんは鈴木誠一の250cc選手権レースでの失格をこう語っていた。
「ありゃあね,本部の役員が押したんですよ。その本部が後になって失格だというのはどういう訳なんですかね。そりゃ,押してくれた役員は見るに見かねて押してくれたんだろうから,あっしらは何の抗議も正式にはしなかったですがね−−−」
 250ccが全部脱落したが一一「ありゃ,あっしたちが怒かったんですよ,十分テストするひまがなかったもんで,耐久の試験をしなかったんでね。またする場所もないしね」
 和夫が250cc選手権レースに出ない理由を本人は現地でなかなかいいしぶっていたが最後にこういった。
「公開練習の時コワれたのをコレダのメーカーじゃ,プラグのカブリだけだっていうんだ。そんなことないっていったんだけど,今朝きたら,やっぱりかからないんだ。それでもう,止めたんだ。オレたちゃ,ジョンソンへレースをやりにきたんじゃあなくて,レーサーを押しにきたようなもんさ‥…・」

 藤井敏雄

 まだ坊や気めぬけない童顔の少年である。彼はもとトーハツの組立工をしていたことがあり,その当時から城北ライダースに加入していた。クラブマンロードレースには初出場で,125cc l位,125cc選手権レース2位という成績を収めた。50ccでは8位だった。これはプラグミスだという。クラブマン125ccの予想はトーハツに分があったが,この藤井一人のために卜ーハツは貴重な1位を奪われたことになる。選手権レースについてもこれはいえる。コレダのロータリーバルブにトーハツの工場レーサーが破れても我慢できるが,市販車のセルツインに乗る藤井に破れたとあってはトーハツも残念なことだろう。
 コレダ勢の城北ライダースは,藤井以外は不調に終った。この藤井一人が快調であったのは,他のライダーはニュームシリンダを使用したのに,彼だけは,市販車のままで出場した。それが勝因になった,と語っていた。レースは何が幸いするかわからないものである。
 彼はモトクロスには数多く出場しており,そして華々しく名を挙げたのは今年5月富士山麓の朝務の第4回モトクロス大会だった。この時,彼はオープンクラスでトップを走り,転倒したが,この走り方はすばらしかった。今回のレースにも,彼のコーナーワークのするどさは望月泰志,鈴木誠一,森下勲などベテランに伍するものがある。今後の成長を期待される城北ライダースの新人である。(20才)

 宇野順一郎

 クラブマン250cc 2位,招待された250cc選手権レースでは1位を獲得した。新人かと思いきいてみると,第1回,第2回のアサマのクラブマンレースから出場している。それに大阪のモトクロスや第4回の朝霧モトクロス大会にも出場している。だからもう新人とはいえまい。クラブマン250ccレースは18周までトップだったが,折懸にぬかれ2位になった。これはオイルを余計に入れすぎ,それがあふれてチエンやタイヤにまわり,第1コーナーの右カーブで後輪がすべり,芝生に突込み,それでぬかれたものだという。選手権レースは何周目に優勝できると判ったか,に答え,「正直にいって最後の1周だった。勝てそうだと判ったのは−−」
 車はドリームCBでなくCR−71である。これは昨年大阪に5台入ったうちの1台で,ボトムリンクの前にショックアブソバーを追加して取りつけたので,カーブはすごく乗りよかった。エンジンはセカンドがだめだったが,サードがよくのびてくれたので勝つことができた。という。250cc選手櫓レースの宇野の勝利は,1959年アサマの北野元が耐久レース125ccクラスに招待されて優勝したのに似ている。
(大阪市・レンシュポルツ所属・26才)

 望月泰志

 たいしたことはないんですが,上のろッ骨が1本折れたんです−−と淡々と語る望月は,250cc予選の時,まったくすばらしい疾走ぶりをみせてくれた。あれほど速く,きれいな走り方はこれがはじめてである。全選手を通じて走法の上ではナンバーワンであった。しかし,今までこんな走り方のできるコースがなかったためでもある。こんどのコースが一番彼にぴったりしたコースではないだろうか。予選の終った22日,彼はエンジンをばらして整備していた。そして23日,その車は前日の予想と期待を完全に裏切ってしまった。原因は点火時期の狂いだという。片方が早すぎ,もう一方が遅すぎる点火時期になりその狂いが段々大きくなったのである。
 選手権レースにはこの点火時期を完全に調繁して1周目トップを走ったが,2周目第4コーナーのインコースにあった3cmくらいの小石に前輪をとられ転倒した。この小石は1周目になかったもので,また小石を発見してもこのカーブは4速の全速で車をぎりぎりに傾けているので避けられなかったという。車が速いのは何かわけがあるのか−−
 「とにかく完全調整です。まずタイミング,フロートの油面,それに私は減速比抵抗を少なくするため,スプロケットを薄いものとかえ,チエンの細いものを使用した」と語った。(東京・ハイスピッツクラブ所属・30才)

 安良岡健

501cc以上クラスの優勝者である。東京キリン自動車に働いている21才の青年。車は60年のトライアンフボンネビル。レースに出始めは,第2回の大井のアマチュアオートレースから。この時は125cc l位。1959年の第2回アサマクラブマン200ccに出場したが脱落,横田のMSA主催スクランブルでは650ccクラス2位。川崎のスクランブルでは250cc 4位。
 今回の優勝についてそのレース経過を語ってもらった。
「最初からぼくと井口さんと外人3人は一緒になって走った。途中1周ほどトップにたってみたが,後からアオラれるのでトップをおりた。トップでなくともぬき返す自信はあった。この車は完全なスタンダードなので,直線では不利だが,3っの左カーブで,ぬき返しトップになれる自信があった。最終回にトップに立ったのは,レース中に考えた作戦なのだ。トップに立った時,追われているという気はしなかったが,最後のヘアピンで転倒しないように気をつけて走った」
(東京都・オールジャパングランプリクラブ所属・21才)

 岡野正雄

 彼には文雄という弟がいる。4月のモトクロス大会にも一緒に走っていた。今回弟の方は予選で落ちたが,兄貴の方は仲々やった。クラブマン250ccを3位,招待された250cc選手権は後半ヤマハの性能がおち,ゴール直前で市川にぬかれて3位になっていたが,今度のレースでヤマハでは最高の成績を収め,望月泰志とともにその名をとどめた。いい走りっぷりだった。記者が彼を最初に見たのはMSA主催の横田スクランブルである。この時,彼は失格問題で激しく抗議,そして激しく怒っていた。彼の走っているのをみると,横田の時の怒りの情熱を燃やして,それをシリンダに送りこんで走っているように思えてならなかった。
 賞品授与の表彰式には東京クレージーライダースのクラブ員にかこまれて,悪口バ言,この時とばかりカラカワレている。この時は少しも怒らない。彼の名前が呼び上げられると,拍手の中から”イイ男”カラカウナヨ,まだ髪の毛が生えそろってないんだから,と野次がとぶ。そういえば25才にしては髪がうすい。これから生えるのか,生えたものがぬけてしまったのかは聞きもらした。職業は肉屋。
(東京・東京クレージーライダース所属 25才)

グランプリ選手が来ていた

 昨年アルスターGPで大怪我をした健さんこと田中健次郎は松葉杖をつき,島ちゃんこと島崎貞夫の2人は,ハイスピリッツの”ウルサ方”となって技術指導に当っていた。島ちゃんは23日の朝8時,2台のレーサーを並べて押しかけの競走を練習させている。この押しかけはギヤをローに入れ,とび乗る前にクラッチを放し,エンジンがかかってからとび乗る方式のようだ。ヤマハのGP選手砂子義一は22日コーナー審判員として黄色い帽子をかぶって働いていた。
 ギイッちゃんこと鈴木義一は23日,よくみないと彼と判らないサングラスをかけ,白皮で巻いたブライヤのパイプをくわえて観衆の中にまぎれこんでいた。「こう周遅れがごちゃごちゃしていちゃ判らないね」と語っていた。
 22日帰国したスズキチームの清水正尚課長もきていた。鈴木自動車のテントの中にある選手権レース出場のレーサー5台を見守りながら,その車を城此ライダースが調整しているのを,じいっとみていた。
 いつでもクラブマンレースには顔をみせる伊藤史朗,益子治,野口種晴の姿は見えなかった。高橋国光,田中髀は欧州にいっているし,マン島でケガした北野元はまだ病院にいる。谷口尚己も見えなかった。

むすびとして一言

 今回のクラブマンレースは本当のロードレースであった。路面が完全舗装であることが,このレースを盛り上げた一番の原因となっている。それに米空軍の協力もレース運びをスムーズに進行させる上に役立った。多くの初優勝者が出現したが,彼等はポット出の新人ではない。多くのレースで苦杯をなめてきた選手達である。大体1〜2年目で優勝ラインに浮び上った選手達である。レースには運がつきものである。しかし,それによって敗北することがあっても,それだけで勝利を収めることはできない。いま,ここに勝利者へ心から讃辞と祝辞を呈する。そして勝つべくして敗れた多くの選手に,次のレースを期待すると,述べて慰めのことばとしよう。
(本誌・橋本茂春)


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