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「4ストロークへの挑戦」

「Big Machine(1998年6月号)」に掲載の座談会記事・・・司会は《鈴木常平氏》

 自分で言うのもおかしいが、今読み返してみても、この座談会の記事は技術的に何のウソ偽りもない本音で、非常に良い内容のものだと感じます。

                     

“初心に帰った”4ストロークの開発

1952年以来2スト専業できたスズキは、1976年に4ストエンジンのGSシリーズを発表し、後発4ストメーカーのハンデをぬぐい去るべくレースで華々しい活躍を見せる。初のビッグイベントは1978年デイトナ。同年7月の第1回鈴鹿8耐も優勝で飾った。

音との戦いだった4ストロークエンジン

 
約四半世紀を2ストロークメーカーとして歩んできたスズキは、1976年に4スト400/550/750のGSシリーズを発売した。この大きな転機は、アメリカで起きた排気ガス規制をクリアするためだった。2 ストエンジンでは対処できなかったのだろうか?

(中野) 「アメリカの排ガス規制で結局、アメリカから 2ストは消えてしまいましたね。性能コストを考えますと、4ストに規制値は有利だったんです。キャブのセッティングでクリアできそうな数値だったんです」 
(山内)「あのころは明らかに、4ストを意識しての排ガス規制で、2ストにとってはHC(ハイドロカーボン)の関係から、大幅なことをやらなけりゃということで不利でしたね」
(中野)「4ストはNOX(ノックス・窒素酸化物)を厳しく規制して、2ストもハイドロカーボンを規制するというのなら 2、4スト選択の余地もあったのですが、2ストヘの要求は明らかに不利でしたね。4ストは80年の規制でも、キャブセッティングでパスできたんですから・・・」

 
2ストに比べて燃焼温度の高い 4ストはNOXの排出量が多く、2ストは逆にHCの排出量が多いという特性がスズキには組みしなかった。アメリカの排ガス規制は、ロサンゼルスのスモッグ公害に端を発したもので、絶対数の多い4輪車を念頭においての規制が、2ストに絶縁状を突きつける結果になったのである。
 過去にスズキは、4スト90ccのCOXを一時造ったことのあることは、シリーズ第1回に記した。


(中野)「時代が違いますから、COX の資料が残っていても、全然探そうとも思いませんでした。もっとも 2ストの設備しかありませんでしたから、4ストをやるためには全設備を新規に購入するなり、製作するわけです。特にシリンダーヘッドまわりの加工設備は、エンジン生産ラインの中でも一番費用がかかる設備ですから、設備の共通化(400‥750)が重要です。シリンダーピッチ、バルブの挟み角、バルブ径も考慮して設計を進めました」
(山内)「ですから、ナナハンの 2、3番シリンダーを使ったのが400って感じです。ボアストロークだけは違いますが、一番コストのかかるシリンダーヘッドまわりとタイミングチェーンまわりは、ほとんど共通です」

 
2ストのシリンダーヘッドはシンプルだが、4ストは機械加工数が多く、多軸ボール盤などのライン設備費がかさむために、400と750 の加工機の共通化が図られたのである。

(中野)「エンジンなんて、たくさん空気を吸って十分に燃やしてやりゃあ馬力が出ると思っていたんで、4ストを担当しろといわれても別に驚かなかったんですが、担当してみますと、レース時代以上に苦労しました。当時の日記帳から拾ってみたら、カチヤカチヤだとか、ペチャペチヤ、ピチピチ、カタカタ、ガチャガチヤ、キュッキュッ、カラカラ音とか、クランクのベアリング音は、なんていったっけね・・・」
(山内)「とにかく出る音には全部名前が付いていましたね」
(中野)「もちろん全部の音がいっペんに出るのではなく、開発が進んでくると逐次出てくるんです。試作段階では一品ずつの手作りなんですが、量産になると違う物になることがあるのです。図面上は同じでも、タペットのパケット面は、試作のときには平らというか水平、またはへこんでいたものが量産になると盛り上がることがあったのです。微妙にね、0・02とか、そうなるとタペットシムの中央からカムがずれるときにシムの浮いた面がタペットを打って、ペチヤペチヤ音などになるんです。それがわかってからは図面に、ここ(タペットのパケット)は凸ではいけません、凹でなくては、という但し書きを付けるようにしましたけど、音のトラブルが次から次に出ました。でも、音が出ている所を特定できれば、半分解決したのも同じなんです」
(山内)「クランク大瑞の音などは、試作の設備と生産設備でやったのでは、ミクロン単位で皆、『菊の花びら』といってましたけど、そんな円筒度の悪さとか真円度の差で、音が出るのです」

 
2ストのクランクシャフトは、潤滑の関係から圧入組み立て式だが、4ストでは一体式クランクを検討しなかったのだろうか?

(中野)「設備の問題で、圧入式です。動弁系に莫大な設備費がかかるけど、それは避けて通れないんですが、クランクは 2ストロークと同じ組み立て式でいけますから、一体式クランクは考えていませんでした」

完全無欠な製品を目指して全開耐久テスト2万km

(中野)「2ストシリーズのときは、1万kmの実走耐久テストだったんですが、4ストは初めてなものだから万全を期して全負荷=全開走行状態で 2万km耐久テストを目標にしたんです」
(山内)「クランクやピンに、フレーキングという、缶詰によくあるフレークのようなナシ地模様が出るんです」
(中野)「いろいろなクランク作ったんですが、なかなか 1万kmはいかなかったですね。そのうち 1万kmいったので、もうトラブルはないだろうと思っていたら、1.1万kmで出てきたり、あるいはl.9万kmといろいろなんで、最低でも 2万kmはもたせなきゃ販売はまかりならんとなって、品質保証部が三勤交代で24時間テストをやってくれたんです。2万kmというと、ナナハンでしたら全負荷≒200km/hの全開で100時間、約4日かかります。これを何台も回しました。そうなるとクランクだけじゃなくてコンロッドだ、バルブだ、ピストンが焼き付いたとか、結局クランク以外の耐久性もすべてやったんです。GSには社運がかかっていたので、全員が一体になって開発に突き進んだ感じでした」
(山内)「ずいぶんいろいろなクランクの図面を描きまくっていました。寸法とか加工方法、あるいは材質、またフレーキングなどに対しては、主に熱処理の指示を変えたものなどでした。お恥ずかしい話ですが、クランクをジグで圧入していた時に、ウエブがコロンと落ちたんです。多くの図面を描いていたのでついミスをし、穴径と軸径の寸法を間違えたのです。謝ってすぐ図面を描き直したら、2、3日でクランクが出来てきました。当時は品質保証部の力の入れ方も相当なものでしたね」
(中野)「ですから、市場に出したときには、絶対に壊れないという自信がありました」
(山内)「壊れるとしたら、ライダーのほうが先でしょうね(笑)」
(中野)「4ストエンジンのオイル消費量は、エンジン温度と回転数の二乗に比例するくらいに増えるんです。GS開発当時に競合他社のナナハンもテストしたんですが、なかには走行300kmでエンジンオイルを 1リッター消費するのがあったんです。2スト並みですよね。よくて1000kmで 1リッター。GSはそれを1500km以上にするのに苦労しました。オイルリングは当時 1本もののソリッドが主流だったんですが、それを 3本リングの組み合わせにしたり、オイル上がり、下がりなどの対策は、エンジン各部にわたって、ずいぶん研究しました」
(山内)「苦労はしましたけど結局、GSシリーズで、4ストクランクまわりの設計基準は確立されましたね」

薄肉大径パイプを使って軽量化と剛性を両立

(宮本)「GS750の開発当時生産されていたGT750もパワフルで高性能なオートバイでした。しかし、エンジンの水冷化や振動への対応などで 260kg近い車重となってしまいました。
 そこで、GSは極力軽量化を目指し、取りまわし性の向上を図るべく、各パーツを入念に設計しました。フレームについても大径で薄肉のパイプを採用し、重量は軽く、剛性の高いフレームを考えました。
 GT750では、エンジンをラバーマウントにしていたため、重量的に不利でしたが、振動の少ない4ストロークエンジンのGSでは、リジッドにできたため、フレーム単体で 3kg強の軽量化となり、剛性面でも有利性をもたらしました。
 また、高速走行時の接地感向上のために、エンジンを車体前方に搭載して、フロントタイヤの荷重を増やすなどの努力をし、タイヤの性能に関係なく良好なハンドリングを得られるようにしています。フロントフォークのストローク量が従来は 130mm程度のものが多かったのですが、GSは160mmにし、リヤも従来のストローク75mmを85mmにして、それぞれ 1Gでの沈み込みを大きくすることにより、接地感が著しく向上しました。
 当時、フレームを作るのには、図面を描いてからできるまでに早くても通常 1か月かかっていたのが、GSのときには、関係者の気運も非常に盛り上がっていて、1週間でできるようになっていたことから、改良に次ぐ改艮によって、かなり良いフレームに仕上がったと思います」

 
GSのスイングアームピポットには、ニードルローラーベアリングが使われていた。エンジン同様、高い耐久性が考慮されていたのである。

(宮本)「当時は設計屋も自由にテストコースを走れましたから、試作品を作っては自分で組んでよく走りました。いまは設計屋と実験屋に分かれていますが、労務管理が緩かった当時は、設計が結構二足の草鞋を履いたんです」と、おおらかな時代を懐かしむ風。

 
GS400/750の延長線上には、1000もあったのだろうか?

(中野)「400とナナハンのときには、1000は考えていませんでした。ビッグバイク=ツーリングバイクは、違うエンジン系列でやることになっていまして、1200ccくらいまで拡大可能な空冷直4 の試作エンジンはできていたんですが、途中からUSスズキの要請で、カワサキの Zl を上回るパフォーマンスバイクを造ることになり、それならGSと共通の設備でやれるとなったんです」

 
70年代後半は日本製スーパーバイクの夜明けだった。1リッター前後で運動性の俊敏なモデルが各社から発売された。

(宮本)「1000の開発目標はまさに単純明快でした。一番速いバイクを造れ、と」
(山内)「軽量化のためにGS1000は、我が社としてキックペダルを取った最初のクルマとなりました。キックを無くすというので、もう徹底したテストをやりました」



これ以降の記事は、座談会によるものではありません。

“スーパーバイク”の称号を手にしたGS1000

ヨシムラが立証したGSの戦闘力の高さ

 1978年デイトナでデビュー早々に勝利したヨシムラ・スズキは、同年7月の第1回鈴鹿8耐に出場、スプリント並みのハイスピードで勝利を獲得した。
 「1977年9月のラグナセカのスーパーバイクレース(SB)が、GS750の初勝利です。ボアアップして944ccにしました。GSができてすぐだったから、森脇さんが4輪のシピック用に造っていた73mmのピストンを使ったんです。数か月後にGSlOOOが発売されて、これにステイーブ・マクラーフインが乗って、1978年のデイトナに勝ったんです」と、吉村不二雄。
 「GSは、パッケージとしての戦闘力がズバ抜けて高かったんです。それまではZを使っていたんですが、当時の日本車はエンジンだけはDOHCの4気筒でパワーは十分だったんですがシヤーシが追いつかず、高速で真っ直ぐに走らないし、コーナーでは曲がらなくって、メーカーもうちもシヤーシーのことがまだよくわからない時代だったんです」と、スーパーバイク時代の国産車の総体性能を語る。

 
ヨシムラは、どうしてスズキを手がけたのだろうか?

 「おやじ=POPヨシムラ(吉村秀雄)がアメリカでGS750を見てUSスズキヘいったんです。そうしたらレース出場を考えていた先方とヨシムラの目的が一致して、1978年デイトナを目標にして話がトントン拍子に進んだんです。スズキは4ストローク最後発でしたから、戦略的にも当然レースとなったんでしょう」
 ヨシムラの総帥・不二雄は続ける。
 「当時の日本メーカーは、重いSBでレースをやるなんて誰も考えていなかったんです。レースはヨーロッパ流のコンチネンタルスタイルという固定観念が支配的でしたけど、スズキはWGP500で連続してタイトルを取っていたし、考え方が違っていたんです。RGBでのノウハウが十分にあって、それがパッケージとしてGSの高い戦闘力を生む素地になっていたんです。
 1975年からSBはデイトナ200マイルの前座として50マイルで始まったんですが、なんであんな重いバイクでレースをやるの? というのが日本の認識だったんですが、アメリカはそうじゃない、面白いからやってみようだったんです。
 もともとレース用ではないバイクで無理をするから問題が出て当然。だからアフターマーケットを巻き込んで、SBは急速に盛り上がったんです」

 
1978年のデイトナはどうだったのだろうか?

「1000は初物でしたから、耐久性に不安が多くて、完走は無理だなと思っていたんですが、うちが優勝することは疑っていませんでした。ステイーブが勝つかZのウエスか、また昇平(加藤)=GS944もいいところへくるだろうしと・・・予選じゃたしか最前列に3人並んだんです。
 ですが、ステイーブのGSが予選でクランクが足を出しちゃったんです。朝一発日のヒートレースで、その午後にレースですから大変でしたよ。エンジンバラして組みかえたんですから。はっきりいって、もうあきらめてたんですよ、一生懸命やったけど1000は勝てないだろうって。
 スタートしたら昇平のマシンはすぐにポイントベースが脱落しちゃって、ウエスがトップだったんですが、GSのステイーブがものすごい勢いで追い上げてきて7、8周でどん尻スタートから優勝しちゃったんです。でも50マイルだから助かったんです。クールドラップの1周が回ってこられなかったんですから・・・」
 AMAの第2戦はシアーズポイント。ウエスがブツチギリでGS1000を走らせるが、駆動系の不調でリタイヤ。
「クラッチのダンバー容量不足が、リヤスプロケットの取り付けボルトに集中したんです。それが5月の時点で、そして7月が鈴鹿8耐でしょ。前の2戦で一番尾を引いていたのはクラッチのダンパー容量不足だったんです。どんなコンビネーションでも壊れちゃうんです。急遽、予選の前の日にダンパースプリングとハウジングのリベットを強力なものに代えたんです」
 1週間前に鈴鹿入りしたヨシムラ・スズキは、クラッチトラブルで満足に練習ができなかったが、最後になってトラブルは解消した。
 プラクティスはヤマハTZ750に次いで2位。3位にはモリワキが送り出したZ。途中わずかの変動はあったもののトップスリーはこの3台で終始争われ、優勝は国内にデビューしたヨシムラ・スズキのウエス・クーリー+マイク・ボールドウイン組がホンダの不沈艦・RCBを抑えて優勝した。
 その第1回鈴鹿8耐をどう受け止めているのだろうか?
「耐久を含めて、ロードレースというのはWGPだという固定観念があったと思います。まさか誰が一体、プロダクションのアップハンドルのクルマ=ヨシムラ・スズキが、あんなスピードで走るとは思っていなかったでしょう。
 1978年の鈴鹿8耐は、アメリカンライダーとマシンに対する認識、そしてライディングスタイルなんかがガラっと変わったと思います」
 ヨシムラはすでに世界を見てレースをしていたのである。さらに、
「デイトナでは1978年から1981年まで4年連続優勝しましたが、同じ車種で4シーズンも勝利したことは、とりもなおさずGSのパッケージ性能が、並大抵じゃなかったということでしょう」
 1978年鈴鹿8耐で、ヨシムラのGS1000は2位以下をすべてラップ遅れとして、圧勝した。その後もGSはレースで活躍を続け、スズキの4スト技術の優秀性は全世界に知れ渡ったのであった



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