【マン島出場宣言】いわゆるマン島出場宣言には、ふたつの文章が存在する。ひとつめは社報でマン島出場を語ってから2ヵ月半後の1954年3月15日に関連各社あてに発表された、マン島出場に向けての「ご挨拶」といったもので、自らの決意を敬語で表現したていねいなものであった。
一方、一般に知られている「マン島出場宣言」は、その5日後3月20日に社内に向けて発表されたもので、こちらは確固とした決意を烈々たる文体で表現した、情熱ほとばしる「檄」ともいうべきものであった。
いずれにしても、マン島、ロードレース、世界への挑戦、日本産業の啓蒙、日本機械工業の真価を全世界に誇示……など、当時の日本では誰もが考えもしなかったスケールの大きな発想と未来への展望を込めたこの宣言は、日本オートバイ界、いやむしろ日本工業界が戦後の復興と隆々たる繁栄を手にする第一歩となる、全世界に向けた宣戦布告文であったといえるかもしれない。
1953年から始められた富士登山レースが、観光客誘致を主眼とした客寄せイベントであったのに対し、1955年に第1回が開催された浅間レースは、国内オートバイメーカーの技術発展を主目的とした官民一体の国策レースともいうべき側面を備えていた。国内では実用/運搬用オートバイが順調に生産され、戦後復興の礎となる活躍を見せてはいたが、いまだ外国製品の模倣が多く、また故障や欠陥も当たり前という寂しい現状であった。
そこで、自国自社製品の切磋琢磨を目的としたレースが計画され、日本小型自動車工業界・二輪車部会が組織した日本モーターサイクルレース協会が、統一レースを主催。これが歴史にその名を刻む浅間レースとなった。
第1回は1955年11月5〜6日。レースの正式名は第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(浅間高原レース)。北軽井沢を中心とした公道を封鎖して行なうレースであったが、第2回からは専用の浅間テストコースを建設、使用し名称も浅間火山レース(第2回全日本オートバイ耐久ロードレース)となった。
レギュレーションでは外国製部品の使用を厳しく禁止し、関連部品の技術向上もその重要な目的に定められていた。
浅間レースとしての開催は1959年まで続けられ、以後、1960年の宇都宮、1961年のジョンソン基地などのレースを経て、1962年の鈴鹿サーキット開場によって日本のロードレースは本格的なスタートを切ることになる。
静岡県浜松市を中心とした国内のオートバイ産業は、機織りなどのそれまでにあった地場産業を基礎として発生発展し、小規模な工場と古式ゆかしい機械とによってその基礎を築いていた。そんな中、ホンダはこのマン島TTレース出場宣言以前に140万ドルもの工作機械をアメリカ、ドイツ、スウェーデンから購入。現在の金額に換算すれば数10億円という外貨の使用を、多くの人はホンダの大風呂敷と揶揄し、なかばあきれ顔でその行動を見つめていた。
このマン島出場宣言も、ホンダならではの夢物語、どでかいアドバルーンと受け止められたのは当然のことであった。
1949年にスタートした世界選手権ロードレースは当時、戦前からの大きな勢力であったイギリス勢と、戦後大きな力をつけてきたイタリア、ドイツ勢の間でその覇権が争われていた。イギリス製マシンを代表するAJS、ヴェロセット、ノートンなどは、戦後にモディファイを加えられてはいたものの、基本的には戦前モデルの延命マシンであり、500、350ccクラスで辛うじてタイトルを獲得してはいたが、1952年のノートンのダブルタイトルを最後にそれ以後GPのメーカータイトルを獲得することは出来なくなっていた。
この機に上昇機運に包まれたのがモンディアル、モト・グッチ、ベネリ、MVアグスタなどのイタリア勢、そしてドイツのNSUだった。
各メーカーは、戦後設計の、いわば最新ワークスマシンを擁し、1950年代のGPシーンを席巻するとともに、市販車の販売でも大きな成功を収めつつあった。すでにMVアグスタ、NSU、モンディアルなどでは市販レーサーをもラインアップし、その性能は日本製オートバイとは天と地ほどの差があった。
1952年型のMVアグスタの市販レーサー「コルサ125」でも16馬力の最高出力を発揮しており、ワークスマシンはそれを上回るパワーを得ていた時代だった。ホンダがサンパウロに持ち込んだR125の最高出力が5馬力程度だったことを考えると、その差は歴然どころか、同じレースを走ることが不可能なほどの隔たりがあったのだった。
当時の市販車においてもその差は明らかで、1953年型ドリーム3E(150cc)が5.5馬力の最高出力であったのに対し、1951年型NSUスーパールックス(125cc)が8.6馬力、1953年型MVアグスタ・ツーリスモEルッソ(125cc)が6馬力などの最高出力を発揮しており、その走行性能においても大きな遅れをとっていた。
宣言
吾が本田技研創立以来ここに五年有余、劃期的飛躍を遂げ得た事は、全従業員努力の結晶として誠に同慶にたえない。
私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであつた。
然し、全世界の覇者となる前には、まず企業の安定、精密なる設備、優秀なる設計を要する事は勿論で、此の点を主眼として専ら優秀な實用車を国内の需要者に提供することに努めて来たため、オートバイレースには全然力を注ぐ暇もなく今日に及んでいる。
然し今回サンパウロ市に於ける国際オートレースの帰朝報告により、欧米諸国の実状をつぶさに知る事ができた。私はかなり現実に拘泥せずに世界を見つめていたつもりであるが、やはり日本の現状に心をとらわれすぎていた事に気がついた。今や世界はものすごいスピードで進歩しているのである。
然し逆に、私年来の着想をもつてすれば必ず勝てるという自信が昂然と湧き起り、持前の斗志がこのままでは許さなくなつた。
絶対の自信を持てる生産態勢も完備した今、まさに好機到る! 明年こそはT・Tレースに出場せんとの決意をここに固めたのである。
此のレースには未だ會つて国産車を以て日本人が出場した事はないが、レースの覇者は勿論、車が無事故で完走できればそれだけで優秀車として全世界に喧傳される。従つて此の名声により、輸出量が決定すると云われる位で、独・英・伊・仏の各大メーカー共、その準備に全力を集中するのである。
私は此のレースに250cc(中級車)のレーサーを製作し、吾が本田技研の代表として全世界の檜舞台へ出場させる。此の車なら時速180km以上は出せる自信がある。
優秀なる飛行機の発動機でも1立当たり55馬力程度だが、此のレーサーは1立当たり100馬力であるから丁度その倍に当る。吾が社の獨創に基く此のエンジンが完成すれば、全世界最高峰の技術水準をゆくものと云つても決して過言ではない。
近代重工業の花形、オートバイは綜合企業であるからエンジンは勿論、タイヤ、チェーン、気化器等に至るまで、最高の技術を要するが、その裏付けとして綿密な注意力と眞摯な努力がなければならない。
全從業員諸君!
本田技研の全力を結集して栄冠を勝ちとろう、本田技研の將來は一にかかつて諸君の双肩にある。ほとばしる情熱を傾けて如何なる困苦にも耐え、緻密な作業研究に諸君自らの道を貫徹して欲しい。本田技研の飛躍は諸君の人間的成長であり、諸君の成長は吾が本田技研の将来を約束するものである。
ビス一本しめるに拂う細心の注意力、紙一枚無駄にせぬ心がけこそ、諸君の道を開き、吾が本田技研の道を拓り開くものである。
幸いにして絶大なる協力を寄せられる各外註工場、代理店、関係銀行、更には愛乗車の方々と全力を此の一点に集中すべく極めて恵まれた環境にある。
同じ敗戦国でありながらドイツのあの隆々たる産業の復興の姿を見るにつけ、吾が本田技研は此の難事業を是非共完遂しなければならない。
日本の機械工業の眞價を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。
ここに私の決意を披歴し、T・Tレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君と共に誓う。
右宣言する。 昭和二十九年三月二十日
本田技研工業株式会社 社長 本 田 宗 一 郎謹啓
尊兄倍々御機嫌麗しく御隆昌にあらせられますこと慶賀この上も御座居ません。弊社創立以来五年有余、劃期的飛躍を遂げました事皆偏に御愛顧御庇護の賜と深く感謝致して居る次第で御座居ます。私の青年時代よりの夢は私の製作致しました自動車を以て全世界の自動車競争場裡に於て覇者となることで御座居ました。
終戦後二輪車なれば最初から四輪車のような尨大なる設備をしなくても企業として成り立つと考え、先ずこの分野に於て出発いたしました。時を同じうして欧米でも劃期的大飛躍がこの分野に於て展開されたのであります。
世界の覇者となる前に、先ず企業の安定、精密なる設備、優秀な設計を要する事は勿論でありますので、この点を主眼として専ら優秀な実用車を生産し、国内の需要者に提供することを目標と致しておりましたため、オートバイレースには全然力を注ぐ暇もなく今日に及びました。その間国内の優秀工作機械と又貴重な外貨百四十万弗を以て米独瑞から購入しました工作機械とを加えて現在九百台を越える設備となりましたし精度性能に就きましても絶対の自信を以て生産し得る態勢となった次第で御座居ます。
本年二月、全世界から参加した選手に依り行われましたブラジル、サンパウロ市四百年祭行事のオートバイ・レースに弊社も社員大村を選手に、馬場を介添えとして派遣致しました。その事の決定より出発迄三十日余りしかなかったのでドリーム号を一部改造して一二五ccとして出車させましたところ非常に難コースで全行程六四粁、十九ケ國二十二台出場、四台故障にて未着、大村は最高時速一一五粁を以て十三位と云う国際レース初出場としては先ず好成績で御座居ました。
両名よりの報告で欧米諸国の実状を詳細に承知致しました。私は可成り現実に拘泥せず世界を見詰めて居りました心算で御座居ますがやはり日本の現在の周囲のことに心を取られていた事に氣がついたのであります。やはり世界は物凄いスピードを以て進歩致して居るので御座居ます。然し逆に私は私年来の着想を以てすれば必ず勝てると云う自信が昂然と湧き上がり持前の闘争心がこのままでは許さなくなりました。
弊社企業の内外の体制も完了致しました現在、当初よりの願望の漸く時期来るの感を深く致し、昭和三十年六月、英国にて毎年催されるT・Tレースに出場する決意を此処に固めました次第で御座居ます。
御高承の通りこのレースは長距離二四二・八八粁の難行道路で御座居まして未だ国産車を以って日本人が出場した事はありません。毎年予選決選に死者三名位は必ず出ますし、重軽傷は相当数ありますが年を逐うて旺んの状態で御座居ます。日本のそれとは勿論比較になりませんが六月に決行されるのに観覧券は三月で賣切れると云いますからその人氣の程も解る訳で御座居ます。
このレースの覇者は勿論、車が無故障で完走出来ればそれ丈で既に優秀車として全世界に報道されます。従て、この名声に依り輸出数量が決定すると云われて居るので独英伊仏の各大メーカー共その準備に全力を挙げてこれに力を注ぎます。又部品メーカーも全部英国に集りその車に付けてある自己の製品のサービスをして、又その不良が原因で故障した場合は全世界への賣行きにも関係すると云う位で御座居ます。
私はこのレースに二五〇cc(中級車)のレーサーを製作出場させます。時速一八〇粁以上の速力は絶対出せる自信が御座居ます。優秀なる飛行機の発動機でも一立当り五五馬力程度で御座居ます。このレーサーは一立当り一〇〇馬力位で御座居ますので丁度其の二倍と云うことになりますし、勿論模倣ではなく全くの独創で御座居ます。これが完成致しますれば全世界最高峰の技術水準と見て頂きまして差し支え御座居ません。オートバイは近代重工業の花形であり、且つ綜合企業でありますからエンヂンは勿論、タイヤ・チェーン・氣化器等に至る迄最高度の技術を要するものであります。幸ひ弊社には情熱に燃ゆる若い社員二千五百名が私の命令なれば如何なる困苦にも耐え、緻密な作業研究にも日夜努力を致し進んでこれを貫徹して呉れますし、ご協力下さる各工場、各部品メーカーも材質又は精度に対し私が苛酷な迄の要求をいたしても、満たして下さることと信じて居ります。又私共の製品をこよなく愛して下さる全国十五万の御顧客様も、又そのお顧客様に最善のサービスを努力傾注して下さる全国の代理店、販売店の皆様、金融をして下さる銀行の皆々様、思えばここに全力をこの一点に集中して製作出来ます私は幸運児と存じます。
同じ敗戦国のドイツのあの隆々たる産業の復興の姿を見るにつけ、私はこの難事業を是非共完遂致さねばなりません。敗戦は私共世代の人間の責任で御座居ます。この惨憺たる国土とした事は若いこれからの人に何としても申訳なく思いますが、ここに皆様の御教導を得まして日本の機械工業の眠っていなかった事を全世界に誇示出来ますなれば、そしてこれを機会に自動車工業の輸出が始まりますなれば、若人に幾らかの明るい希望を持って頂く事が出来、技術者としての私の幸これに過ぎるものは御座居ません。
私四月末欧州に旅出、英国に赴き現地に於て各種調査の上六月帰国の予定で御座居ます。私の宿意と決心とを申上げこのT・Tレースに出場、優勝するため精魂を傾けて創意工夫いたしますことをここに宣誓致します。
敬具
昭和二十九年三月十五日
本田宗一郎
新年おめでとう。
昨年はいろいろと波瀾に満ちた年でしたが、従業員諸君の若い情熱とたゆまざる努力によって、本田技研は名実共に日本一のオートバイメーカーとして地歩を築くことができました。
国内で絶対優位を誇示するばかりでなく、国際社会に於いても世界第三位の生産量を誇っていますが、ジュノオ号の量産が実現されれば生産量はドイツのN.S.U.に次いで第二位にのし上るに違いない。
昨年は外国の優秀機械を大量に購入しましたが、今年も海外から最新優秀機械が沢山搬入される予定で、着々設備の充実を図り、それが実現の暁にはN.S.U.をはるかにぬいて世界第一位になる自信がある。
しかしながら単に設備が充実し、量産化されるばかりでなく、その上に秀れたアイデアと若さにあふれた情熱を兼ね備えてこそ、全ての人々に喜ばれ、歓迎される本当に優秀な製品ができ、待望の輸出も叶えられることと思う。
今年こそは輸出を促進し、日本の工業を世界に披瀝しなければならない。又それが我々の日頃の努力の目標でもあったのだ。
西独はいちじるしく復興したと云われている。しかし我々は西独を羨む必要はない。なぜなら本田技研こそは、若人の手で世界に誇る優秀な製品を作り、世界中が高い生活、能率的な生活をできるよう努力しているからだ。
私の理想は、世界連邦の一員として本田技研の若い人達が各国から迎えられる様な人格を持つようになることだ。なぜなら製品というものはものを作る人間の人格が最もよくにじみ出るものだからだ。
新春早々、大村、馬場両君は南米サンパウロのレースに出むくが、当地の市場調査も命じてある。英国のマン島のレースにも派遣するつもりだ。
専務は東亜のどこかに工場を設置し、国際市場に実力を以て挑戦するため何とか手ずるをつけたいと思っている。
そのためには君達の若い力に私は大いに期待を寄せている。
私も大いに勉強するから君達も未来へ大きく希望をもって勉強に励んで欲しい。
社長 本田宗一郎