1962年には、スペイン・フランス・TTレ−ス・オランダ・ベルギ−・西ドイツの6GPレ−スに参加した。第1戦のスペインGP、第2戦のフランスGPを終え、ベ−スキャンプを置いていたパリに戻って来た。この年のRT62マシンは、西ドイツのStuttgartにあるMahle(マ−レ)社製の鍛造ピストンを使用しており、打合せのためMahle社を訪問する必要が出てきた。5月15日に松宮氏と二人で出かけることになり、何気なくパスポ−ト記載の訪問国を見ると西ドイツ(Federal Republic of Germany)の名前がない。第6戦の西ドイツGPまで参戦する予定で来ているのにどうしたことなんだろう。外務省側のミスなのか、それとも我々の申請のミスなのか?
西ドイツの国名はどこにもない!
Hongkong, India,
Italy, Luxemburg
and Denmark
〔経由国〕
〔有効国〕
Spain, France,
United Kingdom,Netherland
and Belgium
【1962年パスポ−トに記載の国名】
松宮氏に、このことを話してみると「私に任しておけ」と言うので、そのまま松宮氏のジャガ−で出発した。松宮氏の向かったフランス・西ドイツの国境は、田舎の役人が二人しかいないところだった(事務所は一つしかなかった覚えだからフランス・西ドイツ共用の小さな国境事務所だったと思う)。松宮氏は私を車に残して事務所に向かい、役人と大声で、ニコニコしながら、何年来の親しい友人のように話している。相手は誰だったかな?とキョトンとしていた様な感じ・・・。そして、車に戻ると、笑顔で手を上げて、国境を通過。松宮氏も私もパスポ−トを見せもせず、出入国の印も押さずに無事国境を通過してしまった。そして、この国境近く(Dillingenという町だった記憶)に居を構えたDegner宅に寄り、Degnerの奥さんと子供にお会いして、Mahle社のあるStuttgartへ向かった。Degnerが亡命したのは、昨1961年9月17日のスエ−デンGPの時であり、奥さんや子供も時を同じくして東ドイツを脱出亡命したのだから、まだ亡命後8ヶ月のころだった。Degnerの奥さんと会ったのは、この時の一度だけだった。Mahle社での打合せを終え、同じ国境を通ってパリに帰った覚えだ。パスポ−トには帰りの出入国印もない。
この松宮昭氏は、もともとシェル石油に勤務していたが、ヨ−ロッパの在住も長く、英・独語とも堪能で、二輪のレ−ス事情に詳しく、スズキの1960年TTレ−ス初参加にともない、レ−ス部門のマネ−ジャ−として、スズキに入社し、1961年からはロンドン駐在事務所長、ロンドン駐在事務所をブラッセルに移転してからは、ブラッセル駐在事務所長を勤めながら、我々のレ−ス活動を支援してくれた人物である。
その後、TTレ−ス(Degnerが優勝)・オランダGP・ベルギ−GPを終え、7月9日西ドイツGP参加のためStuttgartに向かうべく、ベルギ−・西ドイツ国境へ向かった。パスポ−トの訪問国に西ドイツが記載がないのは、私だけでなく全員だ。チ−ムの渉外担当者は「何とかなるさ」という考えだったようだ。しかし、国境で入国を拒否され、仕方なく日本大使館のあるブラッセルに戻り、「ビサ(正確に言えば、ビザではなく、訪問国の追記と言うべきか)」を取ることになった。
1962年7月9日 ベルギ−Bruxellesの
日本大使館で西ドイツへのビザを取得
【西ドイツへの入国許可】
西ドイツへ「ノ−ビザ」で