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八重洲出版発行の「別冊モーターサイクリスト」(2003年9月〜2004年2月号)に掲載

                       【文と写真】 東 信亨

【第3回】優勝、そしてデイトナ参戦へ

資産家の息子として自由奔放に育った本田和夫さん。'58(昭和33)年の第1回全日本クラブマンレースに参加したが、練習中の不運な事故で足を骨折。さらに参加車両を巡る騒動の当事者として、一般出場者の代表格にまつりあげられてしまった。レース前夜の混沌とした空気の中でも、弱冠23歳の本田さんは自分の意志を貫いていったのである。

玉虫色(?)の決着
 第1回全日本クラブマンレース('58年)の決勝前夜。規則違反の可能性のある車両の出場撤回を求める一般参加者側と、レース主催者側との話し合いは、深夜にまで及んでいた。簡単に言うと、一部のホンダ系クラブが持ち込んだ車両が市販車改造マシンの域を超えており、いわゆるワークス(工場)レーサーの可能性が高いと指摘されたのである。
 一般参加者側の代表になったのは、杉田和臣選手(オートレース出身の強豪。'57年の第2回浅間火山レースのセニアクラスでメグロに乗り優勝。故人)と、弱冠23歳の本田和夫さんのふたり。主催者側は、酒井文人(当時小社八重洲出版社長で、MCFAJ初代理事長。故人)と、競技委員長の多田健蔵さん(戦前のスターライダーで、戦後もバイク界の名士だった人物。故人)のふたりだ。
「前夜祭だから、みんなで出ようっていうのに、『オレはそんなの出ないよ』ってこたえて、酒井さんと多田さんに詰め寄ってね。あのときの、主催者側のあわてふためきようっていったら……」(本田さん、以下同)
 直接対峙した4人中、現在では唯一の存命者となった本田さんの見方はこうだ。
「杉田のカズさんとぼくで、『ホンダの変なクルマが走るんなら、ほかの参加者はレースをボイコットするぞ』と強く抗議したわけですね。でも、酒井さんも頑として聞かなかった。おそらくは、コレ(お金)があったからでしょうけど」(本田さん、以下同)
 この騒動に関してはさまざまな憶測が存在するのだが、当時から一部で語られたのは、ホンダがレース主催者に多額の(?)お金を渡し、特別の配慮を依頼していたのではないか……という説である。それまでアサマでなかなか勝てなかったホンダが、一般市販車および改造車で争われるクラブマンレースにワークスマシンを送り込み、必勝を期したのではないかというわけだ。だがメーカーが特別製作したワークスマシンは、クラブマンレースの精神に抵触する。そこを“心付け”で特別扱いさせようとしたのでは……と。
「誰かから聞きましたけど、そうとうお金が動いたらしいですね。もちろん憶測ですけども。ずーっとお偉いサンの、雲の上の話なので、我々ペーペーには知り得ない話ですよ」
 本田さんも、確証のない話であることは認めている。だがメーカー主導ではなく、アマチュアライダーが主人公のレースに夢をかけた一般参加者たちは、怒りの矛先を納めることができない状態だったのだ。
「だけどね。ぼくらも乗りたい気持ちが半分、ボイコットという頭が半分で騒いでいたわけですよ。本当にレースが中止になったら、それも困るなぁと(笑)。酒井さんの側にすれば、自衛隊の楽隊も来てるし、自民党の代議士(大会総裁を務めた衆議院議員・森 清さん。故人)も来て、観客もみんな(レースを期待して)騒いでる。もしもボイコットでレースが中止になったんじゃ、大変なことになるわけですよ。ホンダのクルマだけで走ったら、レースにならないですからね」
 つまり一般参加者も主催者も、双方が痛しかゆしという状況だったわけだ。
「それじゃあというんで、妥協策として『模範レースにしましょう』と、プログラムにないレースができちゃた。ぼくらの『あんなのを走らせるならオレたちは出ない!』という主張が通って、酒井さんが折れて、あのクルマは引っ込めて模範レースにするとなった。それならいいでしょ、と思いましてね」
 主催者側の解決案はこうだった。ワークスレーサーではないかと疑惑をもたれたマシンは、急遽設定した「クラブマン模範レース」という特別枠で走らせ、125/250/350・のクラブマンレースからは除外する。ただし車両無制限の国際オープンクラスには出場させる。これで双方の顔が立ったわけだ。
「あのときはクラブマンレースといいながら、メーカーの色が非常に強かったですよ。メグロ、ホンダ、ヤマハ、クルーザー(昌和製作所)、たしかポインターやスズキもいたのかな。表はクラブマンだけど、実質はメーカーチームに近かったですからねぇ」

セニアで見事に優勝
 前夜の騒動が一応の決着をみたとはいえ、第1回全日本クラブマンレース決勝日の8月24日もドラマは続いていた。台風17号の影響による土砂降りの雨で、アサマの火山灰のコースは泥の海のような状態。濃い霧も出て視界不良の個所が多く、レース開催さえ危ぶまれるほどだったのだ。
 参加クラブは45、出場選手は104名。彼らからの「ぜひレース開催を!」という熱意もあって、予定の時間を過ぎた中で開会式が行われた。選手宣誓は、前夜の抗議の主人公のひとり、杉田和臣選手である。もうひとりの主人公の本田さんはというと……。
「もともとぼくはこういう人間で、人が大勢集まるところが苦手でね。開会式でクラブの旗をもってとか、ああいうのが大嫌いなんですよ(笑)。だれかが、ぼくの代わりに旗もちをやってくれたみたいですねぇ」
 こうして土砂降りの冷たい雨の中、第1回全日本クラブマンレースはスタートした。ウルトラライトウェイト(125・)、ライトウェイト(250・)とプログラムが進み、いよいよジュニア(350・)とセニア(351・以上)の混走レースの開始である。
 出場選手をながめると、セニアはトライアンフTR6(4サイクル2気筒650・)の本田さん、ジュニアはBSAゴールドスター(4サイクル単気筒350・)の高橋国光選手(後にホンダワークスに加入し、日本人として初めて世界GP優勝を果たす。60代になるまで4輪レースで活躍)が優勝候補だった。
 セニア17台、ジュニア6台は、数分の時間差をおいてのスタートとなった。断続的に降り注ぐ雨の中のレースで、先発スタートのセニアは、最初から本田さんのトライアンフが大きくリードを奪う展開になった。
「なにしろクルマの性能がぜんぜん違いましたからねぇ。ぼくのクルマは、カナダやイギリスから輸入したスピードキットでチューニングしてありましたので(詳細は前号)」
 もちろんパワーを御するテクニックがあればこそのリードだった。当時の「モーターサイクリスト」誌のレースレポートを読んでみても、コーナーごとにマシンをドリフトさせカウンターを当てる本田さんのライディングは、抜きん出て高く評価されていたのだ。
「カーブごとに、完全にクルマが横を向いて、逆ハンドルを切って飛んでくというコースだったですからね。レースらしきものではあったけれども、あれは異質なコースですよ。ロードレースじゃないですからね。まず舗装されてない。そして普通の泥じゃなく、火山灰でしょ。雨が流れると、わだちどころじゃない状態なわけですよ。ドロドロのザクザクで、どっちいっちゃうか分からない。次の周回では、またコースの状態が変わっちゃう。足をとられたり、転んだり滑ったりは当たり前。今のモトクロッサーがあったら、それがいちばんよかったんじゃないですかねぇ」
 マシンの性能が群を抜き、テクニックも出場者中の最高レベルである。左足を骨折していたハンデもありながら(詳細は前号)、本田さんはスタートしてから一度もトップの座を譲ることなく、コース5周(46.855・)を走り抜いた。完全な独走優勝である。
 なお後続のジュニアクラスでも、レース前の下馬評どおり、弱冠18歳の高橋国光選手が優勝。その後のレース界をリードする名ライダーふたりは、第1回全日本クラブマンレースから羽ばたいていったのだ。
 その後、急遽設けられたクラブマン模範レースや、旧車クラスのレースをはさんで、本田さんはもうひとクラス、国際オープンクラスにも出場した。マシンは排気量無制限で、ワークスレーサーも出場可能。ライダーにしても、浅間火山レース(バイクメーカーが主体のレース)に出場した経験のあるワークスライダーも参加できた(アマチュアのためのクラブマンレースには、浅間火山レース経験者の出場は許可されていなかった)。
 国際オープンクラスは、意味合い的にはエキジビションレースだった(アマチュアのクラブマンレースのほうがメイン)。しかしホンダやメグロなどのワークスマシンが出場し、各社のワークスライダーや、米軍関係者などの外国人ライダーも出走する国際オープンが、事実上のメインイベントだったことは否定できない。なにしろ、もっともスピードの速いクラスなのだから。
 本田さんは国際オープンにも、セニアと同じトライアンフTR6で参加した。チームメイトは米軍軍属のビル・ハントさん(やはりマシンはトライアンフ650)。プロライダーではなく当時すでに40歳近い年齢だったが、バイク先進国のアメリカ出身で、チューニングの知識も豊富である。本田さんとハントさんは、国際オープンの優勝候補だった。
 メーカーの威信をかけられる唯一のレースだけに、国際オープンには名手がそろっていた。まずは若き天才ライダーとうたわれた伊藤史朗選手(当時18歳。ヤマハワークスで世界GPを走り、トップクラスの活躍を見せた。故人)と、望月 修選手(2&4輪レースで活躍後、モータージャーナリストとして活動。故人)のふたりが、バルコムトレーディング(当時のBMWやBSAの輸入元)から貸与されたBMW R69(4サイクル2気筒600・)で出場。メグロ(4サイクル500・)には古豪の杉田和臣選手(当時33歳)や折懸六三選手(後にホンダワークスなどに参加。現在はバイクショップ経営)がいる。昌和製作所のクルーザー(2サイクル250・)には、長谷川弘選手(後にヤマハワークスに参加し世界GPで優勝経験もある)が乗った。
 そして事実上ホンダワークスであるホンダスピードクラブからは、同クラブ主将の鈴木義一選手('57年の第2回浅間火山レースのジュニアクラス優勝者。故人)、谷口尚巳選手、秋山邦彦選手(故人)、田中健二郎選手と、後に世界GPに出場するホンダ社内ライダーたちが出場。排気量は305/250・(いずれも4サイクル2気筒)と小さかったが、ホンダのワークスマシン(?)だけに、そのスピードはあなどれないものだった。

デイトナで新たな挑戦へ
 雨もほぼあがった中、第1回全日本クラブマンレース最後の競技として、国際オープンクラスがスタートした。出走は全18台。コース10周(93.610・)の長丁場である。
 1周目、トップで飛び出したのは伊藤史朗選手。これをビル・ハント選手が追う展開になり、2周目でハント選手が先行。本田さんはやや出遅れる格好になった。
「スタート直前に、チームメイトの臼田健三くん(このレースは負傷で出場中止。後にスタントマンとして有名になる)が突然ぼくのプラグを見てくれたんですけど、キャップをちゃんと締めてなかったんですね。スタートしてすぐに、確か左側のシリンダーが『ボボボボボッ』と(点火しない状態に)なって、しょうがないからキャップをつかんで、走りながらプラグに差し込もうとしたんです。でも雨で手袋が濡れてましたので、ビリビリビリビリ、このへん(心臓のあたりを差して)まで(電気が)きましたよ(笑)。それをまた差し込んでいったわけです」
 雨があがったとはいえ、路面は泥の海のままである。その中を、本田さんは逆ハンを切りながら豪快に追い上げ、5周目には3位にまで浮上していた。トップのハント選手、2位の伊藤選手を追っていたのだが……。
「50R(コントロールラインから約2・先の左コーナー)で落っこちて(転倒して)しまったんですよ。ドロドロの路面に足を取られちゃいましたね。ちょっと飛ばし過ぎ? そうかも知れませんねぇ。いつもなら押さえられたかも知れませんが、左足を骨折していたので無理でした。クラッチレバーも折れちゃって、それをドロドロの火山灰の上で右足一本で押しがけして飛んでったんですから、ぼくも根性があったんでしょう(笑)」
 転倒やコースアウトは本田さんだけではなかった。たとえばBMWに乗る伊藤史朗選手も、重い車体とアールズフォーク特有の操縦性に手を焼いたのか、レース中に何度もバランスを崩していた。トップのハント選手にしても危うい場面はあったのだ。それだけコースの路面状況が悪かったのである。
 負傷した身体、さらにクラッチレバーを失ったマシンで、再び追い上げを開始した本田さん。先行していた伊藤選手が転倒し、マシン不調を起こしたこともあり、ついに2位に躍り出る。残るはトップのハント選手だけだが、それまでに築かれたリードは圧倒的に大きかった。レースはハント選手が独走優勝。2位は本田さん、3位はホンダ(305・)の鈴木義一選手だった。
「あのとき、ハントのクルマはガソリンが空っぽに近い状態でした。もう1周あったら、あるいは転倒していなかったら、ぼくが優勝していた可能性は十分あったでしょう。まぁ、アサマのレースは腕もあるけど、根性のレースですよね。テクニックとかじゃなく、根性があって、クルマが壊れなかったヤツが勝ち。ぼくはクルマも壊れなかったし、根性も馬力もあるほうだし、それがラッキーだったんじゃないかな。多分に運もありますよね」
 セニアクラス優勝。国際オープンクラス2位。この第1回全日本クラブマンレースは、ほとんど本田和夫さんのために開かれたようなものになった。クラブ同士のポイント争いも、本田さんやハントさんが所属するオールジャパンモーターサイクルクラブ(米軍立川基地の米兵が設立したクラブ)が優勝。本田さんとハントさんは、日本で有数のライダーとして名をはせることになったのだ。
「面白かったなぁ。それまでぼくは子供扱いされていたんですよ。ところがアサマで勝ったら周囲の評価が急に変わった。凱旋将軍になった気分でしたね。杉田のカズさんもそう。ぼくよりぜんぜん年上だし、ぼくをいじめるようなこともあったんです。でも、ぼくがレースで勝っちゃった(杉田選手は国際オープンでリタイヤ)。そしたら言葉づかいも変わって、一人前に扱ってくれましたからね。その点、バルコムのリンナー(ハーマン・リンナーさん。ドイツから派遣されていたマネージャーで、故・伊藤史朗選手をBMWで世界GPに出場させたりもした。故人)は、ぼくを高くも安くも評価しなかったけど、レースの前後で態度が変わりませんでした。そういうところは日本人と違っていましたねぇ」
 レース終了後、本田さんの父親の四郎さんの主催で、優勝記念パーティが開かれた。
「目黒の雅叙園(東京の有名な総合宴会場)に100人ぐらいを呼んだんですかねぇ。わかさ会(当時の若手バイク商の集まりで、クラブマンレースの役員を務めた)の皆さん、それに主催者のモーターサイクリストの酒井さんたち、そして選手も呼んでね。伊藤(史朗)や望月(修)くんも来ましたよ。メーカーの人間は呼びませんでしたね。呼ぶ必要がありませんから。あのときはみんなで大騒ぎして、楽しかった思い出がありますよ……」
 前述のとおり、クラブマンレース主催者で小社社長だった酒井文人と、本田さんは現場で激しいやり合いを演じている。何らかのわだかまりはなかったのだろうか。
「どうでしょうねぇ……。酒井さんにしてみれば、ぼくのような若造に引っかきまわされて、面白くなかったとしても不思議じゃありませんよね。でも酒井さんも大人だし、ちゃんとパーティにも来てくださいましたよ」
 あらたまった態度で本田さんは続けた。
「全日本クラブマンレースなんて、酒井さんはよくやりましたね。今ならサッカーのワールドカップを呼ぶような、とんでもない大事業でしょう。代議士を引き連れてきたり、セスナかなにかで映画のフィルムを撮らせたり、自衛隊の楽隊を連れてきたりね。お金だけじゃ来ないものですから。大変なことですよ。強引なほどの精力家でしたよねぇ(笑)」
 '58年の全日本クラブマンレースで大いに名を売った本田さんは、さらにケタ外れの計画を発表した。アメリカはフロリダ州のデイトナ(東海岸の保養地)で、毎年春に開かれている一大レースイベント、デイトナスピードウィークに参戦することにしたのである。それも完全に自費で、独力での参戦である。
 外貨の持ち出しが厳しく制限され、一般人の海外渡航が非常に難しかった時代。まったくの“遊び”で日本人がアメリカに長期滞在するというのは、異例中の異例だった。
「アサマで勝って、次は'59(昭和34)年のデイトナに出ようということになりました。父はぼくに、なんでも好きなことをさせてくれて、いくらでもお金を使わせてくれましたからねぇ(笑)。レース用のクルマはアメリカの現地で買う予定だったんですよ。そこにホンダさんから『マシンを貸与するから乗ってくれ』という話が入ってきましてね。なにかの用事があったついでに、ぼくの父と一緒にホンダの本社に行って、藤沢武夫さん(当時のホンダ副社長)にお会いしたんですよ」
 125・のマシンを貸与するという約束をもらった24歳の本田さんは、デイトナスピードウィーク参戦のためアメリカへと旅だった。だがデイトナでも、いくつかの騒動が待ち受けていたのである。

■「クラブマン模範レース」騒動について■
 本文中にも本田和夫さんの談話として登場するが、第1回全日本クラブマンレースでは、マシンの出場資格をめぐって争いが起きている。立場と見方によってさまざまな解釈ができる事件だが、一方の当事者だった同レース大会会長の酒井文人(当時小社社長)の文を、以下に引用してみたい。

──このように、私は国産メーカーを始め、部品関連メーカーにも賛助金を依頼して歩いたが、行く先では思いもよらない皮肉を言われることもあった。
「酒井さんが、ホンダの藤沢さん(筆者注:当時のホンダ副社長)の前でニコリと笑うと、50万でも100万でも出してもらえるのだから、我々のようなメーカーは遠慮しておきましょう──」。ホンダの藤沢武夫氏は、前に述べたように、フェアな考えで、何事にもひとつの筋をとおす人物である。私ごとき若造が彼の前でニコリと笑ったぐらいで、賛助金をポンと出してくれる経営者ではなかったことを明記しておきたい。(中略)
 資金集めと、クラブ連盟の結成準備と、競技規則の審議とは、並行して進行してきたが、なかでも競技規則はアマチュアを基準にしなけれらばならないため、さまざまな意見が出て、何度か激論を交わしながら最終決定をみた。しかし、いよいよ開催してみると、経験のない者の弱さから不備な点が多く、レース運営に支障をきたすことになり、レース前日の車両検査では紛争が起き、荒れに荒れた幕開けとなってしまった。(中略)
 前に述べた車両検査の際の紛争というのは、あらまし以下のようなことから発生した──「クラブマンレースには工場レーサーは出場できない」という規定になっているが、ベンリイ125、ドリーム250、305の各車のなかに、工場レーサーらしい疑いのマシンが10数台ある……という選手サイドからのクレームから、紛争が次第にエスカレートした。そのころの「工場レーサー」といえば、前年の第2回レースに出場したマシンしか、一般には見るチャンスがなかった。ホンダ系の前車は、この第2回に出場した「工場レーサー」によく似ていて市販車ではない──クラブマンは市販車で出場する規定であり、マーケットで入手できないマシンと一緒に競走することには納得できない──という抗議であった。
 この抗議には車両委員を始め、大会役員もお手上げとなり、結局大会会長の私が、出場を許可するかどうかの結論を出すという場面を迎えてしまった。こういう事態になったのは、もちろん、私の責任であるが、「酒井はホンダから多額の金をもらったから、ホンダに甘いことをしている……」という抗議には、私も体を張ってでも対抗する決意だったが、一連のホンダ車の改装には当時のクラブマンの資力と技術では及ばない面が見受けられたので、このマシンだけを別にして「模範レース」という名称のもとに、プログラムを一部変更して開催することになった。
「工場レーサー」紛争事件は、日本のモータースポーツの黎明期に発生した特殊な事件であったが、前述のような結論に至るまでには、延々7時間もかかった──
(以上、小社刊『浅間からスズカまで』'90年初版より、原文のママ)。

 ホンダの藤沢武夫氏、そして小社の酒井も鬼籍に入り、ことの真相を知る当事者はいなくなってしまった。さまざまな面で未成熟だった黎明期の日本レース界。酒井も述べているように、ルールの整備、言葉の解釈、現場の運営など、多くの点で課題があったのかも知れない。読者の方々はどうお考えになるだろうか。

本田和夫(ほんだかずお)さん。'34(昭和9)年、東京・目黒区の資産家の家に生まれる。'58(昭和33)年、第1回全日本クラブマンレースのセニアクラスで優勝、オープンクラスで2位を獲得。'59(昭和34)年、日本人として初めて米デイトナのレースに自費参戦。20代でトーハツの輸出権を獲得し、アメリカに駐在しながらレースに出場。'62(昭和37)年、'63(昭和38)年と、デイトナの125・クラスで2連勝。69歳の現在も現役バリバリのライダーであり、遠方まで足を伸ばすことも多いそうだ。写真のBMW R100Rはごく最近までの愛車で、現在は同R850Rに乗り換えている ドリフトに逆ハンで、アサマの火山灰のコースを飛ばす本田和夫さん。リーンアウトの姿勢を保って、足を出さずにバランスをとる走法のビル・ハント選手とは、好対照と評されていた。なお故・望月 修さんは第1回全日本クラブマンレース出場者中、目立って速かった選手としてハント選手、伊藤史朗選手、本田さん、高橋国光選手の名を挙げている。「ぼくの後ろ、土手に座っているのは西山秀一さん(当時MCFAJ事務局長)ですよ。コース係かなにかだったんでしょう」
クラブマン模範レースに出場したホンダのマシン。たしかに車体まわりの造作などは、素人芸とは思えないようにも見られる。当初はクラブマンレースに出場する予定だったが、本田さんら一般参加者の抗議により別枠のレースを設け、ワークスマシン(?)だけの“模範レース”にしたわけだ '58(昭和33)年の第1回全日本クラブマンレース、セニアクラスで本田さんが優勝した瞬間。豪雨は去っていたものの、路面状況がかなり悪いことが分かる。なおセニアというと一般には“500・以下”という意味なのだが、この第1回全日本クラブマンレースでは“351・以上”という解釈になっていた。だから本田さんのトライアンフTR6(650・)を始め、BSAスーパーロケット(650・)など、500・を超えるマシンが出場しているわけだ
国際オープンクラス決勝を走る本田さん。クラッチレバーが不自然な角度であることから、5周目の50Rで転倒した後の写真だと推察される。「あのコースはジャンプがあって穴が空いてるという、モトクロスコースみたいなところですよ。それも泥じゃなくガサガサの火山灰でね。そこへ4気筒の精密な機械をもってきたり、BMWみたいに横によけいな出っ張りがあったりしたら損ですよ。トライアンフみたいな、大ざっぱなクルマがいちばんよかったんですね(笑)」 国際オープンクラスの表彰式。中央は優勝のビル・ハント選手、左が2位の本田さん、右が3位の鈴木義一選手(ホンダスピードクラブ主将)。車両オープンの国際クラスには、ホンダやメグロのワークスマシン(?)も出場した。「ホンダの変なクルマが国際クラスで優勝したら、さすがホンダの工場レーサーだって感心するでしょうけど、結局はぼくやハントには勝てなかった。ざまあみろって気分でしたね」
第1回全日本クラブマンレース決勝から一夜明けたアサマで。左が本田さん、右がチームメイトのビル・ハントさん。宿舎にしていた養狐園(アサマのコース近くにあった旅館)の裏手である。手前はハントさんのマシン(トライアンフ)だが、シートがくの字に折れているのが、コース状況の悪さを物語っている。ハントさんはその後にホンダワークスへ加入し、マン島TTを走っているが、そのあたりの事情は後に詳述する予定


【第4回】トーハツの輸出権を獲得

'58(昭和33)年の第1回全日本クラブマンレースで優勝した本田和夫さん。その翌春には個人の立場でアメリカに渡り、デイトナスピードウィークに日本人として初めての参戦を果たす。24歳の若者の冒険は、その後の日本バイク界にも、小さくない影響を与えることになったのである。

デイトナに初挑戦
 1959(昭和34)年。この年は、ホンダが日本のメーカーとしては初めて、イギリスのマン島TTレース(当時は世界GPの一戦)に出場した年として記憶されている。
 だが海外レースへのチャレンジという意味では、もうひとつ忘れてはいけない事実があるのだ。本田和夫さんが、自費でアメリカに渡り、日本人として初めてデイトナスピードウィーク(毎年の初春、フロリダ州の海沿いの保養地・デイトナで開催される大レースイベント)に参戦したことである。
 本田さんの偉業が半ば埋もれた形になっているのは、本田さん自身があまりマスコミに登場しようとしなかったせいもあるだろう。もうひとつは本田さんが、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキという現存4メーカーに、深く関わっていなかったのも原因ではないか。歴史とは、往々にして“勝者”の手によって書かれるものだからだ。
 現在でこそ海外渡航はそう難しいものではなくなり、デイトナレース観戦ツアーなどといった企画も存在する。だが'50年代の日本で、仕事のためならともかくバイクレースなどという“遊び”を目的に、一般人がアメリカに長期滞在するのは不可能に近いことだった。手続きも難しかったし、外貨の持ち出しも厳しく制限されていたからである。
「もう時効でしょうから話せますけどね。当時は大変だったんです。あのころは、顔がきく人がきちっとやれば、太鼓判だなんていって、楕円形の大きな『許可』というハンコを押してもらえましてね。どうにかなっちゃったんですよ。地獄の沙汰も何とか、でしょうねぇ。ぼくの父(四郎さん、故人)の七光りということですよ……」
 ホンダのマン島TT遠征も、“レース出場により技術蓄積を行い産業発展に寄与する”という大義名分を設けていても、なおさまざまな困難があったと言われている。ましてや当時24歳の“若造”(本田さん)が、“遊び”で海外渡航するというのは、フツーの手段で実現できるはずもなかったのだ。
「ぼくが出場した'59年は、デイトナビーチを使った最後の年なんですよ。ですから日本人でデイトナビーチを走ったのは、ぼくひとりだけでしょうね」(本田さん、以下同)
 ご存知の方もいるだろうが、かつてのデイトナのレースは、一般公道も使用したコースで開催されていた。コースの一部はデイトナの砂浜(ビーチ)だったのである。現在の、急角度のバンクを含んだ壮麗なクローズドコースは、翌'60年以降のものなのだ。
「でもね。ぼくは失格を食っちゃったんですよ。現地でハーレーのKR(現在のスポーツスター系の先祖であるKモデルのレーサー)を買って、(排気量の)大きいクラスに出ようとしたわけです。ところがAMA(アメリカのレース統括団体)のレースというのは、前の年にいろんなもの(ロードレースやダートトラックレースなど、いろいろな種類のレース)に全部乗っかって、ポイントを稼いできて初めて、大きいレースに出られるんですよ。ぼくはその年が初めてですから、大きいのには出られなかったというわけですね」
 本田さんはハーレーダビッドソンKRでのレースをあきらめ、パリラ(イタリアに存在したバイクメーカー、4サイクル単気筒ハイカムOHV)の175・を買い、小排気量クラスに出場することにした。
 現地でのトラブルは、大排気量のレースに出られなかったことだけではない。
「ホンダがね。ぼくに乗ってくれってクルマを出してくれたんですよ(125・のマシンを貸与するという約束。詳細は前号)。ところがなにかの手違いなのか、レースが終わってからクルマが届いて、なんだと思って木箱を開けてみたら、荷かけが付いたベンリイ(125・の実用車)が来ちゃったわけですよ。そんなソバ屋の出前もちが乗るクルマで、レースなんかできるはずがないでしょう?」
 前々号と前号で述べたが、本田さんは第1回全日本クラブマンレースの現場で、ホンダ系チームのマシン(ワークスレーサーの疑いがあった)の出場を阻止しようと抗議を行っている。ホンダにしてみれば、あまり面白い話ではなかったはずだ。もしかしたら、それに対する意趣返しだったのだろうか?
「どうでしょう。意図的ではないと思いますが、何かあったんでしょうかねぇ……」
 筆者の問いかけに、本田さんは腑に落ちないという表情を浮かべはしたものの、ものごとを断定的に語ることは避けた。
 以下は筆者の想像でしかないが、マシンの到着が遅れたのは、ある程度は仕方のないことだったかも知れない。しかし公道使用とはいえアメリカを代表する大レースに、まったくのスタンダードバイクを送ってきたのは、なんとも解せないところだ。当時のホンダにはアサマを走ったレーサーがあり(すでに廃棄されていたか?)、レースの経験も積んでいた。レースの現場にベンリイ標準車を送りつけることがどういう意味をもつか、分からなかったとは思いづらいのである。
 結果から言うと、'59デイトナでの本田さんは、特筆すべき戦績を残してはいない。しかし本田さんのデイトナ挑戦は、その後の日本バイク界に影響を与えることになった。

メグロ社長からのテープ
 戦前の幼少期から英語を学び、戦後の青春期には日本に駐留する米兵たちと交遊していた本田さん。言葉にはまったく不自由がなく、物おじするような性格でもない(?)。生まれて初めてのアメリカでも、本田さんは持ち前の行動力を発揮していたようだ。
 デイトナ(北米大陸の東海岸側の南部)でのレースを終えた本田さんは、ハーレーダビッドソンに乗り、アメリカ大陸横断ツーリングを敢行している。
「レースの後、ペンシルベニア州(東海岸側の北部)のフィラデルフィアにいたんですが、ハーレーのデュオグライド(初めてリヤサスを備えたモデル)を買って、それでカリフォルニア(西海岸側)まで乗っかっていったんですよ。スタートするときは、ぼくのハーレー、ビンセント(イギリス)、BSA(同)、マチレス(同)かなにかという4台が一緒だったんです。それが、いちばん最初にビンセントがダメになって(故障して)、その次がBSA、その次にマチレスかなにかがダメになりましてね(笑)。あのころ大陸横断ができるクルマっていうと、ハーレーの1200か、またはBMWのツインしかなかったんですよ。道がけっこうよかったでしょう。今みたいなインターステーツ(各州を超えて伸びる高速道路)はなかったんですけど、オマワリもいなかったし、飛ばせましたからねぇ」
 おそらく当時のアメリカ人でも、ある程度以上の資力と時間と経験がなければ、バイクによる大陸横断などは不可能だったろう。ましてや24歳の日本人が、単身でアメリカを長距離ツーリングするというのは、ちょっと信じがたいほどの冒険だったはずだ。
「ぼくのいとこがシカゴ(イリノイ州、北米大陸の中部)におりましたから、その家に泊まって、それからずーっと下(南)に降りていって、メキシコの国境、エルパソ(テキサス州、アメリカ最南部)に行き、それからカリフォルニアに行ったんです。ところがほうぼう遊んで立ち寄りをしたので、乗り込む予定の船を逃がしちゃいまして(笑)、またハワイに寄って、飛行機で帰国しました」
 本田さんのアメリカ滞在中の話の中に、戦後の日本バイク史を語る上で、とても興味深いエピソードが飛び出してきた。
「メグロにかんして、ちょっと面白い話があるんですよ。ぼくにエージェント権を与えるから、アメリカに売り込んでくれと、メグロの社長の村田延治さんから言われていたんです。当時のメグロはユダヤ人の小さな会社にエージェントをやらせる予定だったが、その会社がぜんぜんクルマを売ってくれない。だからぼくに売ってくれないかと」
 本田さんの父親の四郎さんと、メグロ創業社長だった村田延治さん(故人)は、とても親しい間柄だったという。本田さんも幼少期から、その様子を見てきたのである。
「父と村田さんは『エンちゃん』『シロウちゃん』と呼び合う仲でしたからね。なにがきっかけで親しくなったのかは存じませんが、家もすぐ近くでしたし、昔からの付き合いですよ。その村田さんから、アメリカにいるぼくのところに録音テープが届きましてね。手紙を書くよりも早くて確実だったんですよ。あのころはカセットテープなんかなくて、長いテープ(オープンリール)です。村田さんとぼくの父とふたりで『和夫さんお願いしますよ、メグロが売れるように、なんとかやってください』って話をしているわけです」
 筆者はそのテープの内容を聞かせてもらうことができた。40年以上も前のものとは思えない良好な音質にも驚いたが、日本バイク産業史の偉人である村田延治さんの肉声には、なにより深い感動を覚えた次第である。
 テープの内容を詳述する紙幅はないので簡単に記すが、アメリカのバイク市場の様子、対米輸出を始めたばかりのホンダやヤマハの動向、メグロ車のアメリカ市場での可能性などを、当時60歳近い村田さんが息子のような年齢の本田さんに対し、とても低姿勢で質問しているのだ。質問の中身は、正直に言って今なら中学生レベルと表現してもいいほどの、驚くほど初歩的なものである。
「聞いてみればお分かりでしょう? 日本のメーカーは海外の事情について、まったく知らなかった。本当に手探りでしたね。メグロといえば、当時の日本では(大型バイクにかんして)リーディングカンパニーですよ。その社長さんである村田さんが、ぼくのような若造に、頭を下げて聞いているんですから。まともに英語がしゃべれる人間も少なかったし、人材がいなかったんですね」
 いかにも温厚で実直そうな村田延治さんの声と、長年にわたり欧米の企業とビジネスを行ってきた本田さんの一種冷徹な言葉の響きは、筆者にはとても対照的に感じられた。国際化の時代を生き残れなかった旧世代。そして激しい時代の流れの中で戦ってきた新世代。両者の運命的な邂逅も、また戦後バイク史の大きなドラマだったのである。

トーハツとの出会い
 アメリカから帰国する際、本田さんは数台のバイクを日本に持ち帰った。国内産業保護のため、バイクやクルマの輸入が厳しく規制されていた時代である。個人が外国車を日本に持ち込むことはほぼ不可能だった。本田さんの父・四郎さんの“顔”がものをいったのは、あえて説明するまでもないだろう。
「大陸横断に使ったハーレーのデュオグライドと、750のKモデルの箱に入った新品。それに125のMVアグスタ(イタリア)の工場レーサー。カルロ・ウッビアリ('50年代の世界GPチャンピオン、イタリア人)か誰かが練習に乗ったクルマです。これはメグロに売ったんですよ。メグロがどうしても欲しいって言うんで。それからボクが乗った175のパリラ。そしてAJS(イギリス)だったかな。税関の連中がビックリしていました(笑)」
 持ち帰ったデュオグライドは、とくに請われて陸友モータース(東京の老舗ショップ)の顧客に売却された。
「大滝さんというお客さんが、ずいぶん高い金額で買ってくれましたよ。そのときに、当時の日本にはなかったハーレーの英語のマニュアルや特殊工具などを、一緒に売ってあげたんです。陸友モータースの柳さん(同店の創業社長で、陸王に戦前から勤めていた人物。故人)が、涙を流して喜んでましたよ。普通ではスパナが入らない箇所があって、それをどうすればいいか誰も知らなかった。そのための特殊工具があったんですね。バルブのハイドロリックリフター(油圧タペット)もカチャカチャ音が出て、どうすれば音が消えるか分からなかった。解決するには50番の固いオイルが必要だったんですが、当時そんなオイルは日本になくって、ぼくが初めてサンプルを日本にもってきたんですよ」
 '59年には第3回浅間火山レースが開催されている。これは第2回全日本クラブマンレースと併催だった。前年のクラブマンレースのセニアクラス優勝者である本田さんは、翌年の第2回には出場していない。
「正確には覚えていませんが、あのときは確かエントリーが遅かったとかで、参加が認められなかったように記憶しています。ぼくの兄(広さん、故人)は出場していまして、レースの現場にはぼくも行きましたけれど」
 これは微妙な話だが、前年の大会で主催者に対し強烈な抗議を行った本田さんは(詳細は前々号〜前号)、やや目の敵にされていたようなところもあったらしい。本田さん自身は明言を避けたのだが、話を聞いている筆者にはそんな空気が感じられた。
 翌'60(昭和35年)。第3回の全日本クラブマンレースは、栃木県宇都宮市の旧陸軍飛行場跡地で開催されることになる。レースは9月だが、5月にコース開きが行われた。当時、世界GPの偉大なチャンピオンだったG.デューク選手がイギリスから招かれ、模範走行を披露したのは有名な話である。この際、日本のクラブマンたちも予行レースを行っており、本田さんもそのひとりだった。
「宇都宮のコース開きでパリラの175に乗ったんです。それをトーハツの関係者が見ていて、ぼくがけっこう速く走るので、目を付けたんですよ。トーハツの125の工場レーサーに乗ってくれないかと。これはミッションにニュートラルのない、おかしなクルマでしたよ。ぼくは日本のオートバイなんてオモチャぐらいにしか思ってませんでしたし、2サイクルも乗ったことがなかったので、正直に申し上げて自信はありませんでしたね。それでもよろしいですかというので、練習で乗ってみたら抜群に速いタイムが出ちゃった」
 こうして9月のクラブマンレース125・クラスに、本田さんはトーハツのマシンで出場することになった。200・クラスはアメリカから持ち帰ったパリラ175。国際クラス(排気量無制限)はバルコムトレーディング(当時のハーレーダビッドソン、BMW、BSA、ドゥカッツティーなどの輸入元)から貸与されたハーレーKRで出場している。
「バルコムもぼくに対して、いろいろと近づいてきていたんですよ。ぼくは坊ちゃんで、お小遣い(契約金)をもらって乗る連中とは違いますから、他人のいうことを聞くのもイヤだし、相手にしていませんでした。ところが'60年は伊藤(故・伊藤史朗選手。'50〜'60年代の日本を代表する名ライダー)がBMWに乗って、125は望月くん(故・望月 修選手。2&4輪レースで活躍後ジャーナリストとして活動)がドゥカッツティーのデスモドロミックに乗って、誰もハーレーの乗り手がいないわけですよ。ああいう大きなクルマはね。それで、ぼくに乗ってくれって言うんで、じゃあ乗りましょうと。ぼくは戦後、ハーレーに乗って、まともなレースを走った最初の男じゃないでしょうか。あのKRは後に伊藤が朝霧のレースで乗っかったみたいですね」
 この第3回全日本クラブマンレース。本田さんは125・クラス2位、200・クラスと国際クラスでリタイヤという結果だった。
「125のレースは最初トップで走っていたんですが、キャブのフロートが落っこちて、2位になっちゃいましたね(優勝はホンダの堀越正一選手)。ハーレーは前後タイヤがパンクしちゃいまして(9周目で)リタイヤという結果です(優勝はBMWの伊藤史朗選手)」
 宇都宮のクラブマンレースでトーハツと関係のできた本田さんは、さらにケタ外れの実績を残すことになった。
「トーハツの会社がぼくを気に入っちゃったんです。当時のトーハツは三井物産(総合商社)に輸出の権利を与えていたんですが、ぜんぜん売ってくれない。ぼくは英語ができるしアメリカの事情も知っているでしょう。輸出権を差し上げるから買ってください、と言われましてね。それで私がトーハツの輸出権をもらったわけなんです」
 本田さんはわずか26歳にして、トーハツという大メーカーの輸出権を獲得したのである。もちろん本田さんの資質が優れていたというだけではなく、実家の資産が大きな後ろ盾になっていたのも要因だろう。
「父からお金をたくさんもらって、最初はハワイにトーハツを何10台か輸出したわけですよ。これは売れましたねぇ。そのときトーハツを扱ってくれた代理店が今でもハワイにあって、その後はスズキのディーラーになりましたが、今も家族同然の付き合いです」
 '61(昭和36)年6月9日の日付のあるトーハツ(東京発動機)との契約書を筆者に示しながら、本田さんは続けた。
「次はアメリカ本国でもクルマを売りたいということになって、そこに丸紅(当時は丸紅飯田。総合商社)が名乗りをあげてきたんですね。それで丸紅と組むことにしたんですよ。でも丸紅は、貿易は分かってもオートバイが分かる人がいない。ぼくは英語が分かるし、オートバイのことも分かる。本田さん、ぜひ丸紅に来てくださいよと。それでサンフランシスコに渡って、トーハツの駐在員と丸紅の駐在員と、両方を一緒にやることになったわけです。給料は貴本的にトーハツから出たのですが、丸紅も立て替えをしてくれるし、両方からもらっていたようなものですよ。支度金は両方から出ました。事務所は丸紅のものを使っていましたね」
 本田さんはいちアマチュアライダーを脱し、日米を股にかけたビッグビジネスの場に身を置いたわけだ。'60年代初頭の豊かで広大な北米のマーケットで、本田さんはパイオニアとして歩むことになる。

'60(昭和35)年9月3〜4日、宇都宮で開催された第3回全日本クラブマンレースで。前年に出場したデイトナスピードウィークのTシャツを着て、125・クラス2位のトロフィーを受け取る26歳の本田和夫さん。当時、最強のアマチュアライダーのひとりだった。この翌年にトーハツの輸出権を獲得し、アメリカに駐在しながらレース活動を行うことになる 本田和夫(ほんだかずお)さん。'34(昭和9)年、東京・目黒区の中心部の土地を所有していた資産家の息子として生まれる。'58(昭和33)年の第1回全日本クラブマンレースでセニアクラス優勝、オープンクラス2位。'62(昭和37)年、'63(昭和38)年と、米デイトナスピードウィークの125・クラスで2連勝。現在は、自身が日本で初めて使用したバブルシールドや、米MXL社(軍用機パイロットのヘルメット風防を製造)の開閉式シールドなど、バイク用品の輸入も行っている。「デイトナで優勝したライダーだと言うと、アメリカ人は大変な敬意をはらってくれます。それが今でもビジネスに役立っている。日本とは大違いですね」 '60年の第3回全日本クラブマンレース。トーハツの125レーサーと本田さん。身長178・と大柄で、トライアンフやハーレーダビッドソンなど外国の大型車を得意にしていた本田さんにとって、ほとんど初めての国産小排気量車。2サイクルエンジンも初めてだった。それでもトーハツ社内ライダーを上まわる速さを見せ、一躍エース格になったわけだ
第3回全日本クラブマンレース、125・のスタート。ゼッケン7の本田さん(トーハツ)が飛び出すが、マシン不調もあって遅れ、追い上げたものの2位に終わる。火山灰のダートコースだったアサマと違い、宇都宮は飛行場跡のため一応は舗装されていたが、路面状況はよくなかった。5月のコース開きに招待されたG.デューク選手が、「愛車ノートン・マンクスにエアクリーナーを付けてくるべきだった」と語ったという逸話も残っている '59デイトナで乗ったパリラ175で、宇都宮のコースを走る本田さん。ゼッケンプレートがないところをみると、9月の本レースではなく、5月のコース開きの際の写真かも知れない。'58年(昭和33)年の第1回クラブマンレースで、日本で初めてジェット型ヘルメット(米ベル製)を使用した本田さんだが、写真のバブルシールドも日本では本田さんが初の使用例と言われている こちらはハーレーダビッドソンKR(Kモデルのレーサー。後のXRなどの先祖)。バルコムトレーディングの貸与車で、その後は朝霧高原のモトクロスで故・伊藤史朗選手が乗った。「750じゃなく、900だったんじゃないですか。あれは強烈に速いクルマでした。すごいトルクがあってね。たしか最後は村山モータース(東京の老舗ショップ)に行っちゃったんですよ。どこかにフレームがあると聞きましたが、どうしましたかねぇ」こちらはハーレーダビッドソンKR(Kモデルのレーサー。後のXRなどの先祖)。バルコムトレーディングの貸与車で、その後は朝霧高原のモトクロスで故・伊藤史朗選手が乗った。「750じゃなく、900だったんじゃないですか。あれは強烈に速いクルマでした。すごいトルクがあってね。たしか最後は村山モータース(東京の老舗ショップ)に行っちゃったんですよ。どこかにフレームがあると聞きましたが、どうしましたかねぇ」
東京発動機(トーハツ)とアオイトレーディング(本田さんの会社)との輸出権移譲の契約書。東京商工会議所、外務省、アメリカ大使館の連名になっており、それぞれロウで封緘(ふうかん)されている。某大手都市銀行からの、本田さんの実家の資産証明もあった。「ちょっとすごい契約書ですよ。期限を切っていませんから、法律的にはまだ(契約が)生きていることになるようですね」


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