4月上旬に船積みしたマシンや機材

 マン島出場に必要な物資は船便で送られた。マシン、工具、スペアパーツ、さらにコース完熟と連絡車として使われる市販車、さらに米や味噌、醤油、煎餅にいたる物資は大型コンテナ2台となり、横浜では船積み出来ず、次の寄港地神戸まで陸路急送し、はしけでようやく積み込むというぎりぎりセーフの冷や汗ものだった。しかし、マン島でこれを開梱すると、生もののいくつかはカビが生え、マシンのあちこちに錆が発生していた。東シナ海からインド洋、スエズ運河から地中海、ジブラルタル海峡を経てイギリスに至る1ヵ月に及ぶ海路の苛酷さが偲ばれる。

モンディアル

 イタリア/アドリア海に面したアンコーナ市の大富豪の息子として生まれたジュゼッペ・ボセーリが、自身の道楽で始めたモーターサイクル。市販車を生産することははじめから眼中になく、ただひたすら速度記録やレースでの戦績を追い求め、その車名もモンディアル(イタリア語の「世界」)とする、異質のメーカーだった。その潤沢な資金力によって数々の高性能車を生み出し、戦後イタリアンマシンの大きな牽引力となった。またカルロ・ウッビアリ、タルキニオ・プロビーニなどの名ライダーもこのモンディアルによって世界に羽ばたいている。ホンダが購入したのは1956年型のワークスマシンであり、第2研究課ではまさに穴の空くほどこのモンディアルを研究/解剖/試走したが、その高性能は認めながら一切模倣することをせず、GPマシンRCの開発を進めている。

苦労を重ねて手にしたドル

 1959年当時、海外旅行は自由化されておらず、海外渡航を許されるのは外交官や、輸出によって外貨を獲得できる商社/企業の社員などに限られていた。当時、輸出どころか海外から工作機械を買うばかりで外貨を使うことしかなかったホンダの社員に渡航許可はおりず、やむなくホンダに工作機械を販売する商社(幾らかの輸出によって外貨を稼いでいた)の嘱託社員の名目で全員の渡航許可がおりるという苦労もあった。持ち出せる外貨は1人500ドル(1ドル360円の為替レート時代であり、18万円)が上限だったが、当時20代だったマネージャーの飯田が大蔵省の為替管理課に日参し、度重なる折衝によってなんとか経費全体の持ち出しを許可された。「マシンづくりに勝るとも劣らないほど、当時のドルづくりは大変だった」という逸話が残るほど、それは困難な作業だった。

飯田佳孝

 1953年本田技研に入社し、庶務課に配属。緻密な富士登山レースの報告書製作が認められ、レース関係のマネージメントを担当するようになる。マン島出場に際しては、渡航手続き、ドルの確保に始まり、あらゆる事務処理を行ない、マン島に渡ってからは食事の手配や宿との細かい折衝、はては食料の買い出しから洗濯までをまかなった。ほとんどのマン島メンバーが「一番大変だったのは飯田さん」と口を揃えるように、レース出場の裏方を支えた重要人物。1960年、鈴鹿サーキット開場に向けた視察メンバーにも加わり、設計者ジョン・フーゲンホルツの起用にも大きな役割をはたした。

アクシデント

 マン島出場直前、ホンダは松竹京都製作の「妻の勲章」という、本田宗一郎夫妻を主人公とした映画に全面的に協力していた。そんな中、オートバイの走行シーンを撮影中に、封鎖されていた道路にトラックが進入し、すでに1959年1月にマン島メンバーに決定していた秋山邦彦がこれに衝突。ほぼ即死の状態で4月1日に他界するというショッキングな事故があった。マン島出発までわずか1ヵ月。急遽秋山の代わりに谷口を起用し、ホンダチームは4名の陣容を整えた。マン島へはメンバーが秋山の遺影を持参し、また遺髪をコースの見渡せる小高い丘に埋め、ともに挑戦を夢見たマン島上陸をかみしめた。そしてメンバーがコース完熟走行を行なっている5月19日、日本では「妻の勲章」が無事封切られ、ホンダのマン島挑戦を静かにバックアップしていた。

充分とは言えない戦績

 1954年3月にマン島出場宣言を発したホンダではあったが、その後の国内レースにおいて、その戦績は前途に多難を思わせる惨憺たるものだった。特にマン島出場を目指す125ccクラスでは一度も勝つことすらできず、また勝利を得たレースでも圧勝と呼べる大差をつけることは出来ずにいた。250ccクラスまでの小排気量では、2ストロークが完全にリードした状態であり、これらのレース結果から、ホンダのマン島挑戦を本気で危ぶむ声さえあがっていたほどだった。

マン島挑戦以前・国内レース  優勝メーカー
開催年月日 レース名     90ccクラス 125ccクラス 250ccクラス 350ccクラス 500ccクラス

1954年7月8日           スズキ     ―        モナーク     ―        ―   
第2回富士登山レース	

1955年7月10日          ―       ヤマハ      ホンダ      ―        ―   
第3回富士登山レース	 	

1955年11月5〜6日        ―       ヤマハ      ライラック   ホンダ      ホンダ
第1回浅間高原レース	 	

1956年7月9日           ―       ヤマハ      ヤマハ      ―        ―   
第4回富士登山レース	 	

1957年10月19〜20日      ―       ヤマハ      ヤマハ      ホンダ      メグロ
第2回浅間火山レース	 	

1958年8月24日          ―       ヤマハ      ホンダ      BSA      トライアンフ
第1回全日本モーターサイクルクラブマンレース

 ※第1回全日本モーターサイクルクラブマンレースはワークス主体のレースではないため参考結果
マシン開発

 レース部門である技術部第2研究課を中心に進められたマン島出場マシンの開発は、想像を遙かにこえる問題を抱えていた。型遅れのワークス・モンディアルを購入して分析/研究を行なったりもしたが、あまりの高性能ぶりにただただ驚くばかりだった。挑戦クラスに選ばれた125ccクラスの当時のトップマシンはすでに20馬力を越える最高出力を達成していたのに対し、ホンダはそのレベルに遠く及ばない状態だった。これが、マン島出場宣言から実際の挑戦までに5年の歳月を要した最大の理由だった。数々の試行錯誤の末、1958年に入ってレース用125ccエンジンが15馬力を発生し、この時点で1959年のマン島出場が正式決定された。エンジンレイアウトは当初から2気筒DOHCボア・ストローク44mm×41mmと決定されていたが、バルブは2バルブと4バルブが平行して開発/実験され、最後の最後まで決定をみないまま船積みの時を迎えることになる。

関口久一整備監督

 戦時中の名門航空機メーカー中島飛行機から、1957年本田技術研究所に入社。当時のレシプロエンジンの最先端技術を体得していた関口の組んだエンジンには、全幅の信頼が寄せられたという。RC各車の製作に河島の右腕として敏腕をふるい、マン島挑戦の初代チーフメカニックを担当。その後GPのチーム監督から4輪に分野を広げ、1965、1966年のF1チーム整備監督に就任。そして1973年からホンダのレース部門であるRSC(現HRCの前身)社長を務めた。常にレース畑にあり、数多くのライバルと切っ先を交えた闘将だった。

チーム監督の河島喜好

 1947年、創業間もない本田技術研究所に入社。初期の市販車設計に携わり、1951年にはホンダ初の4ストロークモデル「ドリームE型」を開発。テストライダーも務め、台風の中、自動車で伴走する本田宗一郎と藤沢武夫を振り切った「箱根の試走」は今でも語りぐさになっている。1956年に技術部第2研究課の課長に就任しレース部門の責任者となる。富士登山/浅間レースなどを担当し、マン島挑戦の初代チーム監督に。1959〜1961年まで監督を務めた。一時、第一期ホンダF1の監督を務めたこともあった。その後、1973年に本田技研工業の2代目社長に就任。まさにホンダの黎明期を築き、1983年、久米是志にその座を引き継ぐまで、ホンダを強力に牽引した。現・本田技研工業株式会社・最高顧問。

華やかだった羽田

 マン島へ赴くホンダチームの歓送には、ホンダ関係者はもちろん関連会社の社員からメンバーの家族や親戚までが訪れ、大変にぎやかな出発ロビーとなった。写真は、ライダーとその家族による記念撮影。前列でしゃがんでいる右端から田中禎助、谷口尚巳、鈴木淳三、そして主将の鈴木義一。鈴木が携えているのは故秋山邦彦の遺影であり、前列左端が秋山の父君。後列の婦人たちはほとんどが和服姿であり、当時の日本の世相が偲ばれる。

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羽田から飛び立った

 当時の「空の玄関」はもちろん羽田空港。成田が開港したのは1978年であり、それまでは旅客機による海外渡航はほとんどが羽田からだった。ちなみに海外旅行が自由化されるのは1964年で、それまでは民間人の海外旅行は著しく規制されていた。写真は左から河島喜好、谷口尚巳、鈴木淳三、ひとりおいて飯田佳孝、鈴木義一、ソフトをかぶるのがビル・ハントで、一番上段に関口久一がいる。南回り航路とは、羽田―香港―カルカッタ―カラチ―テヘラン―ベイルート―ローマ―ロンドン等を経由する航路。