1967年スペインGPを終え、バルセロナの常宿
Hotel Astoria を出発、ドイツの Hockenheimに向かう。
(真ん中は片山義美)
(3)追い越しには十分な注意を

 マシンと部品を積んで、イギリス製のバンCommer(綴りはこれでよかったかな?)で、ヨ−ロッパ中を走り回ったが、荷物を満載すると、最高速度は120km/H弱しか出なかった。ドイツのAutobahnには制限速度はない。ポルシェなどのスポ−ツカ−は、200km/H以上で走っているものもある。
 前に遅い車がいて追い越そうとし、サイドミラ−で後方車両を確認すると、遙か彼方に車が見える。これだけ離れていればOKだなと思い、追い越し車線に出、追い越しながら後を確認すると、もうすでに後にピッタリついている。このようなことが、しばしばだった。
 彼らの車との速度差は100km/Hあるのだから・・・。後方車両の確認をして、背の低い車に見えたら、やり過ごしてからでないと・・、追い越しは大いに危険と実感したものだ。

(4)240km/Hのスピ−ドの体験

 1962年のフランスGPとTTレ−スの間に、西ドイツのピストンメ−カ−Mahle(マ−レ)社を訪問のため、松宮氏のジャガ−でパリ−とStuttgartを往復したときだった。このジャガ−の搭載エンジンは、V8で排気量は聞いたけど忘れたが・・彼はカ−マニアだ。
 Autobahnでは常時180km/H前後で走らせていたが、「今から全開で走るからね。」と言ってアクセル全開に。メ−タ−は240km/Hだ(メ−タ−は甘いとは思うが)。車は真っ直ぐに走らず、少し左右に振れながらだ。100km/H位のスピ−ド差でずんずん車を追い越して行く。もしも追い越し車線に車が出てきたら・・。これが、240km/Hの初体験だった。Autobahnでは、何故スピ−ド制限を設けないのだろうと不思議に思ったものだ。

(5)片山義美くんがうしろから

 私の運転でAutobahnを全開で走らせているときだった。後方で「コツッ・・コツッ」と音がした。何の音かなと思ったが・・しばらくすると「うしろから押される感じ」・・バックミラ−でうしろを見ると、バックガラス越しに、大きく片山くんの顔が見え、ニコニコ笑っているではないか。先ほどの「コツッ・・コツッ」といった音は、彼の車のフロントバンバ−を、私の車のリア−バンバ−にぶつけていた音だ。そしてうしろから私の車を押しているのだ。
 私の車は全開で走っているのだから、スピ−ドを上げて逃げることも出来ない。スロットルを絞るのも怖くて出来ない。やむを得ず、そのまま走る。
 前方にスピ−ドの遅い車が見え、距離が狭まって来る。片山くんの車はまだ後にくっついたままだ。サイドミラ−で後方車両を確認して追い越し車線に出て、遅い車を追い越す。片山くんの車も後にくっついたままでの追い越しだ。
 この話をチ−ムの連中に話したところ、何人かが「おれも、やられたよ」と言っていた。この時以降、私は片山くんの運転する車の前を走ることは出来るだけ止めることにした。
 これを読んだ方々は「そんなの無茶苦茶だ!」と言われるかもしれませんが、彼の運転技術・・運転への自信・・の一端をお話したまでである。
どこかの国境で順番待ち
手前は筆者、向こうは永田
西ドイツのアウトバ−ン
(1)1960年代前半のヨ−ロッパの高速道路事情

 日本で名神高速道路が全通したのが1964年、東名高速道路が全通したのは1969年である。
 1960年代前半のヨ−ロッパの高速道路事情はどうであったか述べてみる。
 まず、一般道路については、日本では幹線道路以外は まだ未舗装道路がほとんどだった。これに対して、ヨ−ロッパの国々はどんな細い道路でも舗装されていた。
 しかし、高速道路はまだまだ未建設の状態だった。イギリスでは、Londonから北へ100kmほどのBirminghamまでのM1が開通していた程度で、Birmingham以北を建設中、フランスはパリ郊外に数十キロが開通している程度で、まだ建設中のものはなし、小さな国のオランダ・ベルギ−は主要幹線が開通、これに対し、西ドイツは第2次大戦前に独裁者ヒットラ−が作ったAutobahnが全土にはりめぐられていた。敗戦国西ドイツの復興に、このAutobahn が大きく寄与したんだろうと思ったものだ。また、西ドイツと同じ敗戦国であるイタリアには行くチャンスがなかったが、当時の地図を見ると、北部のTorino・Milano・Venezia(Venice)・Firenze(Florence)・Renovaなどの主要都市はすでに高速道路で結ばれていた。そして、Firenze(Florence)とRoma間、さらにRoma以南も建設が進んでいたようだ。第2次大戦の戦勝国であるイギリス・フランスの高速道路建設が何故遅れていたのか不思議な思いがした。共産圏の東ドイツには1963と1966年の2回南部の都市Karl Marx Stadt(Chemnitz)を訪れた。ヒットラ−の遺産Autobahnはそのまま使用されていたが、交通量が極端に少なく、道路整備が十分行われていないのか大分荒れている印象だった。なお、スペイン・デンマ−ク・スエ−デン・フィンランドには、まだ高速道路は全くなかった。

(2)老人の運転の多いのに驚く

 西ドイツのAutobahnを走っていて、良く目についたのは、老夫婦の車だった。しかも女性が運転して・・・。車種はホルクスワ−ゲン(カブト虫)が多かった記憶だ。当時この車は、日本円換算して36万円くらいと聞いた覚えがある。
 当時の日本では、女性が免許証を取ることなど、皆無に近かった。また、男性の老人なども免許証を持っている人は無かった時代だった。
 日本も西ドイツも第2次大戦の敗戦国であったが、戦後の経済復興は西ドイツの方が大分早かったのではないかと感じたものだった。私の目には、戦勝国のイギリス・フランスと敗戦国の西ドイツで、生活面、経済面などで格差は感じられなかった。
 
1962年以降は、イギリスの commer で、
ヨ−ロッパを走り回った。最盛期には6台
を所有していた。車体色は、レ−シング
マシンのカウリングと同じ青色、
「日の丸・JAPAN・SUZUKI MOTOR」を描いて。
1961年にはこの車を
日本から持ち込んだ。
大きすぎてチ−ムの評判
は良くなかった。