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            「あさま会」写真集

日本のモーターサイクルレースの原点は「浅間」である。1955年第1回浅間高原レース、
1957年第2回浅間火山レース、1958年第1回全日本クラブマンレース、1959年には
浅間最後の第3回浅間火山レースが開催された。
 この浅間レースは、今や伝説となりつつあるが、当時浅間で活躍された”猛者”の皆さん
が、「あさま会」なる集いを元気に開催されている。
 野口種晴さん(故人)、田中健二郎さん、渡辺輝雄さんたちの音頭取りで会が結成され、
2〜3年ごとに開催され、2002年6月の開催は第7回目である。
 「あさま会」の世話人は、現在高橋国光さん・折懸六三さん・石橋保さん、相談役が、
田中健二郎さん・外川一雄さん・渡辺輝雄さん、事務局長が、関口源一郎さんとのこと。
 なお、「あさま会事務局」は、「〒160−0023 新宿区西新宿8−14−17−1201」
ですので、当時浅間で活躍なさった方々は是非入会し、親睦を深められたら如何でしょうか。
 現在の会員数は80余名(故人となられた方も含む)で、毎回の会合には半数以上の方々が
出席なさって旧交を温められているとのことです。
 下の掲載写真は、本田和夫さんから提供いただきました。
第7回あさま会(2002年6月15日)
筆者がお名前のわかる方々を記載してみます。
【後列】:?・?・豊田信好・折懸六三・?・?・?・藤井一・本田和夫・石橋保・?・?・?・?・?・大久保力・福島新介記者・高橋国光・?・?
【前列】:大関重雄・渡邊輝雄・杉田清蔵・中島信義・外川一夫・?・青木山治・臼田建三・関口源一郎
酒井文人氏「感謝とお別れの会」(2002年6月5日)

藤井一、石橋保、大久保力、高橋国光、本田和夫、折懸六三、大関重雄
第6回あさま会(1999年9月11日)
 写真ナシ
.第5回あさま会(1997年6月21日)
第4回あさま会(1995年12月9日)
第3回あさま会(1993年7月10日)
第2回あさま会(1991年6月8日)
第1回あさま会(開催日不明)

写真ナシ

アメリカで大活躍した本田和夫氏
1959年デイトナ パリラで出場(車番154) 1962・1963年デイトナ125ccトーハツで連続優勝
ウイロースプリングにトーハツ125LRで
出場した時のモノ(1963)
クレー射撃:アトランタオリンピック(1996) クレー射撃:NIKE ワールドカップ優勝(1998)
 1963年12月5日 潟a[ターサイクル出版社発行 新聞記事

 日本のモーターサイクルが″世界一であることは、国の内外を問わず今日では誰れしもが認めるところだが、まだ、東京にモーターサイクル屋が20軒としかなかった頃、本田和夫は、トライアンフ、ハーレー、インデアンといった外車を自由自在に乗り回していた。
 当持、彼は国産車に対して、いつプッコワレルかわかったものじゃない。250cc以下の車なんてオモチャだ」という印象をいだいていたようだ。
 1959年にはデイトナGPへ自費で出場している。また、パリラの工場チームに日本人として初めて加わり、ジュセペロテグニーらと組んで活躍した。デイトナでもパリラの連中とは互角にわたりあい、ラップタイムは彼がマークした。レースはスタートでトップに出ていったが、不運にもリヤのフレームが折損したため、振り落されてリタイアを余儀なくされてしまった。彼がエントリイしたとき現地では彼のことを本田将軍の息子と間違えたらしく「どえらい奴が来たもんだ」と大変騒がれたそうだ。
 その彼が1960年、ハワイホノルルの各州の選手権レ−スに出場する際、たまたまトーハツレーサーをデモンストレーション用として一台持っていったところが、ハワイでこれが大変な人気を呼んだ。
 早速、彼はトーハツの全米輸出権を与えられた。そして翌1961年の12月には、トーハツのアメリカ駐在員として赴任したのだ。現地ではデーラーへのサービスのかたわら、宣伝の意味もあって月に二度ほど、トーハツ工場レーサーLRを駆ってレースに出場した。
 昨1962年はレースに出場するのが遅く5月からスタートしたが、リバーサイド、サンターバーバラ、バッカビル、ウィロースプリングなど125ccのコース記録をマークして10戦8勝した。A・F・M(アメリカン・フエデレーンョン・オブ・モーターサイクリング)の125クラスのチャンピオンとなった。
 今年(1963年)の9月、トーハツとの契約が切れて2年振りに帰国したが、帰国早々、日本モーターサイクル協人(M・F・J)にかけつけ、「第1回日本GP」の全種目にエントリイした。
 50ccはホンダ、125ccはトーハツ、250ccはヤマハ、350ccは外車で出場するはずであったが、レース本番まで日数が限られていたということもあって車の都合がつかず、結局125ccクラスに出場するのみで留まった。結果はマシントラブルに悩まされ続け11位で終ってしまった。
 趣味は勿論モータースポーツだが、猟も大好きだという。
 これからの夢は「スピード・ショップ(チューニングアップ屋)を開くこと」であるそっだ。
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