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「別冊モーターサイクリスト」2008年5月号

                 スズキ製4サイクルの礎、その開発記
                  GSシリーズを創った男たち

企画段階では何枚ものイメージスケッチが提出されるが、これはその中の2点。初期にはダイヤモンドフレームやビキニカウル、キャストホイールを備える案もあつたようだが、市販車ではオーソドックスなスタイルに落ち書いている。

       

スズキ 4サイクルの父 中野廣之

 スズキOBの中野さんによる「日本モ−タ−サイクルレ−スの夜明け」というウェプサイト(http://www.iom1960.com/)には、1960年代のロードレースについて詳細かつ貴重な記録が発表されており、歴史的に意義深いものとなっている。このサイト内には「GSシリーズ開発物語」という項目があり、こちらにも当時の記録が克明に記されている。
 本企画はこのサイトがあったこそ成立したと言え、横内さんからも「GSの開発話を聞くなら、そりゃあ中野さんが一番だよ」との推薦をいただいたが、ご本人に連絡を取ってみると残念ながら数年前から体調を崩して居るとのことで取材は断念せざるを得なかった。ただしサイト内の記事引用は快く了承していただけた。(高野英治)
中野廣之(なかのひろゆき) 横内悦夫(よこうちえつお) 藤井康暢(ふじいやすのぶ) 松本成欣(まつもとまさよし)
 1932年8月19日静岡県藤枝市生まれ。静岡大学工学部機械工学科卒後、1955年丸正自動車製造入社。1958年6月にスズキ入社後はレース用2サイクルエンジンの設計に従事し、1967年11月四輪車用4サイクルエンジンの開発設計。1974年3月よりGSシリーズのエンジンを開発。1978年主管に昇格。4サイクル二輪車の実験を担当、1984年まで全グループを統括。1985年からは中国プロジェクトの四輪技術担当となり、1994年8月に退社。 1934年4月5日宮崎県児湯郡生まれ。宮崎大学工学部機械工業科卒後、1957年スズキ入社。T20、T500、GTシリーズなどの2サイクル車を開発した後、1974〜75年はレース部門に在籍。1976年1月からGSシリーズの開発に加わり、750/400の海外テストに参加。以後GS1000を開発、さらにGSXll00S、RG−「、GSX−Rシリーズ、イントルーターなど次々ヒット作を生み出した。1996年4月退職。 1937年12月28日広島県府中市生まれ。千葉工業大学機械工学科卒後、1960年スズキ入社。研究開発部こて4サイクルの設計開発に従事した経験から4サイクルプロジェクトの初期メンバーに編入、GS750のエンジン実験を担当する。その後GS1000、GS850G、GSX750E、GS125、GN125、ATVやGV1200などを開発。1994年2月より中国・重慶市の望江スズキ社長に就任、1999年末に退職。 1940年2月18日愛知県豊橋市生まれ。1958年スズキ入社後、愛知大学法経学部法学科に通い、後に卒業。管理部門を希望するも設計部門に配属され、初期に手がけた作品はセルベット50など。T500やGT750を手がけGSシリーズでは車体設計を担当、以後1100カタナやジェンマ、DRやTS、RMやバギーなどにも関わる車体設計グループ長を務め、法務部を経で1997年2月退職。

2サイクルから4サイクルメーカーへの転換期

 自動車排出ガス規制として有名なアメリカのマスキー法が制定されたのは、1970年12月であった。交通機関の発達とともに公害が社会問題となり、米国政府ば1955年から大気浄化法や大気汚染防止法を制定。わが国でもこれに追随し、1971年には環境庁が発足、1978年に国内自動車排出ガス規制が行われた。
 創業以来2サイクル専業メーカーとして実績を積み重ねてきたスズキも1960年代後半より低公害型エンジンの開発に着手、このとき4サイクルエンジンの開発研究に携わっていたのが中野廣之であった。
 だが、スズキ上層部は環境対策型2サイクルエンジン“EPIC”の開発を推進させ、4サイクルエンジン開発グループぱ1970年に解散している。しかし結局"EPIC"での排ガス規制クリアは実現せず、中野は後年『4サイクルエンジンを捨ててスズキの将来は大丈夫だろうかと危惧した』と述べている。
 中野はその後四輪エンジン設計部を経て小型ロータリーエンジンの開発を手がけるが、1973年11月8日に清水正尚二輪設計部長より『スズキも4サイクル二輪車の開発を急ぐ必要が出てきた。4サイクルエンジンの経験者は、中野君しかいないのだから頼む』との指示があり、1974年2月1日には正式に4サイクルプロジェクトが発足した。
 初期メンバーは設計担当に桐生宗典、太田省吾。実験担当に滝本康広、鈴木一、そして藤井康暢の5名で、中野は業務の都合上およそ2カ月ほど遅れての着任となった。
「エンジン試作の中心人物は何と言っても中野廣之さんだった。さらに品質保証部長の中村賢治さんがまとめ役として動き、工機工場長の御子柴正大さんと力を合わせて毎日頑張っていましたね」(横内)
「御子柴さんの口癖は『死んでもやれ』でしたね。明日の朝までに部品が欲しい、と言うと必ず作ってくれていた」(藤井)
「音が出るとか壊れるとかは品質保証部の責任なわけです。その長である中村さんはあまり多くを語るタイプじゃなかったけれど、なぜだかみんな付いていってたよね」(横内)

幻のスーパーバイク、GX960

 当時スズキには2サイクルの看板商品としてGTシリーズがあったが、2サイクルはHC(ハイドロカーボン、炭化水素)の排出量が多く、規制に対しては不利だった。
「私の印象としては、とにかくアメリカの規制があったから、特に大型車の4サイクル化が推し進められたように思います。加速のいいGT750なんかは、まだまだ惜しまれていた
のではないでしょうか」(藤井)
 藤井も4サイクルの乗用車開発に携わっていたが、この計画は当時の上層部判断により中止されたと言う。1974年2月21日には、上層部より『カワサキZl以上のスーパーバイクを真っ先に開発せよ。そのあとは、半分の2気筒だ』との指示が出される。
「そこで研究開発のたたき台として最初に造られたのが習作の900ccで、これは言わばZlのコピーモデルでしたが、カワサキだけでなくホンダやトライアンフのカムなども研究しましたね。そしてこれらのノウハウを蓄積した上で次に造られたのがGX960で、排気量はZlよりも大きなクンロク(960cc)とした独自設計です。車体全体の構成は後のGS750と大体同じです」(藤井)
 ところが11月14日には国内の免許制度が改正されるとの情報が入り、400cc2気筒車の開発が決定される。これと設計、生産設備を共通化するため1975年1月6日、GX960の開発は正式に中止となる。代わりに750cc4気筒案が浮上、これは中央2気筒の設計を共有化することでコストを削減するねらいである。かくしてZlをしのぐスーパーバイクの登場はひとまず先送りとなった。
 なお、750cc/400ccと設計を共有しない550cc4気筒革も並行して開発されるが、これは主に海外の市場をねらったものである。 さらに「250cc2気筒、1000〜1200cc4気筒案もあったが、前者はコスト面で折り合いがつかず、また後者はエンジン幅が大きくなりすぎて没になった」と中野は証言する。

金でもダイヤでも持ってこい

 GX960は開発中止となったが、目標の性能にはすでに到達していたので、これを土台にして新たに排気量を縮小したGS750の開発がスタートした。しかし耐久テストについては未知数であった。
 クランクシャフトは組み立て式が採用された。2サイクルの設備を応用しての生産方式が採られたため、メタル支持の一体式クランクは採用されなかった。
「と言うより、一体式クランク製造の設備がなかったね。研磨機がなかった」(横内)
 エンジンの試作にあたってはメカノイズとの戦いだった。ペチャペチャ昔、カチカチ音、ピチビチ音……と様々な名が付けられ、ひとつひとつ対策が施されていく。
「音の出所が分かればもう半分以上解決だけれど、それを探すのが大変」(横内)
「あとフレーキングね。クランクシャフトヤクランクピンと、ベアリングのローラーの当たり面に打痕が出来て、そこがはがれてくる。銀メッキなんてのも試しました」(藤井)
 このクランクシャフトのフレーキング発生により、ベンチでの耐久テストは全負荷連続2万kmが基準となった。これは従来の倍の評価基準だが、スズキ初の4サイクルだけに万にひとつの失敗も許されない、全社にそういう決意がみなぎっていた。
「品質保証部の中村さんが、『これを直すためなら金でもダイヤモンドでも持って来い』って言ってたっけ。そういう決意でやってたから、迫力あったよ」(横内)
「設計者としては有り難かったですね。周囲が協力してくれたし、みんなにパワーがあった。だからやり甲斐もあった」(藤井) カワサキZ1ではクランクシャフトを直にローラーで支える方式だったが、スズキはクランクを支持するベアリングにインナーレースを追加することで基準値をクリアした。これこそが後にPOP吉村をして「過剰品質」と言わしめたゆえんである。
「カムシャフトも折れました。両端部を支持しない構造で、材質がねずみ鋳鉄(FC20)でしたが、ダクタイル鋳鉄(FCD64)に置き換えれば強度は3倍です」(横内)
 1976年1月付けでレース部門からGSの開発に合流した横内の初仕事がこれだった。基本性能は90%出来上がっており、耐久テストの煮詰め期間に入っていた。

GS750とZ1のエンジン比較

 GS750が搭載する空冷4気帝DOHC2バルブの心臓部は、カワサキZ1と同様なエンジン形式と言える。さらに内蔵される組み立て式クランクや、カム直打式のパルプ駆動方式もやはり同様のメカニズムである。
 だが無論両者に互換性はなく、例えばGS750の内径×行程は65.0×56.4mm、排気量は748.2ccで、排気量の近いZ2では64.0×58.0mm、746.3ccだし、クランクウェブの形状もGSは丸型でZはオムスビ型、カムシャフトの支持方式や材質も異なる。
 クランクシャフト支持部のベアリンクにインナーレースを追加して耐久性を大幅に高めたり、シリンダーヘッドに走行風を導き冷却するラムエアシステムもGSならではの優れた設計だ。
改良、発展型のGSlOOO心臓部

 GS1000のエンジンはGS750を基に排気量を拡大したもので、内径×行程は70.0×64.8mm、排気量は997.0ccだ。ポアは5mm拡大されているがシリンダーピッチは不変として横幅を抑え、前後長はキックシャフトを取り去り、逆に40mmの短縮と軽量化を実現している。パルプも750に対しINが36→38mm、EXが30→32と大径化。
 クランクシャフトは750と同様組み立て式だが、ウェブはオムスビ型とだ円型の組み合わせに形状変更、180度クランクの400と共有設計のために設けられていたカムシャフト間のアイドラーギヤも省略されている。1次減速めギヤも750ではスパー(平行)だが、1000では静粛性に優れたヘリカル(斜め)式となった。



新しいエンジンに新しい車体

 エンジンはZ1をはじめとする他社製品を徹底的に研究して生み出されたが、車体に関してはどうだったのだろうか。
「フレーム設計に関しては他社製品を参考にしていません。参考にするとどうしても真似をしてしまいますからね」(松本)
 スチールパイプのダブルクレードルフレーム、リヤ2本ショックという構成はどこのメーカーでも採用している普遍的な形式であり、今なおネイキッドでは定番の手法である。
「T500やGT750も手がけてきて、当時私は車体を自由にレイアウトできる立場にありました。これからはいよいよ国産ビッグバイク時代の幕開けだと感じていたころでしたね。だからスズキ製大型スポーツ車の基礎を造らねばならない。1973年に欧米の代理店めぐりをやったことがありまして、GT750で荒れた田舎道や急カープを走るわけです。また、アウトバーンを180km/hぐらいで走っていると、後ろからシトロエンにビューツと抜かれる。そんな中で考えたのは、乗り手や路面、そしてタイヤを選ばないバイク造りです」(松本)
 だれが乗っても安全でニュートラルなハンドリングを持つ、基本性能の確かな設計を目指したというわけだ。当時のタイヤやホイールの性能は無論、現在と比べるべくもない。
「4気筒車ならば車重は装備で245kgぐらいだろうからフレームはダブルクレードル、ホイールベースは1480から1500mm程度、スイングアームは長めにして操安性を高め、重量配分はフロントが47か48%……なんて具合に諸元を考えるわけです」(松本)
 フレームは軽量コンパクトでスポーティ、レースでの使用も想定されていたと言う。
「フレーム設計で重要なのは、ステアリングヘッドとピボットまわりの高剛性化です。だからヘッド部にはプレス成型の当て板を内側から補強し、ピボット部はニードルローラーベアリングを軸受けとしました」(松本)
 当時はピボット部に、まだメタルが採用されていた時代である。
 「エンジンの振動はなるべく出ないようにしてもらって、それで3点リジッドマウントが実現できたんですが、この位置決めは車体の実験グループによる成果です。軽量化するとその部分から亀裂が発生したり、ハンドルやステップの振動を抑えるのにも苦労した覚えがあります。フレームの材質は忘れました……確か高張力鋼管を使い始めたのがこのころで、パイプ径は部位によって25.4から31.8mmを使い分けていたと思います」(於本)
 前後サスペンションのストロークもGTシリーズより増やされている。
「これも先のフレームと同じ考え方ですね。フロントは最初130〜140mm、リヤは80〜95mmぐらいのストロークで考えていました。最終的には軸上に換算してフロント160mm、リヤは100mmでしたか。フロントをこれだけ増やしたのは、途中からリヤにディスクブレーキを採用することになったからです。当初は軽量なドラムの予定でしたが、商品性を上げたいとリクエストがありまして……。そこからまた操安性を見直して、結果、前側のストロークを増やしたのです」(松本)
「アメリカとドイツで実走テストをして、アメリカ向けとヨーロッパ向けのふたつの仕様を設定したのは確かです」(横内)
 そうした中でエアサスを採用する案も生まれ、これはGSlOOOで実現された。
「乗り心地を向上させつつコシを出すためにエア加圧式にして、左右のフォークをパイプで連結するとか色々試しましたが、結局まとめきれなかったですね。個人的にはフロントはともかく、リヤには必要なかったかなと今では思っています」(松本)
1978年からは運輸省(当時)の認可が下り、キャストホイールが装着された。
「ホイール剛性が上がりますから、操安性のセッティングも変わります。サスペンションの調整で対処したと思います」(松本)

パフォーマンスバイクGS1OOO

 横内が参加した1976年2月のアメリカ実走テストでGS750はテストライダーから高い評価を得たが、加速性能では当然のごとく排気量の大きなZ1に軍配が上がった。
「ならばZl以上のパフォーマンスバイクを造ろうじゃないかと。750cc並みの重量で排気量は1000ccクラス」(横内)
 欧米の市場からもそういった要請があり、世界最速のバイク造りが始まった。
「エンジンをコンパクトにするため発電機をクランクケース上部に置き、ハイポチェーンを採用したら重くなってしまった。仕方なく発電機を元の位置としてローラーチェーンに戻して、今度はキックシャフトも取っ払った。これで前後長は40mm短くなり、懸念されていた発熱量の増大も問題なかった」(横内)
「カムチェーン間のアイドラーギヤを省略したり、シリンダースリーブも4.0→3.5mmへと薄くしましたね」(藤井)
「車体は宮本敏雄が担当しましたが、基本的には750から変えていません。フレームの寸法、パイプ径も同じだったと思いますよ。ただ、キャストホイールにするとどうしても重くなるんです」(松本)
 カタログ値ではスポーク車が230kg、キャスト車が234kgと4kgの差がある。
「キャストにしたのは営業側からのリクエストでしたね」(横内)
 GSlOOOはシャフトドライブで開発せよ、との声もまた大きかった。最高峰モデルなのだからBMWやモトグッチよろしく、豪華なギミックを付け加えたいという要望だ。
「でもスポーツ性が命のパフォーマンスバイクなんだから、重たいシャフトドライブはそもそもコンセプトに反する。だったらシャフト並みの静粛性とメンテナンスフリーを保証すればいいだろうと。0リングチェーンはGS750ですでに採用されていましたが、さらに精度を向上させた伸びないチェーンを高砂チエン(現RKユキセル)に作ってもらったんです」(横内)
 そうしてGSlOOOは当初のコンセプトどおりにチェーンドライブが採用され、その後、リクエストにこたえてシャフトドライブ仕様のGS850GやGSlOOOGも用意された。

GSからGSX、そしてGSXRへ

 かくしてGSシリーズはスズキ初の4サイクルモデルとして成功を収めたと言えるが、それから30年以上の月日が流れた今、設計者諸氏の心境はいかばかりだろうか。
「振り返ると、非常に活気のある時代でしたね。時代の節目と言えるモデルの開発に携われたのは何より幸福でしたし、スポーツバイクの基礎固めにもチャレンジできた。そして後輩たちがGSシリーズを発展させてくれたことにも大きな喜びを感じます」(松本)
「GSシリーズが完成した後で、修さん(現スズキ会長)が4サイクルをやった連中を集めて、こう言ったんです。『本来ならこれは社長賞として表彰ものだけれど、もしコケたらスズキはダメになるから表彰はしない。でも、本当にご苦労さまでした』と。それで食事をごちそうになったのを覚えています。GSの後にGSXも手がけましたが、GSで基礎技術を培ったことがその後のプラスに結びついたのではないかと思います」(藤井)
「GSって、とびきり上質な礎だったと思うんです。常に世界一でありたいという思い、それはGSXやGSX−Rも同じだったけれど、そのコンセプトは今も後輩たちがよく守ってくれている。関わってくれたすべての人たちに有り難うと言いたいです」(横内)


過酷すぎる耐久試験によって得られた、絶対的な信頼性

 スズキ4サイクルの技術はGSシリーズによって確立されたと言ってよく、その第一号モデルぱ76年11月1日に発売されたGS750である(イヤーモデルとして考えた場合1977年型)。これ以前の4サイクル車としてば1954年にコレダCOという90ccのOHV単気筒があり、これは後に125ccへと拡大されたが、それ以上の発展はなく、以後スズキは2サイクルメーカーとして成長と躍進を遂げた。1970年代に4サイクルの開発を担当した中野廣之も、CO型については『(時代が違いすぎて)参考になるとは考えられず、図面・資料は探してもみなかった』と述べている。
 GSシリーズの耐久テストは『全負荷2万km』あるいは『最高出力で連続100時間』が昼夜3交代制で行われたが、これは従来の倍という厳しい基準であった。
 当時最速のベンチマークモデルと言えばカワサキのZl(国内ではZ2)であり、GS750も空冷DOHC2バルブ4気筒をスチール製ダブルクレードルフレー.ムに搭載するなど、基本構成はカワサキに似ている。
 GS750と同年型Z750FOURの諸元を比較するとGSが最高出力68ps、乾燥重量223kg、価格48万5000円であるのに対して、一方Zは70ps、236kg、48万5000円である。出力と価格はほぼ同等だが、乾燥重量はGSが13kgも軽い(いずれも公称値)。
 GS750のスタイリングはオーソドックスかつプレーンな印象を感じさせるもので、排気系も2本出しのメガホンマフラーを採用している。だがニュートラルなハンドリング性能を発揮する車体はユーザーが乗ってすぐに体感できる美点と言えるし、先述のとおり技術陣が絶大の自信を持って送り込んだエンジンの耐久性については、ほどなくしてヨシムラのレース活動によって証明された。
 見た目やスペックに表れない高性能ゆえ、世間には「渋い」と評されることしばしばであったGS750だが、シリーズ第2弾の末弟モデル、GS400(1976年12月1日発売)は2気筒ながらクラス唯一のDOHCエンジン搭載車として好評を博した。
 翌1978年には、早くも発展強化型のGSlOOOが登場する。ただしこれは輸出専用車であり、逆輸入が一般的でなかった当時、国内でその姿を見かけることはほとんどなかった。
 スズキにとってはGSlOOOが初のリッターマシンであり、ここでカワサキZlOOO、ヤマハXSllOO、ホンダCBXなどと肩を並べるに至った。またこの年、第1回鈴鹿8時間耐久において無敵艦隊と呼ばれたホンダRCB軍団をヨシムラGSlOOOが見事に下したエピソードは、あまりにも有名である。
 その優秀なスポーツ性を示したスズキは続けざまにシャフトドライブのGS850/1000Gやアメリカン仕様のLなどをバリエーション展開、その布陣を固めていく。
 しかし、意外にもGSlOOOがスズキのフラッグシップとして君臨したのはたった2シーズンに過ぎなかった。1980年には4バルブのGSXllOOEが登場しており、その血統はカタナ、GSXllOOEF、そして油冷エンジンのGSX−Rへと受け継がれていった。
 2バルブのGSlOOOとその派生モデルはGSX登場後も実直なツーリングモデルとして併売されるが、1980年代の半ばにはいずれもカタログ落ちし、静かにその役目を終えている。

取材に出れなかった筆者に「寄せ書き」を書いてくれた
          


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