e

                       福田貞夫さん追悼のページ

 日本のモ−タ−サイクルレ−スの黎明期に活躍したホンダの社員ライダー「福田貞夫」さんが、平成15年(2003年)12月25日に残念ながら69歳で亡くなられました。心からお悔やみ申し上げます。
 私のホ−ムペ−ジをご覧になったご子息の昭彦さんから連絡頂いたのがきっかけで、貴重なお写真を提供戴き、「追悼のページ」を作ることにいたしました。
 福田さんは、昭和9年(1934年)10月30日、静岡県浜名郡和地村(現在の浜松市和光町)でみかん農家を営む政一・こむめ夫妻の8男2女の七男として生を受けた。昭和28年(1953年)浜松工業高校電気課を卒業後、本田技研工業に入社、浜松製作所葵工場の検査課に配属となり、完成車検査を業務としていた。当時は、生産ラインから上がってきたオートバイを全て実走して検査した後に出荷していた。1955年、第一回浅間高原レースが開催されることになり、125ccクラスに出場したが、駆動系のトラブルに泣きながらの完走21位だった。1956年に、ライダーやメカニックの養成を目的として結成された「ホンダスピードクラブ(HSC)」の一員となった。各工場の検査課の人たちがその主要なメンバーとなっていた。続く、1957年の第二回浅間火山レースにも、125ccクラスに出場し、6位。続く、1959年の第三回浅間火山レースにも、125ccクラスに出場し、4位。翌1960年の世界選手権レ−スには、第2陣として欧州遠征に参加。アルスターGP125ccで7位。 アルスターGP後、モンツァのイタリアGP出走を目前にした練習中の転倒により左鎖骨骨折、レースの第一線から退いた。1961年、HSC解散後は地味にまじめに会社勤めを続け、ホンダ技術研究所の品質保証部を最後の職場として定年を迎えた。

【以降は、長男 昭彦さんの回顧録 他です・・・順不同】

 昨年 2003年(平成15)12月25 日に親父が他界しまして、その父が若い頃に何をやっていたのか、を追いかけていて、中野さんのホ−ムペ−ジにたどり着きました。
 親父は福田貞夫といって、ホンダの社員レーサーでした。私がまだ小さい頃、親父から浅間のレースに出場したことがある、と聞いたことはあったのですが、その後は詳しいことは何一つ知らずに40歳手前で父の葬儀を迎えることになってしまいました。若い頃、私自身もバイクに乗っていたことがあるし、「汚れた英雄」なんて小説も読んだことがあったのですが、それと父の経歴とが私の意識の中で全く無関係のままだったのは何故なのでしょう? 父が何も自分から話さなかったからなのでしょうが、父が亡くなる直前から父の若い頃の事を調べ始めて、実は浅間のレースに1955、1957、1959年と出場していた、とか、1960年のアルスターGPでRC143に乗り、完走7位だった、なんてことを初めて知って愕然としました。(もっとも、出場したのはその1戦だけで、次戦モンツァの直前に転倒・骨折し、帰国するハメになったそうなのですが)何の事はない、日本のモータースポーツ黎明期の生き証人がすぐそばにいたのに、こんなことならもっと親父に色んな事を聞いておけばよかった、と悔やむことしきりです。

 中野さんのホ−ムペ−ジの「1960年代活躍したライダーたちの写真集」も拝見させて頂きましたが、当時のトップレーサーだったヘイルウッドやデグナー、レッドマン、タベリと並んで父の写真が掲載されていたのには、ちょっと驚きました(笑)。当時の父がそれほど有名人だったとは思えず、従って写真も巷にそんなに残っているはずがないと思うのですが・・・。

 平成13年の8月、精密検査の際に癌が発見され、その時に余命3ヶ月、と診断されました。この後、抗がん剤の投与で一時癌が消え、翌年には病院を退院できるまでに回復しました。その年の秋には、定年後の一番の楽しみであったゴルフも再びできるようになり、親父は病を克服した、と大変喜んでいました。
 しかし、平成15年.3月、再発した癌の病巣が検査で発見され、同年12月25日13時15分、親父は永遠に帰らぬ人となりました。病気の再発から以後、医者にも回復の見込みがない、と見離された親父を母は自宅へ連れ帰り、親父が息を引き取るまでの間、それこそ献身的な介護を続けました。この間の母の苦労は、並大抵のものではなかっただろうと思います。
 最期は母、私たち兄弟3人、私の家内と3人の子供、更に親父が浜松から上京してきた頃からずっと付き合いを続けさせて頂いている同郷の友人の三輪さん、最後まで母をサポートし、介護に当たって下さった病院の方々など、自宅の部屋がいっぱいになるほどの多くの方々に見守られ、親父は息を引き取りました。亡くなったことは残念ですが、誰にも必ず訪れる死の迎え方としては、親父は幸せな部類に入るのだろう、と思います。

 親父の葬儀は2003年(平成15)12月27、28日の両日で執り行われました。葬儀の際には河島喜好元監督をはじめ、HSC時代の同僚だった多くの方々にご会葬を頂きました。
 目に涙を浮かべて父の死を悼んで下さった方、残された母を無言のままじっと見詰められていた方、焼香の際親父の遺影を見つめたまま暫くの間動かずにいらした方など、HSC時代の父の友人の方々が、それぞれに父の死を悼んで下さっていることがよくわかりました。
 初めてHSC当時の父の同僚の方とお会いする機会ができ、多少なりとも話をさせて頂いてみると、皆さん大きな目標に向かって戦う中で、何物にも代えがたい友情を育んで来たのだな、これこそがHSCのメンバーの方々にとって本当は一番大きい勲章だったのだな、と、その一員だった父を心底うらやましく思ったものです。
 谷口尚己さん、北野元さんもに会葬頂きましたし、高橋国光さんからはチームクニミツ代表としてお花を頂戴しました。田中禎助さん、水沼正二さん、小沢三郎さん、小美戸さん、浦田さんの5名の方にはホンダ関係の受け付けを買って出ていただき、多少父の話も聞かせいただく事ができ、出棺の際には棺も担いで頂きました。
 今から半世紀近く前の1956年から1961年のわずか5年間、親父が人生の 5/69 を過ごしたHSC。ここで親父が手に入れたものとは何だったのでしょうか。その答えは、通夜の晩、親父の棺の前でHSC時代の同僚だった小沢三郎さんが口にした言葉にすべてが集約されていると私は思います。「俺たちの絆はそんじょ そこらのクラブとは訳が違うんだ。」・・・・俺がHSCで手に入れたものは、浅間の戦績でも、世界GPでの戦績でもなく、同じ目標に向かって同じ釜の飯を食い、文字通り命を賭けて戦った多くの仲間たちと育んだ、今なお褪せることのない「友情」だったんだよ・・・。その時の親父の遺影は、静かに微笑みながら、私にそう語りかけているような気がしました。

 本田宗一郎社長は、マシンの開発を担当しているエンジニアやメカニックの方にはこの上なく厳しい方でしたが、マシンを操縦するライダーにはとても優しく、ライダーに向かって声を荒げるようなことなどはめったになかったそうです。
 自分の会社のマシンで世界の舞台へ打って出ようとする本田社長にとって、体を張って開発したマシンのテストやレースに参加してくれるライダー達、特にHSCの社員レーサー達は、可愛くて仕方がない存在だったらしい、とは、私の母の弁です。母はHSCが解散した後に親父と見合いで知り合い結婚したので、親父のHSC時代のことは全く知りません。多分、親父にそんな話を聞かされたことがあったのでしょう。

 HSCのメンバーの方はどうやら難聴の方が多かったらしい、という話があります。当時のマシンの排気管にはサイレンサーがついておらず、その爆音たるや目もくらむほどの凄まじさであったにも関わらず、整備に当たる際にはほとんどの方が耳栓をしていませんでした。エンジンの調子を「音」で判断するためです。
 ある秋の夜、自宅の庭で騒がしいほど鈴虫が鳴いているのを聞いて、母が「いい鳴き声だね」と親父にいったところ、「聞こえない」と言われたことがあったのだそうです。私は気がつきませんでしたが、母に言わせると親父の耳は「高い音が聞こえない」耳だったのだそうです。

 親父は、レースに未練はなかったのでしょうか?今となっては分かりませんが、生前、親父が母にこんなことをいっていたそうです。「レースをやっているころ、自分がどうしても行けない、と思うカーブを、俺よりずっと先でブレーキをかけ、すごいスピードで駆け抜けてゆく奴がいた。それを見て俺は、自分はレーサーとしては大したことはないんだな、と思った。HSCが解散する時、四輪に転向しないか、という話もあったんだよ。でも、俺は断った。」

福田貞夫さんの写真集
浜松製作所葵工場の完成検査時代(1954年8月)
後列右から3人目
大映映画「火の爆走」にスタントとして出演、主演の山本富士子と(1955年2月)
後列中央 ベレー帽をかぶり、めかし込んで
1955年第一回浅間高原レース125ccに出場
1955年第一回浅間の直前
浜松葵工場の完成検査トラック?にて
(左から2人目が福田貞夫)
1955年浅間のスタート地点
125ccに出場・スタート前
(ゼッケンは25)
駆動系のトラブルに泣きながら
の完走21位だった
1956年3〜4月頃(HSC発足直後、荒川テストコース?)
HSCの発足は1956年3月

中央:河島喜好
左:島崎貞夫
右:福田貞夫
1957年第二回浅間火山レース125ccに出場
前列左:島崎貞夫、右:秋山邦彦
後列左より:?・鈴木義一・佐藤進・小沢三郎・福田貞夫・
水沼正二・宇田勝俊・谷口尚巳・本田宗一郎社長
125cc ゼッケン 26 福田貞夫
26 は6位となった福田貞夫

27 は10位となったクルーザー
に乗る山下護祐
1959年第三回浅間火山レース125ccに出場
125cc ゼッケン 121
4位となった 福田貞夫
125cc表彰式

左から福田貞夫(4位)
鈴木淳三(2位)
北野元(優勝)
藤井璋美(3位)

優勝の北野元のマシンはワークスの
RC142 でなく、ベンリー SS92 だった
前列左より:福田貞夫・島崎貞夫・
秋山時芳(亡くなった邦彦の父)・奥津靱彦

後列左より:鈴木淳三・田中健二郎・
藤井璋美・佐藤幸雄・増田悦夫・?・
鈴木義一・田中髀

 レース後、125ccの結果に悄然としていた本田宗一郎社長は、大会後、大会役員を務めていた専務の藤沢武夫氏から「いや社長、市販車に勝ちを譲っていただいてありがとうございます。これでCBの売れ行きもバッチリですな」と言われ、ますます何もいえなくなってしまった、と、モノの本には書かれています。(長男昭彦さん記)

1959年第三回浅間火山レース終了後
左:RC160のフルカウル仕様

右:RC143 を走らせる福田貞夫
左から:福田貞夫・田中健二郎・
?・佐藤幸雄

マシン左:RC143、右:RC160

荒川テストコースにて
1960年世界世界選手権レ−ス参加
後列左から:佐藤幸雄 ・高橋国光

前列左から:折懸六三・田中健二郎・
島崎貞夫・田中髀普E福田貞夫・
谷口尚巳・北野元・鈴木義一
後列左から:佐藤幸雄 ・高橋国光・
田中健二郎・鈴木義一・谷口尚巳

前列左から:福田貞夫・島崎貞夫・
北野元・田中髀
マシンが完成して
1960年欧州遠征第2陣の出発(7月)

左から:田中健二郎・高橋国光・?・
佐藤幸雄 ・?・福田貞夫・?・?・?
 1960年8月アルスターGP 125cc 福田貞夫 7位

 GPで走っているところを撮影した唯一の写真です

 アルスターGP後、モンツァ出走を目前にした練習中の転倒により左鎖骨骨折、レースの第一線から退いた。

 当時のホンダのレーサーはフレームの強度に弱点があり、S字コーナーを抜けようとした際、一つ目のコーナーのゆり戻しを抑えきれず、跳ね飛ばされてしまったからなのだそうです。(これは親父から直接聞きました。)
(長男昭彦さん記)
1998年ホンダ創立50周年に催された「もてぎ ありがとう フェスタ」
動態テストの際にRC160に跨る福田貞夫

ホンダ技術研究所の品質保証部を最後の職場として既に定年を迎えていた福田貞夫は、このイベントに昔懐かしいRC160のライダーとして参加した。

RC160に付けられていたゼッケンは、59年の浅間で島崎貞夫さんが優勝した時のものである。島崎貞夫さんは、この「ありがとうフェスタ」が催された時にはすでに、故人となられていた。福田は開発には関わっていたにせよ、RC160でレースに出たことはなかったから、もしこの時に島崎さんが健在で居られたら、RC160のデモランは、ご本人である島崎さんが走ることになっていたであろう。
HSC解散後は地味にまじめに会社勤めをしてきた父にとって、あのデモランは最後の一花だったといっても良いでしょう。
(長男昭彦さん記)


元HSCの高橋邦義さんが撮影

(葬儀の遺影に使用)
左から:高橋国光・トミー ロブ・田中髀普E佐藤幸雄 ・福田貞夫・北野元
平成13年9月、生前の福田貞夫さんを囲んだ家族の最後の写真
平成13年8月に精密検査で肺に癌が発見され、余命3ヶ月、と診断された直後の写真です。

前列左から、親父の初孫になる私の長男龍仁、次男の拓己、親父、私の母の優(ゆたか)。
後列一番左から、私長男昭彦、次男の健二、三男の貴光、私の長女あゆみ、私の妻ひろみ。

この後、抗がん剤の投与で一時癌が消え、翌年には退院できるまでに回復しました。
その年の秋には、定年後の一番の楽しみであったゴルフも再びできるようになり、親父は病を克服した、と大変喜んでいたそうです。

しかし、平成15年.3月、再発した癌の病巣が検査で発見され、同年12月25日13時15分、親父は永遠に帰らぬ人となりました。


(長男昭彦さん記)


                                Menu へ