第7回あさま会(2002年6月15日) | |
筆者がお名前のわかる方々を記載してみます。 【後列】:?・?・豊田信好・折懸六三・?・?・?・藤井一・本田和夫・石橋保・?・?・?・?・?・大久保力・福島新介記者・高橋国光・?・? 【前列】:大関重雄・渡邊輝雄・杉田清蔵・中島信義・外川一夫・?・青木山治・臼田建三・関口源一郎 |
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酒井文人氏「感謝とお別れの会」(2002年6月5日) | |
藤井一、石橋保、大久保力、高橋国光、本田和夫、折懸六三、大関重雄 |
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第6回あさま会(1999年9月11日) | |
写真ナシ | |
.第5回あさま会(1997年6月21日) | |
第4回あさま会(1995年12月9日) | |
第3回あさま会(1993年7月10日) | |
第2回あさま会(1991年6月8日) | |
第1回あさま会(開催日不明) | |
写真ナシ |
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アメリカで大活躍した本田和夫氏 | |
1959年デイトナ パリラで出場(車番154) | 1962・1963年デイトナ125ccトーハツで連続優勝 |
ウイロースプリングにトーハツ125LRで 出場した時のモノ(1963) |
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クレー射撃:アトランタオリンピック(1996) | クレー射撃:NIKE ワールドカップ優勝(1998) |
1963年12月5日 潟a[ターサイクル出版社発行 新聞記事 日本のモーターサイクルが″世界一であることは、国の内外を問わず今日では誰れしもが認めるところだが、まだ、東京にモーターサイクル屋が20軒としかなかった頃、本田和夫は、トライアンフ、ハーレー、インデアンといった外車を自由自在に乗り回していた。 当持、彼は国産車に対して、いつプッコワレルかわかったものじゃない。250cc以下の車なんてオモチャだ」という印象をいだいていたようだ。 1959年にはデイトナGPへ自費で出場している。また、パリラの工場チームに日本人として初めて加わり、ジュセペロテグニーらと組んで活躍した。デイトナでもパリラの連中とは互角にわたりあい、ラップタイムは彼がマークした。レースはスタートでトップに出ていったが、不運にもリヤのフレームが折損したため、振り落されてリタイアを余儀なくされてしまった。彼がエントリイしたとき現地では彼のことを本田将軍の息子と間違えたらしく「どえらい奴が来たもんだ」と大変騒がれたそうだ。 その彼が1960年、ハワイホノルルの各州の選手権レ−スに出場する際、たまたまトーハツレーサーをデモンストレーション用として一台持っていったところが、ハワイでこれが大変な人気を呼んだ。 早速、彼はトーハツの全米輸出権を与えられた。そして翌1961年の12月には、トーハツのアメリカ駐在員として赴任したのだ。現地ではデーラーへのサービスのかたわら、宣伝の意味もあって月に二度ほど、トーハツ工場レーサーLRを駆ってレースに出場した。 昨1962年はレースに出場するのが遅く5月からスタートしたが、リバーサイド、サンターバーバラ、バッカビル、ウィロースプリングなど125ccのコース記録をマークして10戦8勝した。A・F・M(アメリカン・フエデレーンョン・オブ・モーターサイクリング)の125クラスのチャンピオンとなった。 今年(1963年)の9月、トーハツとの契約が切れて2年振りに帰国したが、帰国早々、日本モーターサイクル協人(M・F・J)にかけつけ、「第1回日本GP」の全種目にエントリイした。 50ccはホンダ、125ccはトーハツ、250ccはヤマハ、350ccは外車で出場するはずであったが、レース本番まで日数が限られていたということもあって車の都合がつかず、結局125ccクラスに出場するのみで留まった。結果はマシントラブルに悩まされ続け11位で終ってしまった。 趣味は勿論モータースポーツだが、猟も大好きだという。 これからの夢は「スピード・ショップ(チューニングアップ屋)を開くこと」であるそっだ。 |
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