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(6)マンクスキャット(Manx Cat)
尻尾のないManx Cat
マン島と言えば、歴史ある「TTレ−ス」で有名なのは言うまでもないが、ペットマニアたちのあいだでは、「マン島のマンクスキャット」 としても、結構名前が知られているようだ。
 私が「マン島の猫は尻尾がなくManx Catと呼ばれ有名だ」と知ったのは、マン島到着後のことだ。店ではアチコチで絵葉書が売られており、見た猫たちは全部尻尾がなかった。

 ホ−ムペ−ジで調べたManx Cat の記事の抜粋を以下に記述してみます。

 しっぽのないユニークな猫は、数百年も前にマン島で自然発祥した猫です。この島で突然変異的にしっぽのないネコが生まれ、そのネコの持つ優性遺伝子が子孫に伝わったものだと考えられている。

 その起源については、おもしろい話しが数多く伝えられている。
・「ねずみを追いかけていた猫が、ノアの箱船に一番最後に飛び乗ったため、閉まるドアに尾尻を挟まれて尾がなくなった」
・「マン島を住処にしていた海賊は陸で狩猟をするとき、猫の尾尻を帽子の飾りにすると音を立てずに獲物に近づけると信じていたので、マン島の猫の尾尻は全部切り取られてしまった」
・「1588年に難破したスペイン船から逃げたしっぽのないネコが、マン島に泳ぎ着いた」などです。

 しっぽがないことが特徴となっているが、正確には「まったく尾のないランピー」と、「わずかに尾のあるスタンピー」の2種が存在する。
 その原因をつくった突然変異による優性遺伝子は、このネコから尾をなくしただけでなく、同型接合体(ランピー同士)を交配させると子猫が母ネコの胎内、または出産直後に死んでしまうという、やっかいな“特徴”も伝えてしまった。そのため「マンクスキャットの繁殖は、ランピーとスタンピーの間で行こなう必要」がある。

日本ではまだ珍しいマンクスキャットは、ペットとしてもショー・キャットとしても楽しみな猫種です。

(7)ホテルの主人テア−さんのお説教

 Fernleigh Hotel の主人テア−さんは、TTレ−ス中は何かの役員(アナウンス?)をやっている人だった。

 彼に「何しに来たのか?」と聞かれて「レ−スに参加して、勝つために来た」と答えると「とんでもない。それじゃあ教えてやろう」と言って次のようなお説教をされた。「1年目はコ−スを勉強せよ。2年目は1年目に勉強したことを復習する年だ。3年目こそ勝たなきゃあいかん」この言葉は、後になって、なるほどと感心させられたものだった。

 ホンダさんは、1959年にTTレ−ス初出場して1961年に初優勝、スズキは1960年に初出場して1962年に初優勝といづれも3年目に初優勝だ。ヤマハさんは1961年に初出場して、1962年は不参加、初優勝は1965年と4年目であったが・・・。
大勢の子供たちが遊びに来た
(2)神谷安則さんがコック長
世界で2番目?の水車
ファンレイ・ホテル
ダグラスの港
 初めてのマン島ということで、お米、味噌・海苔・梅干しなどの日本食を持ち込み、1日1回くらいはご飯を食べた記憶だ。ホテルのキッチンを借りて、コック長は神谷安則さん、彼はマシンの整備に秀でているだけでなく、何をやっても器用な男だ。炊飯器も日本から持って行った。この文章を書くに当たり、日本とマン島で電圧が違ったであろうから、持っていった炊飯器は・・・?と疑問が湧いていた。数日前 神谷さんが来宅したので、聞いてみると、当時日本で200ボルト用の炊飯器も入手出来たんだと言っていた。

 マン島の子供たちは人なつっこく、我々がホテルの前庭で休息などしていると、大勢の子供たちが遊びに来た。ある時、ホテルの食堂を借りて、数人の子供たちに日本食をご馳走?してみたが、白いご飯は口に合わず、牛乳をかけてシブシブ食べたこと、ジャパニ−ズス−プ(味噌汁)は全然NGだったことを思い出す。

(3)タバコの自動販売機

 日本でタバコの自動販売機が出現したのは、いつ頃だろう?。当時マン島にはタバコの自動販売機があり、使用法が解らず、子供たちに教えてもらった記憶がある。

(4)洋式トイレ

 東洋と西洋の文化の違いというか、生活習慣の違いというか・・私の一番困った・・苦労したのは、トイレであった。我が家も1984年に家を建て替えた時から、洋式トイレになったが・・。
 生まれて以来、ずっと和式トイレを使用してきた私にとって、洋式トイレとの出逢いは羽田を出発しロンドンに向かったBOAC機であったが、機内では「大」の方は我慢したのか用はなかった覚えだ。マン島に行ってからが大変だった。便器にお尻をつけた格好では、どうしても便意をもよおさない・・・洋式トイレの上に乗って、和式トイレでのスタイルをしたりもした。結局、帰国するまで、洋式トイレに慣れることはなかった。
 我が家が洋式トイレに変わって、間もなく20年になるが、今はもう完全に「洋式トイレ党」になってしまったが・・習慣というのは恐ろしいものだ。
 洋式トイレは当然水洗式だが、当時の日本のトイレは下を覗けば汚物が見える所謂「汲み取り式」だった。いや、当時どころでなく、現在でも古い家では、まだ「汲み取り式」の便所が残っているのが、我が日本であるが・・。
  
(5)日本人ほど風呂好きはない

 ファンレイ(Fernleigh Private Hotel)の部屋数は20室ほどのホテルだ。バスは1個所しかなく、しかもタンクの容量は4人分程度しかなく、入浴希望者は申し込んで・・・ということで、希望者が全員入浴することは出来なかった。
 我々日本人は殆ど誰もが毎夜入浴希望だが、他の外人たちには余り希望者はないようだった。だから、殆ど日本人だけでバスを独占して使っていたような状態だった。
 ホテルの人に、「日本人はバスがどうしてそんなに好きなんだ?」と言われたこともあったし、私は「白人は何故あまり風呂に入らないんだろう?」と思ったものだった。
(1)マン島での通関

 マン島での宿は、ダグラスの町並み、港がよく見える高台のファンレイ・ホテル(Fernleigh Private Hotel)にとり、整備場はホテルから200mほど離れたところのガレ−ジというか倉庫というか・・を借用した。広くはあったが、昼間でも暗く、余り良い環境の整備場とは云えなかった。だが、この ホテルも整備場も、1967年まで、ずっと 使うことになった。

 マン島での通関は、この整備場にマシン・部品を搬入し、役人一人が来て、通関業務を行った。私が役人にずっと付き合ったが、パッキングリストに従い、全部品のパ−ツナンバ−・部品名・個数を読み上げさせられ、その部品の入った袋を提示し、抜き取りで個数もチェックされ、3時間近くかかり、大分疲れたという記憶がある。
初のマン島