日本における本格的レースの草分けとなった1955年の浅間レースでは、優秀なるマシンの開発と同様に優れたライダーの養成とその技術向上が重要であることが確認された。ホンダでは、1957年の第2回浅間レースに向けて1956年の春頃から社内公示などによってライダーを募り、これがホンダ・スピード・クラブ(HSC)となり、ホンダ初期のレース活動で大きな活躍をみせることになる。優れたライダーの集まりであり、当然マン島を始めとするGPへの出場候補ライダーも結果としてHSCメンバーから選出された、後に、浅間のクラブマンレースで活躍した高橋国光、北野元などもHSCに加入し、GP挑戦のパスポートを手にしている。
1955年の第1回浅間高原レース500ccクラスで優勝。ホンダ極初期の中心的レースメンバーを務め、1959年のマン島挑戦時は鈴木義一に続いて副主将として参加。レースでは惜しくもブレーキパーツの脱落でピットインし15番手に順位を落としたが、その後の猛追で11位まで挽回した。1959年の最後の浅間でも耐久125ccクラスで2位に入賞しているが、まもなく第一線から退いた。1935年生まれ。
アイルランド生まれ。少年時代からオートバイやレースに親しみ、長じて航空機関係の設計やモーターサイクルショップ経営をしながらレースにも参加した異例の経歴をもつ。1956年にロードレース初出場。1957年には市販マシンでアルスターGP3位に入賞するなど活躍。本職がありながらのGP出場のため市販マシンによるプライベート参戦が多かったが、1962年にホンダ軽量クラスのライダーとして契約。ホンダ時代には1962年アルスターGP250ccクラス、同年フィンランドGP350ccクラスの2レースで優勝を経験している。1935年生まれ。
無類のオートバイ好きが高じて、中学卒業後兄の名前をかたり年齢を偽ってホンダに入社し、昼休みには課長のドリーム4Eを持ち出して白子工場の構内を走りまわり、夜は定時制高校に通うという根っからの熱血走り屋。富士登山/浅間レースなどには名を記していないが、1959年のマン島初出場では22歳の最年少でメンバーに選ばれ8位に入る。1962年第9戦イタリアGP125ccクラスで優勝し、高橋国光に続いて日本人ホンダライダー2人めのGP優勝者となる。後に4輪レースにも起用され、まだ2輪GPライダーだった1964年5月、発売間もないS600で第2回日本グランプリ(鈴鹿で開催された2度目の本格的自動車レース)に出場しT1クラスで優勝。その後一般の業務に移行した。1939年4月13日生まれ。
ホンダ初期のレースで活躍。マン島出場宣言を発する前年の1953年に開催された日本初の本格的オートバイレース「名古屋TT」で4位に入賞し、メーカーチーム賞獲得に貢献。1955年富士登山レース250ccクラス2位、1957年浅間火山レース350ccクラス優勝などの戦績に続いて、1959年のマン島初出場では主将としてライダーをまとめ、自らも谷口に続く7位でフィニッシュ。その後4輪のテストドライバーに転向しホンダ初の4輪市販車S500/S600の開発テストでも活躍。我が国における初期の4輪レーシングドライバーとして数々のレースにその名をとどめている。1963年、リエージュ・ソフィアラリーにおいて、霧のユーゴスラビア山中で崖下に転落、惜しくも他界した。1931年4月6日生まれ。
●ホンダ創業初期に入社し、そのライディングの腕をかわれてホンダ・スピード・クラブ(HSC)に入部。1955年の第1回浅間高原レース250ccクラスでライラックに乗る伊藤史朗に続いて2位に入賞。その後も国内レースで活躍した後、マン島出場メンバーに選ばれ、日本人初の世界選手権ロードレースポイント獲得の栄誉に浴する。特にキャブレターを中心としたエンジン関係のセッティング能力に突出した能力を発揮し、第一線を退いた後もホンダワークスマシンの開発に携わり、ほとんどのRCは谷口の手で煮詰められて現場に送り出されたという。1936年1月20日生まれ。
在日アメリカ人として、趣味でレースを楽しんでいた彼は、1958年浅間の国際レースに参加、トライアンフで優勝(3位鈴木義一、4位秋山邦彦)し、その縁でホンダのヘルパー役として活躍。1958年末にマン島出場が正式決定し、1959年1月に事前調査/折衝役として調査室長の新妻一郎とともに渡英。通訳兼折衝をこなし準備段階で大きな役割を果たした。1959年のマン島TTレースでは惜しくも2周目に転倒したが、1ヵ月に及ぶ準備期間の協力や現地での外人プレス対応など、ホンダメンバーとして活躍した。