信太山で第1回全日本モトクロス(酒井文人著)

 昭和34年はホンダがマン島TTレースに初出場した年だが、この年明けとともに、私(酒井文人)も再び国内レース普及発展の旗を上げた。小社大阪支社長の、草野孝儀(昭和37年退社)は、「浅間に対抗できるようなレースを関西でも開催して西日本のクラブマンたちの要望に応えるべきだ」と関西方面を飛び回ってレース場を捜し歩いた。たまたま、大阪府高石町の吉田武英氏から、陸上自衛隊の演習場だった信太山(しのだやま)が借りられそうだ、という情報が入った。草野はなんとしても関西で開催したい熱意から、丸善石油をスポンサーにすることにも成功した。

 クラブ連盟の事務局は、予算もないので小社のなかに同居していたが、専任の事務局長も必要になってきたので、小社の編集業務を手伝っていた西山秀一(現MCFAJ事務局長)に就任してもらった。西山は横須賀市に住み、スポーツライダークラブの世話役の傍ら、神奈川県下のクラブマンの面倒をよく見て、彼らから信頼もされていた。また、荒地走法やジャンプが得意で、テクニックは彼の右に出る者がいなかった。辻堂海岸へライダーたちを引っ張って行き、砂地走法やジャンプを特訓していたが、彼の走法は今考えても、かなりのレベルだった。

 信太山の地形から判断して、不整地競技となることが最初からわかっていたので、スクランブルかモトクロスか、そのどちらかに近いレースになると考えられた。西山はモトクロスやトライアルの信奉者でもあったので、年明けして間もなく関西へ出かけ信太山を下見したが、レースは十分に出来るということで、4月19日《第1回全日本モトクロス》を開催した。私は、モトクロスかスクランブルかで、名称の決定に迷つたが、当時は発音もしにくい、なじめない名称だったが《モトクロス》には《スクランブル》より重厚な響きもあるし、将来、目指すのはヨーロッパのモトクロスだと考えていたので、いいにくい《モトクロス》を採用することにした。が、今でも間違いではなかったと思っている。

 日本では最初で最大のモトクロスであったが、果たしてどのくらいの出場車があるか 西山と私は関西方面の動きを聞きながら、毎日出場台数を数えた。どうしても関東からまとまった台数が出場しないと、大会は盛り上がらないことがわかってきた。浅間に近い関東と違い関西では、モータースポーツへの感覚も違い、ランブレツタのスクーターでモトクロスに出場するライダーもいて、そのレベルはチグハグだった。

 そのころ、東京の城北ライダースは、浅間や埼玉県朝霞で開かれたスクランブルにも数回出場し、ライダーもそろっていた。鈴木誠一、久保和夫、松内弘之など、ヤマハの赤トンボに乗りピョンピョン走り回っていた。久保は父経営のモータースの手伝いをしていたが、松内は芝浦工大生だった。ふたりは信太山で走りたいが、汽車賃が足りない。急行や特急では行けないので、ドン行の夜行で出かけた。125∝で1、2位、オープンクラスで2、4位となり、たったふたりでクラブ優勝までして、優勝旗を箱根を越して持ち帰った。

 信太山のモトクロスには、東京のハイスピリッツから望月修高橋国光など、浅間で名を挙げたライダーたちを、半分は頼み込むかたちで出場してもらったが、ロードレースと違い、彼らの活躍する場面はないままに終わった。

 第1回全日本モトクロスには80余台が出場したが、一躍有名になったのは、大津市から出てきた北野元(18歳)だった。北野はホンダ系のディーラーで整備工として働いていたが、仲間11名と関西ホンダスピードクラブを設立出場し、250∝、オープンの両クラスに優勝した。表彰式の際、私(酒井文人)は賞状を読み上げて彼に手渡したが、その顔は童顔の少年であった。予想もしていなかった北野少年の出現で信太山は湧き上がり、関西のクラブマンたちは大喜びとなった。

 順調に進行してきた《第1回全日本モトクロス》は、表彰式の間際にまた事件が起きた。審判部の判定を不満とする関西のクラブマンが、ダットサンに乗って審判部に突っ込むという暴行事件が発生した。役員のひとりはトラックの下敷きとなったが、幸い怪我はなかった。この事件に関連したふたりのクラブマンは、多田健蔵審判長や私に東京まで電話やその他の方法で抗議が続いた。クラブ連盟では理事会を開き、該当者2名を半年間連盟主催のレース出場を停止にした。暴行の理由はともあれ、暴力行為は許すべきでないという態度を打ち出したことは、その後のレース運営に大きなプラスとなった。

朝霧高原のモトクロス(酒井文人著)

 前年の4月、大阪府下信太山で開催した第1回全日本モトクロスは、私(酒井文人)の口からいうのもおかしいが、成功であった。そして、クラブマンレースと同じように、毎年最低1回は開催したいと考え、ロードレースとは別に開催地を物色することになっていた。前にも述べたように、そのころの私(酒井文人)は、「モーターサイクリスト」誌の売り上げは、レースを盛んにしてゆけば自然に増えると考えていた。が、実際はそのようにはならず、私(酒井文人)がレースに夢中になればなるほど、小社の財務は苦しくなっていた。しかし、間違ったことをしているわけではないので、「必ずや近い将来、この苦労が実るときがくるはずだ」と自分と社員を励ましながら耐えた。

 宇都宮の話が始まるより早い時期に、西山事務局長のところへ、静岡県の吉原MCのメンバーであった、内海繁雄氏と池田繁男氏から連絡があった。「富士宮市の猪ノ頭の上にある朝霧高原がモトクロス場として借用できそうだから、釆てほしい」という連絡だった。

 西山は喜んで出かけた。内海氏は文具店を経営しトライアンフに、池田氏は荒物問屋でBMWにそれぞれ乗っていた。私たちは、この年の正月初乗りを兼ねて朝霧高原に行ってみて驚いた。雄大な富士の裾野で起伏も激しくなく、岩石も少ない。モトクロス場としては最適の場所であることがわかった。

 この広大な草原は、猪ノ頭地区の共有地であったが、(株)前川製作所の子会社である(株)高原社が買収した。しかし、当分高原社の利用計画が決定するまでは、使用権を猪ノ頭地区にも与えることになっていた。クラブ連盟が使用を申し出たところ、地元からは、現金収入も少ないので春秋2回開催してほしい、という要望も出てきた。

 富士宮市には、地元クラブの富恵会MC(会長・岩山義弘)が活動していたので、レース運営の協力を得ることになった。こうして朝霧高原でのモトクロスは、昭和35年から40年まで、5年間に9回も開催することができた。

 朝霧での最初の《第2回全日本モトクロス》は出場台数も200台であったが、モトクロスと朝霧高原の人気は次第に高まり、出場台数は回を重ねて増加した。猪ノ頭地区には、富士山麓から湧き出た冷たい水が流れ、県営のにじますの養魚場もあった。クラブマンたちは、それぞれ民宿や、にじますの家に宿泊したりして、雄大な富士山麓に青春のかたまりをぶつけ合った。そして、浅間とは違ったライダーたちによって、楽しく面白いレースが展開されていくことになった。

 コースの借用料は、最初は5万円であった。そして、地元の人たちには売店や駈車料で収入を挙げるよう便宜を図ったが、富士宮市には露店商の親分もいて、地元との調整には事務局長が頭を痛めた。モトクロスの運営費は、クラブマンレースのようには必要でなかったので、資金集めも比較的容易であった。

 大会役員の私(酒井文人)たちは、猪ノ頭の中村屋旅館という山里の小さな民宿といったほうがピツタリする旅館に、みんなでザコ寝したものだが、各地から集まった同好の士の語らいは夜半まで続き、食べものもロクになかったが、結構楽しい思いをしたものだった。

【追記】そのころ、バルコムチームのボスであったH.リンナー氏は、母国西ドイツに帰国していたが、1978年9月アメリカのカリフォルニアで病死した。伊藤史朗にすべてを賭けた彼もこの世を去り、遺骨は西ドイツヘ帰った。

第2回全日本モトクロス・城北ライダーズの精鋭たち( 望月修著)

 前項で信太山での記念すべき第1回モトクロスについて、触れてあるが、その後、モトクロス熱は急速に高まり、競技人口も増大し、第2回大会では200余名の参加がみられた。私(望月修)は出場こそしなかったが、ハイスピリッツの出羽がエントリーしており、僚友の野口伊藤も出場するというので観戦に出かけた。

 第1回大会の団体優勝は城北ライダーズであったが、今回も城北勢の優位は動かず、団体戦では城北に抗し得るほどの強力なクラブは兵庫レーシング以外には見当たらなかった。

 城北ライダーズに、どうしてあのように優秀な人材が集まったのか、本当に不思議に思えるが、鈴木誠一、久保和夫、寿夫の兄弟、森下勲、松内弘之といずれもトップクラスの力量の持ち主である。そもそもの始まりは、昭和33年すなわち信太山大会の前年に、埼玉の自衛隊戦車演習場へ同好の士が集まり、日本で初めてのスクランブルレースを開催したことが発端となる。このとき、朝霞に近い板橋区周辺のMC好きの青年たちが集まって、クラブを結成したのが城北ライダーズというわけである。このときから、クラブの面々は群を抜いて速かった。

 テクニックとスタミナを併せ持つ鈴木誠一、軽業師というニックネームをつけられた森下勲、重戦車的走りの久保和夫、このトリオは、全日本モトクロスでも、常にトップを争うメンバーであった。

 さて大会のほうは、50ccクラスではまだランペットの参入がなく、スーパーカブが優勝するという面白さ、125ccクラスではYA−1で鈴木誠一が勝ち、250∝クラスは森下勲がダブルピストンのプフで優勝、独特の中速トルクの強さが朝霧のコース条件にぴたりと合った感じであった。251cc以上ではBSAゴールドスターで伊藤史朗が優勝、彼もロードレースとモトクロスの両方に速いという天才児ぶりを、十二分に示した。

 大会最後のレースはフジフィールドランで、これはスタートラインに対面する2.5km先の丘の上の火の見櫓を回ってくるという、走路自由の豪快なレースであった。往路復路の周囲方向の指定以外は富士の原野のどこを通ってもよいというので、各自見当をつけておいた、思い思いのコースをとり、その有り様がスタート地点かちすべて見渡せるという、今から思っても壮大なモトクロスであったが、これもゴールドスターに乗る伊藤史朗が賞杯を手中に収めた。

 朝霧の土質は表層の直下がかなり湿っており、これがタイヤで掘られると泥濘状になり、ちょっとした勾配でも上がれなくなる。わだちの跡は、すぐにそんな滑りやすい路面となるので、BSAのような車重の比較的重いマシンを振り回すのには、大変な腕力を要するわけで、この面からも伊藤史朗の人並み優れた資質が浮かび上がってくる。

 第2回大会では、関西勢の兵庫レーシングが団体優勝をさらってしまった。これは予想外の出来事であった。このクラブでは重量級にエントリーした、荒井、桂田、池田、吉田などのメンバーで好成績を挙げたが、ど根性でマシンを振り回すといった感じで、テクニックの確かさよりも、精神力で肉迫する様子には、凄みさえ感じられた。
 当時まだ頭角を表していなかった片山義美が125ccと250ccの両クラスで4位に入っているのも興味をひく。彼は案外とモトクロス好きで、その後も全日本モトクロスに何回か出場しているが、目立った成績は残さなかった。

第3回〜第5回全日本モトクロス(望月修著)

 全日本モトクロス大会は、年間に春秋2回挙行されるようになり、朝霧高原を安住の地として定期的に開催されるようになった。富士山麓の緩い斜面を利用したコースなので、基本的には登り降りが、等距離の周回コースとなる。
 第3回大会では、城北ライダースのメンバーの活躍が目立ち、鈴木誠一、久保寿夫、和夫の兄弟、森下勲、松内弘之という強力メンバーに抗し得るチームはほかになかった。

 大会のハイライトは、50∝クラスでベテラン平賀の初優勝、J125ccクラスで古いYAl(ヤマハ)に乗りトーハツワークスを打ち負かした鈴木誠一、そしてバルコムチームの伊藤史朗が251cc以上クラスをハーレー900cc、オープンクラスをBSAゴールドスターにより、両クラスとも勝利を手中に収めたことであろう。

 翌61年の第4回、すなわち春の大会では出場申し込みが413台の多きを教え、第3回の2倍以上の出場台数となった。

 トーハツスピード東京オトキチクラブは相変わらず層の厚さを誇り、また城北ライダースがスズキと契約し、一斉にスズキマシンに乗り換えたのが注目された。この移籍劇の結果、モトクロスにおいてはヤマハが一挙に後退し、代わってスズキが大きく浮かび上がることとなり、城北ライダースの豊富な戦力を見せつけた。
 50ccではランペットオンパレードであり、125ccは鈴木誠一久保和夫がコレダで優勝、オープンも鈴木誠一がコレダに乗って優勝してしまった。

 コレダ250はかなりのロングストロークツインであり、2サイクルながら中速トルクが大きく、またフレーム剛性も十分で、車重がヤマハYDSあたりより15kg以上重かったが、モトクロスマシンとしての適性は大であったといえよう。

 125∝クラスで荒井市次がポインターで3位に入賞、三吉邦男がカワサキで7位に入ったことは、後年の関西マシンのステップアップを暗示するものであり、オープンクラスで三吉のカワサキが2位に食い込み、関係者の注目を集めた。

 第5回大会は同61年11月4日に開催された。50∝クラスではトーハツランペットの牙城を制覇すべく、スズキセルペットで城北勢がチャレンジしたが、またもやランペットの玉田が優勝、最高ラップタイムも、なんと全クラスを通じてのベストで、3分23秒9というすばらしいものであった。

 2位に城北の鈴木誠一が入り、同じセルペットで矢島金次郎も頭角を現し、城北ライダースにも、第2世代が生まれつつあることを示した。

 125ccは鈴木誠一が4連勝。250ccクラスは予選で久保和夫が脱落したこともあって、東京オトキチギルパートソンがトーハツとしての初優勝を飾った。
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 今回は外人勢が大活躍し、251cc以上で三沢ダスターズエリイ(ドリーム)が1位、2位も同じくスチユーベント(ドリーム)が入り、その集中得点により、三沢ダスターズは団体2位を確保している。

 富士フィールドランが復活し、ごこでは久保和夫が圧勝、2位スチユーペント、3位エリイとまたもや三沢ダスターズ、4位鈴木誠一、5位三橋実という結果に終わった。

 朝霧高原では、草がむしられ泥が露出すると、かなり湿気を含んでおり、滑りやすい路面となる。

 この滑りをいかにコントロールするかが、ラップタイムを短縮する鍵となるが、この辺を最もうまくこなしたのが鈴木誠一玉田真市であり、久保和夫は対照的にスピードを落とさず乗り切るタイプで、400名を超えるモトクロスライダーの大部分は、いずれのタイプをとるかは別として、鈴木、久保のふたりのテクニックに大小の差こそあれ、何らかの影響を受けていたはずである。


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1990年「八重洲出版」より発行された《浅間からスズカまで》から抜粋した
記事であり、著者は、酒井文人社長&望月修氏(いずれも故人)である。
第1〜5回全日本モトクロス