e

八重洲出版発行の「別冊モーターサイクリスト」(2003年9月〜2004年2月号)に掲載

戦後バイク史の証人たち(その10)   【文と写真】 東 信亨

                         

【第1回】ケタ外れの坊ちゃんライダー誕生

'50〜'60年代のバイクレースの黎明期、アマチュアの強豪ライダーとして大活躍した本田和夫さん。一般人の海外渡航が困難だった時期に単身渡米し、デイトナのレースにプライベート参戦した、いわばパイオニア的存在でもある。資産家の息子に生まれたメリットを最大限に活かして、自由奔放に歩んできた本田さんに、その半生を語ってもらった。

まぼろしの男
 '58(昭和33)年、第1回全日本クラブマンレース、セニアクラス(351・以上)優勝、国際オープンクラス2位。
 '59(昭和34)年、日本人として初めて米デイトナスピードウィークに参戦。
 '60(昭和35)年、第3回全日本クラブマンレース、125・クラス2位。
 '62(昭和37)年と'63(昭和38)年、米デイトナ125・クラスで2年連続の優勝。

 戦後のレース史に詳しい方ならお分かりだろう。以上は本田和夫さんの戦績の一部である。日本で本格的なレースが始まった当時、故・伊藤史朗選手や高橋国光選手といった名手に交じって、本田さんは国内外でこれだけの成績を残した名ライダーなのだ。
 だが本田さんは、長らく“まぼろしの男”とでもいうべき存在だった。レースを引退した後も、本田さんはバイクに関係するビジネスを行ったりしていたのだが、雑誌などのマスコミに登場することはほとんどなかったからだ。だから後の世代にとって、本田さんは非常に謎の多い人物だったと言えよう。
 筆者自身、さる筋から「本田さんは気難しく、どこか不遜なところがある人らしい。バイク雑誌屋の取材など相手にしてくれないのでは……」と聞いたこともあった。
 その本田和夫さんが、久しぶりにバイク業界の集まりに顔を出した。昨年4月に亡くなった小社八重洲出版の会長、酒井文人のお別れの会(昨年?月)に姿を見せたのである。また本誌2月号のBMW特集記事でも、福島新介さん(元本誌編集長、現在はフリーのモータージャーナリスト)のインタビューに応じ、自身とBMW車の関わりを語っている。
 戦後バイク史、レース史の重要な証人である本田さん。かなうものならぜひお会いしてみたいと、筆者は福島さんを通じて本田さんにコンタクトをとったのである。
「あぁ、いらっしゃい。本田と申します。はじめまして!」(本田さん、以下同)
 まぼろしの男は、東京・目黒の自宅マンションで筆者を待っていた。'34(昭和9)年生まれで今年69歳だが、話す声には張りがあり、立ち居ふるまいも若々しい。その年代の方としてはかなり長身で手足が長く、どこか日本人離れした迫力を感じさせる。現在でもビジネスのため、アメリカと日本を頻繁に往復するという日々を送っているそうだ。
「ところで東サン。わたしからなにを聞きたいんですか? わたしはオートバイの業界になんの利害もしがらみもない人間ですから、言いたいことは歯に衣着せず、はっきり申しますよ。あなたもそういう仕事をされていて、いろいろと利害が絡んでくる場合があるでしょうが、それでもよろしいですか?」
 筆者と対面して早々、本田さんは取材の意図と記事の内容に関して、単刀直入に質問してきた。日本人同士の話というのは、なかなか本題に入らず、前段で空疎なあいさつごとや、互いの腹の探り合いを必要とすることが多い。その点、本田さんは外国人ビジネスマンのような、じつに率直な態度である。
 そうであれば話は早い。もちろん事前に取材意図は説明してあったのだが、筆者はあらためて本田さんに自分の意向を述べた。
「……なるほど。あなたにも立場というものがあるでしょうから、わたしの言うことをすべて書けとは申しません。あなたなりに取捨選択していただいて構いませんよ」
 イエスとノーがはっきりしていて、即断即決。このあたりも日本人離れした感じだ。かといって素っ気なく言いっぱなしではなくて、言葉には品のよさと温かみがある。以前に聞いていた「気難しくて不遜」という人物評とは、やや異なる印象なのだ。
 こうして本田さんへの取材が始まった。最初にお断りしておくが、本田さんの話の中には、いわゆる通説とかなり異なる内容も多い。一般に偉人と見なされている人物に対し、相当に手厳しい評価を下していたりもする。読者の皆さんの中には、驚いたり、少しばかり不快に思う方もいるかも知れない。
 だが人間の世の中というのは、そう単純なものではないはずだ。通説だけで歴史をはかれるなら、筆者ごときが出しゃばって、こんなシリーズを続ける必要もないのだから。
「そうそう、昼食は済んでいますか? なんでしたら、わたしと一緒にどうです?」
 本田さんにそう誘われた筆者は、本田さんのクルマで近くの中華料理店(長野の名家、岡谷家で料理長を務めていた人物が創業した店だとか)に向かうことにした。
 クルマの運転を観察するというのは、その人物を知る上でかなり有効な手段である。単に上手か下手かというだけではなく、ちょっとした所作にも、人柄や性格が如実に表れるからだ。かつての名ライダーだけに、本田さんの運転が下手だということはないだろう。むしろ、その人間性の部分に触れられるチャンスだと、筆者は内心で喜んだ。
 Sクラスのベンツに乗り込んだ本田さんは、駐車場からスルスルッと大きな車体を引き出すと、混雑した通りへと走り出した。
 大柄な身体に広い室内。ふんぞり返って乗ることもできるのに、本田さんは背もたれを立てて手足に余裕をもたせた、基本に忠実な乗車姿勢である。性能に余裕のある車種だけに、周囲のクルマを押しのけて飛ばすのかとも思ったのだが、そういう下品なノリはまるでない。たまに前方の道路が開けても、不必要にアクセルを開けたりはしないし、無茶な走りで割り込んでくるクルマにも、われ関せず。そしてなにより、加減速と方向転換の動きのスムーズなことと言ったら……。
「同乗している方に恐怖感や不快感を与えないこと。それが運転の基本でしょう?」
 久しぶりに本当の意味でうまい運転に接したなぁ……と、流れ去る東京の町並みをながめながら感嘆する筆者だった。

資産家の息子として
 本田和夫さんは、東京は目黒で資産家の家に生まれた。本田さんの父親の四郎さんは、かつて東京市荏原郡と呼ばれ田園地帯だった目黒の一帯を、宅地として開発する事業を行い、大きな財産を作ったのである。
「ぼくの親父(四郎さん)というのは、東京でも何番目かの高額納税者の家族で、皇居内の近衛師団歩兵一連隊という名誉あるところにいた男なんですよね。その近衛兵の役目を終わって出てきてから、東海道のほうで、だいぶ大きく材木かなにかの仕事をやったらしいんです。それが関東大震災でダメになってしまった。当時は保険もなにもない時代ですから、今で言うと何十億というお金、猪のお金(10円札)を袋に詰めて、震災後に真鶴から歩いて帰ってきたらしいですね」
 明治から大正の時代にかけての話だが、近衛兵(天皇を護衛する兵隊)は誰でもなれるものではなく、宮家、旧華族、各県多額納税者の子息に限られていたのである。
「次に彼がやった大きな仕事というと、目黒のこの辺が昔は競馬場だったんですよ。その競馬場が払い下げになって、それが中山に行った(千葉県の中山競馬場)。今でも目黒記念というレースをやってるそうですね。そこに今で言う宅地を、戦争前に彼が造成したんですよね(昭和の初めごろ)。全部やったわけではないですが、相当なところを開いて、自分の家もそこに作った。それで戦争が終わりまして、焼けて全部ダメになってしまって、今度は目黒に権之助坂っていう地名がありますけど、タヌキが出るっていわれた、なんにもなかったところです。そこをまた土地を全部買って、商店街を作ったんですよ」
 現在の東京都目黒区の中心部、まさしく一等地の付近が、ほぼすべて本田家のものだったのである。現在とは時代が違うとはいえ、スケールの大きな話だ。戦時中、四郎さんは南京政府(戦前に日本の後押しで生まれた中国の政権)の顧問を務め、東京と上海を頻繁に行き来していたという。
「ぼくがこういう人生を送ってこられた理由のひとつは、英語が話せたということなんです。小学校1年のとき、慶応の幼稚舎ですけど、まるまる1年間イギリス人に教育を受けましてね。まだ戦争中の日本で、これは非常に異例でした。学校でもクラスでひとりだけ。毎日、イギリス人のおばちゃんに英語を教わってましたよ。昭和17('42)年に、当時日本にいた外国の外交官の人が本国に帰されてしまって、そこでおしまいでしたけどね」
 日本軍の真珠湾攻撃により日米が開戦したのが'41(昭和16)年。日中戦争も続いていた。米英との戦争が激化し、英語が“敵性語”として排除されるようになる直前ぐらいだったとはいえ、かなり進歩的な話である。
「ぼくには兄貴(広氏、故人)がいたんですが、性格はぜんぜん違う。育てられ方も違いました。僕は生まれたときから、ずっとエリートのような教育を受けてきたんです。兄は違いましたね。昔の感覚だったら、ウチは大きな家ですけれど、長男(広氏)が跡を継ぐのが当たり前ですよね。ぼくは独立して家を出ます。だからというんで、僕にはそういう教養を身につけさせようとしたんじゃないでしょうか。なにしろ両親は、ぼくを職業軍人か外交官にしようとしていましたから」
 やがて終戦('45年)。本田さんは戦後の動乱期に少年時代を過ごすことになる。
「戦争が終わってアメリカ人が来たときに、周りの連中が『坊や、英語やってんだからしゃべってごらん』と。それで、しゃべると通じるわけですよ。面白いもんで。それが、あとあとにも活きたというわけですね」
 そのころ、本田さんの人生を変える巡り合わせが、もうひとつあった。
「戦争が終わってすぐ。小学校5年かな。ある日、ぼくが学校から帰ってきたら、家にトライアンフがあったんですね。昔の'20年代のトライアンフですよ。今でも覚えてますけどステップが板なんです、棒じゃなくて。その板の下にリーフスプリングが付いていて、ステップが動く。スロットルも、グリップじゃなくてレバーの、あれでした」
 どうやら父親の四郎さんが、どこかから入手してきたらしい。四郎さんは大正時代、丸石自転車が輸入したトライアンフに乗っていたという。それと同時代の車両だ。
「ぼくの父は鉄砲を撃つのが好きで、若いころはオートバイやいろんな乗り物に鉄砲や猟犬を乗せて、あちこち飛んであるいていたんです。つまり、ぼくは父からオートバイを教えてもらったんですよ。あのトライアンフに乗ってみて、ぼくは世の中を別の目で見るようになったのかもしれない。ああ、オートバイというのは素晴らしいなと思って」
 戦争が終わり、世の“庶民”が食うや食わずだった時代。父親の四郎さんが入手してきたトライアンフにより、本田少年は人生の進行方向を運命づけられたのである。

クラブマンレースへの道
 現在でこそ日本は世界一のバイク大国であり、筆者のような先祖代々筋金入りの庶民でも、なんとか大型の外国製バイクに乗ることができる(10年落ちの中古ですが)。
 しかし戦後まもない日本では、多くの人々は生きるだけで精一杯だった。自転車でさえ非常に高価であり、多少のお金があったとしても、バイクもクルマもモノがなかったし、ガソリンの入手も困難だった。自家用車など夢のまた夢という時代だったのである。
 そんな時代に本田さんの実家には、巨大なパッカード(アメリカの超高級車)があり、これまたぜいたくの極みだったトライアンフやハーレーダビッドソンがあった。
「戦争中、ウチには戦利品としてシンガポールかどこかからもってきたパッカードがありましたが、戦争が終わったときにみんな米軍に没収されたんですよ。それをまた払い下げてもらって、某国大使館のナンバーを付けて乗っていました。あなたは“三万台”って言葉を聞いたことありますか? 当時、日本人は戦前の古いクルマしかもてなかったんですよ。ところが日本にいる外国人は、外車の新車を買えた。外人が乗っている新車には、三万何番から始まるナンバープレートが付くんです。それを“三万台”って言ったわけですよ。当時はガソリンも割り当てなんですけど、“三万台”ならガソリンのクーポンがあって、ガソリンも買えたんです。みんな外国人のワルい連中が、日本の金持ちどもにクルマを貸したり売ったりして、それを日本人が大きな顔して乗ってたわけですよ」
 いつの時代にもある“裏事情”というわけだが、本田少年はまだ免許もないまま、実家のパッカードを乗りまわして遊んでいたという。そのうえハーレーダビッドソンのサイドカーまでも買い与えられていた。
「まだ子供で、足が届かないからサイドカーがいいだろって、父親が買ってくれたんですねぇ(笑)。'34(昭和9)年の1200のハーレーだったんですけど、エンジンをかけるのが大変だった。子供で、目方がないからね。それで、陸王(ハーレーダビッドソンのライセンス生産からスタート)の会社に遊びに行ったりして、そういう関係で昔の陸王の皆さんがたもよく知ってるわけですよ」
 恵まれた環境に育ち、少年時代から外国製の優れたバイクやクルマに接してきた本田さん。それだけに当時の日本製バイクに対しては「排気量も小さくて、まともなクルマもないし、オモチャっていう感覚でしたねぇ」というのが正直な気持ちだった。
「'53(昭和28)年ごろかなぁ。そうやっていいオートバイに乗って街を飛んであるいていたころ、木村 滋さんという人と知り合いましてね。彼は自分の店をもたない、なんていうか、フリーのメカニックです。それで、あちこちのオートバイをもっている家にいって、サービス(整備や修理)をするわけです。当時のオートバイは年中ぶっ壊れてましたから、手入れもしょっちゅうしなければいけないでしょう。木村さんはぼくの家にも来て、オートバイを見てくれていたんですよ」
 やがて本田さんは、東京は立川基地の米兵たちと交流をもつようになる。米兵たちが結成していたバイクのクラブ、オールジャパンモーターサイクルクラブに、日本人の身でありながら参加することになったのだ。これもまた異例なことだったと言えるだろう。
「なぜ米軍の連中と仲良くなったかといいますと、まず、日本のオートバイ乗りで、一緒に遊べるような人があまりいませんでしたよね。日本は貧しかったから、まともなクルマがなかった。外貨の割り当ても厳しくて、報道機関とか、メーカーの試作の参考にするとかじゃないと、外車のいいオートバイが買えなかったわけですよ。でも米兵は好きなようにオートバイが買えて、立川にはいいオートバイがたくさんあった。僕も英語ができましたしね。向こう(米兵)としたら、どこか遠乗りに行くときも、日本語ができるヤツがいると便利ですから、入れ入れと。それで彼らのクラブに入ったわけですよ。ぼくが19歳か20歳のころじゃないですかねぇ。毎週月曜にミーティングがあって、みんな集まってワーワー騒いで、コーヒー飲んだり、ビール飲んだり。ぼくはお酒を飲まないから、そのまま帰って来ちゃうんですけどね(笑)」
 当時の日本のバイク界は、'53(昭和28)年には名古屋TTおよび第1回の富士登山レース、'55(昭和30)年には第1回浅間高原レースと、メーカー同士による本格的なレースが開始された時期だった。朝鮮戦争の勃発('50年)と休戦('53年)による景気の激しい変動。その中で各バイクメーカーは、生き残りをかけた企業戦争へと突入していったのだ。
「その当時の日本のレースについて、ぼくはまったく知りません。オートバイの雑誌も読んでいなくはなかったけど、そんなにマニアじゃなかったんでしょうねぇ。そんなとき、例の木村さんから『浅間山のほうでレースがあるから、出てみませんか』という話を聞いたんです。'57(昭和32)年の春ですよ」
 '57年といえば、第2回浅間火山レースの年である。本田さんはミナトモータース(東京にあったヤマハの代理店)に紹介され、選手候補としてヤマハ本社へおもむき、さらにアサマのコースでの練習にも参加した。
「ヤマハの本社で一宿一飯のお世話になりまして、たしか7月か8月に浅間高原でテストだというので行きましたよ。野口くん(野口種晴氏、初期ヤマハワークスのリーダー的存在、故人)を始めとするヤマハの面々にも会ってね。まぁ、いろいろあったんですけど、当時のヤマハの監督さんというのが、なにしろ練習しろ練習しろっていうわけですよ。押しがけの練習を50回とか100回とか。だいたい、ぼくは練習ってのが嫌いな男でね(笑)。スタートなんて、そんな何十回も練習するもんじゃないでしょう? ばかばかしくなって、途中で帰って来ちゃったんですよ。でも、そのときすでに『オレはレースに出たら絶対優勝するよ』って宣言していましたねぇ」
 結局、本田さんはヤマハワークスから第2回アサマに出場することはなかった。根っからの自由人である本田さんと日本的な組織論では、そもそも相いれないのだろうと、筆者はそんなふうに想像してしまう。
「そしたら次の年に、アマチュアのレースがあるというので、それに出てやろうということになったわけですよ。そう、第1回目のクラブマンレース。おたくの酒井さん(小社会長だった酒井文人)がやったレースにね」
 '57年の第2回アサマの翌年、第3回目が開かれる予定だったが、これは中止・延期になった。そこで当時の小社社長だった酒井は、バイクメーカーではなくアマチュア選手が主体になったレースを計画。バイク愛好家のクラブの団体としてMCFAJ(全日本モーターサイクルクラブ連盟)を組織し、'58(昭和33)年に浅間高原自動車テストコースで、第1回全日本クラブマンレースを開催したのだ。
 まだまだ日本のバイク界が脆弱だった時期、いち雑誌社が全国のバイク愛好家をまとめあげ、あれだけの壮大なイベントを成功させたのは、歴史的な快挙だったといえよう。
 本田さんも、このクラブマンレースで大いに名をあげたひとりだった。しかし、その舞台裏では、さまざまな人間模様も渦巻いていたのである。

'58(昭和33)年、アサマで開催された第1回全日本クラブマンレース。本田さんは自らチューニングしたトライアンフTR6(4サイクル2気筒650・)でセニア(351・以上)クラスに出場し、2位以下に大差をつけて優勝を果たす。かぶっているジェット型ヘルメットは、故・伊藤史朗選手がアメリカから持ち帰ったベル製。ハーフキャップ型が主流だった時代には非常に珍しく、日本では本田さんが最初のユーザーだといわれる 本田和夫(ほんだかずお)さん。'34(昭和9)年8月、東京生まれ。目黒区の中心部の土地を所有していた資産家の息子であり、幼少時からバイクやクルマに接して育つ。'58(昭和33)年にアサマで開催された第1回全日本クラブマンレースに出場し、セニアクラスで優勝、オープンクラスで2位を獲得。体格(身長178・)と体力に恵まれ、トライアンフやハーレーなどの大排気量車を得意とし、強豪ライダーとして知られた。'59(昭和34)年には日本人として初めて米デイトナのレースに自費参戦。20代半ばの時期にトーハツの輸出権を獲得し、アメリカに駐在しながらレースに出場。'62(昭和37)年、'63(昭和38)年と、デイトナの125・クラスで2連勝するなど、内外のレースで活躍した
普段の足は先代ベンツSクラス(W140)。長い手足を折り畳み、ハンドルに近く座るという、教科書どおりの乗車姿勢だ。運転操作も、結果としての車体の動きも、スムーズの一語に尽きる。別にゆっくり走っているわけではなく、必要であればかなり鋭い加速をする瞬間もあるのだが、加減速の開始と終了に唐突さがないので、まるで不安を感じない。イキがって腕前を見せびらかそうなどという邪念からは、とっくに卒業しているのだろう。なるほど、達人である '58年の第1回クラブマンレース、国際オープンクラス(排気量無制限)。本田さんはトライアンフTR6(4サイクル2気筒650・)で出場し2位。優勝は同じクラブ(オールジャパンモーターサイクルクラブ)のビル・ハント選手(米軍軍属)。クラブマンレースでのエピソードなどは次号で展開の予定
「ちょっと寄ってみましょうか」と本田さんが案内してくれたのは、往年の名ライダーである安良岡健さんのショップ、モトショップエキスパート(・03-3795-0018)。安良岡さん(左)はトーハツ、カワサキ、スズキの各ワークスチームで活躍。'70年代初頭には世界GPの500・クラスにカワサキH1(マッハ)でプライベート参戦した。レース入門時、安良岡さんを指導したのが本田さんなのである。「弟子にしてくださいって、ぼくのところにきたんですよ。もう40年以上も前の話ですねぇ。安良岡くんは才能のある選手でしたが、運に恵まれなかったな……」 「ぼくは人に会うのが好きなほうじゃないので、昔からあまり表に出ない主義でね。だいたい表に出てベラベラ話したり記事を書いたりするのは、選手としてあまり腕のたたない連中ですよ。天は二物を与えずで、腕のたつ連中は頭がよくないから、だいたい話したり書いたりは下手。ぼくも含めてね。ハッハッハ!」。毒舌だが語り口には品があり、聞いていて不愉快なトーンではない。お話をうかがっているのはジャーナリストの福島新介さん(左、元本誌編集長)

【第2回】大荒れのクラブマンレース前夜

資産家の家に生まれ、なに不自由なく育ってきた本田和夫さん。ヤマハワークスの座を蹴って、必勝を期して臨んだのが1958(昭和33)年の第1回全日本クラブマンレースである。日本初のアマチュア主体の大レースだが、黎明期ならではの複雑なドラマも展開された。その中心にいたひとりが本田さんだったのである。

マシンはDIYチューンで
1958(昭和33)年。第1回全日本クラブマンレースへの出場を決意した本田和夫さんは、東京駅の八重洲口付近にあったMCFAJ(全日本モーターサイクルクラブ連盟)の事務所を訪れた。クラブマンレースを発案したのが小社八重洲出版社長だった故・酒井文人であるため、初期のMCFAJは事実上、八重洲出版とほぼ一心同体だったといえる。
「初めてMCFAJの事務所にうかがったとき、もう西山さん(西山秀一さん。MCFAJの中心人物のひとりで、当時は事務局長)のことは知ってましたね。アドラーか何かに乗っかってる、横須賀の写真屋のおじさんだって。ぼくも(MCFAJの)皆さんのことを知ってたし、皆さんもぽくを知ってたんです。とくに交流があったわけじゃあないですけど、非常にいい扱いをしていただきましたよ。ぽく自身、最初から勝つんだという意気込みで行ってましたし」(本田さん、以下同)
 当時、外国製スポーツバイクを”自家用に乗りまわせた人は非常に少なかった。モノが少なかったし非常に高価だったからだ。外貨の割り当てが制限されていて、新車はなかなか手に入らない。どこの誰がどんなバイクに乗っているか、それはバイク乗り同士で一種の基礎知識になっていたのである。
「レースに出たトライアンフは、ぼくが持っていたクルマですね。2〜3台、部品取りといいますか、つぶしたのも持ってました。あのレースではバルコム(バルコムトレーディング。当時のBMWなどの輸入元)とかのヒモ付き(マシン貸与)もありましたけど、ぼくは自分のクルマがあったから、他人のクルマを借りて、他人の言うことを聞く必要がなかったですからね。それだけの理由です」
 本田さんは当時23歳。この若さでハーレーダビッドソンやトライアンフを所有し、遊びで自由に乗りまわしている坊ちゃんとして、知る人ぞ知る存在だったわけだ。
「神奈川県警の人と、白バイを取り替えっこして乗ったことも、ずいぶんありました。なにしろ走れる道がなくって、いちばんいい道が第一京浜、東海道。藤沢(神奈川県)の七曲がりまで行くと白バイが待ってるわけですよ。それで、坊や取り替えっこしようと言われて、ぼくのトライアンフを貸してあげて、代わりに白バイに乗っかってみたり(笑)」
 外車の大型バイクに乗っていれば、まず警察に捕まる心配がなかった(?)という時代である。白バイ(陸王やメグロなどの国産バイク)の性能品質では、ハーレーやトライアンフにとうてい追い付けなかったのだ。
「ぽくがレースに出たいと申し上げると、皆さんが『これ(MCFAJ)はクラブの組織なので、クラブを作りなさい』とおっしゃる。そんなの作るのは面倒くさいし(笑)、じゃあ、ぼくはたまたま(米軍の)立川基地のオールジャパン(バイク好きの米兵たちのクラブ)に入ってtlましたから、オールジャパンの名前でいったというわけですよ」
 第1回クラブマンレースには、同じオールジャパンモーターサイクルクラブのビル・ハントさん(米軍軍属、故人)も出場することになった。年長(当時30代後半)で、しかもバイク先進国のアメリカから来ていたハントさんとともに、本田さんは愛車トライアンフTR6(4サイクル2気筒650cc)をレース用にチューニングしたのである。
「ハントは王子(東京都北区)の米軍兵器儲にいた軍属、エンジニアですね。戦時中は落下傘兵か何かで、ドイツで落下傘で降下したら教会の上に降りちゃって、そこにノートンがあったから接収して乗りまわしたとか、そんな話を聞いたことがありますよ。当時のハントは原宿(渋谷区)に住んでいて、ぼくの家(目黒区)からも近いし、ぼくは英語が分かりましたので、今の言葉でいう、つるんで歩いてたわけです。そのハントの家に行って、彼と一緒にトライアンフにスピードキットを組み込みましてね。ぼくがハントの家に行ったり、彼がぼくの家に来たりで、クルマを作って(チューンして)いたわけですよ」
 現在ではスポーツバイクに対して、純正品や社外品のチューニングパーツ(スピードキット)が各種存在するのが当然のことになっている。しかし当時の日本では、そういう特殊な部品が存在すること自体が知られておらず、もし知っていても入手は困難だった。そんな時代に、外国のパーツ商からチューニングパーツを取り寄せ、自分の手で組み込んでいた本田さんは、飛び抜けて進歩的なバイク乗りだったと言えるだろう。
「そうですねえ。当時、あんなこと(チューニングパーツを輸入して組み込むこと)をやっていた人は、ちょっとほかにいなかったでしょう。ハントと一緒に、カナダやイギリスから部品を取り寄せましてね。基本的なところで、圧縮比の高いピストン、レーシングカム、カムリフター、ビッグバルブとか。点火のタイミングでも、町の修理屋さんたちがギヤの合いマークだけ合わせてカンでやっていた時代に、ちゃんと例の分度器を使って、ダイヤルゲージでギャップを計っていましたか らね。日本には整備やチューニングのためのまともな参考書がなかったでしょう。ぼくは英語ができたから、外国の書籍やマニュアルを問題なく読める。米軍の基地でいろんな本を読めて、情報も入ってくる。ハントにもいろいろ教えてもらえたし、そこは普通の人とぜんぜん違っていたでしょうね」

レース場でもケタ外れ
 本田さんは1958年のひと夏を、まるまるクラブマンレース出場のために使った。前年にヤマハワークスの選手候補の座を蹴って(詳細は前号)、いちアマチュアライダーとして第1回クラブマンレースに参加したというわけだが、とにかくもう、本田さんは最初からやることすべてがケタ外れだった。
「なにしろ自分のレーサー(トライアンフ)で東京と軽井沢を行ったり来たりしましたよ。ヘッドライトもないようなクルマで、ナンバープレートを腰に縛ってね。クルマを置いて(東京へ)帰ったこともあったし、乗って帰ったこともあったな。とにかく『オレは絶対優勝する』つて公言してましたのでね。クルマ(4輪車)にトロフィーや賞品を山ほど積んで帰ってやるからって。それでフォードの1949年型のセダンを買って、そのとおりにやっちゃいましたからねえ(笑)」
 サニーやカローラといった国産大衆車が登場するはるか前。20代前半の“若造が、まったくの遊びで、クルマ、しかも外車を乗りまわすのは非常に異例なことだった。
「普通の参加者はまともな宿舎もなかったのに、ぼくは万平ホテルグリーンホテル(いずれも軽井沢近辺のホテル)の部屋を3つぐらい借りっばなしで、養狐園(アサマのコースのすぐ近くにあった旅館。ヤマハなども宿舎に利用していた)も2部屋を借りっばなしですからね。来たいヤツは何人でも来て、勝手に飯食えばいいよって。あのあたりでは食べるものもないから、進駐軍から缶詰を買ってきて、トラックいっぱい持ってって食べたりね。すべてが違ってました。ずいぶん飯だけ食べに来た連中がいましたよ(笑)」
 まったくもってスゴい話を、屈託のない笑顔で語る本田さん。文章にすると“鼻もちならないジイサンという感じかも知れない)が、本当のことだから仕方ない。逆に、変に謙遜したり隠したりしないあたりが、育ちのよさというものなのだろう(?)。
「父はぼくに、湯水のようにお金を使わせてくれましたからねえ。いろんな意味でスケールが違いましたので、ボクのことを面白く思わないヤツがいっぱいいたのも事実でしょう。その一方で、ぼくにあこがれて、近付こうとするヤツもいた。伊藤(故・伊藤史朗選手。1950〜60年代の日本を代表する名ライダーのひとり)なんかがそうですよ」
 第1回クラブマンレースに、本田さんは米ベル社製のジェット型ヘルメットをかぶって出場。これが日本でジェット型が使用された、最初の例だと言われている。
「このベルのジェットはね。伊藤(史朗)がカタリナ(アメリカ)のレースに行った帰りに、お土産にもってきたヘルメットなんですよ。伊藤は、ぼくの家が大家だと知って、取り入ろうと気をまわしてましたから」
 本田さんと故・伊藤史朗選手(この第1回全日本クラブマンレースには、パルコムから貸与されたBMWで出場)とのかかわりについては、後に詳しく触れることにしよう。
 こうして、いよいよ第1回全日本クラブマンレースが幕を切ることになった。決勝日は8月24日(日曜日)なのだが、その直前にも大きなドラマが存在した。
 本田さんの所属クラブ、オールジャパンモ一夕ーサイクルクラブからは、本田さん、ハントさん、そして臼田健三さん(後にスタントマンとして有名になる)が出場する予定だった。だが練習中に臼田さんが転倒負傷したため、本田さんの兄の広さん(故人)が出場することになったのである。
「臼田くんには、もう一台、ぼくのトライアンフを貸す予定だったんですが、鎖骨を折っちゃったので、急きょぼくの兄の広が出ることになりました。都合3台ですね」
 ところが・・・じつは転んで骨折していたのは本田さんも同様だったのである。
「金曜日の、今でいう公式練習でしょうね。天気が悪くて、そのとき私が一生懸命走ってましたらね、ヘアピンで望月くん(望月修さん。ヤマハなどでライダーとして活躍し、後に4輪レースに転向。ジャーナリストとしても長く活動した。故人)がBMW(パルコムの貸与車両)でひっくり返ってたんですよ。そのままじゃあ、ぼくが彼の上に乗っかっちやつて大ケガをさせてしまうんで、しょうがないから無理やりに寝かして、わざと転んだわけですよ。それで、ぼくのトライアンフのステップが足の上に乗っかっちゃって、こっちの、左のくるぶしを骨折したんですね」
 とっさの判断による人助けのつもりが、自分に不運を呼び込んでしまったわけだ。
「おふくろが万平ホテルから駆けつけて、破けた革のズボンを縫ってくれました。それを報告するとドクターストップがかかるんで、モチを焼く金網をふたつに折ってL字型にして、包帯をぐるぐるまいて足にあてがってね。そのままレースに出場ですよ」

決勝前夜の抗議行動
 第1回全日本クラブマンレースの決勝前夜。戦後の黎明期のレース史の中でも、最大級の謎をはらんだ騒動が勃発した。「クラブマン模範レース開催」事件である。
「そうやって練習していましたらね、決勝の前の日の土曜日かな。ホンダスピード(ホンダ社内クラブ)や東京オトキチクラブ(東京のアマチュアクラブ)の連中が、突然ものすごし)クルマを持ってきて走らせ始めたんですよ。そう、トンビのケツみたいなの(リヤフェンダーと一体型のシートカウル)が付いた、変なクルマね。それまで普通のクルマで走っていたのに、いきなりですよ。それがまた、とんでもなく速かったわけです」
 全日本クラブマンレースは、その名のとおりアマチュアのクラブマンのレース。出場車両は基本的に市販車とその改造車に限定され(車両無制限の国際クラスを除く)、メーカーがレース専用に製作したワークス(工場)レーサーは許可されていなかった。
 ところが前記のクラブなどが持ち込んだ一部車両は、その規定から逸脱しているのではないか、という声が出たのである。早いハナシが、これはホンダのワークスレーサーだろう、との疑いがもたれたわけだ。
「見慣れないクルマが急に来たでしょう。当然『なんだこれ?』ということになる。ホンダとしては秘密兵器をもってきたんでしょうね。本番でこれで勝ってしまおうと」
 それまで2回(1955年、1957年)開催されていた浅間火山レースで、ホンダはなかなか勝利をつかめなかった。これは諸説ある中の一説に過ぎないが、必勝を期すホンダが社内クラブや関連アマチュアクラブに、ワークスマシン(?)を供給したのではないか、との見方もある。ワークスマシンならば、市販車改造マシンに楽勝できるからだ。
「それじゃあ、クラブマンレースというのでみんな楽しみにしてるのに問題じゃないか、最初から来てるならいいけど途中でいきなり来るなんて……と始まったわけです。みんなが自分たちで一生懸命作ったクルマでやってるところに、なんで大メーカーのホンダが乗り込んできて、こんなことやるんだと。ほかの参加者たちが口々に言い始めまして、それから騒動が始まったわけですよ」
 本田さんによると、参加者たちの抗議は、まず車検を行っていた“わかさ会(当時の若手バイク商たちの集まりに持ち込まれたという。だが彼らには最終的な権限がないと分かり、結果として主催者の酒井文人(当時小社社長でMCFAJ初代理事長。故人)と、競技委員長の多田健蔵さん(戦前のスターライダーで、1930年に日本人として初めてマン島TTに出場。故人)が矢面に立たされた。
「決勝の前の晩ですよ。みんな公民館で前夜祭とかいって燃えてる最中でしたけど、ぼくと杉田のカズさん(杉田和臣選手。オートレース出身のライダーで、アサマ時代の強豪。故人)のふたりで、酒井さんと多田さんに強烈に抗議しましてね。選手みんなでストライキ起こすぞと。コースにトラックをぶちこんでレース開催を実力阻止してやるって。あのときは多田さんが泣きっ面になっちゃって、ちょっとかわいそうだったな(笑)。言うなれば担ぎ出されただけの人で、もうお年を召してらしたし、温厚な人でしたから」
 第2回浅間火山レース(1957年)セニアクラス優勝者である杉田選手は、レース出場者たちの親分(?)的な存在だったと言えよう。だが本田さんは弱冠23歳の“若造で、レースの実績もまったくなかった。
「杉田さんは前年度の優勝者で、名誉ある立場でしたよね。ぼくは、どちらかというと乱暴な坊ちゃんで、目立ってたのかな。みんなが尊敬してくれたのか嫌ってたのか分からないですけれども(笑)、ぼくも担ぎ出されたんですよ。それでカズさん(杉田選手)とぼくが選手の代表みたいになっちゃったわけですね。ひとつ言えるのは、ぼくが出るのはセニアクラス(351cc以上)で、ホンダが出てくるクラス(125/250/350cc)とは関係ない。損得の利害が絡んでないんですよね」
 台風17号の来襲により、日本列島が大荒れの天気になりつつあったクラブマンレース決勝前夜。本田さんと杉田選手、そして酒井と多田さんの4人による話し合いは、夜半まで延々と続いた。

■全日本クラブマンレースと八重洲出版■

 いわゆる浅間火山レ一スと初期の全日本クラブマンレース。開催されたのが同じ浅間高原自動車テストコース(主にバイクメーカーが共同出資して開設、運営)だったため、内容が混同される場合もあるようだが、ここで簡単に整理しておこう。
 1955(昭和30)年、1957(昭和32)年、1959(昭和34)年と、3回にわたって開催された浅間火山レースは、国内バイクメーカーが主体になったレースだった。メーカー同士の競争により、国産バイクが国際的な商品力をもつこと。それが最終的な目的だったのである。だが当時は日本経済も浮き沈みの激しい時期で(神武景気から鍋底不況への転落など)、多数のメーカーが参加するレ一スを毎年開催するのは困難だった。
 そのため1957年の第2回の翌年、1958年に開催される予定だった第3回浅間火山レースは延期になった。これを受けて独自にアマチュア主体のレースを開催しようと決断したのが、小社八重洲出版の社長だった酒井文人(故人)である。酒井らが奔走することでアマチュアのレース団体(MCFAJ)が結成され、メーカーの資金援助を受けながらも、基本的にはバイク愛好家が主体のレースが開催されたわけだ。
 つまり全日本クラブマンレースは、いち出版社が発案し、基本的にバイクメーカーの手によらず、アマチュア団体が開催したレースなのである。メーカー団体が主体になっていた浅間火山レースとは、その点で一線を画している。
 以下に酒井文人がクラブマンレース当時を回想して書いた文を引用したい。

−昭和33年の第3回浅間火山レースを中止すると正式に決まったのは、昭和32年の11月も終わりかけた、束京にも珍しくか雪が舞った日だったが、私は秘かにこの日を待っていたのだった。おそらく、今年は中止になるであろう−そうすると、浅間高原自動車テストコースには夏草が生えることになり、国産車の性能向上のために建設したという、錦の御旗も色あせてしまうではないか−というのが私たちの意見であった。当時、私は34歳の血気盛んな駆け出し時代で、小社の社長となりスタートして半年ほど過ぎたころで、社員も4〜5名だった。(中略)
 出場選手は、最初80名ぐらいを予想していたが、次第に人気は上昇して100名を超えた。なかには在日外人ライダーのエントリーもあり、国際色も豊かになった。尻上がりに人気が上がったのは、開催要項のなかで、出場資格をクラブマンに限定したことであった。したがって、第1〜2回のメーカー対抗の浅間レースに出場したライダーには出場資格がなかった。その代わり、彼らはエキジビションとしての国際レースには出場できることにした。そして、このレースだけは、ファクトリーマシンの出場も許可することにした。(中略)
 8月24日は朝から台風17号の襲来で大荒れになり(中略)一時はレースを中止する以外に方法はない−とも考えた。(中略)これだけ一生懸命やってきたのに、「天はわれに味方しなかったのか」と男泣きしたい心境であったが、豪雨でも開催してほしい−という選手団の意向もあり、開会式を始めた。(中略)
 泥んこのコースを走り抜き、表彰式に集まった若者の顔には≪男の花道》を踏破したすがすがしさがあった。そして「来年も浅間で会おう!」を交わし合う彼らの姿を見ていると、7ヵ月問の辛苦が夢のように≪ほぁ−≫と抜け、感慨無量の男涙を、私は抑えることができなかったー(以上、小社刊『浅間からスズ力まで』1990年初版より、原文ママ)。

1958年というと大卒初任給が1万円前後、米1升が100円少々、発売されたばかりのインスタントラーメンが35円だった時代の話である。ホンダ・ドリームC71(4サイクル2気筒250cc)は17万2000円。ヤマハYA−2(2サイクル単気筒125cc)が12万5000円。この年に発売されたホンダ・スーパーカブC100(4サイクル単気筒50cc)が5万5000円。
 普通の勤め人が自家用パイクをもつのは難しく、多くは会社や商店の業務用だった時代である。
 そんな時期にアマチュアライダーのレースが計画実行され、多くの愛好家の参加で成功をみたことは、日本のパイク史、レース史を語るうえでやはり特筆すべきことだろう。
 酒井らが結成の音頭をとったMCFAJには、ご承知のとおり現在も多くのアマチュアライダーが参加。ロードレース、モトクロス、トライアルで熱戦が展開されている。その端緒が1958年の第1回全日本クラブマンレースだったのだ。

本田和夫(ほんだかずお)さん。1934(昭和9)年、東京生まれ。目黒区の中心部の土地を所有していた資産家の息子であり、幼少時からバイクやクルマに接して育つ。1958(昭和33)年にアサマで開催された第l回全日本クラブマンレースに出場し、セニアクラスで優勝、オープンクラスで2位を獲得。1959(昭和34)年、日本人として初めて米デイトナのレースに自費参戦。20代半ばの時期にトーハツの輸出権を獲得し、アメリカに駐在しながらレースに出場。1962(昭和37)年、1963(昭和38)年と、デイトナの125ccクラスで2連勝するなど、内外のレースで活躍した。 1958(昭和33)年8月、アサマで開催された第1回全日本クラブマンレース、国際オープンクラスを走る本田和夫さん。マシンはトライアンプTR6(4サイクル2気簡650cc)だ。
「練習中に左足首を骨折してしまいまして、しかもレース中にも落っこちて(転倒して)クラッチレバーを折っちやいましてね。それでもクラッチなしで右足一本で押しがけして、2位でゴールしたんだから、根性があったんでしようねえ(笑)」。前車の泥で汚れたゴーグルは外している。車体とのバランスから、本田さんが長身であることが分かるだろう。
第1回全日本クラブマンレースの決勝前、オールジャパンモーターサイクルクラブ(東京・立川基地の米兵が結成)の仲間であるビル・ハント選手(ゼッケン9)と。本田さんはハント選手の右、ジェットヘルメットの人物。「伊藤史朗がアメリカから持ってきたヘルメットですよ。ほら、ここの白い枠。ここに日の丸が付いてたんですね。ぼくが日の丸なんて邪魔だから消しちやつたので、この白い枠だけが残ってるわけ」 アサマのコース付近で撮影された弱冠23歳の本田和夫さん。アメリカ製の丁シャツ(当時の日本には野暮ったいアンダーシャツしかなかった)や、これまた珍しかったロレックスの腕時計が“坊ちやん”らしいところ。革ズボンはイギリスのルイス製だ。「開会式やら閉会式やらに出るのガ好きじやなかったせいもあって、ぽくの写真ってのは少ないんですよ。当時から“幻の男”だったわけです(笑)」
1958(昭和33)年8月24日。台風接近による土砂降りの雨の中で開催された第1回全日本クラブマンレース。ウルトラライトウェイト(125cc)、ライトウェイト(250cc)、ジュニア(350cc)、セニア(351cc以上)、旧車、国際オープン(排気量無制限、ワークスレーサー可)の6クラスに、当初は予定になかった「クラブマン模範レース」が加えられた 本田さんは69歳になる現在もビジネスで諸外国に出かけ、連絡のためコンピュータを使いこなしている。「2年ぐらい前、アイルランドのトミー・ロブ(1960年代のホンダのGPライダー)に電話をかけたら、電子メールのやり方を覚えろよって言われましてね。息子にノートパソコンを買ってきてもらって、マニュアルも読まないで2−3時間で覚えましたよ。オートバイでも何でも、覚えるのは早いほうですねえ。若いころから機械的センスとか反射神経には恵まれているのかもしれません」


                                   Menu へ