Menu へ
工事中・・・
  ー Chapter 9 −
ついにヤマハ250ccを制す

 250ccにはRC163の進化型RC164、ヤマハは新型RD56、スズキも水冷2スト4気筒のRZ63を登場させた。今回が初のお披露目となったRZ63はこれからのスズキの伝統となるスクエア・フォーのエンジンレイアウトを持ち、最高出力50ps(リッター当たり200ps!)という高出力を得た。
このRZ63は名手デグナー・アンダーソン・ぺリスがライディングする事になった。
レースはヤマハRDの伊藤史朗がリードして始まった、それを追うレッドマン、スズキ勢という形で始まったが、ここでデグナーが第3コーナーで転倒、大火傷を負った。ホイールベースが長く、操縦性に問題があったRZ63勢は後退していき、伊藤とレッドマンの一騎討ちとなった、
まさに一週ごとに順位を入れ替えるデッドヒートだったが、伊藤は僅かに及ばず、0.1秒差でレッドマンが優勝した。タイトルがかかり、注目されていたプロビーニも素晴らしい速さを見せたが、ヤマハのリードに続く4位・・・タイトルの行方は僅かに2ポイント、レッドマンに及ばず、またモリーニも2ポイントホンダに及ばずタイトルを逸してしまったものの。イタリアン・シングルの活躍は新鮮な感動を呼んだ。

 このシーズン、2ストローク勢の発展は凄まじいほどに速く、ホンダを脅かし始めた。
50/125ccはスズキに制され、250ccもまたヤマハの急追を受けていた、だがしかし、日本車による4クラス独占は、いずれ近いうちにすべてのクラスを日本車が席捲するのでは・・・との予感を深めさせた。
 50ccクラスでは、ホンダが64年型となる2気筒RC113を登場させ、タベリがライディングしたこのレースは、まさにタベリとRC113の一人舞台となり、平均121.3km/hで宿敵スズキRM63のアンダーソンを圧倒して優勝した。
 125ccクラスでもホンダは64年型RC146を登場させた、このマシンは史上初の並列4気筒を実現、この小さな4気筒はかなりピーキーな特性を持つマシンであったが、タイトルを獲得したマシン・スズキRT63のF・ぺリスとデッドヒートを展開したが、このレースはぺリスのものとなり、レッドマンは4秒遅れの2位・・・しかし、このマシンが将来2ストロークマシンに匹敵しうる可能性を証明した。
日本GP125ccクラスのスタート
 350ccクラスの今シーズンは、ホンダRC171に乗るレッドマンとMVフォーのヘイルウッドの対決だった。シーズンを象徴するレースはマン島TTで見られた、レースはRC171のレッドマンがリードし、それをMVのヘイルウッド、ジレラのハートルと続いたが、ヘイルウッドは油圧トラブルで失速してしまう。
その後もレッドマンがリードしてシーズンが進み、タイトルはまたもホンダとレッドマンのものになった。

 最大排気量、500ccクラスはM・ヘイルウッドが緒戦のマン島TTで勝利し、第2戦のオランダ・ダッチTTではジレラのJ・ハートルが勝利した以外は全6戦中5勝を挙げて圧勝した。未だに王者MVを脅かす存在はここにはなかった。

 さて、今シーズンから最終戦に組みこまれた鈴鹿での「日本GP」は何れも日本車がタイトルを獲得した50/125/250ccにタイトルが掛けられ、350ccレースも開催された。
250ccタイトルを獲得したレッドマン
イタリアン・シングル「モリーニ」を駆るプロビーニ
 50ccクラスでは第1戦から第3戦まで、アンシャイトのクライドラーが2勝してトップ、ホンダは、10馬力以上の2ストローク勢には劣勢を覆うべくも無く出場しなかった。
第4戦の
マン島ではRM63が素晴らしい快挙を成し遂げた、伊藤光夫は9速ミッションのRM63を操り、平均126.81km/hと、前年度の120.89km/hを大きく上回る成績で優勝した。
更に、この後のオランダからチャンバーの改良を受けたRM63は出力11馬力以上を発揮し、50ccとしては脅威の160km/hに到達するマシンだった。この年、このRM63は9戦中5勝を挙げ、連続メーカータイトルをスズキにもたらし、それを駆るアンダーソンがタイトルを獲得。デグナーもランキング3位に入った。

 
 
125ccクラス、ここでもスズキのRT63は開幕戦のスペインGPはホンダに優勝を奪われたが、第2戦の西ドイツGPでデグナーとアンダーソンが1−2フィニッシュを飾った、ここで特筆すべきは61年にデグナーはここ西ドイツ・ホッケンハイムで、MZを駆り平均時速約158km/hで優勝しているが、なんと今回のレースでは170km/hという驚異的な飛躍で優勝を遂げた。
 そしてマン島TTでもアンダーソンが平均143.7km/hで優勝。3年目での快挙であった。結局、この125ccでも全12戦中9勝を挙げ、そのうちの6勝を挙げたアンダーソンが50ccとのダブル・タイトルを獲得した。


 ホンダは、昨年度のマシンでこのシーズンを乗り切る目論見だったが、50/125ccクラスはスズキにタイトルを奪われた。これはこの2クラスだけではなく、250ccにおいてもヤマハの急追を受ける事となった。

 250ccクラス、前半戦の1・2戦はイタリアの単気筒モリーニでT・プロビーニが健闘し連勝、ホンダ劣勢か?と、言う状況でスタートを切ったが、ヤマハはマン島TTに向けて照準を合わせていた、そのマン島TTではヤマハRD56を駆る伊藤史朗がホンダのレッドマンに次ぐ2位となり、その後ベルギーGPで初優勝を遂げた、しかし、ヤマハチームは、ベルギーGP終了後に帰国させた。最終戦日本GPを迎えた時点で、この年のメーカータイトルは、第1・2戦そして第8戦でモリーニに優勝を攫われた意外は勝利を重ねていたホンダが握っていた(ヤマハはベルギー以来欠場)が、個人タイトルでは、日本製4気筒マシン隆盛の中、イタリアの単気筒モリーニを駆るT・プロビーニが最短距離にいた、このシーズンのモリーニ社は資金不足から連戦出場する事が出来ず、マン島TTと東ドイツGPに出場できなかったが、鈴鹿で優勝する事ができれば、プロビーニは個人タイトルのみならず、メーカータイトルをモリーニにもたらす事が出来る状況だった。
ヤマハは125ccにRA65、250ccにRD56で参戦することになった。ヤマハはこの年、伊藤史朗を筆頭に日本人ライダーだけのチームを編成した。
 そして、この年に記念すべきことはシーズン最終戦に日本GPが組み入れられたことである。前年に国内初の国際格式サーキットとして完成した鈴鹿で行われることとなった。

 シーズンは前哨戦・デイトナでのUSGPから始まった。50ccクラスではズズキの伊藤光夫が前年度チャンピオンマシンのRM62で優勝し、125ccでもデグナーが優勝し、250ccでは伊藤史朗のヤマハRD56が優勝した。
第一戦・スペインGP125ccクラスのスタート

1962年に125、250、350の3クラスを制覇したホンダは1963年のGPにはワークスではなく、プライベーターへのマシン供給という形で参戦することにした。これは以前にあったMVアグスタ社へのしっぺ返しというわけでも、前年に圧倒的勝利を手中にした驕りでもなかった。
 前年からホンダは4輪車への進出を目指していた、既存のメーカーにはないメカニズムで・・・というホンダイズムは62年にツインカムの軽量スポーツモデル「S360」・「S500」という名車を生み出した。(ちなみにS360と同じメカニズムを持つ(!)軽トラック「T360」も発表された)
 この4輪への進出により、当面4輪車への生産に多くの力を割かねばならなくなった為に、GPマシン開発を遅らせざるを得なかった。
 
 
スズキは125ccマシンの根本的な見直しを実施した。前年11月の第1回全日本選手権ロ−ドレース(鈴鹿サーキットの初レース)に2気筒マシンの試作車をアンダ−ソンに乗せ出場させた。このマシンはRT63として'63年シーズンに登場した。
 しかし、前年まで目立った成績を残すことが出来なかった250ccクラスには参戦を中止した。

              ― Chapter 7 ―
スズキ50・125cc、ホンダ250・350cc制覇、日本GP初開催:1963
VOL・4

250ccにおいても、もはやホンダに敵はいなかった。スズキはRT62・RV62のメカニカルトラブルに悩まされ、とてもホンダに追いついていける状況になく、レッドマンはRC163を自在に操り、このクラスでもマン島TTの1-2-3フィニッシュを始めとして10戦10勝でタイトルを決めた。
しかし、350ccクラスはホンダの思惑通りに行かなかった。350cc緒戦のマン島に2台のRC170を送り込んだ、これに対するMVアグスタは事実上のワークスマシンにヘイルウッドとホッキングを乗せて出場。フルスケールのMVに対して285ccのRC170は苦戦した。1-2のMVを追うホンダのフィリスは石の壁に激突、病院に運ばれ途中に帰らぬ人となった。残るマッキンタイヤも3週でリタイアし、350ccのデビュー戦はフィリスの死という惨事とともにホンダに重くのしかかった。
更に、アルスターGPの5日前に行われた英国選手権に500ccマチレスで個人参戦したマッキンタイヤまでもが転倒により他界した。
 ホンダは、次のダッチTTではレッドマンが優勝、次のアルスターGPからはフルスケールに近い339.26ccのRC171を出場させ、レッドマンとロブにこれを与えた。レッドマンはアルスターGP以後イタリアまで3連勝を遂げ、フィンランドでもロブが優勝。ついにメーカータイトルをMVから奪い取り、レッドマンは250ccとともに350ccのタイトルも獲得した。

 500ccは揺ぎ無いMVアグスタの天下だった。ヘイルウッドとMVのコンビに敵はなく、メーカー・ライダーの両タイトルを獲得した。
125ccはホンダが圧倒的な強さでタイトルを獲得した。緒戦のスペイン、そしてフランスと高橋国光が優勝。マン島TTにおいてはRC145がタベリを先頭に、なんと上位5台を占める快挙を成し遂げ、このシーズン10戦10勝でタベリがチャンピオンを獲得した。(最終の第11戦アルゼンチンGPは不参加)
ダッチTT125ccクラス・デグナー、
  ロブ、ヘイルウッド、タベリ
世界GP初の50ccレースは、スペインGPだった。この記念すべき初勝利は、クライドラーに乗るアンシャイトが獲得した。続くフランスでも、ホンダ・スズキはクライドラーの後塵を浴びることになる。ホンダは立ち上がりの加速で2ストロークに及ばず、スズキの性能もクライドラ−に及ばなかった。
そしてマン島TT、スズキは手探りの状態で100本ものチャンバーを作り、それはすぐにベンチ・テストにかけられた、実に112本目のチャンバーが付けられたエンジンが10ps近いパワーを絞り出し、このチャンバーを付けたエンジンをすぐにマン島へ空輸した。そのエンジンを載せたRM62は、まるで別のマシンのような走りを見せ、圧倒的な強さでマン島TTを制した。スズキが世界GPへ参戦して3年目の初勝利だった。
チャンバー製作のコツをモノにしたスズキは、その後も勝利を重ね、メーカータイトルを獲得。ワールドチャンピオンもデグナーが獲得した
マン島を走るデグナー
GPはこの年から50ccを選手権に組み入れられることになった。
原付自転車「モペット」が欧州で人気が出、独自に欧州選手権などが開催されていた為に、GPの50ccクラスの登場は必然であった。
この事は、クライドラーやトモスなどの小排気量メーカーにとっては願ってもないことだった。日本メーカーもホンダ・スズキがこのクラスへ参戦することになった。

ホンダは4ストロークの単気筒RC110・スズキは2ストローク単気筒のRM62での参戦となった。

 そして、61年度に125/250ccの両クラスを制したホンダはこのシーズン、いよいよMVアグスタの君臨する350ccクラスに挑戦することになる。
ホンダこのクラスへ参戦するマシンに、250ccのRC162のエンジンをボアアップした285ccのRC170で充分と考えた。350ccに参戦するのに285ccで充分とするホンダは注目を集めるが、それは王者・MVアグスタにとっては神経に触るものだったであろう。
 その他のメーカー、ヤマハは販売不振で困窮の極みにあった為62年シーズンは開発を継続しながらも参戦を断念スズキは最も劇的な展開を見せた、なんとMZの至宝 エルンスト・デグナーの獲得だった。デグナーは常に東ドイツのMZの中心になって、ライダー・メカニックとしてMZ社に貢献しつづけた人物であり、61年シーズンの第10戦スエ−デンGP終了後、西ドイツへ亡命したデグナーの去就は50ccクラスの昇格とともに2ストロークメーカーの注目を集めた、英国のメーカーなどは1000万円を提示したといわれるが、デグナーはスズキを選んだ。マン島でいつもMZとスズキが同じ宿だったこともあるかもしれないが、何より未完成のスズキ2ストロークに関心を示していたためと言われている。
この年、スズキの2ストロークマシンは大きな発展を遂げることになった。
         ー Chapter 6 −
50ccクラスがGPへ、スズキの50cc制覇:1962

イギリスのジャーナリズムは、警笛を鳴らした。
 「英国のモーターサイクルメーカーは記録破りの日本製ホンダの支配から受ける増大する脅威に直面している。」、「ホンダ・レーサーのエンジンは時計のように精密で、何ものの模倣ではなく、全く独創的なもの。」、「日本がこれから海外に輸出しようとするオートバイは、世界一の性能だけではなく、最も安い車である。」、「この日本人が確立した組織的方法を、英国のメーカーは見習うべきである」、「日本人は著しい進歩を遂げ、我々のアイデアを真似る必要が無くなった、近い将来には英国のメーカーが日本人の真似をする日が来るかもしれない」・・・

 ・・・この時、彼らの発した警笛は、その後現実のものとなるのに、そう時間はかからなかった・・・。
タイトルを獲得したホンダRC162(250cc)
マン島TTではやはりMVのホッキング対ホンダ陣営の対決となった。最前列からロケット・スタートで飛び出したマッキンタイヤのリードでレースが展開するが、あと半周というところでトラブルにより脱落、しかしRC162は圧倒的な速さを発揮し、へイルウッドが125ccに続いて優勝を飾り、MVのホッキングは途中リタイアした。
 ヤマハは伊藤史朗のRD48が6位に入賞するが5位ホンダの谷口とは1分29秒の差があり、スズキはアンダーソンの10位が最高だった。

 61年シーズンの250ccクラスは、ホンダは11戦中実に10回の優勝でメーカータイトルを獲得し、マイク・へイルウッドがワールドチャンピオンとなった。

 既に、日本車の参戦する125・250cc両クラスでは、日本車でなくては勝てない時代となった。
西ドイツGP・高橋国光の初優勝
結局、このシーズンの125ccクラスはホンダが全11戦中の8回の優勝と圧倒的な戦績でメーカータイトルを獲得、T・フィリスがホンダ初のワールドチャンピオンとなった。

 250ccクラスは個人出場とはいえMVのホッキングが強力だった、スペインGPではホッキングが優勝し、ホンダのフィリスが2位、しかし続く第2戦の西ドイツGPでは、日本の高橋国光が記念すべき日本人初優勝を飾った、この時、彼はホッケンハイムのコースを平均時速186.410km/hで走り、57年にMVのウッビアリが記録した176.803km/hを大きく上回ると同時に最速ラップは189.52km/hを記録し、12万人の大観衆の賞賛を浴びた。
マン島TT125ccクラス・Bレッドマン
を追うMZ勢(Pがデグナー)
ヤマハは、1959年の浅間クラブマン・レースに125ccのYA/YD系、市販型250ccレーサー「250S」を参戦させるが、どちらのクラスもホンダの後塵を浴びることになる。
 しかし、ヤマハはYDS1(250cc)にキットパーツや、いわゆる「アサマ・タンク」を装着し、ロードレースやスクランブラー・レースに参戦させ、十分な技術的フィードバックを得た。

 このころ、ヤマハは世界GPを目標に125ccマシンを開発していた。YA-1をベースとした2ストローク単気筒の改良型(とはいえ全くの別物だが・・・)、ロータリーディスクバルブを装備したRA41を完成、250ccにも2気筒RD48をもって1961年度の世界GPへ参戦することとなった。

 1961年の初頭、MVアグスタは、突然世界GPからワークスを撤退させるという声明を発表する、理由はGPが全8戦から、61年度は10戦に増えたことによると強調した、確かにMVはこの時期、全6戦に戻すように主張していたのだが・・・、しかし、全く活動を休止するというのではなく、プライベートライダーへのバックアップは続け、レーシングマシンの開発も続行するとした。
 この発表は、ホンダ陣営にも大きな衝撃を与えた、MVを目標として努力を続け、60年シーズンついに射程圏内に捕らえたところでの撤退、勝負を避けるようなMVの態度に失望するファンも少なくなかったであろう。

 MVの撤退により、125ccはホンダとMZの争いとなった。
 
 ヤマハのデビュー戦はフランスGPであった、しかし125ccクラスでRA41の野口種晴が8位、優勝したホンダのフィリスとは2周も引き離されてしまう。
 250ccクラスでも、ホンダは圧倒的に速く、1-2-3フィニッシュを飾る。ヤマハ勢は伊藤史朗が一週遅れで8位、野口種晴が2週遅れで10位だったが、MZが7位でフィニッシュし、MZには対抗できると自信を持った。

 
スズキもこのシーズンは前年のマン島での実績から自信を深め、125ccと250ccへ参戦する。スズキもヤマハと同じく、ロータリーディスクバルブ化し、パワーを向上させた上にマグネシウムなどを多用して軽量になった2気筒RT61(125cc)と、2気筒RV61(250cc)を世界GPへ持ち込んだ。

 ホンダ陣営はこの年、有力ライダーと次々に契約し、一挙にクラス最強の陣容を得ることになる。
 フィリスとレッドマンに加え、へイルウッド、マッキンタイヤ、更には名手ルイジ・タペリまでがホンダに乗りたいと申し出た。
 「日本のマシンは日本人で・・・」と、始まったホンダのGP挑戦は、早くも3年目にして外国人有力ライダーが「乗せてくれ」と言ってくるようになった。


 125ccクラス、緒戦からホンダとMZの一騎討ちとなった、スペインGPホンダのフィリスが優勝、MZのデグナーが2位、西ドイツではMZのデグナーが優勝し4位までMZが独占し、その実力を誇示するがフランスではホンダのフィリスが優勝・・・と、一進一退のままマン島へもつれ込み、マン島TTでは21歳のへイルウッドがマン島初優勝を飾った、ヤマハは同じ2ストロークのEMCとブルタコに勝つことが出来ず、スズキにいたっては一周で3台のRTが潰れるといった結果となった。
                ― Chapter 5 ―
ホンダ125cc、250ccクラス制覇・高橋国光初優勝、ヤマハの参戦:1961

VOL・3