アンダーソンの近況(2006年1月)
鹿児島県霧島市で喫茶店「Manx Cafe」を経営する
鳥丸浩次さん(
http://manxcafe.fc2web.com/index.html)(2024年現在
https://withbike.jp/gaiyou.htm)が、ニュージランド人の
Craig Aitchison クレーグ・エイチソンさんと、鹿児島県
枕崎出身のタカノさんの結婚式出席のため、ニュージランドに出掛けられました。
クレーグさんの母方の大叔父さんは、ヒュー・アンダーソンなのです。結婚式の前日の1月27日、鳥丸さん・クレーグさん・父親のレックスさんの3人で、オークランドから約120キロ離れたハミルトンのアンダーソン宅を訪問いたしました。その際の写真をいただきましたので、下記に掲載させていただきます。その他、アンダーソンが楽しげに語るビデオ(二十数分)もいただきました。鳥丸さん、本当に有り難うございました。
私は鳥丸浩次さんと全く面識はありませんが・・・、彼のホ−ムペ−ジをご覧になれば、良くおわかりになると思います。是非ご覧になってください。鹿児島いや九州のバイク仲間では信頼される有名人なのだと思います。(経歴・活動状況は別記いたします)なお、鳥丸さんの「ニュージランドへの旅」は、
http://www.geocities.jp/manx_cafe/nz-1.html に掲載されています。また、今回の旅行記が2006年2月24日発売の「月刊クラブマン」に掲載されるとのことです。
結婚したクレーグさん(25才)とタカノさん(27才)について述べてみましょう。タカノさんが幼少のころ、クレーグさん宅ににホームステイしたのだそうです。そして、20才代になって、仕事でニュージランドに出掛け、クレーグさんと再会したのだそうです。その後、クレーグさんは英語教師として2004年1月に来日、2005年9月まで鹿児島に滞在し、タカノさんと結婚することになったのだそうです。
【自己紹介による鳥丸浩次さんの経歴・活動状況】
私は現在34歳、昨年9月に嫁桃香と結婚。子供はいません。
生まれは福岡市南区ですが父の仕事の関係で、小学1年途中から6年まで大阪南河内在住。中学1年から東京都府中市に引越し。
25歳の時、仕事をやめ両親の田舎である鹿児島に単身で引越し。理由は『バイクに乗るのに適していそうだから』。
母方の田舎である隼人町(現霧島市)在住。現在に至る。父は拉致で有名になってしまった吹上町出身。
現在は実家に父、母、母方の祖母が住み、そこから車で15分の所にある隼人駅近くで、8年前より「マンクス」喫茶業を営んでおります。
現在の
愛車は「マンクスマン」という「ノートンマンクスレプリカ」。このバイクは4年程前に購入しましたが、購入を機に一気に多くの友達が出来始めました。
現在、
「IOK(アイルオブ九州)」というクラシックバイクイベントを1年に1回熊本阿蘇で開催、多くのクラシックバイクを愛する若者が集まり、親睦を深めています。また、毎月第3日曜日早朝には鹿児島霧島にて
「霧島バイクミーティング」という自然集会的イベントも首謀しています。こちらは霧島を愛する全てのバイク乗りが参加し、親睦を深め、ゴミを拾い、霧島におけるバイク文化を活性化させております。最近は70台を超える参加を頂いております。
九州は、立地は最高ですがバイクを楽しむ文化があまりありません。草の根レベルでバイクという共通の趣味を通して多くの人が出会えれば素晴らしいのでは?との思いで盛んに活動しております。
そして私が大好きな、クラシックレーシングの世界における偉人達の偉業を若い人々に伝える事が最も大切な使命だとも思っております。
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アンダーソンのガレージ:左写真ははトライアンフタイガー、右写真はレストアー中のノートンインターナショナル |
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マンクスマンのタイミングカバーにサイン |
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写真の一番奥はアンダーソンの所有していたマンクス |
カウルに名前入り |
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中はクレーグ(アンダーソンが母方の大叔父)、右は父のレックス |
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鳥丸浩次さんとアンダーソン(英国女王から叙勲されたMember of the British
Empire の前で) |
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左写真のドミネーターで、昨年遊んでいて足に大けがをしたとか・・ |
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話がはずんで、訪問は一時間余にもなり、別れの時は最後まで見送ってくれました |
鳥丸さんが、『今までの乗ったレーシングマシンの中でナンバー1は何?』 と質問したところ、迷いも無く
『1965のスズキ125ccだ。何故なら、雨のマン島TTでの500cc、350cc、250cc、125cc同時走行の公式練習で、どのクラスのマシンよりも速いタイムが出せた。2番目のMVのアゴスチーニ(350ccか500cc?)でさえ、私の1分遅れだった。・・・しかし本番のレースでは、優勝出来なかったがねハハハ(1周目トップだったがマウンテンでプラグ交換、2周目は最高ラップを出したが、結果は5位だった)』
と(注:アンダーソンは2周目に23分44.4秒の最高ラップ(新記録)を出し、3周目は23分34.6秒(3周の最高ラップ)と記録更新した)。
筆者は、1965年のマン島へは行っていないので、知らないが・・・そんなことがあったんだな。
クレーグさんとタカノさんの結婚式(2006年1月28日)
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クレーグの父レックスとスゼット(アンダーソンの姪) |
アンダーソンが大叔父の花婿クレーグと花嫁タカノ |
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雑誌「clubman」の(2006年4月号、N0.250)に鳥丸さんの「ニュージランド旅行記」が掲載されました。「アンダーソン宅訪問時の写真」や「クレーグさんとタカノさんの結婚式写真」はすでに掲載済みですので省略します。
クラシックマシンを求めて〜ニュージランド旅行記〜
鹿児島マンクスカフェ 鳥丸浩次
今月はクラブマンズストリート特別版として、ある読者から寄せられたお便りを紹介します。
エンスーなライダーたちが集まるManxCateのオーナーで、九州で開かれているクラシックバイクのイベント“アイル・オブ・九州”の実行委員。そして熱烈なクラブマン読者のひとりでもある鳥丸さんがニュージーランドで味わった貴重な体験をレポートしてくれました。
2006年1月26日。私はニュージランドのオークランド空港に降り立った。鹿児島から遠く離れた南半球のこんな所まで何しに来たかといえば、友人のクレーグとタカノの結婚式に招待されたからだ。
思い起こせば2年前。私の店に駅前留学な英会話教室で講師をしていたクレーグがやって来た。英会話教室の先生の癖にニュージーランドなまりの強い英語を喋り、ハッキリ言って「小生意気なKIWIだわい」と思う程度の印象。
数日後またもや店にやって来て「俺の大叔父さんもバイクに乗るんだぜ」みたいな事を言った。私的にバイクに乗る外国人と聞いても、そりや乗るでしょうよ、位にしか受け止めなかった。リアクションの薄い私に(実は私は英語が苦手)パソコンを開き見せた。「彼の名前はヒユー・アンダーソン」クレーグは確かにそう言った。ヒユー・アンダーソン??あの世界チャンピオンの???「Oh〜クレーグ、我が友よ〜〜!!」そんな事件もあり現実的な私はクレーグと親友となったのだ。
私は出口で待つクレーグの元へと急いだ。しかし、壁は厚かった。多くの観光客は2番ゲートへ進む中、何故か私は4番ゲートヘ行けとの指示。おやおや。なんだか変な部屋に通されたぞ。広い室内には沢山のステンレス製の机。そしてプロレスラーのような警官が多数。各机の前の椅子にはどう見ても怪しい感じの人々が座っている。そうか、そういう事か。入国管理局が私を「正しい入国者」か検査するのだ。ちなみに今回、結婚祝いに天狗のお面や、錫器(すずき)の茶壷を持って来ていて、]線で見ればさぞ吃驚した事だろうね。結局1時間半掛かってやっと解放。
グデ〜っとなつて出て来た私が事情を話すと大笑い。そりゃないよ。
次の日、私とクレーグ、クレーグのお父さんレックスとハミルトンに住むヒュー・アンダーソン氏に会いに行く。今回のアポは全てレックスが段取ってくれている。実は出国の数日前、とあるヒストリックレーシングのホームページ管理人様にその旨伝えた所、当時のスズキに詳しい方にメールしておきます、との事。早速次の日にメールを頂いた。その方は
中野広之さん。ヒュー・アンダーソン氏がスズキで戦った頃のエンジン設計責任者であり、チーム監督もされた方だ。氏曰く「ヒユー・アンダーソンには1966年以来会っていない。貴兄が御会いした際、是非よろしく伝えてください」と。こりやまた大役を仰せつかったものです。
オークランドからハミルトンまでは高速道路(無料)を使って約2時間。閑静な住宅街の一番奥に、お酒落で立派な御自宅。ガレージにはピカピカのトライアンフタイガー、奥に今レスートア中のノートン・インターナショナル。そしてそこに本物のヒユー・アンダーソン氏=御年70才。優しい口調で静かに話し始めた。
先に申し上げた通り、あまり英語が得意ではない私ではありますがバイクの事になると話は別。何故か素直に耳に入って来る。私が
中野広之さんからのメッセージを伝えると大変喜び、当時の思い出を次々話してくれた。素晴らしい市販車を作った
清水正尚さん、TTで優勝したライダー
伊藤光夫さん、自分のメカニックだった
永田選さんの話などなど・・。日頃不真面目な私もこの時ばかりは全神経を傾け、幸せな時を堪能。
そして私からも質問。「フエイパリットレーシングマシンは何?」迷いも無く「1965のスズキ125ccです。何故なら雨のマン島TTでの予選で、500cc、350cc、250cc、どのクラスのバイクよりも速いタイムが出せた。2番目のアゴスチーニでさえ私の1分遅れだった。しかし本戦でメダルは取れなかったがね、ハハハ」と。
実は今回、日本から自分のバイク(ノートンインターマンクスレプリカMANXMAN500)のエンジンタイミングカバーを持参。「チャンピオン、これにサインしてください!!」
「こっちに来なさい」と玄関に手招き。そこには英国女王から叙勲されたM・B・E(Membe of the British Empire)が飾ってあり一緒に記念撮影して頂いた。
そんなこんなで楽しい時間はあっと過ぎます。本来時間は20分だけという条件でしたが、気が付けば1時間以上。世界を制した男は、人間的にも尊敬出来る素晴らしい方でした!
必ずまた何処かで会いましょう。サンキュー、チャンピオン!!
【ヒユー・アンダーソンの紹介】
ニュージーランド国内レースで活躍した彼は、1960年24歳の時単身ヨーロッパヘ。AJS7R等でプライベーターとして好成績をあげる。その後スズキ50CCや125CCに乗り、世界選手権などで多数の優勝を経験。66年にロードレース引退後、NZでのモトクロスも多数優勝。80年代はクラシックバイクレースでマチレスG50等を駆り多数勝利。NZでバイクレースの基盤を作った国民的英雄。詳しくはクラブマン誌2号参照の事
勢い付いた私は、一旦オークランドの自宅へ戻りすぐさま今度はレックスと2人でオークランド近郊にある
マッキントッシュレーシング″へ。迷路のような工場地帯の奥に看板も無くそこはあった。マッキントッシュレーシング…。若き日にヴィンセントエンジンをオリジナルフレームに載せたレーサーを制作、ヒユー・アンダーソン氏がライディングしNZ
BOTTを制覇(相手は最新のドカティ等!)今やクラシックレースエンスーの間では知らない者はいない。世界で最も有名なマンクスノートンスペシャリストの一人だ。
中に入れば驚く車両だらけ!マンクスノートン、レーシングインター、ブラフシューペリア、JAWA GP、そんな車両がわんさか並んでいる。
ストリップされた一台のレーシングマシンに目が行った。じっとこらして見ていると、代表のケン・マッキントッシュが「それは本当にスペシャルなバイクだよ。マイクヘイルウッドがフレームをレイノルズに特注させたRC181さっ!」 ガガガガガガガガピーン!!噂に聞いてはいたがまさかここで出会うとは…。
マッキントッシュレーシング |
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マイクヘイルウッドスペシャルRC181 |
マイクヘイルウッドスペシャルRC181/この車両がGPを走ったのほ極僅か。何故か?当時のホンダが他メーカーのフレームを使用するのを禁止した為と言われている。マイクはノーマル181のハンドリングに苦しめられていた。どうにか改善したくとも、彼のライディングのレベルでは少し補強してもすぐに限界を超えてしまう。そこで知人にフレーム制作を依頼。最高のエンジンに相応しいフレームが出来上がった。しかし、頑固なホンダは黙っていない。「絶対に使っちゃダメ」と言う事で、この幻の181改はマイクのガレージにお蔵入り。マイクの死後、コレクターが購入。そしてそのコレクターが友人でもあり、世界でも有数のレーシングマシンレストアラーでもあるケンにこれを再生するよう依頼。
実際目の前で見ると鼻血ブーですよ。今の目で見ても現代的で美しいフレームワ一ク。この車両が多くのレースを走っていたなら歴史が変わっていただろうに。レストアが終われば多くのイベントで走り出す事だろう。
ファクトリーは2週間後のクラシックレースイベントの為大忙し。その日はラッキーな事にヒストリックマンクスのオーナーによるシェイクダウンに居合わせた。シブいオーナーにケンが色々とレクチャー。
美しいマンクスがニュージーランドの強い日射しを浴びて更に美しく輝いていた。最後にケンにもヒユーと同じくタイミングカバーにサインを頂きファクトリーを後にした。
次の日、クレーグとタカノも無事挙式。(本来の目的)5日の滞在を終え無事帰国の途についた。(帰りはスルーパス)
今回英語教師との出会いをきっかけに、世界チャンピオン、マンクススペシャリストに会う事が出来ました。これは正に一期一会でございます。人生と言うのは面白いものですね。真面目に好きな物に勢力を傾け、邁進すればこうやって全ての物が連鎖的に反応するのです。
クラブマンのメインカメラマンである磯部孝夫氏。氏は20年以上、マン島、デイトナを行き来している重鎮であります。以前そんな方に一つ質問をぶつけました。
私:「今までで一番好きなバイクは何ですか?」
磯部氏:「バイクに関わる全ての『人』が印象に残っています。本当に素晴らしい出会いを与えてくれるものがバイクという道具だと思います」
う〜ん。崇高な御意見です。私も今回、改めて全くその通りだと実感いたしました。バイクと言うのは本当に素晴らしい出会いを与えてくれますね。
私はこれからも大好きなクラシックレーシングヒストリーを勉強し、多くの伝説の人に会い、もっともっと深みにはまり、我々30代はもちろん若い世代に過去の偉大な歴史を伝えていきたいと思います。
忘れられない時間を与えてくださった全ての関係者に感謝申し上げます。
クレーグ&タカノ、結婚おめでとう!
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