グランプリシーンに空前の大帝国を築き上げたMVの総帥ドメニコ・アグスタは、レースによる勝利と栄光を徹底的に追い求めた。そのため、他のメーカーから技術者を引き抜き、トップライダーの獲得に金を惜しまず、まさに独裁的な強権を何度となく発動している。1957年にジレラ、モトグッチ、モンディアルのイタリアン3強をGPから引退させる下工作をしたのもアグスタであるといわれ、まさに自らの栄光を守るためにはいかなる手段をも用いるのがアグスタのやり方だった。
そのアグスタが、ホンダの急成長を目の前にしてとった行動とは、3年連続で全クラス制覇を達成し、誰にも真似のできない栄光の頂点にいるまま、GPから撤退してしまうという大胆なものだった。MVは1961年シーズンはじめにこのGP撤退を発表。さらに「自ら成し遂げた記録は誰にも破られないものであり、もしこの記録に迫るものがあればいつでもGPに復帰してこれを撃破する」というメッセージが添えられていた。
1960年シーズン終了時にホンダはこの急展開を知るよしもなく、ただひたすら打倒 MVにその全勢力を傾けているところだった。
MVやジレラ、ホンダなどの4気筒がGPシーンを賑わしていた当時、まだまだ単気筒マシンが元気にサーキットを疾走していた。350、500ccクラスのノートン・マンクス単気筒は、基本設計を1930年代におくロートルマシンだったが、芳醇なワインのごとく熟成されたその戦闘力はまさに一線級であり、トップクラスの性能を有する市販レーシングマシンとして多くのライダーから愛されていた。ちなみに1960年の23戦中MVに一矢を報いたのがこのノートン(ライダーはジョン・ハートル)であり、イギリス国内のレースなどでは他を圧倒する存在であった。マンクスは1962年まで市販が続けられ、その卓越した性能で語り継がれる「フェザーベッドフレーム」は、1970年代に入って大排気量車を生み出す日本のメーカーにまで影響を与え続けた。
一方、イタリアンシングルとして孤軍奮闘していたのがボローニャのモト・モリーニだった。戦前に創業し、独自の経営哲学と市販モデルで我が道を行くモリーニは、MVと決別した熱血漢タルキニオ・プロビーニを擁し、250ccクラスで奮闘した。ワークスマシン1台のみという小規模なチームながら、時にMVとホンダの牙城に割ってはいるなど、その人気は判官びいきだけではなかった。中でも1963年の最終戦日本GPで、ホンダとヤマハのトップ争いに食らいついた劇走は今でも語りぐさになるほどのもので、単気筒あなどるなかれの印象をファンに焼き付けている。
MVがGPを席巻する中、もうひとつの話題となっていたのが2ストロークマシンを次第に熟成させていたMZの存在だった。当時ほとんどのメーカーが4ストロークエンジンによってGP挑戦を行なっていたが、MZは独自の2ストロークエンジン/ロータリーバルブで世界をリードする存在だった。ホンダがMVやモンディアルなど当時の先端4ストロークマシンを手本としたのと同じく、後にスズキ、ヤマハなどがこのMZの2ストロークエンジンに大きな影響を受けている。
MVは、この年1960年の開催4クラスでのライダー/メーカー全タイトルを獲得。開催レース全23レース中21勝と、その強さは完璧だった。長年にわたるMV帝国の歴史においても、この1960年は突出した成果を上げているシーズンだった。
日本サイドから見れば1年ぶり2シーズンめのGP参戦だったが、GP側にとってはわずか5戦めの参加でしかなく、その成長ぶりは関係者を驚かせるに充分なものだった。
ちなみにホンダが初優勝を飾るのはGP初挑戦から8戦めの1961年スペインGP。そして10戦めのフランスGPで1〜3位独占を達成し、さらに続く11戦めのマン島TTでは2クラスでの1〜5位独占という快進撃ぶりを見せている。
初挑戦の1959年には大きな事故もなかったホンダチームだったが、出場クラスも増え、GPを転戦するようになった1960年には多くの転倒/負傷者をだしている。またマン島以後、マシンの性能が低下してくると、それを補おうと鞭を入れるライダーの負担が大きくなっていたことも、数多くのアクシデントの原因となっていた。
谷口尚巳、田中禎助の負傷による戦線離脱。フィリスの転倒/負傷。田中健二郎のアルスターGPでの右足骨折の重傷。さらに西ドイツGPでのブラウンの死など、GPを転戦するなかで、ホンダチームは決して避けて通れない苦痛を味わい始めていた。
そんな中、ダッチTTに出場出来ないフィリスに変わって新加入したのがジム・レッドマンであり、彼はその後ピンチヒッターからレギュラーライダーとなり、さらにホンダチームの中心的存在へと成長していった。
GPを転戦することで初めて経験する、マシンの消耗、性能低下、部品の損傷、さらにタイヤ/チェーン/プラグなどの大量の消耗部品など、ホンダは2年めにして、GPがとてつもない消耗戦であることを知る。ましてや125、250の2クラスに4〜5人のライダーを走らせるという、GP参加チームの中でも決して小さな所帯ではなくなっていたホンダにとって、その負担は膨大なものに膨れ上がっていた。
なかでも点火系部品の不具合とギヤトレーンのスパーギヤの摩耗はあからさまに性能低下を招き、マン島以後のダッチTT、ベルギーGPは不本意な整備状態での出走を余儀なくされた。しかしこれらのトラブルを克服したのが、整備にあたるメカニックの超人的な「腕」であり、1000分の1ミリの微調整をこなすその技は、GPパドックの中でも早くも話題になっていった。
マシンの不調の原因となった部分は本社に伝えられ、その対策部品が第5戦西ドイツGPに第2陣のメンバーとともに到着。これを組み込んだRCは見事に息を吹き返し、田中健二郎の3位初入賞となって実を結んでいる。