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「われらがスズキ・モーターサイクル」より

1981年「講談社」発行

“技術のスズキ”いよいよ、4サイク戦線に!

 スズキのオンロード・ビッグマシンは、2サイクルに「GT750」、REに「RE5」とそれぞれに性能的、技術的に完成したものを用意することができた。“技術のスズキ”が追求しなければならないエンジンは、もはや“4サイクル”を残すのみとなった。そして、MCのメイン・マーケット、アメリカでの主流はすでに“4サイクル・ビッグマシン”になりつつあった。
 他メーカーに先行を許してしまったスズキにとって、4サイクル・ビッグマシン開発は急務であった。しかし、社会的状況(排ガス規制、騒音問題、省エネ、そして市場ニーズ)からみて、十分な時間的余裕は残されていなかった。
 1974年2月初め、浜名湖弁天島にあるスズキの保養所「コレダ荘」に六、七名の男たちが集まった。東京研究所の中野、2輪設計の川原、平野、実験の友田、車体設計の森川らの顔がみえる。東京から来た中野は、長くレース担当をした後、軽四輪車の排ガス対策で4サイクル・エンジンを研究開発した男だった。「2サイクル・メーカー」スズキの中では、彼以外に4サイクルのスペシャリストはいなかった。
 彼らは夜の更けるのも忘れて、熱をおびた企画討論をたたかわせた。「今後の2輪車づくりの方向」、「4サイクル車開発の必然性」、「開発コンセプトと目標性能、及びそのタイム・リミット」等々。数日間のカンヅメの末、スズキの“4サイクル車開発”への下準備は整えられた。
 翌1974年3月、中野が東京から浜松の本社二輪設計部に籍を移すと同時に、彼をリーダーとした“4サイクル車開発”のプロジェクト・チームが編成された。設計から実験までの各スペシャリストをそろえた六名のこの“4サイクル車開発グループ”は、パフォーマンス、それも徹底的に“走り”追求した“ザ・ベストマシン”をめざして直ちに開発をはじめた。
 開発グループの最初の仕事は、排気量の設定だった。世界的な市場動向をみると、ビッグマシンの主流は750ccで、大半の先行メーカーもこのクラス車に力を注いでいた。そして台数こそ少なかったが、大排気量とワイルドな走りで「カワサキ900Zl」が市場では一際目立った存在だった。
「最後発のスズキが、市場で“スズキ旋風”を巻き起こすためには、まず、カワサキのスーパー・バイクを超える車をづくらなければだめだ」
 開発スタッフは、排気量を960ccに設定し、4気筒DOHC(はじめは4バルブも考えられたが)のハイ・パフォーマンス・バイクと決め、開発に着手した。スタートから一年も経過しない同12月末、スズキの“960ccスーパー・バイク”のプロトタイプが完成し、生産試作に移行する前の検討に入った。
・翌1975年1月、正月早々、“スーパー・バイク構想”の企画は大幅に変更された。スズキにとっての“4サイクル車開発”は大規模な設備投資を抜きにしては一歩も前にすすまなかった。その新しい設備を有効利用した量産体制、下級排気量車等のシリーズ化などを考えた埼合、どうしても960ccには問題があると判断した開発スタッフは、最初に量産車とする最上級モデルは750ccとすることに改めて決定した。これには、4気筒エンジンのパーツをそっくりツインモデルに利用できるという大きな利点があった。750cc車に次いで、ボアの共通な400ccも開発機種に選定され、並行して作業が進められた。この排気量の設定には、もう一つ理由があった。750ccがビッグマシンの主流を占めていたことは前述の通りだが、アメリカでの「コミユーター」と、日本での2輪「中型」免許(1975年10月改正)の排気量のリミットが“400cc”ということも大きな理由だった。

フル・スロットルで最低二万キロの「耐久テスト」

 スズキにとって“初”といっていい本格的な“4サイクル車”を開発する中野たちは、性能や操安性はもちろんのこと、「耐久性」は絶対的なものにしなければならないと考えた。
 彼らは、全開=最大出力の連続耐久テストを、ほんのわずかのトラブルもなしに、最低でも2万キロをクリアすることに目標を定め、24時間態勢でシヤシーやベンチでのテストを開始した。品質保証部員が三交代で24時間、全開のエンジンの監視をつづけた。いつの間にか、彼らの朝夕の挨拶は「(エンジンの)調子、どうだい?」になつてしまった。
 400ccの「耐久テスト」クリアは予定通りだったが、肝心の750ccの方が2万キロにあと一息というところで何度もつぶれてしまう。クランクの耐久性に問題があった。
 耐久性以外の開発は順調に仕上がっていったが“クランクの耐久性”だけはクリアしないまま、1976年に入ってしまった。すでに半年以上も予定をオーバーしていた。前年までレースを担当していた横内悦夫が開発スタッフに参加したのもこの頃だった。1976年の正月、彼が開発室に顔を出すと、中野たちが休みも返上して“クランク”に取り組んでいた。いろいろと材質や機構を変えては、テストを繰り返し、試作された“クランク”は二十種類をこえた。
 1976年早春、横内、中野を中心とする開発スタッフの努力が実り、750cc車はクランクの材質、熱処理、機構を変えて、やっと“全開、2万キロ”の過酷な耐久テストをのりこえることに成功した。軽くて安く、耐久性があり、音の静かな動弁系でまとめたDOHCの、4サイクル750cc量産試作車が完成したのは、1976年5月だった。そして2ヶ月後、新しく開発したギヤ駆動のバランサーと一八〇度クランクを採用した“2気筒400cc”車を完成した。
 最後のツメの走行テストは慎重かつ極秘裏のうちにすすめられた。竜洋のテストコースでは遠くの人影にも紳経をとがらせ、他メーカーのタンクやフレームカバーを装着して走った。人目をさけての深夜の山道、峠ごえのテストも数えきれなかった。深夜“ヘンなバイク”が数台、人通りのとだえた浜松の市街を走りまわる、というウワサがたったのもこの頃だった。最終的に操安性やドライビング・ポジション、性能等をチェックする、アメリカとヨーロッパでのテストの結果は開発スタッフを十二分に満足させるものだった。
 1976年11月1日、ついにスズキ初の空冷4サイクル4気筒DOHC“スズキGS750”が、翌12月1日“GS400″が発表、発売されると、先行メーカー各社はもとより、国内・海外MC界は一様に驚きの声とともに大賛辞で迎えた。つづいて1977年には”GS550″、そして、スズキ4サイクルのステイタス・シンボル“GSl000”がビッグマシン・マーケットに諷爽と登場し、全車、DOHCという高回転メカニズム、軽量で剛性の高いフレーム、操安性が群を抜いて高い“走りのGSシリーズ”として勢ぞろいした。

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「鈴木自工物語」より

1985年7月中日新聞に連続掲載

 エンジンは、燃焼方式から「2サイクル」と「4サイクル」に分けられる。2サイクルはクランク軸1回転で1回爆発、4サイクルは2回転で1回爆発する。燃料の吸排気構造が異なっているのだ。そして2サイクルは4サイクルに比べ、構造が簡単で軽量小型、安くしてしかも高性能という利点はあるが、燃費や排気ガスの少なさでは4サイクルにかなわない。
 スズキはアトム号以来、一貫して2サイクル車の長所を生かしたオートバイづくりを進めた。ライバルのホンダが開発する4サイクル車との技術競争だった。2サイクルで不可能とされていた500ccや750ccの大排気量エンジンも見事に実現した。
 しかし1970年代半ば、排ガス規制、騒音問題、省エネ、そして何より、市場のニーズから、スズキとしても4サイクルエンジンの開発を迫られていた。

耐久性に精力注ぐ

 1974年1月、スズキは二輪4サイクルエンジンの開発方針を決定。2月1日付で2輪設計部に「4サイクル車開発グループ」が極秘に設けられた。レースを担当した後、軽四輪車の排ガス対策で4サイクルエンジンの研究開発をした中野広之が東京研究所から移籍。ほかに藤井康暢、滝本康広、鈴木一、桐生宗典、太田省吾といった実験から設計まで各部門のスペシャリスト5人が集められた。
 市場動向から400cc、550cc、750ccの開発を並行して進めることになった。だれもが燃えた。
 耐久性に最大の勢力を注いだ。エンジンを最大出力にした連続耐久テストが、連日3交代24時間体制で続いた。クランクシャフトが壊れる。新しいクランクシャフトを試作して実験。その繰り返しの連続だった。
 開発グループだけでなく、4サイクルヘ向けての全社的なムードが高まった。当時品質保証部長だった中村賢治も、開発グループ以上に熱を入れ、試作のスピードアップに協力した。
 1976年正月には2日から耐久テストを始めた。だれも雑煮を腹いっはい食べての出勤。そこへ中村が重箱いっぱいのまんじゅうを差し入れた。好意に感謝する気持ちから、断るわけにもいかず、無理して食べた。「あれは仕事より苦しい思い出」と中野はなつか
しげだ。

1976年11月に市場へ

 当時の工機工場長御子柴正大も同じだ。藤井やその後グループに加わった西付保興は、こんなエピソードを語る。クランクケースの試作は普通なら2週間かかる。それを御子柴は担当者に「3日でやれ。やれないとは言わせない。やれる方法を考えろ」と命令、実行させた。口ぐせが「死んでもやれ」だった。
 1976年11月に売り出されたスズキ初の4サイクル車は大賛辞を受け、市場に迎え入れられた。

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「スズキ70年史」より

1990年発行

4サイクルエンジンの開発

開発の背景

 燃焼方式から分けると,エンジンは「2サイクル」と「4サイクル」の2種となる。当社は一貫して「2サイクル」による二輪車づくりを進め,不可能とされていた500ccや750ccクラスの大排気量エンジンも実現させた。
 2サイクル・エンジンは,4サイクル・エンジンに比べて,軽量小型であり,しかも安くて高性能という利点があるものの,燃費や排気ガスの少なさという点では,4サイクルに一歩を譲らざるを得ない面もあった。
 1970年代に至って、排出ガス規制が問題となり、なかでもアメリカでは、1978年型車からきびしい排出ガス規制が実施されることとなり、2サイクル・エンジンでは対応がむずかしい見通しとなった。また、400cc以上の大型車では熱の問題と性能上からも、必ずしも4サイクルに勝るとはいえない点もあった。そして何よりも市場のニーズが、4サイクル車を求める傾向を強めてきていた。このような状況から、当社は、排出ガス規制の実施に先立って4サイクル・エンジンの開発に着手することとした。
 1974(昭和49年)年1月、二輪4サイクル・エンジンの開発方針を決定、中野広之課長、藤井康暢主任を中心に4サイクル・エンジンを経験した要員が集められ、開発プロジェクトがスタートした。また全社的な支援態勢をとり、品質保証部、工機部が積極的に参加していった。

開発の方向

 開発チームのメンバーは、4サイクル・エンジンを経験したことがあるというものの、初心に帰って開発にあたり、まず他車4サイクルの調査から始め、さまざまな検討の結果、次のような方向を打ち出した。
 @ 弁機構は最も高性能が出るといわれている直打式のツインカムとする。
 A 排気量は生産ラインを考えて,シリンダー径を同じとし(60¢×60mm、2気筒・400cc〉と(60¢×50.4mm,4気筒・750cc)の2機種とする。400ccは主に国内向けとし、750ccは輸出向けとする。
 エンジンの設計は、もともとが2サイクルをべースとしていたため,開発当初は,数時間の耐久テストでクランクは焼き付き、クランクケースが破損し、コネクチングロッドは折損するという始末で、動弁系も壊れてしまい、まともに性能試験もできなかった。壊れたその日のうちに、設計、品質保証、工機の三者が協力して設計をやり直し、2、3日後に再設計したエンジンをテストするという状態で、つくっては壊し、壊しては改良し、一つ一つ確認していく日がつづいた。
 耐久の時間もこのときに設定され,台上では100時間サイクルとし、シヤシーも2万km相当を評価の基準とした。また,連続高速テストも繰り返し行われた。こうしてようやく次のような性能にこぎつけたのであった。
@400ccの出力……36ps/8500rpm
A750ccの出力……68ps/8500rpm
 この数値は,1リッター当たり90psを示すもので、当時としては高性能のものであった。なかでも750ccは、アメリカでの実情を調べ、アメリカ向けの仕様とするべく、2回の現地テストを重ねて仕上げられたものであった。

開発の進展

 2年の開発期間を経て、1976(昭和51)年11月、スズキGSシリーズの先がけとなったGS400,GS750が発売された。アメリカのユーザーニーズにマッチした両車種は、第1次排出ガス規制にも合格、市場でも好評を博した。こうして開発の土台ができてからは、次々と4サイクル化が進んでいく。翌1977年、GSlOOO、GS550が開発され、1978年には、SP370単気筒多用途車が発表され、GS850Gシャフトドライブが輸出されていく。また、79年にはGS750Gシャフトドライブが発表された。
 その後,アメリカでの第2次排出ガス規制強化への対策として、燃焼関係のさまざまな開発が行われていった。効率のよい燃焼室TSCC(特許)はその一つであり、排出ガス規制を満たしながら、2バルブDOHCからGSXシリーズの4バルブDOHCへと出力向上もはかられていった。

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4サイクルへの扉を開いた”スーパーバイク”GS

「スズキ公式ホ−ムペ−ジ」に2002年半ばまで掲載されていた「SUZUKI ROOM」の記事

世界的石油危機と排気ガス規制

 1968年に登場したT500でいち早く高性能ビッグバイク時代を切り開いたスズキは、続く'71年のGT750で究極とも言える2サイクルマシンを完成させた。その後もGTシリーズは各排気量に波及し成功を収め、順風満帆にラインナップが構築されていく。
 しかし、全世界的モータリゼーションの拡大は、排気ガスによる大気汚染を加速させ、'70年にはアメリカで「マスキー法」が成立する。これは、CO(一酸化炭素)とHC(炭化水素)の値を'75年型車から'70年度規制基準の10分の1にする厳しい排気ガス規制法であった。
 また、1971年に発せられたニクソン米大統領の緊急経済政策の後、1973年に国内で相次いだ石油コンビナート事故や第4次中東戦争の勃発が引き金となり、日本に未曾有の「石油危機」を起こした。インフレが進み、省エネルギーの声が高まっていったのである。
 そのような時代背景の中、排気ガス規制と燃費の両面で2サイクルエンジンは窮地に立たされるのであった。

全社的支援体制が取られた4サイクルマシン・GSの開発

 2サイクルエンジンは小型軽量で高出力を出しやすいが、燃費や排気煙という点で4サイクルに及ばない。1978年から施行される排気ガス規制と社会的な背景が、市場のニーズを4サイクル車へと変えた。1974年1月、スズキは二輪4サイクルエンジンの開発を決定。中野広之藤井康暢を中心にプロジェクトがスタートし、品質保証部、工機部が積極的に参加する全社をあげての支援体制が取られた。スズキでは1954年のコレダCOで4サイクルエンジンを経験しているものの、最良の製品を目指し、初心に帰って開発に取り組む。まず、先行していた他車を入念に調査し、基本骨子を直打式2バルブツインカム、排気量を2気筒=400cc・4気筒=750ccとし、シリンダー径を60φで統一することで生産ラインの効率化も図ることに置いた。さらに、高い信頼性を求め、2サイクル時の実走耐久テスト1万kmを2万kmに、また、連続高速テストも繰り返され、徹底した品質の向上が行われた。こうして生まれたスズキ初の本格DOHCエンジンは、絶大な信頼性と、400ccで36ps、750ccで68psという1リットルあたり90ps強という高性能を獲得したのであった。  また、400cc=185kg、750cc=238kgという軽量な車体は軽快なハンドリングをもたらし、異音対策を徹底して行ったエンジンからは、4サイクルマルチシリンダー独自の美しいエキゾーストサウンドを発した。1976年に発売された両車は、瞬く間に人気を博し、スズキの4サイクル技術を世に知らしめた。

華々しい活躍を見せたヨシムラ・GSレーサー

 GSのレースデビューは早く、'77年9月のラグナセカのスーパーバイクレースでヨシムラのGS750改造車が勝利を挙げている。
 圧巻は、'78年の第1回鈴鹿8時間耐久。当時耐久レースで無敵の強さを誇っていたホンダのRCB('76年デビュー・DOHCフォアのレーサー)をはじめ、並み居るワークスを押さえてヨシムラ・スズキのGS1000が優勝したのだ。AMAレギュレーションのままのアップハンドルにハーフカウルを付けた未完成ともいえる状態での偉業であった。ライダーは、ウエス・クーリー&マイク・ボールドウイン。
 トータルバランスに秀でたGSは、ヨシムラのファインチューニングに対応し、レーサーとしての戦闘力を短期間に飛躍させた。デイトナでは'78年〜'81年まで4年連続優勝。'80年の鈴鹿8耐もGS1000Rで勝利した。
 スズキとヨシムラのパートナーシップはこのGSとの出会いから現在まで連綿と続いている。

名実ともにスーパーバイクの座についたGS1000

 GS400GS750の開発で4サイクルエンジンの技術を確固たるものにし、市場でも成功を見たスズキは、GSを2輪ラインナップの中核とし、各排気量への派生を図る。

                  
          
GS750 カットエンジン図            GS750                    GS400

 '77年に、日本人の体格と使用用途にマッチした秀作GS550が登場。DOHCフォアをわずか195kgの車体にまとめた。
 また、'78年にキャストホイールが国内認可されると、GSもいち早く採用し、GS400E、GS750E、GS550Eが登場する。
 一方、カワサキZ1に対抗する世界最速のバイクを目指したのはGS1000だ。エンジンは997ccとされ、87psの最高出力を誇った。ブレーキも強化されトリプルディスク。サスもフロントにエア加圧式、リヤにダンパー・バネ調整式の高性能版を与えた。乾燥重量も252kgにまとめて良好なハンドリングも維持した。'78年発売の輸出モデル。

     
      GS550E                GS1000              GS1000S             GS750G

 翌'79年には、スーパーバイク使用のGS1000Sが登場する。エンジンは90psにパワーアップされ、ハンドルマウントの特徴的なカウル、鮮烈な青/白のカラーリングがプレミアム性を主張した。ウエス・クーリーレプリカと呼ばれたこのマシンは、レースでの華々しい活躍と同時に、国内外でスーパーバイクの称号を手に入れたのであった。
 ツアラーモデルとして登場したのがシャフトドライブ、アップハンドル採用のGS850G。'79年に登場し、国内はGS750Gを用意。
 スズキの4サイクル技術の高さを実証し、一大ラインナップを築いたGSシリーズは、世界的ベストセラーとなり、'85年のGS1100Gまで受け継がれるロングディスタンスモデルとなったのである。


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