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 2006年8月末発売(No.03 2006)の「風まかせ」誌に掲載された記事である。取材は7月21日にゲストハウスにて行われた。

        マン島TTレースで唯一、日の丸を掲げた男。伊藤光夫。

                         

 最も伝統ある、かつ景も過酷な公道レースとして、世界に名を馳せる「マン島TTレース」。そのイギリスはマン島での戦いに「日本人初の優勝者」として、その名をTTレース史に永久に刻んで凱旋帰国した伊藤光夫。今から43年前の1963年、伊藤光夫26歳のときの栄光だ。

1937年1月1日静岡に生まれる.「元旦生まれたって、当時のこと。どさくさにまぎれて、この日に両親がしたんじやないの」と笑いつつ、「国民のみんなが祝ってくれているようで嬉しい」。酒はビールが好き。タバコも少々。お子さんはすでに嫁いだお嬢さんふたり。4人のお孫さんがいる。食べ物では煮魚や焼き魚が苦手だそう。69歳。B型。「みっちやん」の愛称で、今も昔も仲間うちでは親しまれている。 当時、伊藤光夫氏と行動をともにしたチーフメカニックの神谷安則氏。整備の神様と呼ばれ、主にスズキの外人ライダーのマシンを担当。スズキを定年退職後は「好き勝手に生活していますよ。完全に隠居です(笑)」。現在74歳。当時の研究3課メンバーの集まりである「研三会」の会合は今でも年に一回行なわれており、当時の懐かしい面々と会うのも楽しみの一つになっている。

マン島でのそれは金字塔に

 栄えある日本車による日本人初の優勝者として、マン島の絵葉書にも描かれる伊藤光夫氏だが、さらにもうひとつ栄えある記録が後に追加された。それはこの「マン島TTレース」があまりの危険性から、氏の優勝から13年後の1976年をもって世界GPシリーズから外れたことにある。世界GPとしての「マン島TTレース」がなくなり、結果、TT史上唯一の日本人優勝者としてその名が、永久に刻まれることになった。
 氏が駆ったマシンはスズキの50ccでRM63と呼ばれていたマシン。現在のモトGPにはこの50ccクラスはないが、当時は他のクラスと同様、人気のあるクラスだった。マン島で使用されたそのRM63は、空冷2ストローク単気筒ローターリーディスクバルブエンジンを搭載し、最大出力11psを発揮。最高速度は150km/hに達する実力の持ち主で、変速は実に9段という多段。スズキの技術の粋を結集したモデルだった。
 後にこのRM63はRK、RPと名を変え、気筒数も2気筒から3気筒に、変速も14段、最大出力19pSを発揮、最高速度は180km/hにも達するマシンへと進化。世界最強の2ストローク50ccマシンとして、他陣営から恐れられる存在になっていた.
 しかし、1969年、こうした日本メーカーの破竹の快進撃にストップをかけるため、「マン島TTレース」の主催者は車両規定を大幅に変更。50ccで言えば単気筒で変速は6段以下、最低車重60kgいうレギュレーションを設定。それまでの、「なんでもアリ」ゆえ高度に、かつエスカレートするばかりだったマシン競争に歯止めをかける処置を取ったのだ。
 この改定には賛否両論渦巻いたが、日本勢はすでに怒涛のごとくチャンピオンを獲得。当面の目標を失っていたこともあり、これを機に次々と世界GPから撤退。50ccレースもこの年からマン島では開催されなくなり、氏のマン島での記録は永遠に破られることのない金字塔となった。

ホンダへ入社したものの・・・

 氏が初めてバイクを知ったのは「終戦の頃、小学6年生か中学1年生だったかな。うちの叔父が海軍中尉だった関係で、将校が軍で使っていたバイクを家へ持って来てたんです。家が浜松の近くの磐田って所で自動車屋をやっていたものだから。当時はそのバイクがどこのだったかわからなかったけど、後でそれはトライアンフとかインディアンだったと。それらをチョイ乗りしててね。そうそう、車も運転してたよ(笑)。体は小さかったけど、乗れたよ(笑)」
 この当時から、バイクに乗る環境は整っていたということになるが、それにしても当時はなにごとにも寛容なイイ時代だったようだ。
「本格的にバイクにはまりだしたのはその直後。本田宗一郎さんが造った無線機用の発電機エンジンを自転車に付けたやつを見てね。戦争中、軍が使用していたエンジンを改造して、自転車に取り付けたんだよね」
 この自転車に補助エンジンを付けた乗り物こそ、ホンダが初めて世に送りだした二輪車だった。まだ、浜松に本社があり社名も本田技術研究所だった時代だ。やがて、ホンダは自転車に取り付ける2ストローク50ccの自社製補助エンジンを開発。A型と呼ぶモデルを発売するに至る。
 かくして、すっかりバイクの虜になってしまった氏は、運命の導きかのように1954年、17歳のときに浜松にあったホンダのエンジン組立工場に入社。本社はすでにこの時代は東京に移っていた。
「工場では検査課で性能検査をしていました。試作車のエンジンテストなどですね。いろんな部品を組み込んで走りをやったりね。検査課でも出来上がったバイクをテストするグループと、試作車をテストする性能検査グループと二つあって、僕は性能検査グループだった。試作車で浜名湖周辺を走ったり、楽しかった。ベンリイのJという90ccなんかもよくテストしましたよ」
 が、この楽しい仕事が続いたホンダを氏は2年半ほどで辞めてしまう。
「ホンダっていうのは埼玉にも工場があった関係で、そっちへの異動も多かったんですよ。でも、僕はよその土地に移りたくなかった。浜松が大好きだったから…」
 かくして、転勤の辞令が出る前に、氏はホンダを退社。同じ、浜松にあったスズキ自動車工業(現スズキ)に会社を変えた。1956年、19歳の時だった。

そしてレースの世界に

「スズキでは検査課、完成車の検査課だね。いわゆる『完検』っていう部署。そして、それから3年後だったかな、研究部(後の研究3課)に配置変えとなった」
 この研究部こそ、レースを戦うための部署。栄光はここから始まった。
 当時、レーサーという職業はなく、社内選抜で速く走れる人間がまず目星をつけられた時代。となれば、まず完検の人間に白羽の矢が立って当然だろう。氏はこうして引き抜かれ研究部に所属するに至った。競争に興味ある22歳のときだった。
 そして、前号の谷口尚己氏の記事でも触れた浅間火山レースから、マン島TTレースへの出場。一筋縄ではいかないマシン開発、そしてマシンテスト。このプロセスはホンダ同様、スズキもまた同じだった。
 かくして、ホンダに遅れること1年後の1960年、スズキはマン島TTレースに初出場(125ccクラス)。ライダーは伊藤光夫氏・市野三千雄氏(故人)・松本聡男氏(故人)の3名での参戦だったが、氏はプラクティスで転倒。2年後、同じスズキチームの仲間となったデグナーの転倒に巻き込まれ、二人して同じ病院に入院、涙をのんだ。
 しかし、栄光は3年後の1963年にやって来た。氏が26歳のときだった。この年の1月に結婚。2月のアメリカGPで優勝と、幸先よいスタートをきって迎えたマン島での優勝。「この1963年というのは僕にとって忘れられない年になりました」そう語るこのときの氏の目の輝きは別格だった。
 当時のスズキのPR誌「スズキフアン スズキフラッシュ」もその栄光を讃え、全ページを使ってTTレースを特集。当時の社長である鈴木俊三氏の「マン島に日の丸を…という日本モーターサイクル界の宿願をスズキが初めて達成しました」という序文で始まるこの一冊には、スズキの喜びが溢れていた。
 1907年から始まって、来年の2007年で実に100年の歴史を誇るマン島でのTTレース。途中1956年、戦争で中断したものの、毎年6月に開催され続けているこの屈指の公道レースも、近年のマシン高性能化から、レース中止の声がここ数年前から噂されている。だが、ここでの戦いが現在の日本メーカーを世界一の企業に押し上げたことは紛れもない事実。仮にレースがなくなったとしても、ここはバイクの聖地として永遠に語り継がれるだろう。そして、伊藤光夫氏のことも…。

初のマン島TTレースに向けたマシン、125ccRT60を囲んで記念撮影。左より松本聡男(故人)・伊藤光夫・市野三千雄(故人)。テストはスズキ近くの国道1号線の新居町から塩見坂で早朝敢行されたこともあった。この場所はわりと早い時期に舗装されていたからだ。「1号線っていったって、ほとんどがまだ砂利の時代だった」と氏。とは言っても、ここは格好のテストコースだったようだ。写真はそこでの一コマ。 1周約60kmのマン島マウンテンコースを3周する50ccクラス。マシンRM63で疾走する伊藤光夫氏。当時は50ccクラスのみライダーの体重制限(60kg以上)があった。氏は逆に太り気味だったこともあり、60kgまでの減量に励んだという。「写真(Top)見て下さいよ、頬はこけちゃってるし(笑)」
15万人の観客が見守るマン島での戦いを制覇。見事、日章旗を掲げた表彰式。「まさか日本人が勝つなんて誰も、もちろん主催者も思ってなかったんでしょう。君が代がなくて、慌てて探してました。表彰が始まるギリギリのところで間にあってね(笑)。でも一章節の途中からでしたよ、曲が流れだしたのは」。(中央は優勝の伊藤光夫、左は2位のAnderson、右は3位のKreidlerに乗ったAnscheidt) RM63の発展型であるRK67。伊藤光夫氏が1967年、富士スピードウェイで開催された世界GPシリーズ第12戦「第5回日本グランプリ」の50ccクラスで優勝したときのマシン。それまでの空冷から水冷になり、2気筒化。変速も12段となり多気簡多段化していった時代の花形マシン。ちなみに、このときスズキは1〜4位を独占。さらにこの後、3気筒のRP68が登場するが、レースには投入されず幻の3気筒50ccとなった。

今も当時のマシンや GSR を颯爽と
今年の6月、久し振りに富士スピードウェイを走った氏(写真中はRK67と。右はGSR400と)。クロウメルのヘルメットにホスパイクのゴークル、そしてクシタニの革ツナギに身を包み、RK67を駆っての伏せ姿勢でのライディングは往年の走りを彷彿させた見事なもので関係者も興奮。再び、世界GPで50ccレースを!しかも、「なんでもアリ」規定で開催すれば、かってのような素晴らしいマシンが誕生するという声も。


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