福田貞夫さんの写真集 | |
浜松製作所葵工場の完成検査時代(1954年8月) | |
後列右から3人目 | |
大映映画「火の爆走」にスタントとして出演、主演の山本富士子と(1955年2月) | |
後列中央 | ベレー帽をかぶり、めかし込んで |
1955年第一回浅間高原レース125ccに出場 | |
1955年第一回浅間の直前 浜松葵工場の完成検査トラック?にて (左から2人目が福田貞夫) |
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1955年浅間のスタート地点 | |
125ccに出場・スタート前 (ゼッケンは25) 駆動系のトラブルに泣きながら の完走21位だった |
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1956年3〜4月頃(HSC発足直後、荒川テストコース?) | |
HSCの発足は1956年3月 中央:河島喜好 左:島崎貞夫 右:福田貞夫 |
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1957年第二回浅間火山レース125ccに出場 | |
前列左:島崎貞夫、右:秋山邦彦 後列左より:?・鈴木義一・佐藤進・小沢三郎・福田貞夫・ 水沼正二・宇田勝俊・谷口尚巳・本田宗一郎社長 |
125cc ゼッケン 26 福田貞夫 |
26 は6位となった福田貞夫 27 は10位となったクルーザー に乗る山下護祐 |
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1959年第三回浅間火山レース125ccに出場 | |
125cc ゼッケン 121 4位となった 福田貞夫 |
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125cc表彰式 左から福田貞夫(4位) 鈴木淳三(2位) 北野元(優勝) 藤井璋美(3位) 優勝の北野元のマシンはワークスの RC142 でなく、ベンリー SS92 だった |
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前列左より:福田貞夫・島崎貞夫・ 秋山時芳(亡くなった邦彦の父)・奥津靱彦 後列左より:鈴木淳三・田中健二郎・ 藤井璋美・佐藤幸雄・増田悦夫・?・ 鈴木義一・田中髀 |
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レース後、125ccの結果に悄然としていた本田宗一郎社長は、大会後、大会役員を務めていた専務の藤沢武夫氏から「いや社長、市販車に勝ちを譲っていただいてありがとうございます。これでCBの売れ行きもバッチリですな」と言われ、ますます何もいえなくなってしまった、と、モノの本には書かれています。(長男昭彦さん記) |
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1959年第三回浅間火山レース終了後 | |
左:RC160のフルカウル仕様 右:RC143 を走らせる福田貞夫 |
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左から:福田貞夫・田中健二郎・ ?・佐藤幸雄 マシン左:RC143、右:RC160 荒川テストコースにて |
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1960年世界世界選手権レ−ス参加 | |
後列左から:佐藤幸雄 ・高橋国光 前列左から:折懸六三・田中健二郎・ 島崎貞夫・田中髀普E福田貞夫・ 谷口尚巳・北野元・鈴木義一 |
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後列左から:佐藤幸雄 ・高橋国光・ 田中健二郎・鈴木義一・谷口尚巳 前列左から:福田貞夫・島崎貞夫・ 北野元・田中髀 |
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マシンが完成して | |
1960年欧州遠征第2陣の出発(7月) 左から:田中健二郎・高橋国光・?・ 佐藤幸雄 ・?・福田貞夫・?・?・? |
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1960年8月アルスターGP 125cc 福田貞夫 7位 GPで走っているところを撮影した唯一の写真です アルスターGP後、モンツァ出走を目前にした練習中の転倒により左鎖骨骨折、レースの第一線から退いた。 当時のホンダのレーサーはフレームの強度に弱点があり、S字コーナーを抜けようとした際、一つ目のコーナーのゆり戻しを抑えきれず、跳ね飛ばされてしまったからなのだそうです。(これは親父から直接聞きました。) (長男昭彦さん記) |
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1998年ホンダ創立50周年に催された「もてぎ ありがとう フェスタ」 | |
動態テストの際にRC160に跨る福田貞夫 ホンダ技術研究所の品質保証部を最後の職場として既に定年を迎えていた福田貞夫は、このイベントに昔懐かしいRC160のライダーとして参加した。 RC160に付けられていたゼッケンは、59年の浅間で島崎貞夫さんが優勝した時のものである。島崎貞夫さんは、この「ありがとうフェスタ」が催された時にはすでに、故人となられていた。福田は開発には関わっていたにせよ、RC160でレースに出たことはなかったから、もしこの時に島崎さんが健在で居られたら、RC160のデモランは、ご本人である島崎さんが走ることになっていたであろう。 HSC解散後は地味にまじめに会社勤めをしてきた父にとって、あのデモランは最後の一花だったといっても良いでしょう。 (長男昭彦さん記) |
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元HSCの高橋邦義さんが撮影 (葬儀の遺影に使用) |
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左から:高橋国光・トミー ロブ・田中髀普E佐藤幸雄 ・福田貞夫・北野元 | |
平成13年9月、生前の福田貞夫さんを囲んだ家族の最後の写真 | |
平成13年8月に精密検査で肺に癌が発見され、余命3ヶ月、と診断された直後の写真です。 前列左から、親父の初孫になる私の長男龍仁、次男の拓己、親父、私の母の優(ゆたか)。 後列一番左から、私長男昭彦、次男の健二、三男の貴光、私の長女あゆみ、私の妻ひろみ。 この後、抗がん剤の投与で一時癌が消え、翌年には退院できるまでに回復しました。 その年の秋には、定年後の一番の楽しみであったゴルフも再びできるようになり、親父は病を克服した、と大変喜んでいたそうです。 しかし、平成15年.3月、再発した癌の病巣が検査で発見され、同年12月25日13時15分、親父は永遠に帰らぬ人となりました。 (長男昭彦さん記) |