●1929年9月19日、チューリッヒ近郊の町ホルゲン生まれ。この小柄なスイス人ライダーは、13年に及ぶレースキャリアの中で50ccクラスから500ccクラスまでの全クラスに出場を果たし、サイドカークラスにもパッセンジャーとして出場。'55年からMVアグスタのライダーとして125cc/250ccクラスに於いてその手腕を発揮し、'61年ホンダに移籍、'62 '64 '66年の125ccクラスのチャンピオンとなった。'66年の50ccクラスでは第5戦終了時点でランキング1位のポイントを得ていたが、富士スピードウエイで行われた最終戦、日本グランプリへのホンダチームの不参加により4つめのライダーズタイトル獲得には至らなかった。'66年いっぱいでのホンダの軽量クラスからの撤退と共に引退した。
●オックスフォード生まれ。英国のモーターサイクル販売会社の一人息子として幼い頃からオートバイと親しみ、ライダーとして恵まれた環境に育った。'61年プライベーターとしてホンダのマシンを貸与され出場したマン島TTの125/250ccの両クラスに優勝し(500ccレースでもノートンで優勝)ホンダに初のマン島での勝利をもたらした。その年の250ccクラスの選手権を獲得、翌'62年から4年連続でMVアグスタを500ccチャンピオンに導いた後、'66年ホンダのワークスチームに加わり250/350ccクラスの選手権を2年連続で獲得した。その卓越したライディングだけでなく、人間的な魅力からマイク・ザ・バイクと呼ばれ多くのファンから親しまれた'60年代を代表するライダーだったが、ホンダのファクトリー活動休止に伴い自動車レースへ専念(MVアグスタ在籍中F-1にプライベート参戦)した。9個の世界タイトルと76の世界GP勝利を残し、'81年不慮の交通事故で死亡した。

マン島3クラス優勝、7年連続優勝など、マイク・ザ・バイクのニックネームを戴く超トップライダー。ホンダに乗ったのは1961、1965、1966、1967年の4年間で、250ccクラス3回、350ccクラス2回のタイトルを獲得。ジム・レッドマンとともにホンダの黄金期を築いた不世出の天才ライダーとして今に語り継がれている。1981年、3月、交通事故によって40歳の若さで他界。1940年4月2日生まれ。

●本名スタンレイ・ミッシェル・ベイリー・ヘイルウッド。事業家の父の元、恵まれた少年時代を送り、6歳でオートバイに乗り始め、16歳でレースに参加。1957年、NSUを駆り17歳でGPデビューを果たし、その年早くも世界選手権ポイントを獲得。以後、父の財力と彼自身の才能によって数々のワークスマシンを乗り継ぎ、GPでの通算優勝回数76回(ジャコモ・アゴスチーニ122回、アンジェロ・ニエト90回に続いて歴代3位)、獲得タイトル9回(ジャコモ・アゴスチーニ15回、アンジェロ・ニエト13回に続いてカルロ・ウッビアリと並んで歴代3位)を獲得。

マイク・ヘイルウッド(Mike Hailwood)
ドゥカッティ

 1926年にドゥカッティ科学ラジオ会社として設立され、戦後1946年にモペットでオートバイ業界に参入。1956年からGPに参戦を開始し1958年ベルギーGPで初優勝。ホンダがマン島初挑戦の1959年にはヘイルウッド、タベリらがドゥカッティを駆っていた。メルセデス・ベンツのレーシングエンジンに搭載されて高性能を誇ったデスモドローミックのバルブ機構を2輪車用に発展させ、以後デスモドローミックはドゥカッティのお家芸のように語られている。これらのマシンは125、250ccクラスで活躍したが、GPでの優勝はわずか4回。残念ながらタイトルは獲得していない。写真は125ccクラスのワークスレプリカ「ダブルノッカー125」。

ルイジ・タベリ(Luigi Taveri)

●サイドカーレースの盛んなスイスに育ち、兄のパッセンジャーを務めることでレース界に足を踏み入れたタベリ。当初はパッセンジャーとライダーをかけもちし、ホンダ/日本車初の国際レースとなった1954年のサンパウロにも出場。その1954年スイスGPではサイドカーのパッセンジャーとして入賞するというGPライダーとしては珍しい経歴を持つ。その後本格的に2輪ライダーに転向し1955年にMVのワークスライダーを務めた後ドゥカティ、MZ、クライドラーを経て、1961年ホンダチームに加入。1961年から1966年まで6年間にわたって50ccクラスから350ccクラスクラスまでを乗りこなし、ホンダマシンによる優勝26回(50ccクラス6回、125ccクラス20回)、タイトル3回(125ccクラス)を獲得。温厚な人柄から「タベさん」の愛称で多くのファンに愛された。ホンダが不参加となった1966年の日本GPでは、是非個人出場でも良いから参加させてくれと当時の秋鹿監督に涙の嘆願をしたという。ホンダの軽量級の筆頭ライダーとして活躍後、1967年、ホンダが50、125ccクラスから撤退すると同時に引退した。ホンダが初めて海外レースを経験した1954年のサンパウロ市制400年祭のレースにも、125ccクラスにエントリーしていた。1929年9月19日生まれ。

MZ

 1916年に設立されたドイツのDKWツショパウ工場が、第二次大戦後東ドイツ領となり、国営企業としてスタートしたのがMotorradwerk Zschopau(ツショパウ・モーターサイクル工場の意)。戦後間もない1945年からオートバイの生産を始め、特色ある2ストロークエンジン、ロータリーバルブなどのメカニズムによって世界最高峰の2ストロークメーカーに躍進。世界選手権で活躍する西ドイツのDKWやNSUに対抗するため1950年代後半から世界選手権に挑戦し、エルンスト・デグナーとともに東ドイツの旗手として大きな活躍を見せたが、デグナーの亡命、東ドイツ国内の資材不足などで次第にその輝きは失われていった。写真は1959〜1960年型の125ccクラスマシン。

カルロ・ウッビアリ(Carlo Ubbiali)

 戦前からイタリア国内のレースに参加し、数々の国際レースでも活躍。1949年、世界選手権ロードレース開始と同時にGPデビュー。翌1950年には初優勝を果たし、その後MVの軽量級トップライダーとして125、250ccクラスでタイトルを連取。GP39勝は通算8位、9回のタイトルは通算3位という名ライダー。1960年シーズンをもってGPライダーから引退したため、ホンダとのからみはあまり多くない。1923年9月24日生まれ。

タルキニオ・プロビーニ(Taquinio Provini)

 ホンダがマン島出場宣言を発した1954年の第8戦イタリアGPにデビュー。ホンダがGPマシンのお手本として購入したモンディアルのワークスライダーとして1954〜1957年を過ごし、1957年に初タイトルを獲得。1958年からはMVアグスタ、1960年からはモリーニ、そして1964年からはベネリとワークスイタリア車だけを乗り継いだ熱血ライダー。特に単気筒モリーニでホンダマルチと激戦を繰り広げた時代は、彼の不屈の闘志を見事に表現していた。1966年のマン島で大怪我を負い引退。その後オートバイを主としたプラモデルのメーカー「プロター」を興し、ミニチュアGPの世界を疾走し続けている。1933年5月29日生まれ。

GPの王者MVアグスタ

 1903年(ちなみにハーレーダビッドソン社の設立の年でもある)のライト兄弟の初飛行から4年後の1907年、イタリアで初めて飛行機を飛ばしたのがジョバンニ・アグスタだった。その後ジョバンニはカプローニ航空機というイタリアの名門企業に経営幹部として迎えられた後、1923年に自らの会社Costruzioni Aeronautiche Giovanni Agusta=ジョバンニ・アグスタ航空会社を設立。これが「アグスタ」の起源となった。しかしジョバンニは会社設立4年後の1927年に死去。この後を継いだのが当時若干20歳の長男ドメニコ・アグスタだった。ドメニコは2代目にもかかわらず社業を伸長させ、大戦下の軍需産業としてこれを発展させ、さらに大戦中にモペットの開発をスタートさせるなど、優れた先見性を備えていた。特に、航空機産業の停止(敗戦国ドイツ、イタリア、日本はしばらくの間、航空機の生産を禁止されていた)によって社業の柱となりつつあったオートバイ産業に傾注し、さらにその高性能の喧伝の場として積極的なレース活動を行なうにいたる。社名をMVアグスタ(Meccanica Verghera Agusta=メカニカ・ベルゲーラ・アグスタ。ベルゲーラはミラノ近郊のマルペンサ国際空港近くの地名)に改称し、戦後ドメニコの独裁体制は一層の飛躍を目指すこととなった。

 ここでドメニコがとった方法は急進的かつ独裁的なものだった。単気筒モデルの設計に、当時のトップマシンであるベネリからスペルッツィ技師を、4気筒500ccマシンのためにはジレラからレモール技師とその右腕であるミラーニ技師、さらにチーフメカのアルツロ・マーニ(後にアグスタのチーム監督となる人物。アグスタのGP撤退後、紆余曲折をへてモトグッチのスペシャルマシン「マーニ・グッチ」を世に送り出している)までを引き抜き、またデスモドローミックが好調なドゥカッティのレース部門からルッジェーロ・マッツァを引き抜くという徹底したものだった。1952年に125ccクラスのタイトルを獲得して以来、その進撃はまさに野火の如くであり、特に1958年から1960年までの3年間は125、250、350、500ccクラス全クラス(50ccクラスは1962年から)のメーカータイトルを手中にするという圧倒的なものであり、ホンダがマン島初出場を果たした1959年は、丁度そのまっただ中にあった。一時GPからの撤退を宣言したことなどもあったが、実際にはワークス活動は継続され、ホンダ最大のライバルとして、またGP界最高の歴史と戦力を誇るチームとして君臨した。

 一方本業の航空機産業でも優秀な回転翼機=ヘリコプターを生産し、一時はアメリカのベル社に次ぐ生産量を誇ったほどでもある。

 しかし、1971年2月2日に総帥ドメニコが心臓麻痺で他界すると、その後を継いだ弟のコラード・アグスタはまったく事業やレースに関心を示さず、1974年には政府系金融機関に株を売却。この機関からの勧告によって1976年にモーターサイクル部門及びレース部門を解体し、その栄光の歴史に幕を下ろすこととなった。

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1959年6月3日水曜日

 マン島TTレースは「TTレースウィーク」として開催されるため、125ccクラスのレースは水曜日に行なわれた。そしてこの日が、日本のモーターサイクル産業、レース史にとって忘れることの出来ない記念日「世界選手権ロードレース初ポイント獲得の日」となった。写真はスタート直前の谷口尚巳。