日本初の本格的ロードレースイベント。開催クラスは国内の一般ライダー(ノービス)と国際級/海外ライダー(セニア)に分けられ、それぞれ50、125、250、350ccの、計8レースが組まれた。第1日目11月3日は大雨となりその開催が危ぶまれ、一部選手の棄権や周回数の短縮などがあったものの、ノービス50、250、セニア125、350の4クラスを開催。翌4日は好天に恵まれノービス125、350、セニア50、250の4クラスを無事に予定どおりに開催した。
3日は大雨の悪天候ながら10万人の観客を集め、初めて目にする本物のロードレースに超満員の観客は魅せられた。ところが、晴天の4日にはなんとそれを上回る17万人の観客が押し寄せ「クルマの列が名古屋から続いた」といわれるほどの大混雑。中でも各社のワークスマシンが出場したセニアクラスのレースは最高の盛り上がりを見せ、特にデグナーの転倒など、今にまでその逸話が語り継がれている。この大会における最高ラップタイムはセニア250ccでレッドマンが記録した2分36秒4であり、これが鈴鹿サーキットにおける記念すべきコースレコード第1号となっている。
第1回全日本選手権ロードレース大会・結果 ■セニア50cc(10周) 11月4日 1位 トミー・ロブ ホンダ 31分01秒4 2位 ヒュー・アンダーソン スズキ 31分01秒6 3位 森下 勲 スズキ 31分01秒9 4位 鈴木 誠一 スズキ 31分02秒3 5位 谷口 尚巳 ホンダ 31分02秒3 6位 田中 禎助 ホンダ 31分22秒1 最高ラップ 3分01秒9 市野三千雄 スズキ ■セニア125cc(17周) 11月3日 1位 トミー・ロブ ホンダ 52分09秒5 2位 フランク・ペリス スズキ 52分42秒5 3位 谷口 尚巳 ホンダ 52分53秒4 4位 島崎 貞夫 ホンダ 52分59秒9 5位 田中 禎助 ホンダ 53分36秒1 6位 越野 晴雄 スズキ 53分36秒9 最高ラップ 3分00秒6 F・ペリス スズキ ■セニア250cc(20周) 11月4日 1位 ジム・レッドマン ホンダ 53分01秒0 2位 トミー・ロブ ホンダ 53分24秒3 3位 伊藤 史朗 ヤマハ 53分25秒2 4位 田中 禎助 ホンダ 54分43秒4 5位 桂田 吉雄 ホンダ 1周遅れ 6位 粕谷 勇 ホンダ 1周遅れ 最高ラップ 2分36秒4 J・レッドマン ホンダ ■セニア350cc(5周)豪雨により周回数短縮 11月3日 1位 ジム・レッドマン ホンダ 15分22秒5 2位 北野 元 ホンダ 15分23秒2 3位 トミー・ロブ ホンダ 15分23秒3 最高ラップ 3分00秒6 北野 元 ホンダ
【専用コース】「浅間」には、二つのコースが存在する。第1回の全日本オートバイ耐久ロードレース(1955年)は北軽井沢を中心とした公道コースを封鎖して行なうレースであり、俗に「浅間高原レース」と呼ばれている。そして第2回(1957)以降は専用の浅間テストコースを建設、使用し俗称も「浅間火山レース」となった。
浅間でオートバイレースが開催されたのは1955、1957、1958、1959年の4回で、やがて鈴鹿や富士などの本格的ロードコースが竣工し、浅間テストコースではその後レースは開催されなくなり、もっぱらオフロード専用のラリー車開発テスト、ダート走行などに使用されていく。やがて1970年代、地元への敷地返還の時期を迎え、その記念レースとして1976年の全日本選手権モトクロス第10戦日本グランプリがこの浅間テストコースで開催され、浅間は20年に及ぶレーシングコースとしての歴史に幕を下ろした。現在は浅間牧場と呼ばれる牧草地として整備され、往時の面影はない。
多くのスポーツには「クラシックイベント」と呼ばれる、世界的規模と歴史を誇る大会がある。テニスでいえば全英オープン(1877年から)、全米オープン(1881年から)、全仏オープン(1891年から)、全豪オープン(1905年から)などのグランドスラムであり、またサッカーのワールドカップ(1930年第1回ウルグアイ大会から)、ゴルフのマスターズ(1934年から)などもこれにあたり、多くのスポーツの総合競技会として近代オリンピックがスタートしたのは1896年のアテネ大会(冬季大会は1924年のシャモニー/モンブラン大会)だった。
モータースポーツの代表的なクラシックイベントとしては、1907年に第1回が開催されたマン島TTレース、1911年からのインディ500、1923年からのル・マン24時間などが有名。またモータースポーツの頂点のシリーズ戦として親しまれている世界選手権は、2輪のロードレースが開始されたのが1949年、4輪のF1はその翌年1950年からとなっている。
第二次世界大戦の戦後復興の中で、国民の足として、また物資の迅速な輸送手段として脚光を浴びたのがオートバイだった。自動車そのものの台数はごく限られたものであり、民間人が物を運ぶにはリヤカー、大八車が一般的。自転車はかなりハイカラな乗り物であり、動力付のオートバイは、まさに時代の最先端を行く「トランスポーター」だった。
戦後間もない1947年に原動機付き自転車の生産を開始したホンダによって火のついたオートバイ生産のブームは、やがて浜松全体に飛び火し、1950年代に入って浜松だけでも30社以上のオートバイメーカーが林立していた。しかし、独自の技術や安定した性能、さらに充分な耐久性や完備された販売網を持たないメーカーは次々と姿を消し、1950年代後半はまさにオートバイメーカーにとって生き残りをかけたサバイバルの時代だった。のべ200社を越えていたオートバイメーカーの数は、1959年の段階ですでに全国で100社あまりに激減。1960年代に入るとさらに減少し数十社までに淘汰されていった。
その一方、国際的には日本のオートバイ生産量は世界に肩を並べるまでになった。まず1950年代に戦後のオートバイ最大生産国となったドイツを抜き、1960年にはホンダがフランスのモトベカーヌを抜いて世界最大のメーカーに躍進。そして同年には、日本がそのフランスを抜いて世界一のオートバイ生産国に躍進していた。