何処の国で開催される世界選手権レ−スも観客の動員数はすごいものだったが、中でも東ドイツGPの観客数は多かった印象だった。共産国で特に楽しみのない生活を送っていた民衆にとって年に一度のお祭りだったのか・・・また、地元
MZマシンの活躍を期待してか・・・MZマシンの出場台数の多さも驚きだった。
東ドイツGPには、他のGPでは見られない特有な風景がある。それは観覧席に林立するポ−ルである。この長いポ−ルの高所にいくつかの腰掛け部を作り、ここに腰掛けてレ−スを観戦するのだ。確かに高みの見物で特等席である。ポ−ルがどのように設置されているのか知らないが、倒れるような危険はないのかと気になったものだった。
何年の東ドイツGP125ccスタ−ト前写真か明確でないが、観客席に林立するポ−ルの
高所に腰掛けて観戦する人々。東ドイツGP特有の光景である。
(3)東ドイツGP特有のレ−ス観戦特等席
東ドイツ
私は、1963・1966年の2回、東ドイツGP参加のため、共産圏下の東ドイツに入国した。東ドイツ入国で、今も記憶に残っていることを記述してみる。
(1)東西ドイツ国境と入国手続き
東ドイツ国境が近づくとアウトバ−ンから一般道に下りることになる。ヒットラ−の遺産のアウトバ−ンは、そのまま東ドイツに続いている筈だが、アウトバ−ン上で入国手続きが出来るのではない。一般道から更に狭い山道を登ったところが国境検問所だった。
完全武装した兵士の立ち会いで、車の床下まで、非常に厳しい検査を終え、やっと入国が許可された。
なお、出国までの移動の経路も指示され、それに見合ったガソリン券が支給される。入国出来たからといって、何処へでも行けるわけでなく、ガソリンも自由に買えるわけではない。
狭い山道を下って、東ドイツ側のアウトバ−ンに入る。交通量は極端に少なく、道路整備が十分行われていないのか大分荒れている印象だった。
200kmほどアウトバ−ンを走って、レ−スの開催される Karl Marx Stadt(Chemnitz) に入り、まず目にとまったのは、市電の運転手が女性だったことだった。当時の日本では、自動車の運転免許証を持っている女性は皆無といってもよく、女性の社会進出などは、まだまだの時代で、共産国は違うんだなあと驚いたものだった。・・・・今の日本では、女性の長距離トラックの運転手も珍しくないが・・・。
(2)Degner家族の東ドイツ脱出を想う
1961年9月のスエ−デンGP後Degnerは、亡命を敢行した。時を同じくして、Degnerの奥さんと幼い子供も、東ドイツから西ドイツへの亡命に成功した。Degnerの友人?の車で、荷物箱に潜み、子供は睡眠薬で眠らせての国境検問突破だったと聞いていた。私たちが経験した国境の検問の厳しさからしても、Degnerの奥さんと子供が、よくも亡命できたものだと驚いた。全く命がけの脱出だったと想像する。