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浅間の英雄伊藤史朗はいまどこに
負けたら浅間山に飛び込む・・・・・・
昭和30年11月5日、250ccクラスのレースは午前中に終わった。そして、浅間高原に集まった誰もが予想もしなかった、無名の、しかも16歳の少年ライダー伊藤史朗が、シャフトドライブ車のライラックに乗り、予想を裏切り優勝した。
その日の午後1時30分から125ccクラスのレースが、2台ずつ30秒間隔でスタートした。私は取材のため浅間牧場に先行したが、ゆるやかな牧場の斜面の野芝の上に腰をおろし、テープレコーダーに録音している故星野嘉助氏の姿が目に入った。そして、その隣には工学博士で内燃機関の研究家であった故隈部一雄氏もいた。星野氏は野鳥研究家としても有名で、当時から野鳥の鳴き声を録音するために、12万円も費やして携常用のテープレコーダーを造ったが、当時はまだ電池がなかったので手巻きのものだった。
高原の空気は深く澄みわたり、浅間山頂にだけ、雲か噴煙かハッキリわからないほどの薄く白いものが、東から西に流れるように見えるほかは、見渡すかぎりの青い美しい空だった。牧場の小高い丘に向かって、走り上がってくる2サイクル特有の、金属音にちかい、あのキィーンというジェットライクサウンドと、地面を連動するような4サイクルの排気音とが、澄みわたった高原の冷気に共鳴し、駆け参じたファンの胸を高ぶらせた。そして、それをテープに録音していた星野嘉助氏の姿が、今でも私のまぶたに焼き付いている。
伊藤史朗は自分の優勝がわかると同時ぐらいに(2台ずつ30秒間隔のスタートであるから、順位決定までは時間がかかった)その行方がわからなくなった。報道陣はインタビューのため彼を探したが、どこに行ってしまったのかわからず、困り果てていた。私もまだそのとき、彼の顔は知らなかったが、前に述べたように250∝クラスの結果が出て間もなく、東京から乗って行ったクインロケット250を利用して牧場に着いたのだった。
牧場にいた観衆の大部分は、ライラックの優勝を知らずにいた。「報道」の腕章をした私は、周囲の人たちから質問ぜめに遭い、ライラックに乗った16歳の坊やが優勝したことを話すのに忙しい思いをしたものだった。そして、優勝した本人が行方不明になって困っていることを話すと、観衆の中から「イトーは、この私です」という声が出た。私もピックリしたが、周囲の人たちも驚いて彼を取り囲んだ。
伊藤史朗少年は親戚筋のおばさんとふたりで、牧場の丘の芝生に腰を下ろし、125ccクラスのレースをのんびり見ていた。伊藤少年はただニコニコ笑っていただけだったが、一緒にいたおばさんは、嬉しさを抑えきれないように話し出した。「この子は、どうしても優勝するって、いい切っていたんです。ゆうべも、勝たなければ浅間山に飛び込んでしまうなんていってたんですヨ」
全身に喜びを表しながらのおばさんの話を、あどけない16歳の伊藤少年は、野芝の草をむしりながら、嬉しそうに聞いていた。そして、これが彼と私との初めての出会いでもあった。
「史朗(ふみお)」は山田耕作が命名した
伊藤史朗が浅間に初出場したのは、東京の大森第6中学校を卒業した年だった。高校に進学しなかった彼は、ライラックの販売店の古敷屋氏の推薦で出場することになるのだが、ライダーとしてかなりのレベルに達していたようだ。16歳といえば当時の免許資格の最低であったが、その1〜2年前から自宅にあったBSA500ccを、無免許で乗り回していたためでもあったのだろう。
ライラックの製造元である浜松の丸正自動車製造(株)は、この優勝で喜びにわいたが、すでにマーケットシェアは下降線をたどりつつある時期で、思いがけない勝利の美酒に酔う余裕は長く続かなかった。そして、翌年も開催予定であった浅間レースへの出場意欲は、それほど強いものではなかった。
伊藤史朗の父昇氏は、明治36年長野県に生まれ、昭和5年アテネフランセを卒業し、山田耕作、近衛秀麿氏に師事した。代表作には歌曲三部作の信濃旅情、それに日本ペンクラブにも所属し、著書には「ヴィラ・ロボス」がある。東宝映画の音楽監督も務め、戦前派には懐かしい映画主題歌の作曲をいくつかやった。当時すでに引退していたが、モーターサイクルマニアで、家にあったBSAは撮影所への通勤にも使用していた。
父昇氏はライラックが今後のレース出場に消極的であることを知って、他のメーカーへ史朗を移すことを考えた。作曲家である父には日本楽器にも知人がいた。そして、親会社の日本楽器から子会社のヤマハ発動機へと話が進み、この年の12月にはヤマハのテストライダーとして入社することになった。
その翌31年7月、伊藤は発表されたYD−1 250∝で富士登山レースに出場、電気系統のトラブルでリタイヤ。この年開催予定であった浅間が1年間延期となったことから、9月にはヤマハをいったん辞めて、ギャンブルの浜松グランドレース登録選手となり7カ月走った。が、浅間に出場するためには「6カ月以前にプロ選手を引退しなければいけない」という規定ができたため、昭和32年4月には引退し、再びヤマハに戻っての第2回浅間レース出場となるのである。
伊藤史朗は昭和14年10月10日に昇氏の次男として生まれた。兄弟は建築業に携わっている兄と、アメリカ人と国際結婚した姉の3人だが、母は彼が13歳のとき死んだ。母の死後は父と姉が彼の世話をしていたが、このことについてはあとでもふれるが、自由奔放に生きようとする彼のために、父や姉は泣かされ続けた。ふたりは史朗が、次々と引き起こす不祥事件のために苦労の連続であった。
史朗(ふみお)という名前は、父昇氏の師匠である今は亡き山田耕作氏が命名したものだった。父は明治の将軍乃木希典にその風貌が似た、堂々たる体格に白髪の将軍ふうであったが、史朗も身長178cm、体重68kgで握力は64もあり、握手をするとグローブのような大きな手に力がみなぎっていた。
第1回浅間レースのあと、彼は私のオフィスにもよく顔を出すようになった。そして、彼の父からも電話があったり、手紙が来たりする仲となった。あるときの手紙には「山田耕作先生につけていただいた史朗(ふみお)という名前も、結局は音楽のほうには向かず、スピードに興味をもつようになったが、どちらの方面でもいいから、優れた人間になればよいと思っている」と書かれていた。
第2回浅間レースが終わった翌年3月「モーターサイクリスト」誌上で懸賞募集した「モーターサイクリングの歌」の作詞作曲が決まって発表会をすることになったが、私はその作曲の補作編曲を父の伊藤昇氏へ依頼したところ、本人は現役を退いているからといって、当時の劇映画「赤銅鈴之助」の作曲などで活躍していた渡辺浦人氏を紹介してくれた。ちなみにこの歌の原作は愛知県春日井市で、王子製紙に勤務し、今はBMW/R90Sに乗っている伊藤静男君であり、作曲は当時慶応高校3年生の福井伸彦君であった。そして、この歌の発表会は昭和33年3月29日東京日本橋の日本相互ホールで開催し、歌手には伊藤久男氏が来て歌ってくれた、懐かしい思い出もある。
私生活の乱れから、アメリカヘ
ヤマハYD1で出場した伊藤は、第2回浅間火山レースでは完走できず、エンジントラブルでリタイヤした。が、2周目からはトップにたち、6周まで断然他を寄せ付けずに、それこそ自由奔放な豪快な走りを見せて観衆をわかせた。そして、その走りのものすごさは後世に語り継がれてきた。
その後の彼の戦歴については、すでに読者各位も周知のことでもあるので省くことにするが、私はレーシングライダーとしての伊藤史朗をいま一度思い浮かべ、その存在価値を含めて考えてみたいのである。
伊藤史朗は「天性のライダー」とうたわれ、「彼より早く走れるライダーは日本にいない」と評価され、いわば神話のように語り継がれてきたが、果たして彼はそれだけの価値あるライダーであったのだろうか 。結論からいうと、私は「イエス」といいたいのである。国内レースはもちろんのこと、海外レースでも世界の一流ライダーたちと、2サイクル、4サイクルを問わず互角の走りを見せたではないか・・・レッドマンやタベリとも、そしてあのフィル・リードとも・・・
確かに、マシンに跨がっているときの伊藤史朗は、世界の一流レーシングライダーとしての素質を遺憾なく発揮していた。この限りにおいては、存在価値も極めて高かつたことを私は素直に認めるべきであると思う。この点では当時パルコム貿易(株)のマネージャーの故ハーマン・リンナー氏も同意見であった。
「ワタシはドイツ人であり、BMWにも長年乗ってきたが、イトーほど、いきなりBMWを自分の思うままに乗りこなせる鋭い感覚のライダーを見たことがない」と、リンナー氏は彼のレーシングテクニックを高く評価していたひとりでもあった。
伊藤はライダーとしての才能に優れていただけでなく、手先も器用だった。作曲家の子供だけあってピアノも上手に弾いたし、ウクレレもなかなかだった。そして、裕次郎ばりの低音での歌もチヨットしたものだった。シンガポールGPで転倒し怪我をしてからスピード感がなくなったのを機に、歌謡界への転身を考えるようになり、作曲家の藤原先生の指導をうけ、昭和39年春にはポリドールから《赤いリボンのお下げの娘》と《霧笛が俺を呼んでいる》の2曲を売り出してはみたが、そのデビューは失敗に終わった。
伊藤史朗は、それほどいくつかの優れた才能の持ち主ではあった。
「だが、しかし・・・」の但し書きが、リンナー氏のメモにも、私のメモにも残念ながら付け加えられてあるのである。
「キミは速いし、うまい。だが約束を守らず、ウソもいう。それを直さないといけな いヨ」と、彼の親しい人たちが注意すると、人なつこい顔に笑いをおびて「ハイ、わかりました。これからはゼツタイ注意します!」という、気持ちのよい返事が返ってきたものだったが、その返事のようには彼の人生の軌道修正はなされず、次第に破局へ向かっての走りがエスカレートしていったのだった。
そして、彼は婦女暴行事件や睡眠薬「ラボナ」の多飲から、次第にレーシングライダーとしての適正を欠くようになり、走りに徹した日常ではなくなってゆく・・・そしてさらに、ピストル密輸事件までが発覚し、日本を捨ててアメリカヘ渡るという結末になるのであるが、今から14年前、1964年のスズカでの第2回日本グランプリ出場が日本国内での最後のレースとなった。
アメリカヘ渡ってから、すでに13年が過ぎた。渡った当時はカリフォルニアの自動車レースに出場している伊藤を見た、というニュースも日本にも入ったりしたが、それからの彼の消息はプッツリと切れた。が、つい最近、私のところにはふたつの消息が入った。3〜4年前、「岡山のおばあちやん・・・」で一躍有名になった、元ウエルター級世界チャンピオンの藤 猛と共同して、ハワイで観光事業を始めたが、経営がうまくゆかず半年ぐらいで挫折したというニュース、あとのひとつは、アメリカのフロリダ州立大学に在学中の中村暢宏君(25歳)からのものだ。九州の小倉南高校を卒業して渡米した中村君は、大学へ行きながらAMAの会員となり、ロードレースに出場し、今年3月のデイFナGPで全米選手権アマチュア部門750ccモデイファイプロダクションで2位、オープンGPで1位になった。
このニュースはフロリダのローカル新聞に掲載された。それを見た伊藤史朗から中村暢宏君に電話があった。その消息によると、伊藤はいまマイアミに住んでいて、ビルデイングのメンテナンスの会社で働いているとのことだ。3カ月ぐらい前の話である。
伊藤史朗の人生は、いうならば彼の走法そのままの自由奔放に、ダイナミックな波乱に富んだと表現すべきものかもしれない。が、少なくとも、レーシングライダーとしての恵まれた素質におぼれることなく、その私生活の乱れを正すことを、もつと早く彼自身が気付いてくれたなら・・・と、日本のモーターサイクル界に二度と再び現れないほどの貴重な人材のひとりであっただけに、私は今でも悔やまれてならないのである。
(1990年3月付記)
さて、フロリダ州マイアミでの伊藤史朗の近況はどうしているのだろうか。ある最新情報によれば、伊藤はその後マイマミからフロリダ半島中央部にある、あのデイズニーで世界的に有名なアメリカの新興都市オーランドに居を移したらしい。
デイズニーの本拠地から車で約15分程離れたオーランドのダウンタウンの一角に、「一番」という名の中規模の日本レストランがある。なんと、その店のオ−ナーはあの伊藤史朗だというのである。
また、伊藤はその仕事以外にも、ホテルチェーンで有名な「ホリデイ・イン」のフロリダ南部地区の副社長という肩書きを持っているらしい。現地在住の日本人で、彼と親交しているという数人からの噂なので、まず間違いないとみてよいだろう。いずれにしても、伊藤史朗はアメリカのフロリダで、自分なりの生活を築いているようだ。
(1)私の脳裏に残る「天才ライダ−伊藤史朗」の戦歴を思い浮かべてみよう。
1955年の第1回浅間高原レ−ス 250ccクラスに、若冠16歳でデビュ−、シャフトドライブのライラックに乗り優勝。
1957年の第2回浅間火山レ−ス 250ccクラスでは、ヤマハに乗り豪快な走りで、 レ−ス半ばまで トップだったが、エンジントラブルでリタイア。
1959年の第3回浅間火山レ−ス 500ccクラスでは BMW に乗り、BSA の高橋国光とランデビュ−走行。
1960年には BMW で、WGPレ−ス 500ccクラスに初挑戦し、フランスGP6位、オランダ・ベルギ−GPともに10位。
1961年からはヤマハと契約、フランス・TTレ−ス・オランダ・ベルギ−の 4 レ−スの 125・250cc に出場、TTレ−ス 250ccで6位、オランダ 250ccで6位、ベルギ− 250ccで5位に入賞。
1962年はヤマハが WGP に不参加。鈴鹿サ−キットのオ−プニングレ−ス 「第1回全日本選手権レ−ス」の 250cc では、ホンダの T.Robb と激しい2位争いをしたが3位。
1963年の WGP には、250ccクラスにTTレ−ス・オランダ・ベルギ−・最終戦の日本GPの4 レ−スに出場。TTレ−スではホンダの Redman に 27.2秒差で2位になったが、給油時のピットインタイムが Redman より 25秒も長く、惜しまれるレ−スだった。そして日本人ライダ−として、初めてマン島TTレ−スの表彰台に上がった(スズキの伊藤光夫が 50ccで優勝したのは、この4日あとである)。次のオランダでも 2位。次のベルギ−GPでは伊藤史朗としてもヤマハとしても WGP 初優勝を飾った。最終の日本GP(第1回日本GP)では、ホンダの J.Redman と息詰まる接戦の末、0.1秒差で2位に。
1964年は、WGP第1戦の USGP に出場したがリタイア。続いて出場したマレイシアGPのオープンクラスで転倒し頭部強打。WGP最終戦の日本GPに顔を見せたが、精彩なく
リタイア。この日本GPを最後に、日本のレ−ス界から姿を消した。
(2)別冊「モ−タ−サイクリスト」の創刊号(1978年11月号)から1979年6月号に「浅間からスズカまで」が掲載されたが、それを収録したものが1990年に八重洲出版から「実録秘話 浅間からスズカまで」(著者 酒井文人)として出版された。下方の文は、それのコピ−である。書かれている年月は1978年であるので要注意のこと。クリックすれば拡大します。
浅間の英雄 伊藤史朗
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(3)別冊「モ−タ−サイクリスト」の1991年5月号に、伊藤史朗の死を伝える「彼は幻のライダーだったか」(著者 酒井文人)が掲載された。書かれている年月は1991年であるので要注意のこと。次は、その全文である。
伊藤史朗が亡くなった――――――。伝説の中に生きてきたライダーともいえる伊藤史朗とは、一体どんな素顔をもったライダーだったのか?
伊藤と私との出会いは、昭和30年からだから、かれこれ35年にもなる。第1回の浅間レースに、彼は思いがけもしない勝利を収めてから、MC界に深いかかわりをもつようになるのだが、そのころからいつも彼とは裏面で深い関係のつながりをもつ立場に私はいた。
伊藤の実父・昇氏は作曲家であり、ある種の情感をもった人物であった。私との出会いは、その父親から始まった。それは浅間レースに史朗が勝ったエピソードを、彼と親しい読者という立場で、本誌に投稿したことからである。
父親はいつも史朗のことを心配していた。母親を早く亡くした彼は父親の愛を感知する身であったから、私にもそのへんの事情はよく理解することができた。
父親は史朗のライダー生活を陰から引っ張り上げる立場にいた。そして、その情熱たるや普通の父親では到底まねのできない熱心さであった。しかし、彼の走る姿をレース場に来てアレコレ指図するようなことは一度もなかった。
レース結果だけを静かに見守り、その成果が挙がらなかったときは、次のレースにすべてを期待するという立場を、父親は常に崩さなかった。
いまひとりの史朗の理解者は、当時バルコム貿易鰍フハーマン・リンナー氏であった。彼はすでに故人となったが、伊藤の理解者おしては、実父・昇氏につぐ人物であった。
バルコム貿易は、そのころ経営の危機にあったが、リンナー氏はレース参加を主張して、伊藤と望月修のふたりを起用した。そしてヨーロッパまで遠征して、「日本にもBMWに乗れるイトーがいる!」ということを喧伝したのだ。その遠征費の捻出にはひと片ならぬ苦労がついてまわり、私も片棒を担いで捻出したものだった。
伊藤史朗とライダーたちの交わりは数多いが、一番古くからの友人としては高橋国光を挙げたい。
私が主催者となって開幕した「クラブマンレース」で、伊藤と高橋は一緒にエントリーして、思う存分に走りまくり、見事1位と2位を手中に収めることになるのだが、そのレースが伊藤は2度目、高橋は最初であった。
去る2月に亡くなった故・望月修も伊藤との交わりは深かった。バルコム貿易へ紹介したのも望月だったし、ヤマハへも彼が心配をして契約ライダーとなった。
私は伊藤の訃報を知ると、普通なら望月君に連絡するところだが、彼は伊藤より早くこの世を去っていた。そこで伊東市に住む高橋へ連絡して、そのことを知らせた。
高橋は読者もご存じのとおり、まだ現役でレースにも参加しているが、「残念ですネ、次から次に亡くなっていきますね」と、言葉にもならなかった。
今までに伊藤史朗については、伝説中のライダーであり、幻のライダーでもあった。そして、いろいろ雑誌にも書かれ、書籍にもなった。私は彼と比較的近い立場にいながら、彼のことについてはあまり書こうとしなかった。イヤ、できることならそうっとしておいてやりたかった―――――。というのが本音でもあった。
日本に在住しているときに、クスリの味を覚え、アメリカへ渡ってからも、その習慣は続いていたのであろうか―――――。彼はフロリダにいた。かって私の愚息がマイアミに居住していたので、彼の消息を知ろうとすれば、極めて安易なことであったが、あえてそのことには深いかかわりをもとうとしなかった私の心境も、読者は理解していただけると思う。
まだ、未確認であるが、父親は健在のようだ。東京の某所で余生を送っておられる―――との情報もある。私は近いうちに、父親の昇氏を尋ねてお見舞いとお悔やみを申し述べたいと思っている。
1960年オーストリアGP(ザルツブルグ)での
伊藤史朗とリンナ−氏
1959年の第3回浅間でワンツーを喜び合う伊藤史朗と高橋国光
(4)2001年春、私のホ−ムペ−ジをご覧になった或る方から、次のようなメ−ルを戴きました。
『・・・・・・・・私は、アメリカで、彼に生前会いました。いつ、どんなかたちでというのは申し上げられませんが・・・。
私が伊藤史朗に会ったのは、彼が亡くなる一年程前のことで、私が日本に帰ってからも電話でバイクの話をいろいろとしていただきました。
私が○○○○○に勤めていたこともあって、ツテを伝ってバルコム貿易時代の彼のメカニック様に連絡を取りまして、伊藤史朗が昔の仲間と連絡を取りたがっていると彼の電話番号もお教えできたのですが、時既に遅く、亡くなってしまったのです。
私も、具合が悪いとは伺っていたのですが、まさか、亡くなってしまわれるほど悪いとは思ってもいなかったのでびっくりしました。そして、なぜ彼が急に昔の仲間に連絡を取りたがったか、自宅の電話番号を知らせても良いと言ったのかがわかりました。自分がもう長くないことを悟っておられたのでしょう。・・・・・・・』
野田健一さんの「伊藤史朗の1960年」をご覧になりたい方は、こちら をクリックして下さい。
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その後、伊藤史朗はヨーロッパのWGPに姿を見せなかったが、11月1日の最終戦日本GPには、ヤマハで125・
250に出場し、ともにリタイアしている。即ち長谷川さんの「TTレース以降、ヤマハと伊藤史朗との関係は途絶えた」
という発言は間違っていることになる。長谷川さんの記憶違いだろう。また、「伊藤史朗はマン島まで行きながら走ら
なかった。その理由には秘話がある。彼の名誉のためその理由は今日に至るまで口外していない。」と発言して
いるが、この秘話とはどのようなことなのだろうか?
この1964年の日本GPを最後に、伊藤史朗は我々の前から姿を消すことになった。
1964年TTレース250
エントリーリスト
1964年のWGP第1戦、2月1〜2日の「USGP」には、伊藤史朗は Read とともにヤマハで250ccに出場し、
二人ともリタイアした。
続いて、伊藤史朗は、3月29〜30日の「マレイシアGP」にヤマハで参加し、29日の125ccでAnderson
(スズキ)に次いで2位、250ccでは優勝した。そして翌30日のオープンクラスで転倒負傷した。
私の日記帳には、現地からの情報で「伊藤史朗が首の骨を折り重体」(誤報?・・・頭部強打)と記載されています。
小生は4月27日WGP参戦のためヨーロッパに向かい、スペインGP・フランスGPそしてマン島TTレース
にも参加した。下に掲載する「TTレース250ccのエントリーリスト」には、『車番19 F.Ito (Japan) Yamaha 』
がエントリーされています。伊藤史朗がマン島に来ていながら、公式練習&レースに出なかったということは
全く知らなかった。
また、1964年8月号の「モーターサイクリスト」には、次のような記事が掲載されていました。
2002年10月、1960年代のWGP監督 ホンダの河島さん・ヤマハの長谷川さん・スズキの清水さん
の3監督による座談会が開かれ、「別冊モーターサイクリスト」の2002年12月号および2003年1月号
に、その記事が掲載されました。
その中に、下記のような長谷川さんの「伊藤史朗に関する発言」が掲載されています。
元ヤマハの長谷川武彦監督の「伊藤史朗」に関する発言
座談会での元長谷川武彦ヤマハ監督の発言記事 |
「別冊モーターサイクリスト」2002年12月号43ページ掲載 |
’64年、伊藤史朗はマン島まで行きながら走らなかった。その理由には
秘話がある。それ以後、うちと彼との関係は途絶えた。彼の名誉のため
その理由は今日に至るまで口外していない。 |
「モーターサイクリスト」1964年8月号48ページ掲載 |
ヤマハの伊藤史朗は、結局TTレースに出ずに単身帰国した。
公式練習でも走らなかったそうだが、その理由はどうも彼の健康
状態にあるらしい。
さきに行われたマレーシアGPでの転倒による頭部打撲のショック
がまだ完全に回復していないのであろう。帰国後会った彼の様子
からは、全くの健康体としか思えなかったが、彼の親しい友人に
「頭の芯がときどき痛む」と不安な症状をうったえているとも聞いて
いる。
彼自身にとって、今回のTT不参加は非常に残念であったに違いな
かろう。しかし、あえてその決断にふみきった彼の慎重さは立派な
ものである。ーーー今後の自重と健闘を祈ろう。 |
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左の写真は、1960年 朝霧高原に 自走で モトクロスの 練習に行く 朝です。一度走ってから エントリー
を如何するか 決めるため、タイヤ前後、ハンドル、は交換、ダウンにしたエクゾーストは 改造時に利用したので
とりあえずそのまま。
春日井市から朝霧まで 1号線で 4時間。20%ぐらいわ砂利道です。野宿して 朝霧のコースを 走った のですが
深いクリークに捕まってもがいて いたのを「大丈夫ですー?」 と BSAを転がして置いて 引き揚げてくれたのが
富士に向かって走っている 右の写真のひと 「伝説の日本最強の走り屋 故 伊藤史朗」でした。
彼も自走で練習に来ていたのでしょう、ナンバー付きが わかるでしょ。
当時 彼の前を走れる レーサーは 居なかった。ただ 彼のライデングに付いていけるマシンは 日本にも
外国にも多く無かった。 メカに言わせると、壊し屋 でも 彼が 走っている限り 前にでる 日本人は 当時!居なかった。
この時20歳 彼が16で1955年の浅間高原レース をライラックで勝ってから4年が過ぎていた。 この後 BMWで1年
次ぎにヤマハで2〜3年世界を走って視界から消えた・・・・・・・
そうそう 私は 300ccクラスは無理と判断 50ccクラスに出ました。 50用のタイヤは資金不足の為
麻ロープ作戦
しかし 途中ロープが チエンに絡んで 結果は 完走だけでした。
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これは1959年浅間クラブマンの国際レース BMWは伊藤史朗、915 は
高橋国光 BSA。BMW R69はのフロントフオークは テレスコに変更してある
残念ながら 伊藤史朗 高橋国光 二人とも このレースは マシントラブル
リタイアー。
次ぎの500クラスでは 18才高橋はゴールドスター 19才伊藤R50sで
ワンツウフィニッシュは有名なお話し。 |
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1960年4月、Duke氏が訪日
した際、来社した酒井文人氏
(拡大します)
日本のモ−タ−サイクルレ−スの育成に偉大な功績を残された八重洲出版の創業社長酒井文人氏も2002年4月1日 亡くなられ、6月5日には「感謝とお別れの会」が盛大に行われたとのこと。そして、その折り 記念に1951年12月発行の「モ−タ−サイクリスト」創刊号と1958年浅間で開催された「第1回全日本クラブマンレ−ス大会の写真集」の復刻版が配布され、後日 私にもお送りいただきました。